19
未練なくあとへ引っ返そうとして、ふと見ると巨大な建物があった。
(ああ、有名なK病院だな)
がらりと考えが一変した。
(彼女は病院へ入ったはずだ)
きわめて簡単な推理であった。字面の研究に費やして艶子から視線を離したのは、わずか二分足らずであった。艶子がいないと気がつくと、彼は十字路の四方を見た。ばらばらと人は通っていたが、艶子の姿は見えなかった。どこかへ寄ったに相違ない。
(病院へ患者を訪ねたのか、彼女が診てもらいに行ったのか、どっちみち病院へ行ったものとみれば、考え込んでいた彼女の様子がいっそう合理的になる。病院へ行くということは愉快なことではないのだからな。おれも病院へ行ってみよう。おれだってぴんぴん達者のほうではない、艶子の発見が無駄に終わっても、こんな機会を利用して健康診断をしてもらうのも、また大いによいことではないか)
門を入ると広い前庭で、玄関で一銭(当時の通貨の最小単位)のスリッパを借り、受付へ行ったときである。
「こっちだこっちだ」
という声がした。
見ると、山本が招いている。
「いけねえ。こいつめ、おれより上手だ」
「無駄を言うなよ。黙っておいでよ、あとで詳しく説明してやるから」
幾筋かの廊下が通っていた。その一つを小走っていく。で、長谷川もあとを追った。患者・看護婦・付添人・医者などが忙しそうに歩いている。廊下の天井がガラスなので、雪降りの日だがなかなか明るい。と、廊下が丁字形になった。それを左へ曲がったとき、にわかにあたりが暗くなった。ごーごーという音、しゅっしゅっという音、ぱちぱちとはぜる音!……べつに驚く必要はない。いくつかのレントゲンが、いくつかの部屋で活動をしているのである。
「見たまえ」
と、山本が囁いた。
「あそこに艶子がいるじゃあないか」
ドアの開いた部屋がある。やはりレントゲンの部屋とみえて、例の音が聞こえている。その横手に腰かけがあり、そこに艶子が腰かけている。
二、三人の人が開いた戸口から部屋の様子を眺めている。レントゲンの活動が珍しく、それで見ているに相違ない。
「ね、きみ、艶子はあの腰かけで人と待ち合わせているのだよ」
こう山本が囁いた。
「どうしてそんなことが分かるんだい?」
それが長谷川には不可解であった。
「艶子は診察券を買わなかったのだ」
「前に買って持っているのかもしれない」
「もし持っているなら受付へだね――うん、レントゲン科の受付へだ、少なくも出さなければならないはずだ。なるたけ早く出したほうが、早く治療をしてもらえるからさ」
「面会に来たんじゃあないかしら?」
「もし面会に来たのなら、すぐに病室へ行くはずだよ。ところが、艶子は病院へ入るとうろうろ廊下を歩いた末、あの腰かけへかけたのさ。それっきりちっとも動かないのだ。だれかにあの位置を指定され、それであそこへ行ったようにね」
「それはそうと、ぼくには不思議でならない。洋食屋のちらしを利用して、ぼくを引っかけたのはきみだろうが、どこにきみはいたのだい? ちっとも姿が見えなかったが」
「ああ、それか。なんでもないことだ。……おや!」
と、にわかに山本はびっくりしたように囁いた。
「見たまえ見たまえ、将校マントの男だ!」
かつてSビルディングのエレベーターから、ひょいと外へ飛び出した三十前後の下品な男が廊下の向こうからやって来た。
その男に寄り添いながら、非常にあだっぽい大年増がそろりそろりと歩いてきた。
「あっ、驚いたなあ、お蝶って女だ」
「へえ、あいつがお蝶なのかい?」
長谷川の好奇心は膨張した。
「殺された西村の愛人のね、舟木新次郎の姉に当たるね」
「どうしてきみは知っているんだい?」
「社でも警察でも張り込んでいるのだ、舟木が立ち回るに相違ないとね。ぼくも一度張り込みに行って、それであの女を知っているのさ」
一人の看護婦が向こうから来て将校マントの男へ挨拶し、そのままこっちへやって来た。
「ちょっとぼくは調べてくる。きみ、あいつらに気をつけてね」
山本は看護婦を追っかけていった。
お蝶と、そうして将校マントの男が艶子の前まで来たときである。ひょいと艶子は立ち上がった。三人で何か囁き合い、それから一緒に腰をかけた。そうして、熱心に話しだした。
(どうかして話を聞きたいものだ)
こうは思ったものの、長谷川は近寄っていくことが躊躇された。艶子に顔を知られているからだ。
呻くようなレントゲンの活動の音で、三人の話し声は聞こえない。