第一章
先日さる方から戴いた贈り物に、深紅のバラと紫のイヌホオズキを一つの花束として結んであった。
バラとイヌホオズキ!
この組み合わせは一編の詩の種たりうる!
誰が見てもバラは愛の表象であり、イヌホオズキは静寂を象徴するからだ。
私は小さな花瓶に水を張り花束を生けた。夜、床に入ると、頭の中一杯にそこはかとない韻文や、巣立ち前の着想が満ちあふれた。それらのテーマはやはり、風変わりな花束の香りにあった。しかしながら、詩の女神に眠りが打ち勝ち、柔和な闇の神が優しい呪文で私を捕え、丹念に織り上げたソネットは夢の中に溶解していった。
恐らくは眠りの幻想なのだろう、私は深く穏やかな紫の光の中に立っていた。その光は暗く、荘重で、陰鬱で――低い短調の和音を思わせた。何かオルガン即興曲の最後の音が名演奏家の指先で死にゆく時、誰もいない大聖堂の翳った通路を転げ落ち、憂鬱な夜の空気の中にまろび出、星の世界へと浮かび上がっていくような。
目の前に精霊が浮かんでいた――濃い紫色の厚手のローブを纏った亡霊だ。しかし双眸は生き生きと火のように燃え、私はそれらに目をやることができなかった。奇妙に反発するような恐怖と困惑とを覚えて、私の心臓は胸の内で縮みあがった。その時、私は精霊の恐ろしい視線が私の上に留まっているのを感じ、オルガンにも負けない朗々たる低声が、激しく哀切に、この上なく厳粛に、私の耳を圧したのだ――
汝、地上の娘よ、吾は紫の犬酸漿、即ち南国のアトロパ・ベラドンナの精なり――そが暗き杯は嗅ぐ者に辛苦を、そが黒き実は味わう者に死を与う。また、マリアの社あるいは婚礼に飾る花輪を作らんと森に遊ぶ乙女子らも我が毒性の果実を忌むが故、医師と薬師が我が内に肉体の苦悶を和らげる精妙なる香油を見いだすが故、病める者に安らぎを、眠られぬ者に忘却を与え、哀れなる者に永久の憩いを与うるが故、我が色の陰気で香りの甘からず、鎮め宥め殺し得るが故、数々の地上の息子たちは吾を静寂の徴とせり。汝の眉根には陰がある。我が言葉は汝にとりて奇矯にして苦かろう。だが我が言葉を聞くがよい。なんとなれば、かつて私は地上に住み、沈黙の裡に考究し苦悩したる者と共に在りしがため。その男の名は日めくりに記された地上の英雄の内には見いだせぬ。その名を記録するのは天のみである!
昔、ピエモンテ州のとある大きな町から遠からぬ所に、見窄らしい小屋があった。私が物心ついた時、借り主は貧しい病弱な女性と一人息子だった。九歳か十歳くらいだったろうか。この母子は大変貧しく、乏しい活計は母親が町人のために針仕事をし、あるいは乾燥させた薬草類を商って得るのがほとんどだった。小屋自体について言うと、傾き、倒れそうな襤褸家で、半ば廃屋といってよく、外壁一面に蔓草や雑草が蔓延っていた。私はその一員だったのだ。私が生えていたのは、貧しい女性が寝る小部屋にある一つきりの窓のすぐ下だった――その陋屋には僅か二部屋しかなかった――私は這い登り芽を出し周囲の灌木をかいくぐり、ボロボロの石壁にかじりついて、窓枠を越え室内が見えるようになるまで弛まず背を伸ばし続けた。これを完遂したのは夏のことで、今でも覚えているが、なんという焼けんばかりの猛暑だったことか! 容赦のないイタリアの太陽の下、あらゆるものが渇き、焙焼されるかのようだった。大空全体がまさに燃え盛るトパーズだった――黄色く、目に痛い程の。細い川の流れは干上がり、空の果てから果てまで見渡しても、そよとの風も吹かなかった。
それ故、初めて窓枠に顔を覗かせてから程ないある日、その貧しい女性がひどくふらつきながら、青白い顔に常ならぬ病弱な様子を浮かべ部屋に入ってくるのを見たからといって殊更驚きはしなかった。彼女は隅のベッドにくたくたと倒れ込み、荒い息をしていた。町に行って最後の針仕事を仕上げて来たところなのだ。ベッド脇の木のテーブルの上には町の人が手間賃としてくれたお金があった。つらい思いをして稼いだ硬貨、その数のなんと僅かな! 倒れ込んだ彼女は細く萎びた両手を頭に載せ、私には彼女が何かをぶつぶつ呟いているのが聞こえた。何を言っているのか判らなかったが、切れ切れの言葉の間にはこらえきれない啜り泣きが聞こえた。だが、やがて――彼女が幾分静まると――勢い良くドアを叩く音がし、男の子が入ってきた。小さな書物を手に、目を喜びに輝かせて。
