守備隊
太陽は沈みかけていた。
小さな汽車が、喘ぎながらやっと山の頂から、また数哩の谷間へ下りた所に、鉱山街、箇旧が横たわっている。
孫伍長は、軽機関銃を持った一分隊を率いて、この街の上にのしかかる禿山の裾の褐色の、丘を登って行った。
兵は敵前のように緊張していた。
吉報を受けた筈の沈団長は、あれから十日もたたぬうちに、何故か、突然、箇旧守備隊長に転補され、腹心の僅かな将校と兵を伴なって、前線から、この街へ着任したのだ。
が、守備隊の兵の中には、この更迭に不満で不穏な態度を見せる者があった。何処から聞いたか、新任の沈大佐が苛烈な男だという噂に怯えたのだ。
この地方の錫鉱山は半官半民のものを筆頭に七百ヵ所――孫伍長はその中でも、激しい反感を持っているという鉱区の守備交替の役を買って出たのだ。そこは、命令をうけても新任の守備隊長の許へ、出頭しようともしない、黄中尉という乱暴者が守備していた。
丘を越えると、行手の山道は、灰色の岩に深くジグザグに刻み込まれ、血が流れて赤黒くかたまったように、遠い禿山の山腹まで続いている。
その山道には、小さく、赤い動物が、点々と行列をつくって這い廻っているのが見える。
太陽は、いよいよ沈んで、暗灰色の雲も、山岳も、丘の起伏も、深く黒い影をつけて、血の色をした海が波打っているようである。
兵は丘を降りかけて思わず立竦んだ。彼等は印度支那・雲南間を殆んど踏破して、怪獣の出没する熱帯ジャングルも知っているし、奔流の上一千呎の垂直に近い絶壁の側面について走ったり、百七十二箇所のトンネルをくぐる越鉄路の難所も、瘴癘無人の魔所も見て来たが曽つてこんな陰惨な光景に出会ったことはなかった。
今では、西蔵の拉薩も世界の秘密ではなくなったが、これこそは、文明から数世紀も隔絶された、戦慄すべき場所なのである。
「おい、急げ、陽が落ち切っては仕事が仕難いぞ」
孫伍長も、この鉱区の物凄い相貌にはぎょっとしたが、強いて勢いよく、先頭に立って歩き出した。
暗灰色の空に突きたっている山岳の斜面へ、傷痕のようにつけた赤黒い鉱山道で蠢いていたのは、荷をつけた駄馬と小さな人間の行列だった。
駄馬は大きな袋を背に縛りつけられ、その重さによろめいている。
孫伍長は、その行列とすれ違って、身震いした。
駄馬は、鼻先から脚の先まで赤かった。鉱石を入れたらしいズックの袋も赤い。疲れて息を切らしながら、やっと歩いている十からせいぜい十五まで位の子供達も、頭から血が噴いているように赤かった。
駄馬の袋や、子供達のぼろぼろの頭巾や、肩から腰まで垂れたぼろ布には、鉱石の赤い埃が一杯かぶさっているのだ。
「おい、守備兵は何処にいる?」
「あの丘のような石小屋です」
背後を鞭で示した子供の眼は、妙にギラギラ光りひどく痩せている癖に咽喉がむくんで腫れていた。
“あの副官の野郎、おやじをどえらい所へ寄越しやがった。なにが吉報なのだ”
孫伍長はペッと唾を吐いた。が、彼は子供の時から、騙されるのと殴られるのには慣れていた。性格でもあろうが、殴られる度にむきになって、どうやら伍長まで漕ぎつけて来たのだ。
「元気がないぞッ。こんな山ン中の獣になめられるな!」
彼は部下を呶鳴りつけて歩度を早めた。
石小屋というのは山を背負って低く、出張って銃眼のある櫓を持っていて、土と同じ色の塀に囲まれていた。
軽機を背後にかくして近づいて行くと、
「止れッ」
と衛兵が二人、狭い門の前で銃を構えて呶鳴った。
「交替兵だよ。守備隊長の命令書を持って来たんだ」
孫は、わざと自堕落な口調で馴々しく云った。
「見せろ! 一人だけ来い」
「遙々来たのに水臭いことを云う奴だな」
孫伍長は云い乍ら独りで近づいて行ったが、左右の銃眼から一人も通すまいと狙っているのを見ると大きな声で叫んだ。
「おい、隊長に莫迦な真似はやめろと云え。三十分以内に交替しないと砲撃されるぞ。向うの丘に砲を二門据えたのが見えないのか」
銃眼から銃口が音もなく消えた。
衛兵の一人が驚いて中へ駈け込んだ。と間もなく、大男の四十位の中尉が、帽子も被らず半ズボンで、鉄鞭を持って出て来た。
彼は生若い伍長が直立して敬礼するのに対して、馬鹿野郎と呶鳴った。軍人より匪賊という型だった。
「さっさと帰って隊長に云え。いきなり交替しろたア何だ。交替させるなら交替の出来るように色をつけてからしろ……ここの坑夫は五人に一人逃亡を狙っているんだからな。俺達が撃ち合っているうちに何百人居なくなるか、俺が騒動を起したら全鉱区でどんなことが持上るか、フン、砲撃するならして見ろ」
中尉は孫伍長をなめ切っていた。
「中尉殿は命令に従わないのでありますか」
「命令? 小僧ッ、伍長が将校に命令するのか」
「守備隊長殿の命令であります。一応命令書を御覧下さい」
孫伍長はポケットを探った。
「命令が何だ。この山を越えりゃア守備隊長も糞もあるもんか。俺を向うに廻してこの鉱区の守備が勤まるなら……」
言葉の終らないうちに、銃声がして、ううッと中尉が鉄鞭を振り上げながらよろめいた。
孫伍長はポケットの中で撃った拳銃を無造作にとり出して倒れかかる中尉へ更に数弾を浴せかけた。犬でも射殺するような態度だった。
そして呆気にとられている二人の衛兵に、薄煙りの出ている拳銃をしゃくって云った。
「みんなに相談して来い。この中尉の仇をとって全滅の覚悟をするか新任の沈大佐殿に従うか」
衛兵が、銃をあげて仲間の抵抗を止めながら駈け込んだ隙に、孫伍長は、部下を呼込んで、その一角に素早く軽機関銃を据えさせた。
しかし、残った守備兵は、孫伍長の遣り口に気を呑まれたのと、兵に責任は無いと保証されたのに、安心して、下士以下一人も反抗するものはなかった。
そして、勤務に精通した下士一人に、兵二人を残して、箇旧の守備隊に復帰すべく、鉱山を下りて行った。
孫伍長が、僅かな兵で、不穏な鉱区の守備兵と難なく交替したことは忽ち鉱区の評判になった。殊に、暴れ者で、代々の守備隊長を手古摺らせていた黄中尉を、伍長の彼が、まるで犬かなんぞのように射殺したという話は、孫伍長を有名にすると同時に、新任の隊長を恐れさせた。
沈大佐は、その効果の消えないうちに、各鉱区へ腹心の部下を配して着々と勢力を固めた。
「一体、孫伍長の始末はどうなるんだ。何と云ったって相手は上官だぜ」
守備兵達は折に触れては話題にした。が、中尉は、戦時何とか令によって反乱者とされ、孫伍長は軍曹に進級して、前任守備隊長と深い関係のあった鉱山だと噂されている箇旧でも有数な鉱山の守備を命じられた。