Chapter 1 of 42

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支倉事件

甲賀三郎

呪の手紙

硝子戸越しにホカ/\する日光を受けた縁側へ、夥しい書類をぶち撒けたように敷散らして其中で、庄司利喜太郎氏は舌打をしながらセカ/\と何か探していた。彼は物事に拘泥しない性質で、十数年の警察生活の後現在の新聞社長の椅子につくまで、いろ/\の出来事を手帳に書き留めたり、書類の整理をしたりした事は殆どなかった。今日急に必要が出来て或る書類を探し始めたのだが、二十分経っても更に見当らないので、気短の彼はそろ/\焦れて来た。

彼はもう探すのを止めようと思った。そうして書類を見たいと言った友人の顔を思い浮べながら、云うべき冒葉を口の中で呟いた。

「昨日一日探したけれども、見つからんかったよ。大した事じゃないから、君、どうでもえゝじゃないか」

けれども、苦虫を噛み潰したような顔をしているその友人は、中々こんな事で承知しそうもないように思われたので、新聞社長は再びせっせと堆高い書類を漁らねばならなかった。

書類の間に鼠色に変色した大型の封筒が挟まっているのが、ふと彼の眼を惹いた。

彼は急いで封筒を取上げて裏を返して見た。果して裏には墨黒々と筆太に支倉喜平と書いてあった。彼は眉をひそめた。

「はてな、どうしてこんなものが残っていたのかしら」

中を開けて見るまでもなかった。執拗な支倉の呪の言葉で充ち満ちているのだ。支倉は彼が庄司氏に捕われて獄に送られ断罪まで十年の間に、庄司氏に当て呪の手紙を書き続けた。庄司氏は一つ一つに番号を打ってあった呪の手紙の最後の番号が七十五であった事を覚えている。その手紙の一つがどうした事か偶然発見されたのだ。庄司氏はふと過去を追憶した。

豪胆な、そうして支倉の犯した罪については少しも疑念を挟んでいなかった彼は、こんな呪の手紙位にはビクともしなかった。それに彼の強い性格と溢れるような精力は、彼を過去の愚痴や甘い追憶などに浸る事を許さなかった。然し支倉の事件は彼の長い警察生活の中で重要な出来事の一つだった。捜査の苦心、証拠蒐集の不備の為の焦慮、当時の世論の囂々たる毀誉褒貶の声、呪の手紙、そんなものが可成り彼を苦しめた。

彼の眼前に宣教師支倉の獰猛な顔、彼が法廷で呶鳴った狂わしいような姿、彼の妻の訴えるような顔、さては証拠蒐集の為に三年前に埋葬された被害死体を発掘した時の物凄い場面などが、それからそれへと浮んで来た。

それから二、三日経った或る夜、庄司氏の応接室で卓子を取り巻いて主客三人の男が坐っていた。髪の毛の薄い肥った男は探偵小説家だった。色白の下顋の張った小柄な男は警視庁の石子巡査部長だった。

「石子君は当時刑事でね、支倉事件に最初に手をつけた人なんだ」

庄司氏の顔は今宵支倉事件を心行くまゝに語る機会を得た事を喜ぶように輝いていた。

「初めは極く詰らない事からでしてね」

石子は語り出した。

「これが小説だと、凄い殺人の場面か、茫然とするような神秘的な場面か、それとも華やかな舞踏会の場面からでも始まるのですが、事実談はそうは行きませんよ」

逃亡

大正六年一月末、午後二時の太陽は静に大東京の隅々までを照していた。松飾などは夙に取退けられて、人々は沈滞した二月を遊び疲れた後の重い心で懶げに迎えようとしていたが、それでも未だ都大路には正月気分の抜け切らない人達が、折柄の小春日和に誘われて、チラホラ浮れ歩いていた。それらの人を見下しながら、石子刑事は渡辺刑事と並んで目黒行の電車に腰を掛けていた。電車はけたゝましい音を立てながら疾駆していた。

