Chapter 1 of 34

蚤とり武士

「蚤とりましょう。猫の蚤とり!」

黒の紋付きの着流しに、長目の両刀を落として差し、編笠をかむった浪人らしい武士が、明暦三年七月の夕を、浅草の裏町を歩きながら、家々の間でそう呼んだ。

お払い納め、すたすた坊主、太平記よみ獣の躾け師――しがない商売もかずかずあるが、猫にたかっている蚤を取って、鳥目をいただいて生活という、この「猫の蚤とり」業など、中でもしがないものであろう。

町人百姓でもあろうことか、両刀さした武士の身分で、この賤業にたずさわるとは、よくよくの事情があるからであろう。

「蚤とりましょう、猫の蚤とり!」

蚤とり武士は歩いて行く。

と、一軒の格子づくりの、しもた家らしい家の奥から、

「もし蚤とりさん、取っていただきましょう」

と、老けた女の呼ぶ声が聞こえた。

「へい、お有難う存じます」

と、何んとこの武士の気さくなことか、板についた大道の香具師の調子で、そう云いながら格子戸をあけた。

乳母らしい老女が烏猫を抱いて、三畳の取次ぎに坐ってる。その背後にこの家の娘でもあろう、十八、九の小肥りの可愛らしい娘が、好奇の眼を張って立っていた。

「ま、これはお武家様で」

はいって来た蚤とり武士を見ると、乳母は驚いて叫ぶように云った。

「身分は武士、業は蚤とり、浮世はさまざま、アッハッハッ……おお、おおこれは可愛らしい猫で。年齢は一歳か。二、三ヵ月越すか。その辺の見当でありましょうな……蚤に食わせては可哀そうじゃ。どれどれ取って進ぜよう。……が、ちとばかり無心がある。……湯をつかわせていただきたいもので」

武士は上がり框へ腰をかけて云った。

「湯をつかわせとおっしゃいますと?」

「ナニさ、その猫に風呂をあびさせることじゃ」

「おやまあさようでございましたか」

乳母は奥へ引っ込んだが、間もなく行水を使ったらしい猫の、濡れた体を吊るしながら、三畳の間へ帰って来た。

その間に武士は腰に巻いて差した、白猫の皮の鞣したのを取り出し、畳の上へ延ばしたが、

「では拝借」

と猫を受け取り、皮でクルクルと引っ包み、その上を片手でそっと抑えた。

扱い方にコツがあると見えて、猫は啼きもせず足掻きもせず、皮の外れから顔を出し、金色の眼で武士を眺め、緋の編紐の巻いてある咽喉を、ゴロゴロ鳴らして静もっていた。

編笠ごしに家の奥を、それとなく武士は窺ったが、

「ひそやかな生活、結構でござるな」

「人が少のうございますので」

「お嬢様かな、背後におられるのは」

「はいさようでございます」

「ご主人ご夫婦に娘ごにそなた、下女一人に下男一人――といったようなお生活ではござらぬかな」

「よくご存知、さようでございます」

薄気味悪いというように、乳母は武士をジロジロ見た。

「アッハッハッ」

と、武士は笑った。

「ナニさ商売道によって賢く、猫の蚤とりのこの業で、諸家様へ立ち入り立ち寄りますので、自然家族の多寡有無、知られ感じられるというまでで。……薄痘痕のある四十男など、ご家内中にはおりますまいな?」

「え、何んでございますって?」

「アッハッハッ何んでもござらぬ。……もうよかろう、蚤とれた筈じゃ」

云い云い武士は猫を包んだ皮の、一方の端へ手をかけた。

濡れている猫の毛に住んでいる蚤が、乾いている猫の皮へ住居を移す。これはありそうなことであり、この理を商売化したものが、すなわち「猫の蚤とり」なのである。

蚤を移らせた猫の皮を、巻物のように細く巻くと、武士はそれを帯へ差し、いくらかの鳥目を戴いて、その家から外へ出た。

「蚤とりましょう、猫の蚤とり!」

それからまたもこう叫んで、裏町を武士は歩いて行った。

さわやかな仲夏の季節であった。生け垣の裾には紫苑だの松虫草だのが、しっとりと露をあびて咲き、百日紅の薄紅い花弁などが、どこからともなく散って来た。風鈴を鳴らしている家などもあった。

