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死せる魂 01 または チチコフの遍歴 第一部 第一分冊
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死せる魂 01 または チチコフの遍歴 第一部 第一分冊
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Chapter 4 of 6

第四章

料理店の前へさしかかると、チチコフは二つの理由から、馬車を停めるように言いつけた。第一は馬を休ませるためで、第二には自分も何か少し食べて元気をつけるためであった。実際こういった連中の食い気と胃の腑には、作者も羨望を禁じ得ない。ペテルブルグやモスクワに住んで、明日は何を食べよう、明後日の昼飯は何にしようと、始終そんなことばかり考えていながら、さてその食事に取りかかる前には、まず用心に丸薬を服んで、それから牡蠣だの、蟹だの、その他いろんな珍味をむしゃむしゃやらかして、とどのつまりはカルルスバットかコーカサスへ養生に出かけるといった豪勢な紳士がたなどは、てんで物の数ではない。決してこういう紳士がたを羨ましいと思ったことはないのである。ところが、この二流どころの紳士がたに至っては、最初の宿場でハムを注文すると、次ぎの宿場では仔豚をとり、三番目の宿場でも蝶鮫の大切れか、それとも、葱を添えた焼腸詰ぐらいは平らげ、まだ、それでもいっこう平気なもので、時分もかまわず食卓について、小蝶鮫の魚汁に鱈か白子をそえてガツガツやらかし、口直しに魚饅頭か、鯰の肉の入ったパイを食うのだから、その健啖ぶりは他人ごとながら、まったく以って空怖ろしくなる――こういった連中は、いやもう羨ましい天恵を享受している次第で! 大概の上流の紳士は、こういう中流どころの紳士が持っているような胃の腑の持主になることが出来さえすれば、躊躇なく農奴や領地の半ばを犠牲に供するだろう。それが抵当に入っていようがいまいが、また外国式なりロシア式なりの改良が施されていようがいまいが、そんなことは問題ではない。ところが残念ながら、どんなに金子を積もうが、またどんなに改良を施した領地を犠牲にしようが、この中どころの紳士が持っているような胃の腑というものは決して決して手に入りっこないのである。

黝んだ木造の料理店は、古風な教会の燭台みたいな恰好に轆轤挽にした木の柱で支えられた浅い客好きのする庇の下へチチコフを招き入れた。料理店は、まあ、ロシア式の百姓小屋を少し大形にしたようなものであった。窓のぐるりや屋根庇についている新らしい木で彫り物をした蛇腹が、黝んだ壁にくっきりと浮かんでおり、鎧扉には、花をいけた壺の絵が描いてある。

狭い木の階段を這うようにして、広いポーチへ上ると、出会頭にギーッと扉が開いて、絞染更紗の着物をきた、肥った婆さんが顔を出すなり、『こちらへ、どうぞ!』と言った。部屋へ入ると、よくこういう街道筋に建っている小さな木造の料理屋では、誰でもぶつかるようないろんな古馴染が眼についた。他でもない、もう錆の出てきたサモワール、滑らかに鉋をかけた松板の壁、急須や茶碗を入れて隅っこに置いてある三角戸棚、聖像の前に、赤や青のリボンでぶらさげてある、鍍金をした瀬戸物の卵、つい近ごろ仔を生んだばかりの猫、二つの眼を四つに映し、顔の代りに煎餅みたいなものを見せてくれる鏡、それから最後に、聖像の後ろへ束にして差しこんである香い草と撫子だが、こいつはすっかり干乾びているので、匂いを嗅ごうとしても、嚔みが出るだけという代物である。

「仔豚はあるかね?」こう言いながらチチコフは、突っ立っている老婆の方へ顔を向けた。

「はい、ございます。」

「山葵と酸乳皮をつけたのもあるかね?」

「山葵と酸乳皮をつけたのもございますよ。」

「じゃ、それを出しておくれ!」

老婆はあたふたとして出て行くと、やがて皿と、まるで乾いた木の皮のようにごわごわと糊のつけてあるナプキンと、それから黄いろくなった角の柄をすげた、ペン小刀みたいに繊細なナイフと、二叉のフォークと、塩壺とを持って来たが、その塩壺はどうしても食卓の上に真直ぐに立たなかった。

例によって我々の主人公は早速老婆をつかまえて根掘り葉掘り、この料理店は自分でやっているのか、それとも主人があるのか、またこの料理店からはどのくらい利潤があがるか、息子はあるのか、総領はまだ独身か、それとも嫁を貰ったのか、どんな嫁が来たか、持参金はたっぷり持って来たか、持って来なかったか、嫁の父親は満足しているのか、それとも結納が少なくて怒ってやしないのか、などと訊き糺した。一口に言えば、何ひとつ訊き漏らさなかったのである。勿論、この界隈にどんな地主があるかということを訊ねたのはいうまでもない。その結果、この辺には、ブロヒン、ポチターエフ、ムイリノイ、チェルパコフ大佐、ソバケーヴィッチなどという地主のあることを聞き出した。『へえ! ソバケーヴィッチを知ってるのかね?』そう彼は訊ねたが、すぐに老婆から、ソバケーヴィッチだけじゃない、マニーロフも知っていると聞かされた。そして老婆はマニーロフの方がソバケーヴィッチよりぐっと上品な人だと言った。マニーロフはやって来るなり牝鶏を煮てくれと言いつけ、犢の肉はないかと訊く、羊の肝臓があれば早速それも注文するが、どれにもちょっと手をつけるだけだ。ところがソバケーヴィッチときたら、何か一品より注文しない癖に、それをきれいに平らげて、まだその上におまけをよこせと言うのだそうだ。

彼がこんな風にお喋りをしながら、仔豚をむしゃむしゃぱくついていると、もうそれが一口でおしまいになるという時分に、ふと、こちらへやって来る馬車の音が耳についた。窓から覗いてみると、なかなか立派な三頭立の馬をつけた軽快な半蓋馬車が一台この料理店の前に停ったところであった。馬車からは二人の男が降りた。一人は薄色髪の背の高い男で、もう一人は、それより少し背が低くて髪が黒かった。薄色髪の方は、濃紺のハンガリー服を著ており、髪の黒い方は、あたりまえの縞の韃靼外套を羽織っていた。遠くから、もう一台、四頭の毛の長い馬に曳かれた空の軽馬車がガタゴトやって来たが、馬の頸圏はぼろぼろで、馬具は荒縄だった。薄色髪の男はさっさと階段を駈けあがって来たが、黒毛の男はまだ後に残って、何か半蓋馬車の中を掻き探しながら、下男と話しあったり、同時に後から来た馬車に向って手を振ったりしている。チチコフにはその声にどうやら聞き覚えがあるように思った。彼が男の方をじろじろ眺めている間に、薄色髪の男は早くも手さぐりで扉をあけて入って来た。それは背の高い、顔のげっそりした、謂ゆるすいっからしという型の男で、茶いろの口髭を立てていた。焼け焦げたような顔色から推してこの男が、焔硝のけむりはともかく、煙草のけむりには相当お馴染になっていることが窺われた。彼はチチコフに向って丁寧にお辞儀をした。で、チチコフも同じように会釈をかえした。こうして切掛が出来て、二人は殆んど同時に、いい塩梅に昨日の雨ですっかり街道の埃もおさまり、今日は馬車を駆るにも涼しくて気持がよろしいなどと喋りだしたので、間もなく、大いに話しこんでお互いに近づきになるところであったが、そこへ髪の黒い連れの男が入って来て、縁無帽を脱いでテーブルの上へ投げだすなり、黒い濃い髪の毛をがむしゃらに掻きたてた。それは骨組のがっしりした中背の好漢で、頬は丸々として血色がよく、歯が雪のように白くて、漆のように真黒な頬髯を生やしていた。この男はいかにも生気溌剌として、健康そのものが面上に躍動している観があった。

「よう、よう、こりゃどうだい!」と、彼はチチコフの姿を見ると、いきなり両手をひろげて喚きたてた。「不思議なところで逢うじゃないか?」

チチコフは、それが検事の家で午餐を共にした、あのノズドゥリョフだと気がついた。あの時も、ほんの二三分で馬鹿に馴々しくなって、別段こちらから水を向けたわけでもないのに、すぐ君、僕でやりだした男である。

