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支那に道教と稱せらるゝ宗教があり、道家といはるゝ師徒があつて、そして傳承年久しく其教が今に存在し、其徒が猶少からざることは、周知の事實である。盛衰隆替は何物の上にも免るべからざることであるから、現時は唐宋元明の世に比しては勢威の揚がらざる觀があるが、それでも道教道家の氣味風韵が、禹域の文學藝術を浸涵し、社會民衆を薫染してゐることは、なか/\深大であつて、儒教、佛教と鼎立して、支那文化を三分して其一を有してゐると云つても宜いほどである。此故に道教道家の氣味風韵を知らずしては支那其物を解釋することが不可能だと云ふとも、誰も否といふものはあるまい。試に士人の間に愛好さるゝ詩を觀よう。李太白の詩篇幾百十、其中ににじみ出てゐる高い感情、人生の紛紜のみに沒頭埋身することを肯んじないところのものは、道家的氣味風韵でなくて何であらう。蘇東坡や陸放翁の詩に道家の香のするのは誰も知るところである。民庶の間に愛好さるゝ小説を觀よう。水滸傳は劈頭第一に、道家の神祕を點出して、百八魔君を走らす一場を物凄じく描いてゐるではないか。紅樓夢は主人公賈寶玉が紅を憐み翠を惜むの癡情を脱し、富貴名利を弊履の如くにして、赤足に雪を踐んで大踏歩し去るところを歸結にしてゐる。道家的の味でなくて何の味であらう。演劇には滑稽化さるゝまでに道教的臭氣のするものが多いのである。宋元の畫を觀よう。人は誰しも神仙の高致が陽に陰に寫取せられてゐることが餘りにも多いのを感ぜずには居られまい。年中行事を考察しよう。彼の賑やかな上元燈華の節からはじめて道教信仰の意を有つものはもとより多い。民衆信仰の符呪祭祈祷禳祓の類、及びそれらに關する傳説等、道教から派出したもの、道教を混入せるもの、それも亦もとより多い。たゞし道教の支那に於ける、是の如く廣被弘通せるにかゝはらず、さて道教は如何なるものぞ、道教の思想は如何なるものぞ、といふ問に對しては、明白的確に答ふることは甚だ容易でない。
もつとも道教のみではない、凡そ宗教といふものは、その核心又は頂上の意義の如何なるものであるかが難思難議であるのを常とする。否、その難思難議であるのがむしろ宗教其物の根本性質であつて、理智のみで解釋し盡し、批評し了せらるゝが如きものは、宗教たるの尊嚴を保持する所以のもので無いとも云へるのである。智解を以てしては到達し能はざるところの玄奧の或點を有してゐて、其點を體得身證せしむるに至る道程を歩ましむることが即ち宗教の本眞の意義なのである。それ故に或宗教を他方面の人士が外部から會得せんとすることは、其宗教から云へば無理な事であつて、理智のみを以て宗教を會得せんとするのは、砂を煮て飯と爲さんと欲するが如しと、其宗教からは彈呵さるるのが當然である。苟も宗教たる以上は其宗教は必ず凡夫の智解の及びかぬるものとするところの神聖のものが儼存してゐるのであつて、佛教其他では之を聖量となし、基督教其他では之を神となしてゐるのである。故に何の宗教でも宗教は必ず先づ「信」を要求し、信に伴なふところの「行」を要求し、信の純熟と行の精到とによつて、然る後に聖域に入り、神意に協ふを得、即ち其宗教の眞義を了するを得るとするものである。神を立つる宗教に於ては、初入門者に解つても解らなくても先づ神を信ずることを要とする。佛陀を立つる宗教に於ては、先づ佛陀を信ずることを要とする。阿彌陀を奉ずる教に於ては、世間普通の智解を棄てゝも、即ち現量相違を犯しても、阿彌陀を信ずることを要とする。宗教は皆「信先解後」のものである。不可思議底の本體に對つて、信といふところの飛空の鳥の道のやうな道を通つて衝き進ましむるのが宗教である。道教では神をも基督をも佛をも阿彌陀をもアラーをも立てぬが、猶且宗教である。猶且信を以て入りて而して後に之を證解すべきことを求むるものである。外部から理智のみを以て道教の如何なるものなるかを知つて、そして之を語らんとすることは、道教から云へばもとより無理なことである。卒然として今「樂靜信」といふ人の名を擧げたとて、我邦人は恐らく知れるものも少からうやうな世に於て、智解一方から道教を語ることももとより難事であり、そして道教の如何なるものなるかを解せしめんことは甚だ難いことである。