「見て、母さん!」大はしゃぎで本を掲げて彼は叫んだ「ドイツの大教授が書いた『化学論考集』だよ! リッテル先生が買ってくれたんだ! いい先生だよね? いまそこに来ていて、中に入って母さんの顔を見てもいいかって訊いてるよ!」
彼女は微笑み――なんという哀れな幽霊じみた微笑だったことか!――弱々しい声で答えた「入っていただいて、ティスタ。」 だが、こんな切れ切れの声でも先生は聞き取れたらしく、この言葉とともにドアがわずかに広く開いて、一人の老人が現れた。禿頭で、白い顎髭を伸ばし、杖を突いていた。高齢のため腰が曲がり、額にも頬にも深い皺が縦横に刻まれていた――思索と悲嘆という名の馬鍬が刻み込んだのだ。老人は頻繁にこの小屋に足を運んでいたので、これ迄も屡々彼の姿を見てきたが、これ程近くから見たことはなく、傷んだ古外套がかくも見窄らしいことにも気づいていなかった。部屋に入りながら、老人はイタリア語とドイツ語が混ざった言葉で慇懃な挨拶を述べ、バッティスタ少年に向かって頷いた。席を外せという合図だ。すぐに少年は大人しく従い、ご褒美を抱いて背中でドアを静かに閉めた。
「リッテル先生、」枕の上に起き上がり、両手で老人の手を握りながら女性が言った。「うちのティスタにも、私にも、本当に良くしていただいて。良くしていただき過ぎですよ、どうしてこんなにしてくださるのですか?」
彼は微笑んだ、何も言わなくていい、とばかりに。だが彼女は続けた――
「ねえ、先生は本当に良い方過ぎて。毎日何かを持ってきて下さる――葡萄酒や果物や美味しいお料理や。ティスタなんて貴方におんぶにだっこで! あの子が知ってることは全部貴方が教えてくださったのですもの。お礼のしようもありません。」
「ああ、フラウ・ローラ、誰がこういうことに二の足を踏むというのです。ちっ! とにかく貴女は今夜具合が悪そうだし疲れ過ぎとお見受けする。また町に行ってきたのですな?」
「はい。」
「そうだと思いましたぞ。今はここでゆっくり休まねばならんのです。じきに涼しくなりましょう。ほら、少しばかり葡萄と桃を持ってきました。身体に良いからお上がりなさい。」
「おぉ、リッテル先生!」
「これこれ、『おぉ、リッテル先生!』などと咎めるような声を上げるものではありませんぞ。実際、この果物は只で手に入ったのですからな。今日アンデレア・ブルーノちゃんに貰ったのですよ。」
「果物売りの所の子供ですか? はい、はい、多分。ですが、私にくれたのではないじゃありませんか! ご自身の善行を隠そうとなさっても駄目ですよ、リッテル先生! うちのティスタが教えてくれましたよ、先月アンドレアの妹が足を捻挫した時に貴方がどれ程親切だったか、どう包帯をしてあげたか、毎日父親とアンドレアが果物を売りに出かけている間、本を読み聞かせてあげているかを。そうでないとあの女の子はひとりぼっちですものね。可哀想な不具のアントーニアとカッテリーナ・ピックのことだって皆知って――逃げないで、その話はもう止しますから! でも、私が知っていることを伝えないではいられなくて。貴方は本当に良い方ですね、リッテル先生!」
彼は上げかけていた腰を再び降ろして、彼女の床の側に椅子を寄せた。そうする内に二人は目と目が合い、しばし彼は真面目な様子で彼女の目を見つめた。
「ローラ、泣いていたのか。何があったのかね?」
彼女は固い枕の上でそわそわと身じろぎし、目を落とした。窪んだ頬から額にかけて、じわりと微かな朱が射した。くすんだ皮膚の下に儚い赤みが走ると、美人と呼べるほど綺麗になった。彼女は若かった。確かにどう見ても三十路にはなっていない。だが彼女はとても貧しく惨めであって、貧困と惨めさほど急速に女の血を啜り、美を奪っていくものはないのだ。間違いなく。
「リッテル先生、」少し間を置いてこう言った。「それを申し上げます。ご助言をいただけるかもしれませんし。どうしたらいいのか全然わからなくて。貴方は、うちのティスタがどんなにか、どんなにか薬剤師になりたがっているかをご存知ですから、その事は何も言わなくていいでしょう。ええ、あの子は手に職をつけないといけないんです。お判りですよね、私がいなくても生きていけるように、何かを勉強しないと。リッテル先生、その日は――もうそんなに――そんなに先のことではないと思っています。」