「何処へ来たんだね?」と言いながら、その返事も待たずに、ノズドゥリョフはこうつづけた。「僕はね、君、定期市へ行って来たのさ。いやはや、すっからかんに負けて来たよ! まったくの話が、生まれてこの方、こんなにきれいに剥かれたのは、初めてのこったねえ。しょうがないから、百姓馬をつけて、戻って来たってえ為体さ! そら、ちょっと窓から見てくれよ!」そう言って彼は、いきなりチチコフの頭をぐっと手で押えつけたものだから、チチコフはもう少しで窓枠に額をぶっつけるところだった。「ちぇっ、なんちゅう駄馬だろう! あん畜生どもったら、ここまで来るのがえんやらやっとなんだよ。だから、仕方がないから、そら、この男の半蓋馬車へ乗りかえて、やって来たのさ。」そういいながら、ノズドゥリョフは連れの男を指さした。「あ、君たちはまだ知合いじゃなかったのだね? 僕の妹婿で、ミジューエフってんだよ! 僕たちは今日も朝から君の噂ばっかりしてたのさ。『なあおい、今にきっとチチコフに逢うぜ』ってね。だが兄弟、おれがどんなに洗いざらいすっちまったか、君が知ってくれたらなあ! まったくの話が、馬を四頭とも投げだしたばかりじゃない――何もかもすっちまったんだぜ。ね、時計も鎖も持っていないだろ……。」チチコフがちらと眺めると、なるほどこの男は時計も鎖もつけていない。そればかりか、相手の片方の頬髯が、片方のより小さく疎らになっているようにさえ思われた。「だが懐中に、せめてもう二十ルーブリあったらなあ、」と、ノズドゥリョフは語を継いだ。「それより余計なくたって、二十ルーブリで沢山だ。そうすれば、何もかも取り返して見せたんだがなあ。つまりさ、取り返した上に、正直なところ、今頃はきっと、三万ルーブリぐらいはこの紙入へねじこんでいたんだがなあ。」

「だって、お前、あん時もそんなこと言ってたぜ。」と、薄色髪の男がそれに答えて、「でおれが五十ルーブリ貸してやったら、直ぐにまた奪られちまったじゃないか。」

「奪られる筈がなかったんだよ! 断じて、奪られる筈はなかったんだ! おれがあんな失策さえやらなかったら、まったく、奪られる筈はなかったんだがなあ。あんなパロレーの後で忌々しい七で鴨なぞ狙わなかったら、おれは場銭を残らず掻っさらっちまったんだぜ。」

「ところが、掻っさらっちまわなかったじゃないか。」と、薄色髪の男が言った。

「それあ、あんな拙い時に、鴨など狙ったから、掻っさらえなかったのさ。だがお前、あの少佐を、相当な打手だとでも思ってるのかい?」

「相当な打手か打手でないかは知らないが、とにかくお前はあいつに負かされたのだからなあ。」

「なあにを、つまんねえ!」と、ノズドゥリョフが言った。「あんなの、大丈夫おれは負かして見せるよ。なあに、あん畜生に一度ドゥブレットをやらせて見るがいいや、そうすれあ、彼奴がどんな打手かちゃんと見抜いてやらあな! だがね、チチコフ、初めの二三日はとても面白く遊んだぜ! まったく素敵滅法も無い定期市だったからなあ。商人たちからして、こんなに沢山人の出たことはねえって呆れていたよ。おれの村から持って行ったものが、何もかも飛びきりの上値で売れっちまってさ。いや、どんなに景気よく騒いだと思う! ほんとに、いま思い出しても……くそっ! まったく、君のいなかったのが残念だよ! まあ、思っても見たまえ、町から三露里ばかりのところに龍騎兵の連隊が駐屯していたのさ。だもんだから、君、ありったけの将校という将校が、そいつらだけでも四十人からいたんだが、それがみんな町へ乗りこんで来たんだ……。おれたちが、君、どんなに景気よく飲みだしたと思う……。騎兵二等大尉のポツェルーエフって……素晴らしい奴でね! 君、立派な髭を生やしてやがってさ! ボルドーのことを濁酒って言やがるんだ。『こら、濁酒を持ってこい!』とこうだ。それからクヴシンニコフって中尉だがね……。こいつが君、とても面白い奴なんだ! まず、どちらから見ても遊蕩児だといえるねえ。おれたちは始終こいつと一緒だったんだ。ところで、ポノマレフの奴がどんな酒を飲ませたと思う! だが奴は曲者で、あん畜生の店では何ひとつ買えたもんじゃないってことを心得てなきゃ駄目だよ。酒ん中へいろんな混ぜものをしやがるんだ、白檀だの、焼いたコルクだのをいれたり、接骨木の実で色つけまでしやがるんだからさ。だが、その代り彼奴が、特別室と呼んでいる奥の部屋から何か罎を持ち出して来たら、それこそ君、極楽浄土へ行ったような気持になれるよ。おれたちの飲んだシャンパンといったら、まったく……あれに較べたら、知事んとこのなんざあ何だい? まるでただのクワスじゃないか。まあ思っても見たまえ、クリコーというだけじゃなく、クリコー・マトゥラドゥーラってやつさ、つまり二倍の強さのクリコーって訳さ。それから、ボンボンっていうフランスの葡萄酒も一本のんだっけ。匂いかい?――こいつは薔薇みたいな匂いもしたし、いろんな、望みどおりの匂いもするんだよ。いやとにかく、えらい騒ぎさ!……何でも、おれたちの後へどこかの公爵とかがやって来てさ、シャンパンを持って来いって、店へ使いをよこしたそうだがね、お生憎と、町じゅうどこを探しても一本もないって始末さ。みんな将校連が飲じまったんだよ。まったくの話が、食事の間におれ一人でもシャンパンを十七本から平らげたんだからね!」

「なにを、お前、十七本なんて飲みゃしないよ。」と、傍から薄色髪の男が注意した。

「いや、おれは誓って、それだけ飲んだと断言するよ。」と、ノズドゥリョフが言い返した。

「何とでも勝手に断言するがいいけれど、おれはお前が十本も飲みゃあしないと言うだけさ。」

「じゃあ、おれが飲むか飲まないか、賭をしようか?」

「何のために賭などするんだい?」

「さあ、お前が町で買って来た鉄砲を賭けろよ。」

「嫌だよ。」

「まあ、試しに賭けてみろよ!」

「試しにだって、嫌だよ。」

「そうだろうて、また帽子を失くしたように、鉄砲も失くしてしまうところだからな。まったく、チチコフ、君のいなかったことが、返すがえすも残念だよ! 君は屹度、あのクヴシンニコフ中尉とは別れられなかったよ。奴さんと君がさぞ肝胆相照らしただろうになあ! あいつは例の検事だの、市にいる、一カペーカの銭にもびくびくしてるような、県のしみったれ役人とは、てんで柄が違うよ。あいつは君、ガリビックでござれ、銀行でござれ、そのほか何でもお好み次第なんだぜ。まったく、チチコフ、何だって君は来なかったんだい? 来ればよかったのに、ほんとにしょうのない野郎だぜ、君は! さあ、おれを接吻してくれ、おれは死ぬほど君が好きなのさ! どうだいミジューエフ、これこそ運命の引き合わせってものさ! この野郎とおれとは縁もゆかりもない仲だろ? 第一どこからやって来た男とも分りゃしないし、おれはおれでこんなところに住んでいるしさ……。だが何にしても、兄弟、あすこにゃあ、実にどえらく馬車がいたもんさ、まったく engros(夥しい数)だったぜ。おれは玉ころがしをやって、ポマードを二罎と、瀬戸物の茶碗と、ギターをとったよ。ところがそれをもう一度賭けたら、畜生め、今度はみんな取られて、その上に六ルーブリもふんだくられちまった。だがね、クヴシンニコフって奴がどんな女たらしだか、君が知ったものなら! おれは奴と一緒に、舞踏会という舞踏会へ一つ残らず行ったんだよ。ところが、一人おそろしくでかでかと著飾った女がいて、レースや紗の裾飾りや、いろんなものを滅多矢鱈につけてやあがるのさ……。おれは、『糞くらえ!』と思ったね。ところがクヴシンニコフの奴は、ああいう恥知らずだから、その女の傍へ擦りよりゃあがって、フランス語なんかでジャラジャラおべっかを使やがるんだ……。ほんとに、彼奴ときたら、どんなつまらない女でも、見のがしっこないんだからなあ。彼奴はそれを、野苺を摘むのだって言ってやがるのだぜ。それから、素晴らしい魚や、蝶鮫の乾魚をざらに売っていたっけ。おれは蝶鮫の乾物を一つ買って来たがね、まだ金のあるうちに気がついて、いいことをしたよ。時に、君はこれから何処へ行くんだい?」

「或る人のところへね。」とチチコフが答えた。

「ふん、何だい或る人なんて? すっぽかしちまえよ! 一緒におれんちへ行こうや!」

「いや、そうはいきませんよ。用事があるんでね。」

「ふん、用事があるとおいでなすったね! いい加減なことをいうない! この*1オポデリドック・イワーノヴィッチめ!」

「まったく、用事があるんですよ、それも重大な用事で。」

「賭をしてもいいが、それや嘘だ! じゃあ、言ってみろよ、いったい誰んとこへ行くのか?」

「言いますとも、ソバケーヴィッチのところへ行くんで。」

それを聞くとノズドゥリョフはからからと笑いだしたが、それは元気溌剌たる健康人に特有な笑い方で、そういう手合いは砂糖のように真白な歯を残らず剥きだして、頬をやけに波打たせながら、恐ろしく大声をあげて笑うものだから、中ふたつ戸を距てた三番目の部屋に寝ていた男が夢を破られ、がばと跳ね起きざま、眼を見張って、『ちぇっ、どうかしたのかな!』と口走るほどである。