宗教は那の宗教も世界の一切を包み容れてゐる。過去、現在、未來の三世、明、幽の二界を我物にして居らぬ宗教は無い。しかし宗教も實は人間界の一事象であるから、やはり人間界に於て、發生したり、開展したり、修正されたり、補足されたり、變化したり、墮落したり、異旨の侵入を見たり、時代の裝飾を受けたり、其他種の遷移の路を辿ることは、他の文學や藝術と異なることは無い。そこで一源多派といふことは那の宗教にも免れない。隨つて左極の一派と右極の一派とは相應の距離を生ずる。エホバの教でも、舊教、新教、ユニテリアン、其差異は決して少く無い。佛教の阿含の素樸、華嚴の高華、密教の事相を重んずる、禪宗の文字を輕んずる、其差は實に甚だしい。法華經の如きは一部の經の内でさへ壽量品や提婆品と彼の安樂行品とはその説者筆者が異なりはせぬかと思はるゝほどに氣味風韵の差があるではないか。阿彌陀宗の如きは平正若くは爽利な批判からは、あれが佛教か、と訝らるゝほど他派とは異なつてゐる、と云はれても致方はあるまい。そこで那の一派を擧げて、これが眞のエホバの宗教である、これが眞の佛陀の宗教であると云ふことは難いので、擧げられた其一派は是認するにしても他の派は承知しかねるであらうから、畢竟ずるに局外からは、一に據つて之を説くことは公平でなく、又汎く通じて圓かに説くといふことは、野にもつかず山にもつかぬ景色を描出して、新に一不實のものを做出すといふことになる。で、それは避けねばならぬ。が、一各個にわたつて説くのでは總體のまとまりが出來ぬ。で、それも避けねばならぬ。さすれば凡てが出來ぬ相談になる。道教の中でも、漢末、三國からの舊い正一派と、宋末、金からの比較的新らしい全眞派とは一にならぬ。舊い方の教はやゝ超越的であり、新らしい方の教はやゝ現實的であつて、勿論道家を宗とはするが、儒佛の意氣を取入れてゐる。此二者の差は猶宜いとして、三國の呉の于吉仙人一派の如きは、全く別途のものの觀がある。晉の葛仙公一流は、洞眞部に取入れられてはゐるが、其系に出た抱朴子は神僊家ではあるけれど、勿論道家の別格一派だ。梁の陶弘景は勝れた人物だが、その所説を窺ふとおのづから特異な風格を有してゐて、抱朴子とも異なれば、漢末の魏伯陽などとも異なる。魏伯陽を祖にして、後に張紫陽其他を出した所謂丹家の一派は、勿論道家の髓腦のやうなものだが、それは漢の張道陵以來の衆生濟度の方面を主として祭符呪、教誡や式儀を事とする普通に所謂道家とは餘程の距離を有することは爭はれない。佛教はその行はれた範圍が廣大で、印度以來の年處甚だ久しく博く、人物も甚だ多かつたので、自然と其中に所證所説の差異が現はれ、早く小乘衆大乘衆の軋轢から、各派の間の爭鬩も少からず世の耳目にさらされたが、道教の方は佛教といふ偉大な外敵に包圍されてゐた觀があるので、佛教に對しては搏噬を敢てしたことは少く無いが、内部で互に攻撃しあつたやうな史實は鮮く、隨つて外部からは道教は渾然一團を爲してゐるやうに見え、中に何等の異趣別途もないかの如く思はれてゐるが、一大山脈である以上、中に高低險夷さま/″\の峰巒丘嶽の無いことは無い道理で、意趣精神形態色彩、各相異なつたものが存してゐることは免れない。勿論全體の中に部分があり、部分が集まつて全體が成るのだから、同中に異がある代り、異中に同のあるのは、自明の事である。故に道教の中の那の一部分、那の一派が道教では無いといふことは云へぬ。然し道教の成立が、釋迦を起首にして佛教が成立つたといふやうなものでなく、老子を最初にして道教は發生したと一般世人は無批判に認めてゐるやうであるが、それはやゝ間違つてゐるのであつて、道教は最初から種のものが他の力によつて集められて一大塊と成つた集成岩のやうなものである。支那民族の間の古傳説や習氣や信仰や思想や感情や希望や叡智が、佛教其他が西方より文化の大壓力を禹域に加ふるに當つて、彼は彼、此は此と、おのづからに集まつて、一大團塊を成したと觀ても宜いやうな氣がする。で、道教の中には、展開して異なつたものが生じたのみでなく、最初から隨分異なつたものが存在してゐたのであらうといふことも注意を値するのである。