「ねえ、渡辺君」

石子刑事は囁いた。

「之がもう少し大事件だと張合があるが、窃盗位じゃ詰まらないねえ」

「うん」

眼を瞑ってウト/\していた渡辺刑事は、突然に話しかけられたので好い加減な生返辞をした。

石子刑事は鳥渡不機嫌になった。彼は詰らない窃盗事件だと云ったけれども、内心では得意だったのである。官服の巡査から私服の刑事に出世してから一年間、若い彼の心は野心に燃えていたけれども生憎事件らしいものに突き当らず、いつも他の刑事の後塵を拝しているような始末なので、稍焦り気味だったのが、今度始めて彼の手で嗅ぎ出した、どうやらものになる事件だったので、彼は充分意気込んでいるのだった。

渡辺刑事は、口を結んで黙っている下顋の張った同僚の横顔をチラリと見て軽く舌打をしたが、然し対手の気を引き立てるように言った。

「そうでもないよ、君。たゞの窃盗とは違うさ。牧師の身でありながら聖書を盗むのだからね。而も君の話だと白昼堂々と盗み出すと云うじゃないか」

「そりゃそうなんだがね」

石子刑事は少し機嫌を直した。

石子刑事が、岸本清一郎と云う聖書販売人をしている青年の訪問を受けたのは三、四日前の夜だった。岸本は石子刑事が未だ所謂官服で神楽坂署内の交番で立番勤務をしていた時分に、交番の近所にいた不良中学生だった。眉の濃いきりっとした顔立の少年で、どことなく不良にして置くのは惜しいような気がしたので、石子刑事はそれとなく善導につとめたのだった。その甲斐があって、彼は非常に感激して、後には別人のようになり、基督教信者になって、真面目に勉強するようになった。所が家庭の事情で、どうしても学校を続けられない事になり、石子刑事も、いろ/\尽力してみたが、遂に力及ばず、岸本青年はとうとう中学を中途で廃業して、聖書販売人になったのだった。彼は今でも石子刑事の恩義を忘れないで、時折は刑事の宅を訪ねた。石子が私服に出世した時に一番喜んだのは本人の次には恐らく彼だろう。

その晩、岸本は暫くもじ/\していたが、

「石子さん、実は信仰仲間を傷つけたくないのですが、大分以前から聖書を盗む奴がいるのです。大方当りはついているのですけれども、一つ教会の信用を損わないように挙げて下さらないでしょうか」

彼の云う所によると、横浜の日米聖書株式会社と云うので、久しい以前からちょい/\聖書が紛失する。併し最近まで判然たる所は分らなかったが、二、三日前に今度会社で新に刷って倉庫に入れたまま、未だ売出さない所の新旧約全書が神保町辺の本屋で盛に販売されるので愈確実になったと云うのだった。石子刑事は大した事件だとは思わなかったが、快く引受けてやったのだった。

「君の話によると、中々容易ならん奴だぜ」

渡辺刑事は重ねて云った。

「うん、それ程でもないが、僕は第六感と云うのか、どうも奴がたゞの窃盗ではないような気がするのだ。殊によったら何か重大な犯罪でもやっていやしないかと思うのだ。渡辺君、何分宜しく御助力を頼むぜ」

石子刑事は前途に何か期する所のあるように答えた。

折柄電車は台町の二丁目で止まった。

白金三光町から府下大崎町に跨った高台の邸宅は陽を受けた半面を鮮かに浮き出させながら、無人境のように静まり返っていた。

石子刑事は渡辺刑事を伴ってとある横丁に這入った。

「あの家なんだ」

石子は少し前方の可成大きな二階家を指し示しながら、

「僕は兎に角当って見るから、君はこの辺で見張りをしていて呉れ給え。そしてもし僕が十分間出て来なかったら、なんとか旨い口実をつけて様子を見に来て呉れ給え」

渡辺刑事は石子が先輩振って指図がましく振舞うのが不愉快だった。先輩と云っても石子はほんの少し許り早く私服になったので、年齢から云ってもどっちも三十には少し間のある位の若者に過ぎないのだった。然し、今度の事件は兎に角石子が主として調べ上げたのだし、彼は云わば助手の位置にいたのだから、不承々々承知した。

「宜しい。僕はこの角から表門と勝手口とを見張っているから、しっかりやって来給え」

石子は渡辺が内心不平なのを察していたが、今の彼はそんな事を省みていられない位、初陣の功名と云ったような気が燃えていた。彼は驀に目指す家に近づいた。

古くはあるが見上げるような太い門柱と、植込みの繁っている中庭の奥から鳥渡姿を見せている堂々たる玄関が、意気揚々としていた彼の心を少し暗くした。門標に筆太に書かれている支倉喜平と云う四字が威圧するように彼の眼を射った。

