Chapter 1 of 1

邦枝完二

星灯ろう

陰暦七月、盛りの夏が過ぎた江戸の町に、初秋の風と共に盂蘭盆が訪れると、人々の胸には言い合わせたように、亡き人懐かしいほのかな思いと共に、三界万霊などという言葉が浮いてくる。

今宵は江戸名物の、青山百人町の星灯ろう御上覧のため、将軍家が御寵愛のお光の方共々お成りとあって、界隈はいつもの静けさにも似ず、人々の往き来ににぎわっていた。

「なアお牧、お春や常吉は、まさか道草を食ってるわけじゃあるまいね、大層遅いじゃないか」

「そんなことはござんせんよ。お組頭のお屋敷は、ここから五丁とは、離れちゃいないんですもの。きっと将軍のお成りが、遅れているんでしょうよ」

梅窓院の近くにある薬種問屋伊吹屋源兵衛の家では、大奥に奉公に上がっている娘の由利が、今夜は特に宿退りを頂けるとあって、半年振りに見る顔が待ち遠しく、先ほど妹娘のお春に、手代の常吉をつけて、途中まで迎えに出したのであったが、奥の座敷に接待の用意が出来ると、源兵衛はしびれを切らした挙句、すでにとっぷり日の暮れた門口へと、首から先に出向いたのだった。

ふと気がつけば、いつの間にやら女房のお牧も、源兵衛の背後に寄り添って、百人町の方角へと首を伸ばしていた。

「ねえ、旦那。今夜お由利が帰ってきましたら、平太郎さんとの話を、すっかり決めて、一日も速くお城から退るようにしたいもんですねえ」

「それはわたしも、望んでいるんだが、お由利の便りでは、上役の袖ノ井さんとやらが、可愛がって下さるとかで、急いで退りたくはないとのこと。今時の娘の心はわたしにゃ解せないよ」

「何んといっても、町家の娘が、いつまでも御奉公をしているのは、間違いの元ですよ。……そういえば、本当に遅いようですが、何か変わったことでも、あったんじゃござんせんかしら?……」

お牧の心配そうな様子に、同じ思いの源兵衛も、町の彼方へ眼をやった。

百人町の一帯は、どの屋敷も、高さ五、六間もある杉丸太の先へ、杉の葉へ包んだ屋根を取り付けて、その下へ灯ろうを掲げてあることとて、さながら群がる星のように美しかった。

明和、寛政のころまでは、江戸の民衆は、急にこぞって家毎に高灯ろうをつるして、仏を迎えたものであったが、天保の今では、まったく廃れて、寺々や吉原の玉屋山三郎の見世に、その面影をしのぶばかり。しかも、鉄砲組同心の住む、青山百人町だけが、いまだにそのしきたりを改めることのない珍しい情景は、江戸名物の一つとなって、盆のうちの一夜は、将軍家が組頭の屋敷を休憩所に、わざわざ駕をまげるのが、長い間の慣わしになっていた。

今宵も将軍家慶は、愛妾のお光の方と共にお成りとあって、お光の方に仕えている源兵衛の娘由利も、その行列に加わったのであるが、日ごろの勤め振りにめでて、途中から実家へ帰ることを許されたとの報せが、すでにきのうの朝、伊吹屋一家を、有頂天にさせていたのだった。

待ちかねた夫婦の前へ、いきなり闇の中から現われた常吉の声は弾んでいた。

「旦那様。おかみさんもお喜びなさいまし」

「おお、常吉か。お由利はどうした?」

「へい。今し方お行列が、遠藤様へお着きになりましたので、お嬢様にもお暇が出ました。今、あすこへおいでなさいますが、お客様が御一しょだと仰しゃいますので、一っ走り、お先へまいりました」

そこへ、お春の持った提灯が近付いて、その灯りの中に、くっきりお由利の顔が浮かんで見えた。

文金の高島田に、にっこりとした御殿女中の拵えであるが、夏の名残りの化粧の美しさは、わが娘ながら、まぶしいばかりにつややかであった。

「おお、お由利……」

「よくまア帰って来ておくれだねえ」

「お父さん、おっ母さん。お達者で……」

連れ立って帰って来た朋輩らしい女中や、お茶坊主らしい人をそのままにして、小走りに進み寄った由利は、両親に手を執られて、胸が一杯になったのであろう。早くも瞼がぬれていた。

お春と常吉が、由利の帰宅を報せに、見世先から駈け込んだので、伊吹屋は急に活き活きとにぎわっていった。

朝風

「親分、大変だ」

「やいやい、岩吉、騒々しいぞ。御用を預かる家で、一々大変だなんぞと云ってたんじゃ、客人に笑われるぜ。気をつけろい」

「へッ。こいつア大しくじりだ。いつもの癖が出ちまったんで。……こりア黒門町の親分、お早うございます」

「岩さん。朝から大層な働きのようだな」

「伝七親分の前でござんすが、十年に一度って騒ぎを、聞き込んでめえりやしたんで……」

「岩、そりア何だ」

親分の問いに、打てば響くように、岩吉の声は冴えた。

「へい。ゆうべ、将軍様のお供をして来た御殿女中が、殺されやした」

青山北町の岡っ引留五郎の家では、昨夜は老衰で死んだ父親の通夜とあって、並み居る人達の眼ははれぼったかったが、岩吉の声に、一斉に眼をみはった。

留五郎の父親も江戸では名の通った捕物師だったので、黒門町の伝七も、わが子のように可愛がって貰った縁があるところから、子分の獅子っ鼻の竹造を連れて、一夜をここに明かしたのであったが、今も今、帰ろうと立ちかけた矢先に、聞き捨てならぬ珍しい話だった。

