真真
花に百日の匂い無し、家どうして千年の栄えを保てよう、紅も紫も春の一時、富も尊も虹の七色のように果敢無い。移り変わる人の世の様はまことに悲しい。中国は宋の時代のこと、真西山という人はその死に際して、天子も動転して政務の情熱を失ったと云うほどの人である。四才で学問を受け、若い時から郷土の楊圭と云う者からは器量が尋常でないと認め知られ、成長の後は国家有用の人材となって、天子に仕えて忠、人民に臨んで仁、文章や学問に優れるだけでなく、経済や政治に於いても実績のあることは、「宋史」の巻四百三十七を読めば知ることができる。特に寧宗や理宗の時代は宋の勢威が衰えて、内憂外患共に多く、有能な者の多くが保身に走る中で、敢然として信念を曲げないで、韓冑が朱子学を排斥し、善人や正士を斥けて、程子や朱子等が一代の心力を尽して解き明かした聖賢の学の著述を、総べて禁じて廃止しようとした時代に、敢然と之を自身の学問として自認し、講習し実行した偉大さは他の及ばないところである。この禁令が解けて聖学がついに明らかになったのも、西山の力によるところが多いと後世がこれを称えるのも尤もである。西山の人柄はこのようである。西山先生、名は徳秀、本の姓は慎、考宗の諱を避けて真と改める。仕えて参知政事に成り、死して銀青光禄太夫を贈られる。文忠と諡されて、生前は当時の大儒学者として人々から仰ぎ見られ、死後は聖学の功臣として後の人々の推服するところとなる。しかし、その子孫は子の志道が家学を伝えただけでその後は知られていない。
月日はページをめくるように宋の時代は過ぎて元の世となる。元もまた世宗・成宗を経て、武宗の時代となって姚燧と云う人が在った。王を補佐して才能あった姚枢と云う大官の甥で、寛仁恭敏、未だ嘗て人を疑い己を欺くことが無いと云われた叔父に劣らず、この人もまた徳があり才能があり文章で名を成していた。官位は翰林学士承旨にまでなり、諡を文公と云われたほどの人である。。
ある日、翰林院の盛宴に於いて貴賓顕官が多く集まり、琴や笛を華やかに演奏する当時の粋を選び抜いた花のような妓女の中に、真真と云う者が居て、遠く離れた南方の節で歌ったのを文公(姚燧)が訝しく思って、「この都の近辺の者では無いようだが、何処の者であるか」と優しく尋ねた。貴人の思いがけない慈悲ある言葉にかよわい女の心は動いて、憂いある身は涙も誘われやすく、「御言葉のように、ここら辺りの者ではございません。私は山河はるかに隔たった建寧の者にございます。」と声を曇らす。言葉の調子が異なるのも頷ける。「建寧といえば、揚子江を南に超えてなお遥かな土地ではないか、なにゆえ上京したのであるか、物言いも人柄も卑しくは見えないが、何者の子孫であるか、訳がありそうだが」とまた質す。思いやりある春風の訪れに零れる花の露、はらはらと泣き俯いて、「身は落ちぶれてあさましく、このように成り下がり居る者に、氏も素性もございましょうか、御答えは御免下さいませ、」と辞退する。抱擁の心なお奥ゆかしく、「身を恥じて氏を隠すのも当然であるが、浮き沈みあるは世の習い、運命の悪いことを誰が誹ることあろう、そもそもの理由はなにか」と懇ろに問う。女も今は仕方なく、「御情深い御言葉に反することも憚れます。昔を申し上げるのも今は恥ずかしくございますが、まことは聊か世にも知られた真西山の末裔にございます。」と消え入りそうな風情である。愕然として驚いた文公は、「ア、西山先生の子孫であるか、大儒者真文公の、……」と半信半疑に惑うのを、真真は惑われるのも尤もと推測し、「疑わしく思われましょうが、幸せ薄き身の上を先ずは一通り申し上げます。私もこの世に生まれた時は、富めるほどではありませんが貧しくも無い旧家に育って、父母の愛に育まれ、梨花の中庭に春の日は静かに照らし、燕窺う簾の奥の裁縫に厭きては琴に親しみ、手習い終えては詩を口ずさみ、心長閑に暮らしておりました。父は済寧で公務に着いて会計の仕事を誠実にしておりましたが、他の人の仕た事で連座の罪を受けまして、県の管財を盗んだという恐ろしい罪名を被り牢獄に入れられ、弁財が済むまでは許されないという悲しさ。家を売り田を売り物を売っても足りず、晴れてはいても憂いの雲は暗く、冬ではないのに涙の谷は凍りつき、身も世もない災いの底に、力ない女は為すすべを知らず、ついに世話する者の言うままに、アア、申すも情なく、思うも辛いその月日、私の身を以て父の負債を弁済しました。玉と誇る心は無いが泥に落ちた怨みは尽きず、若くして鏡の前で眉をえがき、恥多い楼の上で紅の衣装を装う、倡家の婦とならずにあるのはまだしもですが、ついに芸能社会の役者となって、空しく昔孟光が質素な服装で梁鴻に嫁いだ故事をうらやむ身となりました。お恥ずかしい我が身でございます。」と涙ながらに物語る。人の真情は胸に響いて、思いやりの心と正義心は油然勃然と泉のように湧いて雲のように起る。文公は天を打ち仰ぎ、「祖先に隆盛な徳が有るというのに、子孫は何で悲運なのか、天はなぜ徳に酬い善を為されない、私がこの者を救おうとするのは、これ天の思し召しかと思う。ヨシ私はこれを他人事としない。」と丞相に使いを遣り申し出て、芸能社会から籍を抜き真真を自由の身とした。その上で年齢の近い翰林の属官で、黄逮と云う官位は低いが人の好い者を選んで、「君の妻にこの娘はどうだ、この娘は私の養女であるが」と云えば、黄逮は喜んで了承した。