老人がそれを否定しようとしなかったことに、私は再度気づかされた。じっと彼女のうなだれた顔を見つめ、耳を傾けるだけだった。
「朝から晩まで働きづめで、」低い声で早口に続けた。「うちの子がなんとか町の薬種商のところに弟子入りできるだけのお金を貯めようとしているんです。あの子も働いています、可哀想に。ですがお金なんてちっとも――一銭も――貯まりやしません。生活するだけでもかつかつで。ねえ、そうでしょう、家賃だってあるし。これで私自身の身の上を話す段になりましたね。若い娘だった時、十歳上の姉が一人いました。私達は孤児で、老伯母に面倒を見てもらっていました。私は結婚しました――伯母の願いに逆らい、姉の戒めをものともせず――貧しい即興詩人と。もちろん、それまでも私達は、ああ、姉と私のことですね、十分貧乏だったのですが、物乞いとまではいきませんでした。ところが私の夫ときたらそれ以下で。ええ、姉は凄く怒りましたよ、怖くなるほど怒りました。でも私は若くて、元気で、恋に落ちていましたから、そんなの大して気にならなかったんです。夫は旅から旅へと各地を巡って自作の物語を語り、詩を歌いました。私は夫と旅路を共にし、じきに姉を見かけなくなりました。そして遂にローマにやって来たのです。そこでティスタが生まれるとすぐに、行商人から故郷の知らせを聞きました。私が住んでいた村を通ったんですね。伯母は亡くなり、姉は結婚したといいます――相手はお金持ちの宿屋の主人で、私の階級が落ちた分、姉の階級が上がったわけです。それで、夫はある晩、広場で起きたいざこざで大けがをしました。夫が物語を語っていると、誰かが聴衆の面前で夫を侮辱したんです。夫は頭に血が上ってその男を殴り、喧嘩になって、その夜うちに運び込まれたときは半死半生でした。長くは生きませんでしたよ。激しく倒されたんだと思います、頭の後ろが割れていましたから、そこから脳炎を起こしたんです。できるだけのことはしたんですが、なにしろお金がなくて、子供も病人と二人で置いとけない程小さかったし、家でできるような仕事もないし。それである日、日中に、あの人は死んで。可哀想なバッティスタ! 私にはどうしようもなかった! あの人を助けられなかった! ああイエス様! 貧乏ってなんて恐ろしいのですか! 生きるってなんて悲しいのですか!」
彼女は両手で顔を覆ったが、泣こうとしたわけではなかった。少し押し黙った後、大きな黒い目を上げて、再び思いやり深い老ドイツ人と視線を交わしたのだが、その瞳は落ち着いて、涙もなかったからだ。
「その後は隣の女性にティスタを預けて、よく外でモデルの仕事をしていたものです。その頃は見られる容姿をしていましてね、絵描きさん達が言っていたところでは、髪の毛と顔の表情にアトリエ向きの何かがあるんだそうです。でもそれも長くは続きませんでした。顔色衰え髪は細り、です。亡きあの人のことで夜も日も泣き暮していましたから。その内、二スクードも貰えなくなったのでティスタを連れてローマを出て、あてもなくふらついたのです。葡萄の収穫に雇われたり、果物売りをしたり、市場で卵を売ったり魚を売ったり。ようやく大きな町でお手伝いとして雇ってもらえ、ティスタを学校にやることもできるようになりました。ところが、七ヶ月前に女主人が亡くなると、娘に引導を渡されたんです。身体が弱くなって昔みたいに家事をすることができなくなっていましたから。そうなると誰からも雇ってもらえなくて。仕事を貰おうと行く先行く先、あなたは棺桶に片足を突っ込んでるみたいね、お手伝いなんて無理でしょ、と言われて。それで私は諦めて、ここに来てこの小屋を借りました。家賃なんてほとんど掛からないのだけれど、それでも私にとっては大金です。町に行ってもこんなに少ししか戴けないんですから。さて、リッテル先生、多分、この女の話はなんて長いんだ、とお思いでしょう? もうすぐ終わりますから。今日、編み物を買ってもらおうと町の店に行き、立ったまま店員と話していると、一人のレディが入ってきました。すると買値のことで私と話していた女店員は、私を放ると、そのレディの方に行って接客し始めました。私は立ちん坊で待っていたのですが、そのレディが買おうとしている商品をよく見ようとヴェールを上げた時に、顔が見えたのです。おぉ、リッテル先生! 