「岩、てめえの話ア、騒々しくっていけねえ。黒門町もいる事だ。もうちっと落ち着いて話をしねえ」

「いや北町の」

しかりつける留五郎を、笑いながら伝七はとめた。

「あわてる方じゃ滅多に退けを取らねえ男が、こちらにもいるんだ。おいらア、あわて者にゃ慣れてるから、ひとつ、今のつづきを聞かして貰おうじゃねえか」

「冗談じゃありやせんぜ」

と獅子っ鼻の竹が首を振った。

「親分。何も青山くんだりまで来て、あっしを引き合いに出さなくっても、ようござんしょう」

「ははは。人ア、引き合いに出されるうちが、花だと思いねえ。……ところで岩さん。筋アどういうんだ?」

岩吉は、ごくりと固唾を呑んだ。

「実ア梅窓院通りの、伊吹屋の娘でござんす」

「じゃア大奥へ勤めている、お由利だな。いってえどこで殺されたんだ」

留五郎も思わずひとひざ乗り出した。

「ゆうべ、自分の家へ帰って来やしてね。大勢で祝いの真似をして飲んだり食ったりして、寝間へ這入ったそうですが、今朝お袋が起こしに行くと、胸元を一突き、もう冷たくなってたという話なんで……」

「うーむ」

「当人は、星灯ろう見物の、お供で来たんだそうでしてね。二日だけ、宿退りを頂いたってわけだと聞きやした。何しろ帰ったその晩の出来事でげすから、両親を初め見世の者ア気が転倒してえたんでござんしょう。飛び込んでったあっしをつかまえて、まるっきりまとまりのつかねえことを申しやす――この界隈じゃア、小町娘と評判だったお由利さんのこと。一つ親分に、出向いてお貰い申そうと、横ッ飛びに帰ってめえりやした」

「そうか。よく聴き込んだ。将軍様は、ゆうべの中に御帰還だが、それに関わりのあることだけに、今日明日の中に埒を開けなくちゃ、お奉行の遠山様のお顔に係わるというもんだ。直ぐに行こう」

立ち上がった留五郎は、黙々と聴いていた伝七を見た。

「黒門町。いま聞きなすった通りだ。迷惑だろうが、一緒に来ちゃ貰えめえか」

「うむ。お前さんさえよけれア、いかにもお供をしよう。仏様を抱えているお前だ。手伝いが出来りゃ、おいらも本望よ」

「有難てえ。長引いたら、今度ばかりゃ、ほうぼうから集まって来るに違えねえから、愚図愚図しちゃいられねえ仕事、兄貴が来ておくんなさりゃ、千人力だ」

留五郎が急に勇み立って、伝七共々出て行こうとするのを、呼び止めたのは竹造だった。

「親分」

「何だ」

「あっしゃまだ、御殿女中の殺されたのア、見たことがねえんで。……きょうはひとつ、手柄を立てさしておくんなせえ」

「バカ野郎」

「おっと黒門町の。竹さんも連れて行こう。何か飛び廻ってもらうことが、あるに違えねえ」

「へッ、へッ。有難え。きっとあっしの鼻が、お役に立つことがありやすぜ」

獅子っ鼻の竹は、こう云ってからすそをくるりと捲った。

乳房の傷

「あ、北町の親分。御苦労様でございます。どうぞお入りなさって下さいまし」

手代の常吉が、真っ青な顔で揉手をしながら迎えるのを、眉間に深いシワを刻んだ留五郎はちょいとうなずいただけで、さっさと奥へ通った。

その後から、伝七、竹造、しんがりは顔の売れている岩吉が、小僧達に何か言葉をかけながら続いた。

見世は大戸が下ろされて薄暗く、通された離れの座敷には、お由利の床がまだそのままに、枕辺に一本線香と、水が供えてあるばかり。いかにも血なまぐさい事件のあった家らしく、陰惨な空気が満ちていた。

「旦那、飛んだことでござんしたねえ。折角お宿退りをなすったお由利さんが、こんな不仕合わせな目にあいなさるとア、まったく夢のようだ」

「北町の親分、お察し下さいまし。半年振りで帰って来たものを一晩も、ゆっくり寝ますことが出来なかったなんて、何という因果でございましょう」

「こんなことでしたら、帰って来てくれない方が、どんなによろしゅうござんしたろう」

源兵衛がおろおろ声になれば、お牧も一言云ったきり、その場に泣き伏していた。

「どうぞ親分。早く殺した奴を、捕えておくんなさいまし。せめて娘を、成仏させてやりとうございまする」

「心配しなさんな。お由利さんとア小娘の時から知り合ってるおいらだ。青山小町と迄うたわれた娘を、こんな惨い目に遇わしやがった奴を、おめおめ生かしておくもんじゃねえ。それに今日は、おいらの兄貴分の、黒門町の伝七がうちへ来合わせていたのを幸い、一緒に来てもらったんだからなア」

「えッ。ではこちら様が、下谷の伝七親分さんで?……」

夫婦は驚きながら、幾度も頭を下げた。

「お忙しいところを、申し訳ございません。何分よろしく、お願い申しまする」

「いや、お役に立つかは判らねえが、こうして来るのも、やっぱり緑があるんだろうから、出来るだけは、働いてみることにしましょうよ」

伝七は四分一の煙管をつかんだまま、柔しくうなずいた。

留五郎は死体の傍へ寄って、じっとお由利の顔を見守った。他の者も枕許を取り巻いて、カタズをのんだ。

着物から、長じゅばん、はだ着と、前をひらくと、眼に沁みるばかりの真っ白なはだが、あたかも生きているもののようにあらわれた。

「兄貴、やっぱりこれが命取りだな」

「うむ、刃物は大した切れ味だ」

こんもりと盛り上がった乳房の下を、一と刺し、キッサキが心臓に達したと見えて、衣類は朱に染まっているが、大して苦しんだ様子もないままに息は絶えていた。

留五郎が、また元のように着物を直すと、伝七も共々片手拝みをして、源兵衛の方へ向き直った。

「旦那。それじゃゆうべの様子を、一通り聞かしてもらおう」

「はい。……お由利が帰ってまいりましたのは、丁度五ツ時でございましたが、お光の方様へお仕え申して居ります、表使のお方とやらで、三十くらいの袖ノ井様と申すお女中衆と、鴎硯と申されるお坊主衆とが一しょでございました」

