Chapter 8 of 8
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将門の女で地蔵尼といふのは、地蔵菩薩を篤信したと、元亨釈書に見えてゐる。六道能化の主を頼みて、父の苦患を助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却つて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田の二郎将国といふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸の味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎先生義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人故平将門の男の京に入ることを曰ふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をして捜し求めしめ、又延光をして満仲、義忠、春実等をして同じく伺ひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人が将門に魘えたかといふことが窺知られる。菅公に魘え、将門に魘え、天神、明神は沢山に世に祀られてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。
(大正九年四月)