Chapter 1 of 155

天明五年十一月、三日の夜の深更であった。宵の間にかくれた月の後、空には星ばかりが繁くまばたき、冬の寒さをいや増しに思わせ、遠くで吠え立てる家護りの犬の、声さえ顫えて聞こえなされた。

大江戸の町々は寝静まり、掛け行燈には火影さえなく、夜を警しめる番太郎の、拍子木の音ばかりが寂寥の度を、で、さらに加えていた。

まして隅田の堤あたりは、動くものといえば風に吹かれる、葉の散りつくした桜の木々の、細い梢か枝ばかりで、

春雨や鼠の嘗める隅田川

その野鼠さえ蠢いてはいず、まして人影など見られなかった。

と、厩橋の方角から、その寂しい隅田堤の方へ、一挺の駕籠を取り巻いて、数人のものが歩いて来た。

二人の武士が駕籠の前に、二人の武士が駕籠の背後に、一人の武士が駕籠の脇、引き手の側に引き添って、しとしとと歩いて来るのであった。

枕橋の渡しの辺を、一町あまり歩いて来た時、それまで堤の耕地へ向いた斜面へ、身を伏せて隠れていたのでもあろう、黒の衣裳に黒の羽織、袴なしの着流し姿、黒頭巾で深く顔を包んだ、お誂え通りの一人の武士が、しかし身体に得もいわれない、品と威との備わった武士が、おもむろに現われ斜面を上り、懐手をしたまま無造作に、

「これ、待て待て、その駕籠待て」

声は濁りなくさえていて、そうして不断に部下に対して、命令することに慣れている人の、鷹揚さと威厳とを持っていた。

駕籠の一団は足を止めた。

「これ、その駕籠を置いて行け」

「黙れ!」

と駕籠脇の武士が怒鳴った。

「身知らずの痴者! 尋常の駕籠と思いおるか! ……邪魔立ていたすと切り捨てるぞ!」

鮮かに狼狽はしていながら、相手はたった一人であり、それに自分の位置や身分、そうして駕籠の行く先に、何か自信でもあるとみえ、恐れ気もなく叱咤するようにいった。

「よいよい」

と黒頭巾の武士がいった。

「存じておる、存じておる、存じておるからいったのじゃ、その駕籠を置いて立ち去るがよい」

「黙れ!」

と例の駕籠脇の武士は、相手の武士の何んともいわれない品位、それにだんだん圧せられながら、隙を見せまいと威猛高に怒鳴った。

「何を存じて、汝無礼! この駕籠は、そも、この駕籠は……」

「老中田沼主殿頭の、小梅の寮へやる駕籠であろう、贈り主は松本伊豆守のはずじゃ」

「…………」

駕籠脇の武士は黙ってしまった。

が突然、「やれ!」と叫んだ。

白刃!

抜かれた!

五本!

ダ、ダ、ダ、ダ!

五人の武士の抜いた刀が、地を蹴る烈しい足音とともに、黒頭巾の武士へ殺到した。

抜き合わせて切ったか?

いや逃げた。

踵を返すと黒頭巾の武士は、一散に竹屋の渡しの方へ逃げた。

それを追いかけて五人の武士が、迂濶にも半町ほど走った時、川に面した堤の斜面から、三人の人影が躍り出て、素早く駕籠を取り巻いた。

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