「その二人は、何だって来なすったんだ?」

「袖ノ井様は、百人町にお家があり、お由利とは、大層仲よくして頂いて居りましたそうで、同じように宿退りのお許しが出ましたのを幸い、送って行って上げようと、お立ち寄り下さいましたのでございます。……お坊主の鴎硯様は、お光の方様のお声掛かりで、途中を護って下さいましたので。……」

「それで、二人は、座敷へ上がったのかね」

「左様でございます。手前共でも膳の用意なども、いたして居りましたので、お二方を上席に、お由利と平太郎が並びまして、一口召し上がって頂きました」

「平太郎と云うと?……」

「同じ町内の結城屋のせがれで、お由利がお城を退りましたら、一緒にする約束になって居ります。――昨夜も呼び迎えて居りました」

「そんなら、その時にゃ、別に変わったことは、なかったんだな」

「それはもう、みんな楽しそうで、鴎硯様は、唄や手踊りが、大層お上手でございました。さんざん笑わせて頂きましたくらいでございました」

「うむ。みんなが帰ったのは?」

「鴎硯様は、お行列のお供には、加わらなくてもよいのだと、申されて居りましたが、それでも四ツ時ごろには、駕籠でお帰りになり、暫くして、星灯ろうを見物がてら、お由利が袖ノ井様を、送って行くと申しまするので、遠くもない所でもあり、常吉をつけてやりましたが、ものの半刻ばかりで、お由利もかえってまいりました」

「………」

「それから親子水入らずで、いろいろと話がはずみましたが、疲れていることでもございますし明日の朝は、ゆっくり寝たいから、渡り廊下になっている、離れがいいと申しますので、ここへ寝かしましたのでございます。愚痴のようではございますが、今から思いますと、手前共の部屋へ寝かしましたら、と、そればっかりが、残念でなりません」

「旦那。大層失礼なことを、おたずねするが……」

伝七が口をはさんだ。

「平太郎さんと、お由利さんとは割ない仲になっていなすったのかね」

「いえいえ。左様なことはございません。お由利も、親の口から申しますのは、何でございますが、固い女で、平太郎もまた気の弱い男、祝言の日のきまるのを、待って居りますような訳でございます」

「今朝はまだ、来ちゃア居ないようだね」

「はい。あんまり騒ぎが大きくなりましてはと、見世の者にも、口止めをいたしてございますし、結城屋へも、報してはございませんので……」

それを聞いていた留五郎は、伝七のうなずくのを見て、急に改まった。

「お内儀さん。じゃいよいよ、調べにかかろう。ひとつ、家内中の者を、呼んでもらいましょう」

夜半の出来事

お牧が出て行くと、間もなく、何れも色あおざめた男女五人が、入口へ並んだ。

「それでは申し上げますが、一番前に居りますのが、妹娘のお春で、十七になります」

「お由利さんは、確か十九だったね」

「はい、厄年でございます」

父親の声に、丁寧に頭を下げたのは、結綿の髪に、桃色の手絡をかけた、姉に似たキリョウよし、しかもなかなかのしっかり者らしかった。

「その次に居りますのが、手代の常吉で、行く行くは、お春のムコにいたしまして、この見世を継がせたいと思って居ります。子供の時から、奉公いたして居りまして、まことによく働いてくれますので……」

常吉は頭を赤らめて、両手をついたが、常々それと決めていて、何の感じもないのか、お春は姉の方を見つめたまま、顔色も変えなかった。

後は田舎から出て来て間もないような、小僧の民吉と松三郎。これには留五郎も伝七も、眼をひかれた様子はなかった。

「手前共は、地味な商売でございまして、わたくしがまだおもに働いて居りますところから、これくらいの人数で、十分やっていけますので。……台所をやらせて居りますのが、一番末に座って居ります、下女のおみねでございます。十八になりますが、一昨年、房州から雇い入れました、正直者でございます」

きまり悪げに、眼を伏せているおみねは、女中のこととて、地味な身なりはしているが、肩も丸味を帯び、胸元も高く、ときどき留五郎の方を見る顔には、何となく色気があって、一応男の眼をひく女であった。

「いや、よく判った。こうしてみんなに並んでもらったので、調べも大層楽に出来るというもんだ。どうだな、この中にいるだれかはゆうべ一同が寝静まってから、お由利さんの部屋へ、這入って行った者のあるのを、知ってるに違いねえんだが、遠慮はいらねえから、話してもらいたいな」

「………」

「みんなが黙ってると、一人一人を、責めなくちゃならねえ。時によると、根こそぎお奉行所へ、引っ張って行くかも知れねえんだ。おいらの方じゃァ、大体の見当がついて居て、こんなこともきくんだから、正直に云わなくちゃいけねえぜ」

「………」

「よしッ。それじゃア、一人一人にきこう。お春さんを一人残してほかの者ア、次の部屋で待っててくんな」

一同が出て行ってしまっても、留五郎は不興気であった。

「お春さん、ここにいるのア、両親だけだ。姉のあだを討つためにも、本当のことを云わなくちゃならねえ。いまお前が、何か云いたそうにしていたから、みんなを遠ざけたんだ。――さア云いねえ」