「何がそんなに可笑しいんです?」とチチコフは、そんな笑い方をされたので聊か気色を損じて、言った。

だがノズドゥリョフは、『おい、助けてくれ! まったく、おら、腹の皮が破れそうだよ!』と言いながら、大口をあけて笑いつづけた。

「何も可笑しいことなんかありませんよ。僕はあの人と約束をしたんだから。」とチチコフが言った。

「だって君、あんな奴のところへ行ったって、ちっとも面白いことなんて、ありゃあしないぜ。あれあ吝ん坊にすぎないんだ! おれは君の性質をよく知ってるがね、彼奴の家へ行って、銀行の一番もやったり、ボンボンの一本にでもありつけようと思ったら、それこそ飛んでもない間違いだよ。ねえ君、だからソバケーヴィッチなんかすっぽかしちまってさ! おれんちへ行こうよ! 素的な蝶鮫の乾物を御馳走するぜ。ポノマレフの畜生めが、いやにペコペコお辞儀をしやがって『あんただけにですよ。市じゅう探したって、とてもこんなのは見つかりっこありませんぜ』ってぬかしゃあがるのさ。だが、あいつは途轍もないペテン師だからなあ。おれは彼奴の眼の前でそう言ってやったよ。『貴様と、あの徴税代弁人とは、天下一の大悪党だ!』ってね。そうすると、あの悪漢め、顎鬚をなでてニヤニヤしてやがるんだ。おれはクヴシンニコフと一緒に、毎日あいつの店で朝飯を食ったもんさ。あっ、そうそう、君に話すことを忘れていたがね、こいつは屹度、君も咽喉から手が出るにきまってるんだが、一万ルーブリだすと言ったって手放さないから、前もって断わっておくよ。えい、ポルフィーリイ!」と、彼は窓際へ近よって自分の従僕を大声で呼びたてた。その従僕は片手にナイフを持ち、片手には麺麭の皮と、どうやら半蓋馬車の中から何かを取り出す序でに、まんまと切り取ったらしい蝶鮫の乾物を一切れ持っていた。「えい、ポルフィーリイ!」と、ノズドゥリョフは呶鳴った。「仔犬をつれて来い! 君、素晴らしい仔犬だぜ!」そう言いながら、彼はチチコフの方へ向き直って、「こっそり失敬して来たのさ、持主の野郎めが、命にかけても手放そうとしやがらねえものだからね。おれはそいつに薄栗毛の牝馬をやるからと言ったんだよ。そら、知ってるだろ、あのフウォストゥイリョフのところで取り換えた馬さ……。」だがチチコフは、そんな薄栗毛の牝馬にも、フウォストゥイリョフとかにも、生まれてこの方ついぞお目にかかったことがなかった。

「旦那さま! 何にも召しあがらないのでございますか?」とこの時、老婆がノズドゥリョフの傍へ近よりながら、訊ねた。

「何にも要らない。いや君、まったく景気よく遊んだよ! だが、ウォツカを一杯もらおうか。どんなのがあるんだい?」

「茴香酒がございますよ。」と老婆が答えた。

「じゃ、その茴香酒をくれい。」とノズドゥリョフが言った。

「うん、序でにおれにも一杯くれ!」と、薄色髪の男が言った。

「芝居へ行ってみたらね、一人の女優が、畜生め、まるで金糸雀みたいに唄ってやがるのさ! クヴシンニコフの奴はおれの傍に坐っていやがったがね、『どうだい、君、あの野苺も摘んでやろうか!』なんてぬかしやがるんだ。見世物小屋だけでも五十ぐらいはあったと思うなあ。フェナルディーっていう奴は、風車みたいに四時間も飜筋斗をやってやがるんだ。」ここで彼は、老婆の手から酒杯を受け取ったが、婆さんはそれに対して恭しくお辞儀をした。「ああ、ここへ連れて来い!」と、ポルフィーリイが仔犬を抱いて入って来たのを見て、彼は叫んだ。ポルフィーリイは主人と同じように綿入の韃靼服を著ていたが、それは余計に垢じみていた。

「さあ、こちらへ貸せ、この床の上へ置くんだ!」

ポルフィーリイが仔犬を床の上へおろすと、そいつは四肢をふんばって地面を嗅ぎまわした。

「いい仔犬だろ!」とノズドゥリョフは、そいつの背中をつまんで差しあげながら言った。仔犬はひどく哀れっぽい鳴き声をたてた。

「だが貴様は、おれの言いつけたとおりにしなかったな。」とノズドゥリョフは、注意ぶかく仔犬の腹を調べながら、ポルフィーリイに向って言った。「こいつにブラッシをかけてやらなかったろう?」

「いえ、かけてやりましたとも。」

「じゃあ、どうして蚤がいるんだい?」

「さあね。おおかた馬車からでもうつったんでがしょう。」

「嘘をつけ、ブラッシなんかかけてやろうともしなかったんだろう。馬鹿野郎、まだおまけに自分のをうつしたんだな。さあ見てくれ給え、チチコフ、どうだい、いい耳だろう、なあ、ちょっと手で触って見給え。」

「どうして? このままでもよく分りますよ、なかなかいい血統ですねえ!」と、チチコフが答えた。

「いや、そう言わないで、ちょっと持って見給え、この耳に触ってみるんだよ!」

チチコフは是非なく、相手の気がすむように、ちょっと耳に触って見てから、『なるほど、これは好い犬になりますよ。』と言った。

「それに、鼻がとても冷たいんだぜ。さあ、手で持って見給えな。」

そこでチチコフは相手の機嫌を損じたくないばかりに、ちょっと鼻に触って見て、『なかなか好い嗅覚ですよ。』と言った。

「純粋のブルドックだよ。」と、ノズドゥリョフは語を継いで、「おれは実のところ、ずいぶん前から、こういうブルドックを鵜の目鷹の目で探していたんだよ。さあポルフィーリイ、あっちへ連れて行け!」

ポルフィーリイは仔犬の腹の下へ手をまわして抱きあげると、馬車の中へ持ち去った。

「ねえ、チチコフ、君はどうしてもこれから、僕の家へやって来なくちゃいけないぜ。なあに、たった五露里しきゃないんだから、一息で駈けつけられるよ。それからソバケーヴィッチのところへ行ったっていいじゃないか。」

さあ、どうしたものかな?とチチコフは肚の中で考えた。一つ、ノズドゥリョフのところへ行ってやるかな。別に他の連中より悪い訳もないて、同じような並の人間で、おまけに骨牌ですっからかんになるような男だ。どうも見たところ、どんなことでもやりかねない人間らしい。だから、まんがよければ、先生、無償でも譲ってよこすかもしれないぞ。そこで彼は、「じゃあお邪魔しましょう。」と言って、「しかし、あんまり引き留めないで下さいよ。時日がありませんからね。」

「よう、大将、そう来なくっちゃならないや! 素敵々々! ちょっと待ちなよ! 褒美に一つ接吻をしてやるから。」そこでノズドゥリョフとチチコフは互いに接吻した。「こりゃ面白くなって来たぞ。さあ三人でぶっ飛ばそうや!」

「いや、僕はここで御免蒙るよ。」と薄色髪の男が言った。「家へ帰らなくちゃならないから。」

「馬鹿な、そんなこと言ったって、放しゃしないぞ。」

「だって、きっと女房が怒るからさ。君はもう、この人の馬車に乗っけて行って貰えばいいじゃないか。」

「駄目、駄目、駄目! そんな馬鹿なこと考えるない。」

この薄色髪の男は、その性質に一見片意地らしいところのある人間の一人であった。こういう連中は、相手がまだ口を開かぬうちから、もう議論を始めようとしており、自分の考え方と明らかに矛盾しているような事柄には決して賛成することが出来ず、馬鹿を利口と言ったり、とりわけ他人の笛におどらされるなどということには、断じて承服できないらしい。ところが、いつもしまいには自分の弱味で、初め反対したことにも賛成し、馬鹿を利口と言い、果ては他人の笛につれて、この上もなく上手におどりだす――要するに、龍頭蛇尾におわるのである。

「馬鹿をいうな!」とノズドゥリョフは、何か薄色髪の男がぐずぐず言いだしたのに一喝を喰らわせて、さっさと縁無帽を彼にかぶせてしまったので、薄色髪の男はしょうことなしに、二人の後について立ちあがった。

「旦那さま、あの、ウォツカのお代をまだ頂きませんが……。」と老婆が言った。

「ああ、よし、よし、婆さん。おい、義兄弟! 済まないが払っておいてくれ。おれの懐ろには一文もないんだから。」

「いくらだね?」と妹婿が訊ねた。

「ええ、なんの、旦那さま、みんなで二十カペーカでございますよ。」と老婆が答えた。

「嘘をつけ。その半分もやっときゃ、沢山だよ。」

「それじゃあ少のうございますよ、旦那さま。」と老婆は言ったが、それでも有難そうに銭を受け取ると、大急ぎで扉を開けに駈けよった。彼女はウォツカの値段の四倍も吹っかけたのだから、少しも損はしなかったのだ。