そこを武士は歩いて行く。

でもやがて月が出て、そうして地上には靄が立って、大江戸が夜にはいった時には、どこへ行ったものか蚤とり武士の姿は、もうどこにも見られなかった。

入谷田圃も月夜であった。

遠くには廓の燈火が見え、近くでは虫がすだいていた。

畷道を人影が通って行く。

様と逢うならのう

夜道かけて百里

唄声がそこから流れて来た。

でも人影は農家の蔭へかくれ、もう唄声も聞こえなくなった。

と、またもポッツリと、一つの人影が畷道に現われて廓の方へ歩いて行った。

それは蚤とり武士であった。

畷道から外れた一所に、寮めいた家が立っていて、浅く木立に囲まれていたが、その近くまでやって来た時、けたたましい数人の喚声が起こり、一人の男が矢のような速さで、畷道の方へ走って来、十数人の武士がその後から、猛犬のように追って来た。

「や、貴殿は」

と逃げて来た男と、蚤とり武士とがぶつかった時、蚤とり武士が仰天したように叫んだ。

「五十嵐殿! ……五十嵐右内殿!」

「やあ」

とその男も仰天したように云った。

「そういう貴殿は……鵜の丸兵庫殿かア――ッ」

「あいつらは? あいつらは? ……追い迫るあいつらは?」

「紀州の手の者! ……無念! 残念! ……見現わされて!」

「貴殿紀州より江戸入りしたと、内報あったれば町家武家屋敷等、今日までそれとなくお尋ねいたしたが……」

「無念! 紀伊殿また違約され、彼の地の同志ら一網打尽! ……」

「ナニ、同志が、一網打尽……」

「それらの事情お知らせしようと、江戸入りいたしたが紀州の藩士ら、付け廻し追い廻し捕えようと……そのため今日まで諸所に潜在……」

――が、追い迫った紀州藩士らが、この時二人を引っ包んだ。

「捕れ!」

「搦めろ!」

「逃がすな逃がすな!」

「鵜の丸殿オーッ」

と五十嵐右内は、薄痘痕の顔を月光に怒らせ、

「今はこれまで、斬って斬って!」

「斬り抜けましょうぞ」

と答えた瞬間、

「ワッ」

斃れたは紀州藩の武士で、月をさすように振り上げられたは、鵜の丸兵庫の血刀であった。

五十嵐右内をおっとり囲み、捕えようとする紀州藩士の群と、それを助けようとする鵜の丸兵庫を、やるまいとする紀州藩士の群――この二組の人渦が、田圃の二所で渦巻いている。

悲鳴!

太刀音!

仆れる音!

二つの人渦は次第次第に、その間隔を大きくして来た。

多勢に無勢、刻一刻、右内は気力を失って来た。一人二人は斬ったらしい、血にぬれた刀を握っている手が、しこりで今は動かなくなった。足もよろめきを覚えて来た。

と見てとった紀州藩士達は、左右前後から襲いかかった。

兵庫に至ってはそうではなかった。

生死は知らず三人あまり、紀州藩士を斬って仆し、懲りずまに尚もかかって来る藩士を、刀上段に振りかぶり、睨みながらあしらっていた。

と、その眼に見えたのは、十数間の彼方において、同志の右内が紀州藩士に、捕えられようとする姿であった。

(一大事!)

と兵庫は思った。

「五十嵐殿オ――ッ」

と大音に声かけ、

「しっかりなされい! お助けに参る!」

前にある敵を一刀に仆し、左右にいた敵が驚いて、飛び退いた隙を真一文字に、右内の方へ駆けつけようとした。

と、これより少し以前から、数間はなれて立っているところの、積み藁の蔭に佇んで、様子を見ていた武士があったが、この時ソロリと刀を抜くと、平青眼にピタリとつけて辷るがようにスルスルと出で、兵庫の行手を遮った。

(あッ)

と兵庫は心の中で叫び、踏み出した足を後へ返した。

覆面をしたその奥から、右半面が見えていた。左半面の黒いのは、大きな痣があるからであろう。着流しで素足で草履ばきであった。で、紀州の藩士ではなく、浪人者のように思われるのであるが、平青眼に太刀づけた構えが、何とも云えず物凄く、まさに一流の達人であり、眼の前に蛇の腹かのように、蒼白く延びているそれの刀身は、生臭くさえ思われるほどに、殺気と毒気とを持っていた。

(凄い!)