「はい。……時刻は、はっきりとは判りませんが、真夜中に、御不浄へまいりました時、廊下を足音を忍ばせて、通った者がございます」

「うむ」

「わたしが廊下へ出ました時、手燭の光に、驚いたように振り返りましたのは、もうずっと向こうへ行って居りましたが、確かに常どんでございました」

「常吉?……」

源兵衛が、びっくりしたようにオウム返しに問い返した。

「あの廊下は、姉さんの寝ている離れから、台所まで行くようになって居ります。その途中から、常どんが小僧達と一緒に寝ている部屋へ、曲がるようになって居りますので、その時は、何とも思ってはおりませんでしたけど、あれは姉さんの所へ、行った帰りだと思います」

「そうか。……他に何か今度のことについて、気のついたことはねえか」

「ございません」

「よし。じゃアお前さんは、あっちへ行って、小僧達を呼んで来ねえ」

「はい」

重苦しい空気が、一同の前に流れた。

「常吉に限って……」

「でも、……そう云えば、お由利のことというと、夢中になる方ですからね。きのうだって、自分一人で迎えに行くなんて、云ってたじゃござんせんか」

源兵衛がお春の言葉を耳に掛けない様子に、お牧は同調しなかった。

「小僧達を、連れてまいりました」

「………」

お春の後ろへすわった小僧達は、互いに顔を見合わせて、おどおどと落ち着かなかった。

「おい。お前達は、ゆうべ寝てから、常吉が部屋から外へ出て行ったのに、気がついていただろう」

「………」

松三郎が困って民吉を見ると、民吉はにらむようにそれを見返したが、やがて留五郎をまぶしそうに仰いだ。

「松どんは、よく眠っていたらしいんですが、あたしは、常どんに足をけっ飛ばされて、眼が覚めました。痛えなアといいますと、暗くって見えないんだから、勘弁しなと云って、自分の床へ這入ったようでございました」

「そうか。それじゃア夜半に、外へ出たことは間違えねえな? どうだ。今朝常吉に、何か変わった様子はなかったか」

「あ、そうだ」

松三郎が、急に声を大きくした。

「さい角や干し肝を削る、薄刃の小刀を、磨いでくれと頼まれましてあたしが磨ぎました」

「なに、刃物?……」

留五郎の顔には、急に晴晴した微笑が浮かんだ。

「お春さん。お前の推量は、当たってるぜ。直ぐに常吉を呼んで来ねえ」

外された閂

「常吉。おめえいま、裏の方へ行ってたそうだな。いよいよ、逃げ出すつもりだったに違えなかろうが、そうは問屋でおろさねえぜ」

「いえ。なんで左様なことを、いたしましょう。それは……」

留五郎の前へすわらされた常吉は、お春、小僧達の云ったことを聞かされて、悄然と頭を垂れたが、追い打ちを掛けるように、留五郎に云われた言葉には、決然として顔を挙げた。

「今朝、お嬢さんのことを知りましてから、何か手掛かりはないかと探して居りましたら、裏の木戸のかんぬきの外れているのに、気がついたのでございます」

「えッ、かんぬきが?……」

源兵衛が横合から叫んだ。留五郎は、その様子を冷ややかに見たが、急に眼を光らせたのは伝七だった。

「では旦那。そいつは、いつもかかっていたんですね」

「左様でございます。暮れ六つになりますと、必ずかけることになって居りまして、昨夕方も、わたくしが見回りまして、確かに見届けているのでございます」

「じゃア兄貴は?……」

不服そうに留五郎は、伝七を見た。

「外から這入って来た奴が、あると云いなさるのか」

「さあてな。あるとは云わねえ。だが、無いとも云えねえ。それを調べてみなくちゃ、ならねえと思うだけよ」

「はははは。この野郎が、おのれにかかった疑いを、ごま化すためにそんなことを云い出したんだ。やい常吉」

留五郎の声に、常吉はビクリと肩をふるわした。

「てめえは、お由利さんに、想いを寄せてたんだろう。平太郎に取られるのが、たまらなくなったんで、飛んでもねえ真似を、しやがったに違いねえ。その心底が判ってればこそ、てめえを養子に迎えるはずのお春さんが、てめえの味方になっちゃアくれねえんだ。どうだ、申し開きがあるか」

「………」

「お春さん。そうだろう?」

「わたしは、常吉が殺したとは申しませんが、姉さんと常吉とを較べますと、姉さんの味方をしたいと、思いますので……」

「よし、常吉。どうだ?」

「わ、わたくしは、子供の時分、御奉公に参りましてから、上のお嬢さんには、いつも優しくして頂きました。母親のないわたくしはもったいないことながら、母とも姉とも、お慕いしてきましただけに、お嬢様を殺すなどと、そんな大それたことが、出来るわけはございません。……刃物はきょう、犀角散を、削ることになって居りましたので、磨がしましたばかり。決して、血を落としたんじゃございません」

「それじゃてめえは、お春さんに見られた時ア、離れからの帰りじゃなかったのか」

「………」

「厠にゃお春さんが這入っていたんだ。てめえは用もねえのに廊下を歩いていたんじゃあるめえ」

「………」

「よし。もうきくことアねえ。これから、お奉行所へしょっ引いて行って、砂をかましてやるから覚悟しろ。お奉行様は、泣く子も黙る遠山左衛門尉様だ。ひとたまりもあるもんじゃねえ。――おお旦那、野郎の部屋にある刃物を、持って来ておくんなせえ」