一行は馬車に乗りこんだ。チチコフの半蓋馬車は、ノズドゥリョフと妹婿が乗った半蓋馬車と並んで駈けて行ったから、途々ずっと彼等三人は自由に談話を交わすことが出来た。その後ろからは、痩せた百姓馬に曳かれたノズドゥリョフの小振りな軽馬車が、ともすれば遅れがちに、ついて行った。それにはポルフィーリイが、仔犬と一緒に乗っていた。

一行が途々とり交わした会話は、読者にとっては余り面白くもなさそうだから、いっそ、ここでノズドゥリョフの一身上について若干お話しておこうと思う。というのは、この男は、おそらくこの叙事詩に於いて、決して端役しかつとめない人物ではなさそうだからである。

恐らくノズドゥリョフの人物については、読者はもう幾分お馴染のことであろう。こうした人物には誰でもよく打つかるものである。こういう連中は、手のつけられない奴と呼ばれて、まだ子供のころや、学校へ行っている時分から、餓鬼大将として名は通っているが、それだけにまた、ずいぶんこっぴどい目にも逢わされているのだ。その顔には常に真率で腹蔵のない、豪胆なところが現われている。誰とでもすぐ懇意になって、相手がまだけろっとする暇もない中に、もう『君、僕』で話しだす。永久の友誼が続きそうでいて、そのくせ、親交を結んだ相手と、その晩近づきになった記念の酒席で大抵いつも喧嘩をやらかしてしまうのが落ちだ。たいがい彼等は饒舌家で、道楽者で、勇み肌で、堂々たる恰幅をしている。ノズドゥリョフは三十五歳にもなっていながら、まるで十九か二十の青年と変りがなく、至って遊蕩ずきであった。結婚してからも彼は少しも変らなかった。その細君が間もなく二人の子供を残して他界してしまったので尚更であるが、子供に至っては全く彼には無用の長物であった。だが、その子供のことは、渋皮の剥けた保姆が面倒を見ていた。彼は家に一日以上じっとしていることがどうしても出来なかった。鋭敏な鼻で、数十露里も離れたところに定期市が立って、いろんな集まりや舞踏会のあることを嗅ぎつけると瞬く暇に彼はもう其処へ駈けつけて、骨牌台の前で早くも議論をおっ始めたり、大騒動を演じたりしているのだった。それというのも、こういった連中にはありがちのことで、彼は骨牌が三度の食事より好きだからである。既に第一章に於いて我々が一瞥したように、彼は骨牌をする段になると、いろんな札の抜き換えや、あらゆるいんちきを心得ていて、どうもまともな勝負をやらなかったので、大抵の場合、しまいには勝負が別な立廻りに変ってしまい、長靴でぶん殴られたり、房々とした実に見事な頬髯をり取られたりするのだ。それで時々彼は、頬髯を片方だけにされて、それもひどく疎らにして家へ帰ることがある。しかし健康で丸々と張りきった彼の頬は、よほど巧く出来ていて、旺盛な繁殖力を包蔵していると見え、髯は間もなく新らしく伸びて、剰さえ前より立派になる位だ。そのうえ何より奇態なことに、これはひとりロシアだけにしか見られない現象であろうが、暫くして、自分を袋叩きにした仲間と落ち合うと、まるで何事もなかったような顔で応対して、謂わば、こちらも先方も何らの蟠まりを持っていないのである。

ノズドゥリョフは或る意味に於いて事件屋であった。彼が顔を出したかぎり、どんな会合でも無事におさまった例しがない。何かしら必らず事件を持ちあげて、或は憲兵に腕を扼して大広間からしょびき出されるか、さもなければ、自分の友達に否応なしに撮み出されるのがお定まりなのである。よし、そんなことのない場合でも、尚且、彼以外の者には及びもつかぬような醜態を演じて、食堂でただもう人の物笑いになるような酔っぱらい方をしたり、またあられもないことを口からすべらかして、しまいには自分でも恥かしくなってしまうのである。そして全然なんの必要もないのに、飛んでもない嘘をつき、藪から棒に、自分のところには青い馬がいるの、薔薇色の馬がいるのといった風な出鱈目を並べだすものだから、聞いている方でも、しまいには『おや、大将、また駄法螺を吹きはじめたな』と呟やいて、さっそく退散してしまう。よく、まるでなんの理由もないのに身辺の者を傷つけるという、けちな料簡の人間があるものだ。例えば立派な官等を持ち、外見もなかなか上品で、胸には星勲章をつけているような人物でありながら、初め諸君の手を握って、いかにも深遠な沈思黙考に誘うような題目について語っているかと思うと、忽ち面と向って諸君を罵倒するのだ。それも、胸に星勲章をつけて、今の今まで沈思黙考に誘うような深遠な題目について語っていた人とはまるで似ても似つかぬ、せいぜい十四等官風情のやり口なので、ただただ呆れて、肩をすくめながら突っ立っているより他はない始末だ。ノズドゥリョフもそういう奇妙な料簡の持主であった。誰か特に彼と親しくなる者があると、真先きに彼はその男に恥をかかせる。つまりそれ以上の馬鹿げたことは考え出すことも出来ないような嘘八百を撒きちらして、婚礼に水をさしたり、商取引をぶちこわしたりするのだ。しかも決して自分では諸君に悪いことをしているとは考えないのだ。それどころか、再び諸君と落ち合うようなことがあると、またしても彼はさも親しげに振舞って、ぬけぬけと、『君はちっとも僕のところへやって来ないで、ひどいじゃないか。』などと言うのだ。またノズドゥリョフはいろんな点で実に多方面な、つまり口も八丁手も八丁という人間である。彼はもう忽ち諸君に向って、どこここなしに、世界の涯へでも一緒に行こうとすすめたり、どんな計画でも好きな計画に乗ると言ったり、また何でも手あたり次第に、諸君の望みの物と交換しようと申し込んだりする。鉄砲でござれ、犬や馬でござれ、何でもみな交換の対象となるが、しかしこれは別に欲得ずくでしようというわけではなく、ただ一途に罷み難い彼の性分のせかせかした落着きのなさがさせる業である。もし定期市でいい鴨でもひっかけて、しこたま儲けるようなことがあると、彼は前からそこいら中の店で眼をつけておいた品物を矢鱈無性に買いこんだものだ――馬の頸圏、香錠、保姆にやるハンカチ、種馬、乾葡萄、銀製の洗面器、オランダ織の麻布、上等の小麦粉、煙草、ピストル、鰊、絵、研磨機、壺、長靴、陶製食器といったものを、有金はたいて買い集めるのだ。ところが、それを無事に家へ持って帰ることは稀れで、大概はその日の中に、すっかりそれを運の好い骨牌仲間に捲きあげられてしまうばかりか、時には、まだその上、おまけに自分の煙管を、煙草入や吸口ごと奪られることもあり、罷り間違えば、四頭立の馬に一切の附属品――つまり軽馬車から馭者までつけて献上してしまうこともある。そんな時、当の御本人は、つんつるてんのフロックか韃靼服にくるまって、誰か自分を馬車に乗っけて行ってくれる友達はないかと、うろうろ探しに出かけるのである。さて、ノズドゥリョフとはこんな男であった! 若しかすると、それはもう過去の一性格で、もはや現代にはノズドゥリョフ的な人間は存在しないと言う人があるかも知れない。噫! そんな説をなす人たちこそ間違っている。ノズドゥリョフは、まだまだこれから先きも永くこの娑婆から姿を消しはしないのだ。彼は到るところ我々のあいだにいるのであるが、恐らくは、ただ別な衣裳をつけているのに過ぎない。しかも皮相浅薄な人々の眼には、衣裳さえ変っておれば全然別な人間に見えるのである。

さて、この間に三台の馬車はもうノズドゥリョフ家のポーチの前へ横づけになった。家の中には一行を迎える準備は何ひとつ出来ていなかった。食堂の真中には木の踏台が立ててあって、それに二人の百姓が乗っかって、何かまるで果てしもない歌を口ずさみながら、壁を白く塗っており、床には一面に白ペンキが飛び散っていた。ノズドゥリョフはさっそく百姓に踏台を片づけさせて次ぎの間へ駈けこむなり、何か指図をしていた。二人のお客は、彼が料理番に食事の支度を言いつけている声を聞いた。もうそろそろ空腹を感じていたチチコフは、この模様では、とても五時より前には食卓につけそうにないと悟った。ノズドゥリョフは戻って来るなり、自分の村の様子を残らず紹介するからと言って、お客を引っぱり出したが、二時間と少しかかって、もうそれ以上は何ひとつ見せる物がないというくらいに、すっかり何もかも見せてしまった。まず第一に彼等は厩を見に行った。そこには二頭の牝馬がいて、一方は斑のある灰色で、一方のは鹿毛であった。それから栗毛の種馬が一頭いた。これは見たところ余り立派な馬ではなかったが、ノズドゥリョフはそれに一万ルーブリ出したと言いはった。