姉でした、姉のカルロッタ! 間違いなく! 絶対に! ところが、レディが立ち去った後で店員にその人のことを聞いても、詮索好きな女だとでも思ったのでしょう、あまり教えてくれなくて。それでも最後には必要なことを全部聞き出しましたよ。あのお客様は、と店員は言いました、とてもご裕福な宿泊業者の奥様で、カルロッタ・ネロ様と仰ります。お住まいは、と店員は続けました、カーザ・ドーロですよ。もちろん会いに行ったりしませんでした、まだ家に帰っていなかったでしょうから。でも明日行きたいと思ってます。あそこまで歩けるくらい身体が動けば、ですが。また私に会いたいと思っているでしょうし、私だって会えたらうれしいのですもの。そのことで私が何を考えているか、お判りですよね、リッテル先生? それは、あの、姉の夫は凄くお金持ちだから、多分――多分、ティスタが身を立てるのを助けてくれるか、私に仕事を探すかしてくれて、そうすればじきに、うちの子が年季奉公できるだけのお金が貯まるんじゃないかって。どう思います? リッテル先生? 姉は、そう、私にとって、先生、貴方以外の唯一人の友達なんです! それで、私がそんなことを頼んでも嫌がらないだろうって。どうでしょう? 喧嘩別れはしたんですが、もう十年も前ですから。」
彼女は再び間を取った。リッテル氏は優しい目で哀れな細面を見つめた。瞼は紫色、開いた唇は震え、そこから苦しそうにはぁはぁぜぃぜぃと息が漏れ、その度に痛そうな身震いが起きた。まるですすり泣いているかのように。働かなければならないと言っても、こんなに弱り切った、ぼろぼろの人物にどうしろと、それも死にそうなくらい息も絶え絶えな時に。思うに彼は哀れみつつこう考えていたのだ。
「先生! リッテル先生!」ティスタが小部屋のドアを勢いよく開けて叫んだ。大喜びで「見て! いまクリストフェロに貰ったんだ! こんな綺麗なバラ! 先生持っていかない?」
「ティスタ、ありがとう。儂はいいから。楽しい色や甘い香りは儂には合わんのでな。このコップに生けてお母さんの隣に置きなさい。フラウ・ローラ、異存はないでしょうな!」
「一本くらい取ってくれないの、リッテル先生?」諦めきれずに少年が聞いた、見事な深紅の蕾を一つ老人に差し出しながら。
老人は避ける振りをしながら急いで答えた。
「いや、いや、ティスタ! 儂はバラには触らんのだ! ほら、見なさい、これを一房取ろう。ずっと儂向きじゃよ。」話しながら振り返って、窓格子の方に向いた。どちらかというと、バラを見て何か心が動き、それが顔に出るのを隠すためなのではないかと私は思った。彼は私の上に手を乗せた。
「え、それはイヌホオズキだよ!」少年は驚いて声を上げた。
「構わんよ、」老いたドイツ人は答え、私の天辺の花を折り取り、茎をよれよれの外套のボタン穴に通した。「儂はこれが好きでな。お似合いなのだ。何もベラドンナは忌避さるべき物ではないのだよ。君はそれを知らねばならんぞ、大化学者君!」そこで声を和らげ、「フラウ・ローラ、明日の朝、貴女が出かける前にまた来ますよ。おやすみなさい。」
老人は部屋を去ると背中で静かにドアを閉め、私も彼と共に外に出た。老人の足は決して速くはなかった。町から一キロ弱(*2)のところに三、四軒の古めかしい家があった。突き出した切り妻、緑の低い屋根のある広いベランダ。その一番手前の家にリッテル氏は住んでいた。
彼が間借りしているのは小さく暗い一部屋だけだった。いかにも学究風で、ほとんど家具がなく、窓はベランダに開くのが一つだけ、隅のひどく奥まった所にベッドを置いていた。窓の反対側に書棚が何本かあり、その上には色褪せたカバーをつけた大部の古書がいくたりか、人間の頭蓋骨が一つ、化石が数個。本当にこれだけだったのだ。他には、小さな絵が一枚、寝椅子の頭の所の壁に掛けてあるだけだったが、はじめの内この絵は私の目に入らなかった。
後に、老人が外套から私を取り、水を張った小さなガラスの鉢に挿した時、漸く私は自らの黄色の大きな眼をじっくりとその絵に向けることができるようになった。それは美しい少女のミニアチュールで、とても古風な装いをしており、可憐な胸元に深紅のバラが結わえてあった。「ああ、」私は一人ごちた。「老ドイツ人の人生にはかつて一つのロマンスがあり、いまあるものは――沈黙である。」