そう云うと留五郎は、いきなり常吉にナワをうった。

「へ、へい……」

源兵衛が、よろめきながら出て行くのを見て、留五郎は体を揺すって笑った。

「伝七兄貴。どうやら片付いたようだ。さア一しょに引き揚げよう」

「いや、折角だが、おいらは残ろう。おめえは気の済むまで、そいつを調べるがいい」

「じゃ何か。お前さんはまだ、外から入った奴の仕業だと、にらんでるんだな」

「そりア判らねえ。だが北町の。おいらアどうもまだ、調べ残しがあるように思われるんだ。おいらは、得心のいくまで調べねえと、飯がうまくねえ性分だ。ちっとも遠慮することアねえから、おめえは、先へ引き揚げてくんねえ。なアに、夕方までにゃ帰って、おめえンとこの、仏様に聞いてもらうよ」

色もみじ

常吉の縄尻をとって、留五郎と岩吉が揚々と引き揚げて行った後は、度を失った一同が、恐る恐る上眼遣いに、伝七をぬすみ見るばかりであった。

「じゃァ旦那。あっしはこれから、裏庭を一と回りするから、まだだれも外へ出ちゃァならねえが、仏様のことにでも、取り掛かンねえ。それから、おみねといったな、その女中は。お前さんに案内してもらおう」

「いえ、わたしが……」

お春が素速く立ち上がろうとするのを、伝七はさり気なく留めた。

「なアに、おみねの方がいい。台所や裏口なんてものア、女中の方が明るいもんだ。おい竹」

「へい」

「おめえは……」

伝七のささやく声に、大きくうなずいた獅子っ鼻の竹は、ぱッと表へ飛び出して行った。

おみねを先へ立てて、裏庭へ出た伝七は、ゆっくり隅々まで眼を通したが、裏木戸の傍の庭石へ腰をおろすと、自分の前に転がっている材木の一端へ、おみねを掛けさせた。

「おめえの話を、聴こうじゃねえか。常吉が縄を掛けられた時の、おめえの顔は、ただじゃなかった。何かあるだろうから、話してみねえ」

「はい……」

おみねの張りのある眼には、急に涙が浮かんだ。

「親分さん。つ、常どんは、お嬢さんを殺したんじゃアありません」

「どうしてお前に、それが判るんだ?」

「さっき、お春お嬢さんが、廊下を歩いていたと仰しゃいましたが、常どんはあの時まで、女中部屋にいたのでございます」

「そんな夜半に、どうしてお前の部屋にいたんだ? おかしいじゃねえか」

「はい……」

おみねの蒼ざめた顔が、ぽッと赤くなった。

「おはずかしいことでございますけど、常どんの命に係わることですから、何もかも申し上げます。二人は……常どんとわたくしは、言い交わした仲でございます」

「何んだって?」

「この春でございました。わたくしが病気で、十日ばかり寝ました時、常どんが、毎晩看病してくれましたので、ついその親切にほだされまして……」

「だっておめえ、常吉はここの家の、聟になる男じゃァねえか」

「左様でございます。ですけど、お春お嬢さんは、常どんが小僧さんだったというので、大層邪慳になさいます。それでときどきは、常どんも、口惜し泣きに泣いて居りますんで。……わたくしも日頃から、気の毒に思って居ました」

「うむ」

「ゆうべも旦那は、お春お嬢さんと常どんを、お祝いの席へ着かせようと、なすったんですけど、お春お嬢さんは常どんと、一緒じゃいやだと仰しゃって、さっさと寝ておしまいになりました。それというのも……」

「それというのも?……」

「お春お嬢さんは、平太郎さんを想ってらっしゃるからでございます」

「平太郎といえば、死んだお由利さんと、祝言するはずだった男だが。……それじゃ男の方でも、お春を想っているのか」

「それは、わたくしには判りませんが、ゆうべのことを思いますと……」

「ゆうべのことというと……?」

「………」

「つまらねえ遠慮をしてると、常吉ばかりか、おめえのためにもならねえんだよ。はっきり云うがいい」

「は、はい。……実は、夜半過ぎまで、常どんは、わたしの所に居ましたが、これからお由利様の、お部屋の行灯の油を差しに行くんだと云って、離れへまいりましたんで……」

「うむ」

「それから先は、わたしは何んにも知りませんでしたが、今朝の騒ぎになってから、ゆうべは飛んでもないことをした、と云うんでございます」

「………」

「常どんが、離れへ行きますと、障子の中に、人の居る様子なので、びっくりして引き返してしまったと申します――こんなことなら、顔を見て置きゃアよかった。平太郎さんだと思ったばっかりに、着物の柄も判らないと、常どんは口惜しがって居りました」

「そうか。だが、そんならどうしてさっき、常吉はそれを云わなかったんだろうな。それだけでも、身の証しの助けになるというもんだが……」

「はい、それはこうでございます。わたしは、両親が貧乏ですので、このお見世へまいります時に、まとまったお金を借りて居ます。途中でしくじりがございますと、そのお金をお返しして、国へ帰らなければなりません。きっと常どんは、それを考えて、何もかも黙っていてくれたんだと思います」

「成程」

「それに常どんは、お由利様思いでございますから、お嬢様のお部屋に、男がいたなどとは、どうしてもいえなかったんではございますまいか」

伝七が大きく頷いた時だった。

「親分、連れて来やした」

突然竹道の声が聞こえたとおもうと、右手を掴まれて、裏木戸から幽霊のように這入って来たのは、平太郎であった。

散っていた花

「お、平太郎か。ここへ掛けねえ」

「………」

おみねを立ち去らした跡を指さすと、平太郎は、阿波人形のように胴を真っ直ぐにしたまま、首だけ垂れて腰を下ろした。

「おめえが、お由利さんの部屋へ這入ったのア、何刻だった?」

「………」

「今朝、ここのお内儀が、お由利さんの死んでるのを見て騒ぎ出した時、駈けつけた旦那の気がついたのア、縁側の雨戸が二寸ばかり、開いてたってことだ。馴れた奴ア、決してそんな間抜けな真似はしやアしねえ。素人に限って、あわてて、そんなドジを踏むんた。おめえ、夢中ンなって、逃げ出したに違えあるめえ」