「一万ルーブリなんて出ちゃいないさ。」と、妹婿が聞き咎めた。「こんなもの千ルーブリもしやしないや。」

「誓って、一万ルーブリ出したよ。」と、ノズドゥリョフが言った。

「それあ、幾らとでも勝手に誓うがいいさ。」と、妹婿が応酬した。

「よし、じゃあ賭をしようか?」とノズドゥリョフが言った。

妹婿も、さすがに賭まではしなかった。

それからノズドゥリョフは、やはり以前には素晴らしい馬が入れてあったという、空の厩を見せた。今そこには山羊が一匹いたが、この山羊というやつは、昔からの迷信で、ぜひ馬と一緒に飼っておかねばならないものとされており、それにどうもこいつは馬と仲が好いらしく、まるで自分の家にでもいるように、平気で馬の腹の下をくぐって歩いているものだ。ノズドゥリョフは客を案内して、鎖につないである狼の仔を見せに行った。『そら、これが狼の仔さ!』と彼は言った。『僕は、わざわざ生の肉でこいつを育ててるんだよ。野生のとおんなじ奴に仕立てあげようと思ってね。』それから今度は池を見に行ったが、ノズドゥリョフの言葉によると、前にその池には、とても大きな魚がいて、そいつを曳きあげるのに、大の男が二人がかりでやっとだったとのこと。しかしその話にも妹婿は疑いをさし挟むことを忘れなかった。『チチコフ、君にひとつ素敵もない犬の番いを見せようか。』と、ノズドゥリョフが言った。『筋肉の固く引き緊ってることといったら、まったく吃驚するくらいで、鼻面が――針のように尖ってるのだよ!』そう言って二人を、非常に瀟洒な小さい小舎へと案内したが、それは四方に垣根をめぐらした、広い庭の真中に建っていた。庭へ入ると、そこにはあらゆる種類の犬がいた――ロシア種のボルゾイもおれば、純原種のボルゾイもおり、また毛色からいっても多種多様で、鳶いろのや、黒に茶の斑のあるのや、白黒の斑のや、鳶いろに斑の入ったのや、赤に斑の入ったのや、耳の黒いのや、耳の白いのもいた……。それには又あらゆる呼号、あらゆる命令が名前としてつけてあった――『射て』だの、『罵れ』だの、『飛びまわれ』だの、『火事』だの、『薙ぎたおせ』だの『書きなぐれ』だの『焼け』だの、『焦がせ』だの、『北風』だの、『愛い奴』だの『褒美』だの、『見張り』だのと……。この犬どもにとってノズドゥリョフは、さながら一家の慈父そのままであった。忽ちどれもこれもが、所謂『犬の舵』と呼ばれる尻尾を高々とあげて驀地に駈けよって、お客を迎えると、一同に向って挨拶をしはじめたものである。その中の十匹ばかりがノズドゥリョフの肩へ前肢をかけた。『罵れ』はチチコフにまで同じような親愛の情を示して、後肢で立ちあがりざま、彼の唇をペロリと舐めたので、チチコフは慌ててペッと唾を吐いた。吃驚するほど筋肉の引き緊った犬というのも見たが、なかなか良い犬であった。それから一行はクリミヤ産の牝犬を見に行った。ノズドゥリョフの話では、それはもう盲らになっていて、間もなく斃ばるに違いないけれど、二三年前までは実に素晴らしい牝犬だったとのこと。その牝犬は、検分したところ成るほど眼が見えなくなっていた。その次ぎには水車場を見に行ったが、水車の軸についてぐるぐる廻転する、例の、ロシアの百姓たちの奇妙な表現に従えば、矢鱈に跳ねまわっているあの上臼を支える枠が無かった。『まだ、すぐそこに鍛冶場もあるんだよ』と、ノズドゥリョフが言った。なるほど少し行くと鍛冶場があったので、一同はその鍛冶場も見物した。

「そら、この原っぱにはね、」と、ノズドゥリョフは野原を指さしながら、言った。「野兎が、まるで地面も見えないほど、わんさといやあがるんだぜ。いつか僕は一匹、後肢を掴んで手どりにしたことがあったっけ。」

「ふん、お前、野兎を手どりになんて出来るもんかい。」と、妹婿が聞き咎めた。

「ところが捕まえたのさ。ちゃんと捕まえたんだからね!」とノズドゥリョフが答えた。「さあ今度は一つ、」と彼は、チチコフに向って言葉をつづけた。「僕の地所のはずれになっているところへ案内しよう。」

ノズドゥリョフは、到るところに丘陵が散在している野原をとおって客人を案内して行った。客は荒田と近ごろ犂を入れた畠との間を、拾うようにして進まなければならなかった。チチコフはそろそろ疲れを覚えはじめた。ともすれば足の下からじくじくと水の浸み出すような箇所が多かった。それほど土地が低かった訳である。初めのうち、彼等は大事をとって、そういうところは用心深く跨いで通るようにしたが、後にはそんなことをしても何にもならないことが分ったので、もう泥濘の大小などはお構いなしに、さっさと真直ぐに歩いて行った。かなり進んだと思うと、なるほど境界らしいものが眼についたが、それは木の杙と細い溝で出来ていた。

「そら、これが境界だよ!」とノズドゥリョフが言った。「これから手前にあるものは、みんな僕のものさ。それに彼方がわの、あの青く見えている森と、森の向うにあるものも、みんな僕のものだよ。」

「へえ、一体あの森はいつお前のものになったんだい?」と、妹婿が訊いた。「近ごろあれを買ったとでも言うのかい? あれは、お前のものじゃなかったからさ。」

「うん、あれは近ごろ買ったんだよ。」とノズドゥリョフが答えた。

「そんなに早く、一体いつ買いこんだのだい?」

「いつって、まだ一昨日買ったばかりさ。篦棒に高い金を出したものよ。」

「だってお前、一昨日は定期市にいたじゃないか。」

「ちぇっ、この*2ソフロンめ! 定期市へ行くのと地所を買うのとは一緒にゃあ出来ないとでもいうのかい? それあ、おれは定期市へ行ってたさ、だがおれの留守ちゅうに、うちの管理人が買っておいたのさ。」

「なるほど、管理人がね。」そうは言ったが、妹婿はやはり腑に落ちないらしく、首を振った。

客はまた同じ悪い道をとおって戻って来た。ノズドゥリョフは二人を自分の書斎へと案内したが、そこには普通、書斎にある、書類とか書物とかいったようなものは、何ひとつ見あたらず、長剣と二挺の鉄砲が懸っているだけで、一挺は三百ルーブリ、一挺は八百ルーブリ出したものだと言う。妹婿はちょっと見て、ただ首を振っただけであった。それから、トルコ製だという短剣を見せられたが、その一振には、どう間違ったのか刀工サヴェリイ・シビリャコフというロシア名の銘が刻んであった。それに次いでお目見得をしたのは*3紙腔琴であった。ノズドゥリョフは早速、二人の前で把手を廻して見せた。紙腔琴はなかなか好い音で鳴りだしたが、内部で何か故障を起こしたらしく、マズルカが中途で、*4マルボローは軍に門出せりという歌に変り、そのマルボローは軍に門出せりが不意にまた或る古くから知られているワルツに転じたものである。ノズドゥリョフは、もうとっくに廻すのをやめていたが、紙腔琴の内部に甚だ勇ましい笛管が一本あって、それがいっかな鳴り止もうとしないで、いつまでも一つだけで鳴りつづけていた。さてその次ぎには、木や陶器や海泡石の煙管がお目どおりをした――すっかり燻しのかかったのも、まだ燻しのかからないのも、鞣革に包まれたのも、包まれないのもあり、つい最近に骨牌でとった、琥珀の吸口のついたトルコ煙管もあれば、どこかの宿駅で彼に首ったけ惚れこんだ、さる伯爵夫人が刺繍をしてくれたのだという煙草入もあって、その伯爵夫人の可愛らしい手は、彼の言葉によると世にもいみじき『贅物』だったとのこと――おおかた彼の語彙では、この言葉が最高度の完璧を意味しているのであろう。前菜に蝶鮫の乾物を撮んでから、三人は五時ちかくになって食卓についた。ノズドゥリョフの家では、どうやら食事というものが、生活の主なる要素とはなっていないらしく、料理にも大して意が用いられていなかった。焦げついたものがあるかと思えば、まだ生煮えのものがあるという為体であった。恐らくは料理番が、主として霊感にまかせて、何でも手当り次第に放りこんだものと見える――胡椒が傍にあれば、胡椒を振りかける、キャベツが眼につけば、キャベツを突っこむ、牛乳でも、ハムでも、豌豆でも、お構いなしに叩きこむといった調子で――要するに、滅多矢鱈に捏ねまぜたもので、それでも温かい中なら何とか味があるだろうという代物なのである。その代りノズドゥリョフは酒にかけては眼がなかった。まだスープも出ないうちから客の大きなコップへなみなみとポルトワインを注ぎ、また、別のコップへは擬いの*5ソーテルンを注いだ。というのは、そんな県や郡の田舎市に、本物のソーテルンなどある筈がないからである。それからノズドゥリョフは、マデラ酒を一本もって来させて、『これ以上の酒は、元帥だって飲んだことあなかろうぜ』と言った。成程そのマデラ酒は咽喉に焼けつくようだった。何しろ商人たちは、こういう途轍もないマデラ酒がお気に召す地主連の味覚を百も承知で、遠慮会釈なくラムで味をつけたり、時にはロシア人の胃の腑なら、この位のことは大丈夫と見越して、*6王水まで注ぎこんでおくからである。それからノズドゥリョフは、もう一本、特殊な酒罎を取り出させたが、それは彼の言うところでは、*7ブルガンデイであって同時にシャンパンでもあるとのことだ。彼は右に左に、チチコフと妹婿とへ、どちらのコップへもしきりに酒を注いだ。ところがチチコフはふと、彼が自分のコップへはあまり注がないことに気がついた。それがチチコフに警戒の念を起こさせた。それで彼はノズドゥリョフがどうかして話に夢中になったり妹婿のコップへ酒を注いだりしている隙に、急いで自分のコップの酒を皿へこぼしてしまった。間もなくテーブルへ清涼酒が出た、それはノズドゥリョフの話では、まるでクリームそのままの味だとのことであったが、豈図らんやツンツンと焼酎の臭いが鼻を刺した。次ぎに、何か芳香酒のようなものを飲んだが、それにはとても覚えにくい名前がついていて、主人でさえ二度目には別の名前で呼んだくらいだ。食事はもう疾っくに終り、酒も一と通り吟味が済んだけれど、客はやはりまだ食卓を離れなかった。チチコフも、妹婿のいる前では、例の重要な問題をノズドゥリョフに切り出す気にはどうしてもなれなかった。妹婿とはいい条、局外者には違いなく、然もこの問題は、こっそり二人だけでしんみりと語りあう必要があったからだ。ところが、その妹婿も大して危険な人物ではなさそうだった――というのは、もうすっかり酔っぱらってしまったと見えて椅子に掛けたまま、頻りにこくりこくり居睡りをしていたからである。そのうちに自分でもどうやら足腰の確かでないことに気がついたらしく、とうとう家へ帰ると言いだした。が、その声がまた、ロシア式にいうと、まるで釘抜で頸圏を馬につけるような、恐ろしくまどろっこく、懶げな調子であった。

