Chapter 1
山の幸、海の幸にのみ活きておった太古の状態から、次第に進んで世の中の秩序も整頓し、住人にも一定の株が出来ては、他国者や風来人がやって来て、住み着こうとしても容易な事ではない。中には京都の北の八瀬の様に、絶対に他村者をすら入れぬという頑固なところもある。よしやうまく住み着いて、職業上交際上、平素あまり区別のない程にまで融和が出来ても、なお縁組などの場合には、「筋」が違うからという故障がいつまでも起って来る。今日の様に通信交通が便利で、その素性も、移って来た理由も容易に明らかにされる時代とは事が違って、どこの馬の骨やら、人殺しをして逃げて来たのやら、本人の口上以外にサッパリその潔白を証拠立てる事の出来ない世の中には、玉石混淆してまずこれに深入りしなくなるのに無理はない。そこで彼らは、長く「来り人」として区別せられる。特別の学問技芸を有して、手習師匠や、医者の真似事でも出来る様なものは格別、何ら取り得のないものでは、やっと村民の同情に訴えて、村外れの空地などに家を建てさせてもらって、もしくは家を建ててもらって、村人の為に使い歩きや物の取片付けや、火の番や、腕っ節の強いものならば泥棒に対する警固やなどの如き、村人のいやがる職務を引受けて、生活の資を求めて行くに至るのは、けだしやむをえなかったことであろう。かの「行き筋」とか、「掃除筋」とか、「番太筋」とかいう筋のものの中には、かくの如くにして起ったのが少くなかろうと解せられる。かくてその中でも運の悪かったものは、非人扱いにされるに至ったのであろう。
同じ「来り人」の中にも、手に或る職業を有していたものは、そんなに人の嫌がる仕事をせずとも、その職によって立派に生活して行けるから、あえて賤民非人の扱いを受ける様な事はなかったであろうが、それでもなお「筋」が違うという事で、ながく区別せられていたのは、これもやむをえなかったことであろうと思う。阿波那賀郡立善寺村の棟付帳に、「桶屋筋」として区別したのがあるのも、こんな事からかもしれない。鍛冶屋を忌がったり、竹細工人を嫌うたりする地方のあるのも、一つはこんな事から来ているのかもしれぬ。中にも竹細工は、到る所に材料が得やすく、仕事も比較的簡単なので、通例は山家などの浮浪民の職業となっているが、これらの浮浪民が或る村に住み着いたとすれば、所謂「来り人」となって、やはり村外れの小屋に落ち付くという事になるのであろう。
旧徳島藩での、「郷士格以下身居調査書」というものに、
他国より年来罷越居候流浪人、吟味の上村方故障無之分は、居懸百姓又は見懸人に相居、医者又は賤しからざる渡世仕来候者は、郡付亦は郷付浪人等に申付候様、享和二戌年御内達に有之。
とある。こんな有様で、相当の身分のものは相当の待遇をも受けたが、普通には役所向きでは見懸人ということに扱われ、民間では「筋」が違うとして疎外される。それも「流浪人」であってみれば、我慢しなければならなんだことであろう。エタの来り人で、祖父の代に来たのであるが、もと何処の者ともわからぬという様な者を、エタの棟付帳に新たに編入したとか、前の棟付帳に「見懸人穢多」とあったのを、後の帳には詮義の上、単に「穢多」と改めたとかいう類のものは、同じ「流浪人」でも、エタだという素性の知れていたものと見えるが、そうでなくても、運の悪いもので、エタや非人になり下ったのも少くはなかろう。しかし非人でもなく、エタでもなく、さりとて普通民でもなく、中途半端のままで永く後に遺るというのは、彼らが通例の場合に於いて与えられた運命であった。かくて維新後にまで、その中途半端の身分を引き継がれた「来り人」等が、明治四年のエタ非人の称呼廃止の際に於いて、その所属に迷うたという滑稽な事件が阿波にあった。
乍恐奉願上覚
私義先代より当村へ来人に相成居申内、土地風稼方相覚、仮成に渡世相送り候に付、見懸人に被二仰付一、年々に両度見懸銀少々宛上納奉レ仕居申所、此度戸籍偏製御取調に付、何卒百姓居に被二仰付一被レ為レ下候得者、重畳難レ有仕合に奉レ存候。仍て右の段連判書付を以奉二願上一候、以上。
明治四年未三月
海部郡久保村見懸人
井上祖父八※
同
岡本常吉※
同
佐藤素平※
同
白浜平作※
同
那来直八※
岡本常吉小家
岡本常八※
民政掛御役所様
右之者共奉二願上一段、相違無二御座一候。村中故障之筋無二御座一候に付、何卒右願上通御聞届被二仰付一被レ為レ下候得ば、私共迄難レ有仕合に奉レ存候。仍て奥書仕奉二指上一候。以上。
未三月
久保村五人組
喜多武三郎
高野宇平
民政掛御役所様
ここに「見懸人」とは、その村に居付きの人民ではなく、しかも現に住しているものに対して、見懸銀と称して課税した、その見懸銀納付者の称である。来り人も多年その地に住している時には、人別を調べて課税する。これは平安朝に浮浪人に賦課を命じた例のあると同じ様なものである。そしてこの見懸人たる、身分柄中途半端の来り人が、恐れながら重畳有り難き仕合せに存じ奉って願い上げ奉ったのに対して、民政掛の指令は、
平民申付候事 という六字であった。
因みに云う。自分の郷里の墓地続きに「来り人の墓」というのがある。自分の何代前かの先祖の時に、安芸国から来た来り人を世話して、近所へ住ませておいたところが、だんだん家族が死に絶えて、一人だけ残った娘は国へ帰り、墓だけ残ったのを自分の家で代々世話して来ているのである。その後一度その娘かが墓参りに来たが、遂にそれきりになって、今になお盆彼岸の香花を手向けている。
●図書カード