「恐れ入りました」

「うぬ、御用だッ」

竹道が頭の上から一喝した。

「あ、お待ち下さいまし……」

冷水でも浴びせられたように、震え上がった平太郎は、思わず伝七を拝んだ。

「竹、待ちねえ。平太郎、おめえ何かいいてえことがあるのか」

「へい。……お由利さんの所へ、忍び込みましたのは、わたくしに相違ございませんが、その時にはもうお由利さんは、死んで居たのでございます……」

「平太郎。口から出まかせをいうと、反っておめえの、お咎めが重くなるぜ」

伝七は鋭くきめつけた。

「いいえ、決して親分さんに、嘘は申しません。ゆうべお由利さんが、お客様を送って、帰ってまいりましてから、小父さんや小母さんに、わたしも加わりまして、四方山話をいたしました」

「うむ」

「小父さんも小母さんも、口を揃えて、近いうちに祝言をするようにと、勧めてくれますのに、お由利さんは、うんとは申しません。そればかりでなく、来年三月は、いろいろ都合があって、袖ノ井さんと、宿退りをしない約束をしてあるから、今度帰ってくるのは、来年の今ごろになるだろうなどと申しました」

「………」

「わたしは、間もなく切り上げて帰りましたが、家へ帰っても口惜しくて、どうしても眠られません。それで、どうかしてもう一度お由利さんと、とっくり話し合いたいと思いまして、ふらふらと、家を出てしまいました」

「きいてくれねえ時にゃ、ひと思いに、殺す気になってたんだな」

「飛んでもございません。だいいち、刃物も持っては居りません。ただ、心を尽くして話しましたら、また考えも変わるだろうと、それだけが、望みでございました」

「それで、裏からは、どうして這入ったんだ?」

「家を出ます時には、塀を乗り越えてでもと、思って居りましたが、何気なく裏木戸を押してみますと、わけもなく開きましたので……」

「すると、閂が外れていたというんだな」

「左様でございます。それから庭伝いに、縁側まで行って、そっと雨戸を開けまして、枕元の方へ行きますと、有明行灯の灯で、ぼんやりと見えましたのは、両のこぶしを握りしめている、裸のお由利さんの死骸でございました」

「うむ」

「あッと云ったっきり、わたしは、何も見えなくなってしまいましたが、間もなく気がつきましたのは、こうして居れば、自分に人殺しの疑いがかかる、ということでございました。もう恐ろしさに、誰を起こす考えも出ませず、あわてて、逃げて帰ったのでございます」

「そうじゃあるめえ。おめえは、お春にそそのかされて、太え料簡を起こしたんだろう?」

「決して、そんなことはございません。わたしは、お春のような勝ち気な女は、大嫌いでございます」

今まで堪えに堪えていたのであろう。平太郎の眼からは、急に涙が頬を伝わった。

「よし、これからおめえの、親父に逢おう。おい竹。ここの旦那に、おいらア一巡りしてくるからとそう云って来ねえ」

いきなり立ち上がった伝七は、平太郎の手首を掴んだ。白く丸味を帯びた平太郎の腕は、女のように優しかった。

赤トンボ

「親分、そう急がなくっても、いいじゃござんせんか」

「馬鹿野郎。御用中は忙しい体なんだ。てめえにつき合っちゃアいられねえんだ」

「でも、平太郎は、ホシじゃアねえんでげしょう」

「だから、なおさらじゃねえか」

「お由利さんの部屋へ、忍んで行った奴を、挙げねえんなら、まアぼつぼつやるより他にゃ、仕方がござんすまい。どっかそこいらで、一と休みしようじゃござんせんか」

「竹。おめえ休みたけりゃア、いつまででも、そこいらで寝てきていいぜ」

「冗談云っちゃアいけません。親分、ま、待っておくんなせえ」

梅窓院通りから、百人町へ足を速めて行く伝七は、獅子っ鼻の竹を、いい加減にあしらいながら、何か思案に耽っている様子だった。

「竹、おめえに、働いて貰う時が来たぜ」

「えッ、あっしに?……有難え」

「ほかじゃねえが、これから赤坂御門外へ行って、溜池の麦飯茶屋を、洗ってくんねえ」

「あすこの茶屋なら、六軒ありやしてね。女の数が三十人。いま評判なのア、お滝におつま……」

「女を知りてえんじゃねえ。ゆうべ五ツ頃から、今日の明け方までに、どんな客が上がったか、そいつを調べて来るんだ。こっちの目当ては、鴎硯という茶坊主だが、まだ外に、拾いものがあるかも知れねえからな」

「へい。ですが、茶坊主が、なんであすこへ行きやすんで?……」

「ゆうべ伊吹屋からの帰りに、源兵衛が如才なく、二分や一両は、握らしたに違えねえ。坊主の住居は、浜松町だそうだから、丁度都合のいい足溜まりだ。しけ込んだ上で、何を企むか知れねえって奴だ」