「いや、駄目々々! 放しゃあしないぞ!」とノズドゥリョフが言った。

「そんな、お前、無理をいうなよ、おらあ、ほんとに帰るよ。」と妹婿が言った。「お前はまた、えらくおれに無理をいうじゃないか。」

「何いってやがるんだい! 今から直ぐに一と勝負やろうってのに。」

「うんにゃ、兄弟、やるならお前、勝手にやるがいいよ。だがおらあ駄目だ。家内がまた、えらく憤れるからなあ、まったく。おれは彼女に定期市の話をしなくちゃならないのさ。いや、兄弟、こうしちゃあいられないよ、彼女を悦ばせにゃならないからな。どうか、そう引き留めないでくれ!」

「ふん、彼女だの、家内だのと、そんなものあ糞くらえだ! なるほど、ほんとに大事なことを二人でやろうってのかい!」

「そうじゃないよ! 兄弟! 彼女あ、ほんとに好い女房だもの。まったくのところが、模範的な、実に立派で貞淑な女だよ! いろいろとよく尽してくれるからなあ……お前ほんとにするかい? おらあ、涙がこぼれるくらいなんだよ。いや、もう引き留めないでくれ、おらあ正直な人間らしく、帰るんだ。これはまったく嘘偽りのない話なんだよ。」

「まあ、帰しておあげなさい。この人を引き留めておいたって、しょうがないじゃありませんか?」とチチコフが、小声でノズドゥリョフに言った。

「成程、それもそうだな!」とノズドゥリョフが答えた。「おれは、こういう愚図が死ぬほど嫌いなんだ!」そして、今度は声を張りあげて、こう言い足した。「じゃあ、勝手にしろよ、家へ帰って女房とさんざいちゃつくがいいや、助平野郎め!」

「いや、兄弟、おれを助平だなんて言っちゃいけないよ。」と妹婿が答えた。「おらあ、まったく家内には、いろいろ世話になってるんだからな。ほんとに、気立てのやさしい、親切な女で実意をつくしてくれることといったら……有難涙がこぼれるくらいだよ。屹度また、定期市では何を見ていらっしゃいましたなんて訊くだろうから、何もかも話してやらなくちゃならない……まったく可愛い女だよ。」

「じゃあ、さっさと帰ってって、嬶に出鱈目を聞かせるさ! そら、お前の帽子だよ。」

「いんにゃ、お前、決してそんな風に彼女のことを悪く言うもんじゃないよ。それあ、お前、いわばおれを侮辱することになるんだぜ、彼女はまったく可愛い女だもんな。」

「ふん、だからとっととその嬶んとこへ行けってんだよ。」

「うん、じゃあ帰るよ。で、おつきあいの出来ないことは、まあ勘弁して貰うぜ。心底それあ面白かろうけどさ、生憎そうはいかんのだよ。」こんな風に妹婿は先に帰る弁解を、いつまでもいつまでも繰り返していたが、自分が疾うの昔に半蓋馬車に乗って門の外へ出たことにも、もうずっと前から彼の眼の前にはがらんとした野原がひろがっているだけだということにも気がつかなかった。従って細君も、定期市の話をあまり詳しくこの男から聞くことは出来なかったに違いない。

「碌でもない野郎さ!」と、ノズドゥリョフは窓際に突っ立ったまま、遠ざかり行く馬車を見送りながら呟やいた。「あの、だらしのない恰好はどうだい! だが、あの側馬は悪くないなあ。大分まえから、あれをまきあげてやろうと思ってるんだがね。ところがどうして、あいつは一筋縄で行く野郎じゃないんだ。助平だよ、まったくの助平野郎だよ!」

それから二人は部屋へ戻った。ポルフィーリイが蝋燭を持って来た。その時チチコフは、何処から取り出したのか知らないが主人が手に一組の骨牌を握っているのに気がついた。

「さあ、一つどうだい、」そういいながらノズドゥリョフは、骨牌の両端をぎゅっと指で挟んで少し曲げるようにしたため、札が分れてパラパラと前へ飛び出した。「ほんの暇つぶしに、僕が三百ルーブリぐらいで筒元を開こうや!」

しかしチチコフは相手の言うことがまるで聞こえなかったような振りをしながら、急に思い出したように、『あ! そうそう、実は一つお願いがあるんだが。』と言った。

「どんなさ?」

「第一、きっと承知するって、約束して欲しいんだがね。」

「だが、頼みって、一体、なんだい?」

「まあ、いいから約束をして下さいよ!」

「じゃ、そういうことにしておこう。」

「屹度ですね?」

「屹度だとも。」

「そのお願いというのはこうなんで。君のお宅にも、多分、死んだ農奴でまだ戸籍簿から抹消ってないのが相当あるでしょう?」

「うん、それああるが、それが一体どうしたというんだい?」

「それを一つ譲って頂きたいんで、僕の名義に。」

「へえ、一体そんなものを君はどうするんだい?」

「まあ、ちょっと必要があってね。」

「だが、一体なんのためにさ?」

「さあ、ちょっと必要なんで……そんなことはどうだっていいでしょう――要するに、必要なだけですよ。」

「うん、さては何か意図があるんだな。白状し給え、何だか?」

「意図があるんですって? 冗談じゃない、そんな詰らないもので、なにが目論めるものですか。」

「じゃあ、なんだって君はそんなものが欲しいんだい?」

「おやおや、君もよっぽど物好きな人ですねえ! くだらないことを一々手で触って見たり、鼻で嗅いでみなくては承知が出来ないなんて!」

「それじゃあ、どうして君は、それが言えないんだい?」

「そんなことを聞いたって、何の得にもならないじゃありませんか? まあ、ほんの空想みたいなことなんですよ。」

「ようし、じゃあ、それを君が言わないうちは、おれもうんと言わないぞ。」

「そうら、ね、それじゃあ君の方が卑劣ですぜ。ちゃんと誓っておきながら約束を違えるなんて。」

「ああ、何とでも言うがいいさ。だが僕は、君がその理由を話すまでは、うんと言わないからね。」

こいつは何と言ったものかな?とチチコフは考えたが、ちょっと思案をした後、実は世間的に貫禄を示すため、死んだ農奴が欲しいのだ、自分は領地もあまり持っていないから、当座のあいだ、せめて死んだ農奴でも持っていたいので、と言った。

「嘘だ、嘘だ!」と、相手に皆まで言わさず、ノズドゥリョフが呶鳴った。「嘘だい、大将!」

チチコフは、どうもこれは拙い思いつきだった、口実としても甚だ頼りないものだと自分でも認めた。「ではまあ、打ち明けて話しますがね。」と、彼は言葉を改めて、「ただこれは他人に話して頂いては困りますよ。実は結婚をしようと思ってるんです。ところが、相手の女の両親というのが、おそろしい野心家でしてね。まったく、どうも難物なんで! 僕も今更こんな連中に関りあって後悔してるんですがね、どうしても娘の婿には、三百人以上の農奴を持った人間でなけりゃいけないと言うんです。ところが、僕の持ってるのだけでは、殆んど百五十人ぐらい不足なんで……。」と言った。