それから又二個の異なつた存在が相會ふに當つては、そこに必然或作用が起る。これを接觸作用といふ。人事は流動容易性のものであるから、岩石と岩石との間に起る接觸作用の如くなる状態を惹起すことはないが、それでも兩者の交加、交綏、親和、反抗、相奪、互避等の種相の混化した作用が起る。佛教と道教との接觸作用は佛教の中にも佛教ではないものを生じ、道教の中にも道教ではないものを生じた痕跡がある。宋の朱子は道家は佛家の精處を盜まずに粗處を盜んでゐる、笑ふべきである、といふやうに云つてゐるが、それも一應は當つてゐる見解だけれど、それよりはむしろ自然の接觸作用だと云つた方が可いかも知れぬ。意識して他の所有を掠取盜用するならば、何で其精なるものをさし置いて其粗なるものを取る事が有らうか。(仙佛合致の論の起つて、道教の書に觀音大士などが出てくるのは、それはずつと後の事で、別の談である。王重陽一派が儒佛を取用ゐたのは、こゝに説いてゐる意味の外の事と見做してほしい。勿論重陽は朱子より後の人である。)道教の中の天地創造論、證道階級論等は如何にも接觸作用で起つたことと見れば見られるのである。これ等は佛教から來つたか、或は佛教以外、例すれば婆羅門教等から來つたか。もう一段進んで論ずれば道教中の或一部分は、婆羅門教との間に、接觸ではなくて、繼承の作用で出來てゐるかとも思へるが、これは別に詳論を要することである。兎に角に道教の中に印度臭いものが少く無いことは事實である。佛家に符といふものを用ゐて、人を護り災を禳ふことをするのは我邦でもするが、あれは佛法から出たことか、仙家から出たことか、大藏密部には其符字が見えてゐるが、遙に古い葛洪の書に見えてゐる符字と同じやうな體である。梵書では無い、篆體に近いのだから、佛家の中の道家臭いものである。北斗星の崇拜などは道佛いづれが先か、雙方共に早くから存したか。凡そ是の如く道中に佛あり、佛中に道あることは、數へ立てたら少くはあるまいが、そんな瑣細な事どころではない、本幹的に老子の思想は少佛家の言に似たところがあり、且又西のかた流沙に入つて終つたといふ傳説があつたところから、道家は佛家を併呑しようとして、老子化胡の説を立て、佛教は老子によつて出來たものだと誣ひ、唐の時には玄奘三藏を強ひて、老子道徳經を梵文に譯させたことさへあるほどだ。で、もし今印度の何處かでサンスクリットの老子を發見でもしたら隨分奇異な談だが、然樣なことがあつたにしても驚くには足らない。佛家の方では又列子の中に西方の聖人の事を記して讚してあるのを、釋迦の事だ、と云ひもせずに納まりかへつて居る。劉向の列仙傳(抱朴子に劉向の撰するところの列仙傳とあるので、劉向の撰と信ぜられてゐるが、今傳ふる列仙傳は敬すべき學者劉向の撰ではない。後漢の後の陋人の僞撰である)の序(世説に引いてある)に、百家の中を歴觀して、以て相檢驗するに、仙を得る者百四十六人、其人七十四人已に佛經に在り、とある。佛經に在る仙人とは何だ。誰だ。印度の俗、婆羅門等の老いて學徳ある者、世事を棄てゝ山に入り、道を傳へ徒に教ふる者を仙といふ、阿羅仙、迦羅仙の如きがそれである。それらの仙人は道教の仙人とは別なものである。山居の老學者といふ意義である。それらの七十四人と今の列仙傳の七十一人と同列にするのはをかしいが、明らかに同列に扱つてある。これでは道家から云へば仙の名は奪はれた譯になる。又老子の弟子の關尹喜の撰と云はるゝ關尹子九篇は、もとより僞書であるが、何と佛家臭いものであることよと、誰でも心づかずには居るまい。その仙人を論ずるところの如きは、正にこれも僞經らしい楞嚴經の仙を論ずる段と遙に相呼びかはしてゐると云つてもよい程で、何と楞嚴の支那臭いことよ、と云ひたい。凡そ道佛二教の間の此等の種の事は、意識して此が彼を掠取したと云へば甚だ厭はしいことに聞えるが、自然の勢で接觸作用が起つたのだとすれば、然樣に解釋して置いても宜からう。道家と儒家とは同じ域内に生じたものだが、それでさへ歳月を經て、道家は道家で盛大になり、儒家は儒家で勢威を増すに至つては、兩者の間に接觸作用が起つて、各自の其自然の儘ではないやうなものが生ずる。たとへば老子道徳經は老子道徳經自然のまゝで然るべきで、他の部面のものからは、批評があるべきだけである。老子尊信者の漢の竇太后が、老子は何樣であるといふ下問に答へて、袁固が「家人言のみ」と冷やかに云つたのは、明らかに侮り輕んじてゐるのだ。又我邦の藤田幽谷が、老子を講じるなら老子の木像をこしらへて坐傍に置き、其頭をこつ/\と引扣きながら講じて呉れよう、と云つたのも、明らかに老子を忌み、そして輕んじてゐるのだ。が、しかし東坡の弟の蘇轍の老子の注は、老子を儒家の方に引張り寄せてゐる、言換へれば儒家で併呑しようとしてゐるのだ。太田晴軒の老子解もまた其氣味がある。前の二者は批評であるが、後の二者は老子の勢威が盛大になつたために起つた接觸作用の所産だと云つても宜からう。接觸作用も畢竟は兩者各自の本體からの派出的のものではあるが、甲なら甲、乙なら乙の本體だとそれを認めることは何樣も危いことである。