「成程」

「伊吹屋へ上がり込んで、みんなの機嫌を取るような坊主だ。お城から、誰に何を云いつかって来てるか、知れたもんじゃねえから、抜かっちゃならねえぜ」

「ようござんす。きっと何か、土産を掴んでめえりやす」

「おいらはこれから、一軒寄って黒門町へ帰ってる。おめえの方の様子を知ってからでねえと、仕事の順序が立たねえから、ちっとも速く頼むぜ」

「おっと合点。親分も、お気をつけて行っておくんなせえ」

土けむりをあげて、駈け出した竹造を見送ると、伝七はそのまま表通りへ曲がって、古びた小さい屋敷の門を潜った。

「御免なすって。……お城勤めをなすってらっしやる、袖ノ井さんのお宅は、こちらでござんしょうか」

「はい、はい。誰方でございます」

たるんだ声で答えながら、足許も覚束なく出て来たのは、茶の単衣に、山の出た黒繻子の帯をしめた、召使いらしい老婆であった。

「わたしは、お奉行所の、御用を承ってる者でござんすが、袖ノ井さんに、ちょいとお目にかかりたいことがござんして、お伺い申しました」

「あの、どのような御用で?」

「伊吹屋さんの娘さんの、お由利さんのことにつきまして、お伺い申しましたが……」

「少々お待ち下さいまし」

伝七は、向こうの土間の天井に吊るしてある用心籠など眺めながら黙って待った。

と、間もなく老婆は引き返して来た。

「お待たせいたしました。只今お嬢様は、御不在でございますが、旦那様が、お目にかかりますそうで。……どうぞお上がり下さいまし」

袖ノ井が留守とは意外であったが、このまま引き退ることは出来なかった。

壁の落ちかかった奥の間へ導かれた伝七は、この家の主を見ると心の中で思わず「あッ」と叫んだ。

「伝七殿と申されるか。わしは袖の父、真斎でござる」

床の上へ坐っているのは、業病も末になったのであろう。顔は崩れ、声は嗄れて、齢さえも定かでない老人であった。

「どなたにも、お目に掛からぬのじゃが、御用の筋と聞いてお通し申した。どのようなことでござろうか」

「ほかでもござんせんが、実は、袖ノ井さんの朋輩衆の、伊吹屋のお由利さんが、ゆうべ急に亡くなられましたんで、袖ノ井さんに、何かとお訊ねいたしたいと存じやして……」

「何と云われる。由利殿が亡くなられた?……あの娘御とは、殊の外親しくいたし、昨夜もここへ見えられたが……」

「左様でござんすか。そんなに、仲よくしておいでなすったんで?……」

「左様。着る物も髪のものも、みな揃いのものを、用い居ると申して居ったが、袖が聞いたら、さだめし嘆くことでござろう」

十年の長い間、病床に引き籠ってはいるものの、以前は松平伊予守の典医を勤めていた真斎とて、その言うところは、人柄をしのばせるものがあった。

「で、お嬢様は、どちらへお出ましでござんしょう?」

「あれは、わしの使いで、四谷の親戚まで出向いたが、八ツまでには、帰って来るはずじゃ。わしで判ることは、何でも話して進ぜるが……」

「いえ、そんならまた、お帰りの時分に伺いましょう。どうぞよろしく、申し上げておくんなさいやし」

背筋へ水を注がれる思いで、言葉を交わしていた伝七は、ふと気付いたことがあるままに、早々にして席を立った。

お俊の知恵

「なアお俊。柳下亭の読みものかなんかで、見たような気がするんだが、女同士が夫婦のように想い合うなんてことが、本当にあるもんなのか」

「さア、どういうもんでしょうねえ。何かあったんですか」

黒門町のわが家へ帰って来た伝七は、茶の間で、女房お俊の、茶をいれている姿を見ながら、突然言葉をかけた。

「うむ。ちょいと困ったことがあっての」

「あたしゃ、そんなことは知りませんけれど。……富本のお稽古に通ってた時分、御師匠さんとこへ来る羽織衆が、そんな話をしていたことがありましたよ。女芝居の一座や、女牢の中なんぞでは、女同士が言い交わして、入れぼくろまで、するようなこともあるんだって……」

「そうか」

伝七が、腕をこまねいて考え込んだところへ、帰った来たのは竹道だった。

「親分、行ってめえりやした」

「おお、早かったじゃねえか。やっこは一晩、しっぽりと濡れて行ったか」

「恐れ入りやした。お手の筋で。……鴎硯さんは、さかえ屋へ上がっていやしたが、面白く騒いで寝て今朝七ツ頃に帰って行ったという、こちらに取っちゃア、何の変哲もねえ話なんで。……どうも相済みません」

「いや、御苦労だった。それでおいらの考えが纏まった。早速もう一度、百人町へ行こう。今度アちっとア、手ごたえがあるぜ」

「へッ、そいつア有難え話でげす」

「今夜は、遅くなるかも知れねえから、提灯の仕度をしてくんねえ」

「合点で……」

気負い込んだ竹が、出て行ったと思うと、あわてて引き返して来た。

「親分。いま袖ノ井さんの使いだという婆さんが、駕籠でめえりやした」

「袖ノ井の?……」

伝七は手にしていた煙管を、じっと睨んでいたが、それをごろりと畳の上へ転がした。

「よし。ここへ通しねえ」

「へい」

竹に案内されて這入って来たのは、先刻見た老婆に違いなかったが、さっぱりと着替えをして、頭を撫でつけている様子は、見違えるぐらい上品になっていた。

「先程は、まことに御苦労様でございました。今し方、お嬢様がお帰りになりましたので」

「いや、あっしこそ、御無礼いたしやしたが、御用は?」

「お嬢様の仰しゃいますには、夕景にお見え下さるそうでございますが、病人の気が立って居りますので、明朝にして頂きたいのだそうでございます」

「………」

「今夜一晩、病人の介抱に、人々の孝養の真似をいたしまして、明朝は、お城へ帰りますゆえ、その際なれば、ゆっくりお目にかかれようと、かように申されまして……」

「そんなら今日は、親子水入らずで、居たいと仰しゃるんですね」

「はい。わたしもお暇が出ましたので、親分さんが御承知下さいましたら、浅草の娘のところへ、泊まりにまいりますので……」

伝七は拾い上げた煙管に、きざみを詰めることも忘れて考え込んだが、やがて雁首で、長火鉢の縁を叩いた。

「ようござんしょう。お邪魔するのも、心ない仕業だ。またお前さんの折角の保養を、妨げても気の毒だ。伝七は明日の午の刻頃までは、伺いませんから、どうぞゆっくりしておくんなさい」