「ふん、嘘を言え! 嘘を!」と、ノズドゥリョフがまた喚き出した。

「いや、今度こそは、」とチチコフが言った。「まったく、これんばかりも嘘はないんですよ。」そう言って彼は、親指で小指の頭を極めて小さく区切って見せた。

「おれは首でも賭けるが、そりゃ嘘だよ!」

「だって、そりゃ無理ですよ! じゃあ、僕は一体なんです? どうして、そう僕が一々嘘をつかなきゃならないと言うんです?」

「それあ、君という男を見抜いているからさ、君がどえらい山師だってことをね――まあ心安だてに言わせて貰えばだよ! おれがもし君の上官だったら、第一番に槍玉にあげてやるところだよ。」

チチコフも、そんなにまで言われると、流石にむっとした。彼は少しでも粗野な言葉づかいや礼儀にそむく口のきき方をされるのが嫌いだった。彼はどんな場合でも、相手が非常に高貴な人物でない限り、自分に馴々しい態度で接しられるのさえ好かなかった。そんな訳で、今もすっかり腹を立ててしまったのである。

「断然、槍玉にあげてやるんだがなあ。」と、ノズドゥリョフは繰り返した。「おれがこう言うのも、別に君を侮辱するつもりではなく、心安だてに、ざっくばらんに言ってるんだがね。」

「だが、物には限度というものがありますよ。」と、チチコフは自尊心をもって言った。「そんな言葉づかいで見栄が張りたいのなら、兵営へでも行くがいいでしょう。」そう言ってから、こうつけ足した。「もし無償ではお嫌なら、ひとつ売って下さいな。」

「なに売れ! だが、ちゃんとおれは知ってるぞ、君は酷い野郎だから、どうせ沢山は出しやすまいが?」

「へっ! 成程お前さんも相当なもんだ! よく考えて御覧なさい! そんなものがお前さんとこでは、一体なんです、ダイヤモンドほど高価いものだとでもいうのですかね?」

「うん、そのとおりだよ。おれはちゃんと君を知ってるからなあ!」

「馬鹿な、ねえ君、どうしてそんなユダヤ人根性を出すんだろう! そんなもの、無償でくれたっていいんだのに。」

「うん、ではね、おれが決してそんな吝ん坊じゃない証拠に、代金なんて鐚一文もとらないよ。その代り、あの種馬を買い給え、そうすれば、景品につけてやらあ。」

「冗談じゃない、種馬なんか買ったって僕はしょうがないじゃないか?」とチチコフは、まったくその申し出に面喰らって、言った。

「どうして、しょうがないものか? おれはあの馬に一万ルーブリだしたんだぜ、それを君には四千ルーブリで売ってやろうってんだよ。」

「だって、僕が種馬なんか何にするのです? 牧場を持っている訳じゃなし。」

「まあ、話を聞き給え、君はよくのみこめていないんだよ。いいかね、僕は君から今、三千ルーブリだけ貰えばいいんだよ、残りの千ルーブリは、後で結構なのさ。」

「ところが、種馬なんか僕には要らないんだから、どうもこうもありませんよ!」

「じゃあ、薄栗毛の牝馬を買い給え。」

「牝馬だって要りませんよ。」

「その牝馬とさ、さっき君が見たあの灰いろの馬とで、たった二千ルーブリに負けとくよ。」

「だが、僕は馬なんか要りませんよ。」

「要らなきゃ売ったらいいじゃないか。今度の定期市で三倍は儲かるぜ。」

「じゃあ、自分で売ったらいいでしょう、確かに三倍にもなる見込みがあるのなら。」

「儲かることは分ってるがね、君にも儲けさせてやりたいからさ。」

チチコフは、その御好意は有難いが、灰いろの馬も薄栗毛の牝馬も要らないと、きっぱり断わった。

「それじゃあ、犬を買い給え。君にひとつ、素晴らしい番いを売ってやろう――まったく、ぞくぞくして震いつきたくなるようなやつだぜ! 髭の生えた*8ブルダスタヤで、毛が針のように上へ突っ立っていてさ、肋骨の張りぐあいと言ったら、ちょっと考えも及ばないくらいで、蹠だってまんまるこくって、歩いても地面につかないような逸物なんだぜ!」

「どうしてまた犬なんかが僕に要るんです? 僕は猟師じゃありませんよ。」

「でも、君が犬を飼ったらいいと思うからさ。じゃあね、犬はどうしても要らないというのなら、僕の紙腔琴を買わないかい。ありゃあ素敵な紙腔琴だぜ! 正直な話、僕はあれに千五百ルーブリだしたがね、君だったら九百ルーブリで手放すよ。」

「また僕に紙腔琴が何になるんです? 僕は、あんなものを肩にかけて門附をして歩くドイツ人とは違いますからねえ。」

「ところが、君、あれはドイツ人なんかが持って歩く紙腔琴とは、品が違うんだぜ。あれあ、立派なオルガンだからね。まあ、よく見てくれよ、すっかりマホガニイ製なんだぜ。さあ、もう一度見せてやろう!」ここでノズドゥリョフはチチコフの手を掴んで隣りの部屋へ曳っぱりこもうとした。で、チチコフは足を踏んばって、自分はもうその紙腔琴のことならよく知っているからと言いはっては見たけれど、結局もう一度、マルボローの出征を歌った曲を聴かなければならなかった。「どうしても金子を出すのがいやならねえ、こうしようじゃないか、僕はこの紙腔琴と、それから死んだ農奴をありったけ君にやるから、君はあの半蓋馬車に三百ルーブリだけ追銭をうってくれ給え。」

「まあ、よして下さいよ! それじゃあ、僕はいったい何に乗って行くんです?」

「僕が別の半蓋馬車を君にやるよ。さあ物置へ一緒に来たまえ、そいつを君に見せるからさ! 塗替さえすりゃあ、素晴らしい馬車になるぜ。」

ちぇっ、この野郎、どこまで諄いことを言やがるんだろう!こう、心で思ったチチコフは、どんなことがあっても、馬車だろうが、紙腔琴だろうが、また頭では考えも及ばないような肋骨の張った、どんな蹠の丸い犬だろうが、いっさい御免を蒙ろうと肚をきめた。

「だって君、馬車も、紙腔琴も、死んだ農奴も、みんな一緒に手に入るんだぜ。」

「いやです!」と、チチコフはもう一度いった。

「どうして、いやなんだね?」

「ただ、いやだから、いやなんで――もう沢山です。」

「ふん、君も変な男だねえ、まったく! どうも君みたいな人間とは、好い友達同士の交際は出来かねるよ……そういう男さ、まったく! 君が二重人格だってことが、初めて分ったよ!」

「えっ、馬鹿な、僕が何だというんです? 自分で判断してみたらいいでしょう――では、どうしてそんな、自分に全然必要のないものを僕は買わなきゃならないんです?」

「もういいや、そんな話は止せよ。今こそ君って男がよく分ったよ。君はまったく、ひどい悪党さ! じゃあどうだい、一番、銀行をやろうじゃないか? 僕は死んだ農奴をすっかり賭けるよ、紙腔琴も一緒に。」

「いや、銀行などで事をきめるのは、運否天賦というものですからね。」チチコフはこういいながら、同時に、ノズドゥリョフの手にある骨牌をじろりと横目で眺めた。二つに分けた札がどうもいかさま臭く思われたし、裏の模様からしてひどく怪しい。

「どうして運否天賦なんだい?」と、ノズドゥリョフが言った。「ちっとも運否天賦なんてことはないぜ! 君の方に運があれば、どえらい大儲けになるのじゃないか。そら、どうだ! 何ちゅう好い札だい!」こういいながら、彼は相手の競争熱を煽るために、札を一枚々々めくりはじめた。「何ちゅういい札だい! 何ちゅういい札だい! そうらね、いいのばかり行くじゃないか! そら、こいつはおれが何もかもすっちまった忌々しい九だ! どうもこいつは、おれを裏切るような気がしたて、それで、じっと眼をつむって心んなかで思ったよ。畜生! 裏切るなら裏切りゃあがれ! 碌でなしめ!ってな。」

ノズドゥリョフがこんなことを言っているところへポルフィーリイが酒罎を持って来た。だがチチコフは、骨牌も酒もきっぱり断わった。

「どうして君は骨牌をやらないんだい?」とノズドゥリョフが言った。

「どうしてって、気が向かないからですよ。実のところ、僕は骨牌なんかてんで好きじゃありませんからね。」

「どうして好きじゃないんだい?」

チチコフは肩をすくめて、「好きじゃないから、好かないんですよ。」と言い足した。

「くだらねえ男だなあ!」

「どうも仕方がありませんね。そういう生れつきだから。」

「なあに、君は助平野郎さ! おれは初め、君をもう少しましな人間かと思ったのに、まるで君は人づきあい一つ弁えていないんだ。君のような人間とは、友達として話すことなんて金輪際できっこない……なんら虚心坦懐なところも、誠実なところもありゃしない! まるでソバケーヴィッチそっくりの、碌でなしだよ!」