昨日に代わる今日の慶福、真真は文公の養女となって、公慈恩の吊り台や長持ち等の婚礼の装備は満ち輝いて、ついに夫の婦となる。夫は今は微官なので出仕に車馬はないが、婦も教えある者なので、朝の火、夕の水の苦労を厭わず、服飾も質素清貧に甘んじて、宴席の虚栄から脱したのを喜び、鸚鵡は二度と恋わない黄金の籠、鴛鴦ひとえに悦ぶ清潭の棲、睦み合い語らい合い年を経て、夫も次第に出世をして、共に白髪の目出度い一生を送ったとのことである。
この事は谷筆談と云うものに出ている。明の貝瓊と云う者が真真の曲を作ってこれに詩を付ける。その中に句が有って、云う、
琵琶 商婦に感ぜるも、老大 猶西に東す。(芸能社会は真真を悲観させ、老大はこれを救わんと東奔西走する)
白楽天が潯陽で商婦の琴を聞いて歎息したのは、ただそれだけの事であるが、これは悲しみに始まり喜びに終わる。聞いてこころよく心にしみる。西山先生の徳がこうさせたのか、文公の力がこうさせたのか、これまた天命であると貝氏は云う。詩の句にまた云う、
時 多く 坎火に困むも、事 或は 遭烽に欣ぶ。焉んぞ知らん 百尺の井より、ちに登る 群玉の峰に(多くの苦境に苦しむ時に、朗報に遭える事を悦ぶ、思いかけず苦境の底より、忽ち登る幸せな世界)
ひとり貝瓊だけでなく、明の名高い高季迪と云う詩人もまた、この事を詠じている。伸びるも屈するも時の運、開いても落ちても梅は梅、霜雪の後の開花であれば、疎らな木々に香り幽かであっても凡花ではない。西山先生は心正しく行い正しく、その本伝によると容貌は玉のようだとある。真真の人品も想像できる。
西山先生嘗て人に仁を問われて云う。「およそ天下は小さなものにもこの心がある。生まれるものは皆これから生じる。天命を受けて生まれる時は、皆天地発生の心を以って生れて来る。よって仁心の発生しないものは無い。一物に一心がある。心中から生意を発し無限の物を成す。蓮の実の中にある小さな芽、すなわちこれが蓮の本である。他の物もまたこのようであり、上蔡先生は桃の仁(種子)や杏の仁でこれを例えた。仁の中には生意がある。即ち植えれば生じる理である。人は之を心中に受けて生まれ、全て天地の道理を具える。それなのでその心は物体ではなく霊魂である。それゆえにその包むところの生意が発出すれば、即ち近くでは親族に親しみ、及ぼしては人を恵み、また及ぼしては物を愛し、以て世界を覆い百世を恵むに至るのも、これまた仁心が及ぼすのである。これ仁心の大が、天地の量と同じくする理由である。今、学問を為す者は須らく常にこの心を持って、平生を省察し、胸中を満たし、優しい思いやりの心を持ち、悪心の無いことを確認する必要がある。即ちこの心がいわゆる本心である。即ちこの心がいわゆる仁である。即ち正しくこの心を保持し之を養い、この心を失わなければ、全ての善はこれより生じる」と、文公がこの説を嘗て読んだかどうか、それはわからない。
西山先生の学問は体仁から受ける。体仁は劉屏山と朱子から伝える。当時の仰望するところなったのは、実に西山先生とその友の魏鶴山の二人であった。
推測するに、西山の子は志道、志道の子は長男を紹祖、次男を同祖という。紹祖の子は蜀孫。「真山民詩集」を元の大徳中の人である董師謙に授けて、その序を作らせた真伯源は思うに蜀孫の子であろう。そして山民は思うに同祖の子で西山の曽孫であって、宋末から元初の時期を、学問はあるが仕えないで詩を作り楽しみ、陰士として身を終える。そのため宋や元の史書に名が無い。しかしながら山民の詩集は伯源の手から出て今に伝わる。その詩は清らかで優雅である。道で通過する軍に遇い山寺に投宿する篇の句に、
蟋蟀 数声の雨、芭蕉 一寺の秋。(小雨降る一寺の秋、芭蕉の陰にコオロギを聴く)
と云い、また暁に山間を行く篇では
乱峰 相出没し、初日 乍陰晴す。(乱立する峰の間から日が出ると、忽ち辺りは明るくなる)
と云う。自適の篇では
一糸の風月 厳稜の釣り、千里の関山 季子の裘。(後漢の厳稜のように世を離れ、風月の中で釣り糸を垂らす。見渡す千里の関山は、季子(蘇秦)が遊説の糧にした黒貂の衣のような価値がある)。と云い。また歳暮の篇では
一年 又是 等閑に過ぐ、百歳 只消ゆ 此の如く看るを。(また一年があわただしく過ぎて行く、百年もまたこのようにして消えてゆくのだろう。)
と云うように。人品詩品の共に卑しくないことを示す。詩集は豊富にはないが、一個の好詩人であると言える。真真は紹祖の末か同祖の末か分からない。ただ西山の子孫を語るついでに、山民も西山の子孫であることを示したに過ぎない。
(大正六年一月)