彼の目指す家の主人は宣教師である。相当学識もあり社会的地位も高い。聖書会社から聖書を盗み出したと云う忌わしい嫌疑で、彼に神楽坂署まで同行を求めて行くのであるが、もし彼がその犯人でなかったら、彼に対する気の毒さと自分の面目をどうしよう。いや彼が犯人であると云う事は確実であると信じているが、もし同行を拒んだらどうしたものだろうか。彼の大胆な遣口を見ると、きっと素直に出頭に応じないに違いない。こんな考えで石子刑事の頭は暫く占領された。

岸本青年の依頼を受けると、石子刑事は翌日神田神保町の書店を訪ね歩いた。二、三の書店で、彼は問題の卸元で未だ市場に出さない聖書が販売されている事を確めて、其出所を調べると、支倉喜平という宣教師の手からである事が分った。彼は支倉の容貌の特徴など委しく聞いた上、直ぐに横浜へ向った。

途々彼は考えた。盗まれた書籍の量は相当大きいから、到底手などで提げられるものではない。必ず車で運び出したものに違いないとすると停車場の車を利用したと見るべきであろう。然し、彼等は口留をされているかも知れないから、先ず聖書会社の附近でそれとなく聞いて見るが好い。そう思った彼は桜木町の駅から真直に山下町の日米聖書会社に向った。

会社の直ぐ筋向うに一軒の車宿があったので、それとなく聞いて見ると、通常こう云う所では後のかゝり合いになるのを恐れて、容易に口を開かないものであるが、意外にも輓子達は口を揃えて進んで事実を話して呉れた。

彼等の云う所によると、殆ど日曜毎に宣教師風の男が駅の車で会社に乗りつけて、締っている口を開けて這入り、沢山の書物を積んで帰ると云う事である。容貌を聞くと全く神田の書店で聞いた支倉の容貌に一致するのだった。輓子達が進んで話したのは支倉がいつも駅の車を利用して、自分達の車に乗らない為の不平が手伝っているのだった。

石子はその足で聖書会社を訪ねた。会社の書記は勉めて問題に触れたくないようだったが、書籍の盗難については渋々肯定したのだった。

白昼堂々と車を駆って盗みに這入る彼の大胆さを思って、石子刑事は支倉その人を見るように門札をうんと睨んだ。

支倉喜平の門標をうんと睨みつけた石子刑事は、つか/\と門内に這入った。

取次に出た女中に彼は慇懃に云った。

「先生は御在宅でございましょうか」

「はい」

女中は眩しそうな顔をして彼の顔を見上げた。

しめたと思った彼は、その嬉しさを少しも顔に現わさないで、肩書のない石子友吉と云う名刺を差出しながら、

「こういう者でございますが、是非先生にお目にかゝって、お教えを受けたいと存じますが、御都合いかゞでございましょうか」

一礼をして引下った女中はやがて首尾いかにと片唾を呑んでいる石子の前に現われた。

「どうぞお通り下さいまし」

第一の難関は見事に突破された。彼はホッと息をついた。

通されたのは奥まった離座敷だった。六畳敷きほどの広さの小ぢんまりとした部屋は床の間の基督受難の掛軸や、壁間の聖母の画像や違棚の金縁背皮の厚い聖書らしい書物など、宣教師らしい好みで飾られていた。

やがて、ノッシ/\と現われて来たのは中肉中背ではあるが、褞袍姿の見るからに頑丈そうな毬栗頭の入道で、色飽くまで黒く、濃い眉毛に大きな眼をギロリとさせた、中世紀の悪僧を思わせるような男だった。

書店や車宿で大凡の風貌を聞いて想像していた石子刑事も彼を見ると稍たじろいだ。もし初対面で彼を見る人があったら誰が彼を宣教師と思う人があるだろうか。

「先生でございますか」

石子刑事は聞いた。

「支倉です」

彼は上座にむずと坐って爛々たる眼を輝かした。

「実は私は警察の者です」

石子刑事は寸刻の隙を与えず、然し平然と彼を見やりながら、

「玄関でそう申しては召使いの人に対して御迷惑と存じましたので態と申上げなかったのですが」

「はあ、警察の方が何の用事があるのですか」

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