「有離うございます。それでは何分、お願い申します」

お俊のすすめた茶を押し頂いて飲むと、老婆は、いそいそと帰って行った。

「親分、冗談じゃござんせんぜ。提灯はどうなりやすんで?」

「なア竹。せいては事を仕損ずると云うじゃねえか」

「だって親分。常吉でもなし、平太郎でもなし、鴎硯でもなしってことになった今、袖ノ井に、何をお聴きなさるのか知りやせんが、これも明日のことだってんじゃ、いい加減、気がくさるじゃござんせんか」

「ははは。まだくさるのア早えよ。こんな日にゃ、早く寝ちまって、またあした出直すんだ」

かきおき

明るい朝が来て、澄んだ初秋の空からは、眩しい太陽の下に、小鳥の声が軒庭に喧しかった。

「お早うござんす。親分はおいででござんしょうか。留五郎からまいりました。ちょいとここで、お目に掛かりとう存じます」

「おお、岩吉さんか。大層また早いじゃねえか」

竹造は、裏の方で何かしているらしく、神棚の水を取り替えていた伝七が、気軽く上がりかまちへ出て行った。

「親分の留五郎が、上がりますはずでござんすが、取り混んで居りますため、手前名代で、とりあえずお報せに伺いやした」

「そして用の筋というのア?」

「今朝、暁け方に、袖ノ井が、自害して果てましたんで……」

「そうか。……やっぱり死んだか……」

「じゃア親分にゃ、袖ノ井の死ぬことが、きのうから判ってたんでござんすか」

岩吉の声に、あわてて出て来た竹が、頓狂な声を出したが、伝七はそれには答えなかった。

「岩さん、まア掛けてくんねえ。で、病人はどうした?」

「へえ。病人も袖ノ井の手で、殺しましたんでござんす。毎朝病人の、布の巻き替えを手伝います隣りの隠居が見つけまして、手前共へ、飛んでめえりやした。親分とあっしが、直ぐに出向きましたが咽喉を突いて、腑伏している袖ノ井の傍にありやしたこの手紙を、親分が披いて見ましたので、事情はすっかり判りやした。知らねえこととて、お先へ拝見いたしやしたが、早速黒門町の親分へ、お届けしろと申しますので、あっしが持って伺いました次第でございやす」

岩吉の差し出すものを、伝七が受け取って見れば、一通の書置き。――

この度立ちかえりて、父の病いが業病なりしことを知りおどろき、ましてやその姿を由利どのに見られし悲しさは、たとえるものもこれなく候。由利どのとの睦みもこれまでなるべく、またその口よりお城へ洩れ候節は、いかなる大事となるやも計られず、いまは自ら死を覚悟いたし申し候。ついては深夜、由利どのと忍び逢うやくそくなりしをさいわい、伊吹屋へまいり、眠る由利どのを一刺しにいたし申し候。この身もその場にて、死するつもりに候わしかど、病父に引かれて立ちかえり時移るうち、早くも調べの手はのびて、万事休し申し候。取調べの町人は情けある人とて一夜の猶予を与えられ候まま、父に手あつく仕えし上、暁け方眠りにつくを待ちて玉の緒を絶ち、返す刀にて自らも冥途の旅に上り候。あの世には悩みも恨みもこれあるまじく、父の手を執りて由利どのを追い、共に白玉楼中の人となるが、いまはの際の喜びに御座候。

「おいお俊。やっぱり二人は、おめえの云ったような間柄だったんだなア」

「あたしには、判りませんけれど、その書置きを聞いていて、つい泣いてしまいましたよ」

岩吉へ茶を持って来たお俊は、袖口を眼に当てた。

「親分は、あっし達が、常吉をしょっ引いた時、もう袖ノ井に当たりをつけておいでなすったんでござんすか」

「いいや、そうじゃねえ。ただ乳房を一刺しにした腕前は、町人にゃ、ちょいと難しいと思っただけだ。真斎の話を聞いているうちにこいつア袖ノ井だと、はっきりと判ったが、使いを寄越されてみると、一晩だけア騒がねえで、その最後を浄くさしてえと、黙って手を束ねていたわけだ。……岩さん御苦労だったの。それで、お届けの方は、すっかり済んだかい」

「へえ。ああいう女中衆は、こんなことになると、きのうのうちに、お暇が出たことになりやすそうで。……後始末は留五郎親分に、すっかり委されやした。いま取り混みの最中でござんす」

「そうか。おいらも後から顔を出すが、何分宜敷く頼むと、留五郎どんに、くれぐれも伝えてくんねえ」

「へえ、かしこまりました」

そう云うと岩吉は、急に立ち上がって、しかつめらしい顔をした。

「伝七親分。このたびは真にどうも有難うござんした」

岩吉は不器用に頭を下げると、忙しそうに帰って行った。

「お俊、係り合いだから、香奠を包んでくんねえ」

「はい」

伝七はそう云ったが、盂蘭盆に死んで行った薄命の女達を悼んだのであろう、その眼は涙に濡れていた。

常吉が、即日釈放されたのは云うまでもない。

Chapter 1 of 1