と兵庫は戦慄を感じた。

(が、それにしても不届き至極!)

紀州藩士でもないそんな武士が、このような時にあらわれて、自分に刃向かって来るとは何んだ! ――という怒りの感情が、兵庫を改めて身顫いさせた。

と、その武士が呟くように云った。

「紀州藩の方々この男にかまわず、もう一人の男におかかりなされ。……拙者この男を抑え申す」

低くはあったが冷たく鋭く、人の心を滅入らせて、ゾッとさせるような声であった。

この浪人の出現した時から、その出現に驚いて、左右に開いて刀を構え、様子を見ていた紀州藩士たちは、この浪人の言葉を聞くと、一斉に喜びの声をあげた。

「どなた様かは存じませぬが、助太刀感謝、お礼申す」

「その者お抑えくだされい」

「行け!」

ド、ド、ド、ド――ッと右内目がけて、紀州藩士たちは走り出した。

「汝!」

と怒りを心頭に発し、兵庫は浪人へ斬り込んだ。

が、空を斬ったばかりであった。

今までの位置よりはほんのわずか、左の方へ片寄った位置に、痣の浪人は依然として静もり、依然として刀を平青眼につけて、こっちを凝然と睨んでいた。

「宣れ! 何者! 云え! 意趣を!」

兵庫は嗄れた声で叫んだ。

「何者が何んの意趣あって、拙者に向かって手向かうぞ! ……酔狂ならば度が過ぎる、意趣あらば意趣を仰せられい! ……拙者にとっては必死の場合、一人の盟友の生死の境いじゃ! ……邪魔せずにそこをお退きくだされい! ……退け退け、お退きくだされい!」

「…………」

痣の浪人は無言であった。

しかしどうやら笑ったらしく、前歯が白くチラリと見えた。

その憎々しさ、その大胆さ、思慮に富んでいる兵庫ではあったが、怒り以上の怒りを感じ、生死かまわず斬り込もうとしたとたん、

「捕ったア――ッ」

という声が遙かから聞こえた。

ギョッとして声の来た方角に向かい、眼を走らせた兵庫の眼に、五十嵐右内が捕えられ、紀州藩士達に手籠めにされ、宙に高く舁ぎ上げられ、町の方へ畷道を一散に、走っていくところの姿が見えた。

「南無三宝! ム――ッ」

とばかりに、兵庫は心顛倒し、痣の浪人の存在を忘れ、右内の方へ駈け出そうとした。

と痣の浪人の体が、ユラリとそっちへ位置を変えた。

依然として蛇の腹かのような、蒼白い刀身が差しつけられている。

「ムーッ」

と息を詰め呻いたものの、兵庫はその刀の切っ先に抑えられ圧せられ挫かれて、一歩も進むことが出来なかった。

その間も右内の舁ぎ上げられた体は、月光と靄との畷道の上を、町の方へ運ばれて行く。

やがて姿が見えなくなった。

と、痣の浪人であるが、そう知ったと見えてスルスルと下がり、クルリと兵庫へ背中を向けると、まったく兵庫を無視した態度で、これも燈火のチラツイている、町の方へしとしとと歩き出した。

あくまでも嘲弄したこの態度に、兵庫の心は掻きむしられた。

「悪漢!」

背後から右肩を袈裟掛け!

「うふ」

鬼神だ! その早業! 痣の浪人は振り返りざま!

閃光!

「わッ」

「チェッ」という舌打ち!

見よ兵庫は地に仆れ、舌打ちをした痣の浪人は、いつか刀を鞘に納め、懐手をしたまま悠々と、町の方へ歩いて行くではないか。

それから十日ほどの日が経った。

本所割下水の露路の奥の、浪宅の裏縁に二十一、二の、美しいが凛々しい武家娘が、鞣した猫の皮を陽に干していた。

「お兄様ご覧なさりませ、この蚤どもの可愛らしいこと」

その娘はこういいながら、座敷の方へ眼をやった。

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