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受験生の手記
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受験生の手記
久米正雄
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원문 Public Domain
Chapter 3 of 14

三

澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。

彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はしてゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。

澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。

私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐたのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。

あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれもすつかり退屈して來た。私はとう/\机の前へ仰向けに身を投げて、やけ半分にぼんやりと、内外の物音に聞き入つてゐた。

ふと玄關の戸の開く音がした。續いて甲高い女の子の叫びと混つて、美しい中高音の朗かな聲が聞えた。軈てそれらの聲々は姉の落着いた挨拶で迎へられたらしい。それで階下の騷ぎは靜まつた。そしてその後は際だつて話聲が洩れて來なかつた。それなり私はいつの間にか又、放心的な休止状態に陷つてゐた。

暫くすると、ことん/\と間を置いて、階子段を上つて來る人の氣配がした。その間遠な音から察すると、それは子供の所爲だと云ふことがすぐ解つた。私は一種の好奇心で、耳を聳ててゐた。すると突然先刻の喨然とした女の聲で、

「あら秋子さん、どこへいらつしやるの。お惡戲をなすつちやいけないことよ。」

「お二階。」大人ぶつた女の子の聲が應じた。「お二階の兄さんを見に行くのよ。」

「御勉強のお邪魔になるからいけませんよ。」

「大丈夫よ。」さう云ひながら女の子は、ことん/\と上り續けた。さうすると後から追つて來たらしくつゝましいながらに速かな足音が、階子段の邊りに起つた。

私は緊張した興味で、どんな女の子がそこの襖の處へ現はれるかを待つてゐた。何だか胸の中がときめき立つた。私はわざと机の方を向いてゐた。

すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。

私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。

秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。

「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。

その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のやうな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。

「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。

秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。

「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」

秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。

「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下りる、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。

それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

去年の受驗期は短かつた。そしてそれにすぐ不面目な失敗が結果された。あゝ、それに就ては、もう何も云ふ必要が無い。私はあの時、恥かしくて澄子さんにも會はず、急いで故郷へ逃げ歸つたのだつた。あとから澄子さんの手紙が來た。默つて歸つた恨みや、決して一度許りの失敗に落膽するなと云ふやうな事が、妙に大人びた文章で書いてあつた。私はそれに幾度接吻したことか! どんなに感謝したことか! そして長い屈辱な家での蟄居の間、幾度それによつて慰められたことか!

何は兎もあれこの頃は、日曜毎には彼女に會へるのだ。

Chapter 3 of 14
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