「どうしてそんなに僕を悪く言うんです? 骨牌をやらないからって、僕が悪いんですかね? 君がそんな詰らないことでがみがみ言うような人なら、死んだ農奴だけ売って貰えば沢山ですよ。」

「くそ喰らえだ! おれは、無償でもやろうかと思ってたのだが、もう断じて、やらないぞ! 帝国を三つよこしたって、呉れてやるもんか。この大山師の、穢ない吝ったれ野郎め! おれはもうこれからさき君みたいな男とは、いっさい、つきあわないよ。おい、ポルフィーリイ、馬丁のところへ行ってそう言え、この男の馬には燕麦なんぞやっちゃいけないって、乾草だけ食わせておけば沢山だと。」

チチコフは、まさかこんな話になろうとは、夢にも思っていなかった。

「君みたいな男は、もう顔を見るのも嫌だよ!」と、ノズドゥリョフが言った。

だが、こんな争いをした癖に主人は客と一緒に晩餐をしたためた――尤も、今度はもう食卓へ例のいろんな凝った名前をつけた酒は一本も出なかった。ただ、*9サイプラスかなんかの罎が一本きり立っていたが、それはどのみち酸っぱいものと言われている代物に違いなかった。夕食が済むとノズドゥリョフは、チチコフのために寝床の支度が出来ている横手の部屋へ彼をつれて行って、『そら、これが君の寝床だよ! おれは君に、ゆっくりお寝みなどとは言いたかないのさ。』と言った。

ノズドゥリョフが出て行くと、チチコフはこの上もない不快な気持で後に残った。彼は内心で我と我身を忌々しく思い、またこんな男のところへやって来て無駄に時間を潰したことが腹立たしくて自分で自分を罵った。だが何より例の一件をノズドゥリョフに漏らしたことが口惜しかった。まるで赤ん坊か馬鹿者のように無分別なことをやったものである。実際この一件は、決してノズドゥリョフ輩に打ち明けるべき性質のものではなかったのだ……。ノズドゥリョフって奴は人間の屑だ、出鱈目な嘘をついたり、大袈裟なことを言って、飛んでもないことを吹聴して廻りかねないから、どんな悪い噂を立てられるやら、分ったものじゃない……。いけない、いけない。『おれは、ほんとに馬鹿だった!』と彼は一人で呟やいた。その夜、おちおちと彼は眠れなかった。何か小さな、その癖おそろしく素敏っこい昆虫めが、とても我慢が出来ないほどチクチクと彼の躯を螫すものだから、手を一杯にひろげて彼は螫された箇所をポリポリ掻きむしりながら、思わず、『えい、畜生ども、ノズドゥリョフの野郎と一緒に鬼にでも食われてしまやがれ!』と口走ったものだ。朝はやく彼は眼を覚ました。彼の第一番の仕事は、寝巻をはおり、長靴を突っかけざま、庭をとおって厩へ行き、セリファンにすぐ馬車の支度をしろと言いつけることだった。また庭をとおって戻って来ると、ばったりノズドゥリョフに出会った。この男もやはり寝巻のままで、煙管をくわえていた。

ノズドゥリョフは馴々しく挨拶をして、昨夜はよく眠れたかと訊ねた。

「まあ、どうにかね。」とチチコフは、ひどく無愛想に答えた。

「ところが僕の方は、君、」と、ノズドゥリョフが言うには、「夜っぴて、話をするのも胸糞の悪い、いやな夢を見たんだよ。それに昨日からの祟りで、口ん中に、まるで騎兵の一個中隊も泊ってやがるような気持さ。ね、とろとろっとすると、夢でおれをひっ叩きゃあがるんだよ、まったく! 然もそいつが誰だと思う? とても君なんかに見当がつくもんか。例の騎兵二等大尉のポツェルーエフとクヴシンニコフの野郎とだよ。」

そうさ、とチチコフは、肚の中で考えた。手前なんざ、夢でなしに本当にぶん殴られたらよかったのに。

「まったくだよ! それあ、とても痛かったねえ! 眼を覚ましてみると、畜生、ほんとに何かむずむずしやがるのさ――きっと蚤の畜生だよ。じゃあ、君は行って着物を着替えて来たまえ。僕もすぐ後から行くからね。実は、ちょっと管理人の悪党を怒鳴りつけてくれなくちゃならないのだ。」

チチコフは部屋へ帰って、顔を洗い、着物を着替えた。そうした後で彼が食堂へ出て行くと、テーブルにはもうお茶の道具が出ており、ラムが一本そえてあった。昨日の昼飯と晩飯の名残りが部屋に残っていた。どうやら箒の先きがまんべんに行届かなかったらしい。床には麺麭の片らが散らばっているし、卓布には煙草の灰までくっついている。別に手間どらなかったと見え、主人も間もなく入って来たが、寝巻の下に何ひとつ著けていないので、はだけた胸から黒々とした胸毛が覗いていた。この男が長い煙管を手に持って、茶碗からお茶を啜っている恰好は、理髪店の看板みたいに髪をぴったり撫でつけたり、きれいにウエーヴをかけた紳士や、きちんと髪を短かく刈った紳士などの恐ろしく嫌いな画家にとっては、正に好個の画題であった。

「さあ、一つどうだね?」とノズドゥリョフは、暫らく黙っていた後で言った。「農奴を賭けて一勝負やろうじゃないか?」

「僕はもう骨牌は御免だと言っておいたでしょう。売って頂けるのなら、買いますがね。」

「売るなんて、いやだよ。第一、水臭いじゃないか。おれはそんな訳の分らないことに手は出さないよ。だが、銀行は――別だからね。ほんの一番、手合わせをしようじゃないか!」

「何度も言うとおり、それは御免を蒙りますよ。」

「じゃあ、交換しちゃどうだね?」

「いやです。」

「うん、それじゃあ、将棋を指そうや。君が勝てば、みんな君のものさ。何しろ、おれんとこにゃあ、戸籍簿から削らなきゃならんやつが、うんとあるからね。えい、ポルフィーリイ、将棋盤を持って来い!」

「駄目ですよ。僕はやりゃしませんから。」

「だって、これは銀行と違って、運も誤魔化しもあったものじゃない。腕前だけの話さ。第一、おれは碌すっぽ指し方も知らないんだから、幾手か先手を指させて貰わにゃ駄目だよ。」

やって見るかな、と、チチコフは肚の中で考えた。奴と一番さして見よう。おれも将棋なら相当に指したものだし、奴さんも、将棋でいかさまはちょっと難かしかろうからな。

「じゃあ、仕方がない、ひとつお相手しましょう。」

「それじゃあ、おれは死んだ農奴を賭けるから、君は百ルーブリ賭けるんだぜ!」

「どうして? 五十ルーブリ賭けたら沢山ですよ。」

「駄目だい、そんな五十ルーブリなんて賭があるもんか? よし、じゃあその百ルーブリに対して、中ぐらいの仔犬か、それとも時計につける金の印形でも添えることにしようじゃないか。」

「じゃ、そういうことに。」とチチコフが言った。

「で、先手は幾手やらせるね?」ノズドゥリョフが言った。

「そりゃ、どうしてですか? もちろん平手ですよ。」

「せめて二手ぐらいは先きにやらせ給え。」

「駄目ですよ。僕だって下手なんですから。」

「ふん、どんなに君が下手だか、ちゃんと知ってるさ!」そう言いながら、ノズドゥリョフは駒を一つ進ませた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんからね!」そう言って、チチコフも駒を動かした。

「下手だなんて仰っしゃっても、ちゃんと知ってますよだ!」そう言って、ノズドゥリョフはまた駒を進めた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんからね!」同じことを言って、チチコフも駒を動かした。

「下手だなんて仰っしゃっても、ちゃんと知ってますよだ!」そう言いながらノズドゥリョフは駒を動かしたが、それと同時に、袖口でもう一つ別の駒を進めた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんから!……おや、おや! これは一体どうしたんですか? 後へ返して下さい!」とチチコフが言った。

「何をさ?」

「駒をですよ。」とチチコフは言ったが、それと同時に、すぐ自分の鼻の先きに、もう一つ別の駒がすでに女王を狙っているらしいのに気がついた。一体そいつが何処から飛び出して来たかは神様でも御存じないだろう。「駄目です。」と、チチコフはテーブルから立ちあがって、言った。「君とは、とても勝負なんか出来ませんよ。こんなやり方ってあるもんじゃない――一度に駒を三つも動かすなんて!」

「どうして、三つなんて言うんだい? こいつは、間違いだよ。知らない間に動いていたのだ。これを引っこめれば、いいんだろう。」

「じゃあ、もう一つの方は、何処から来たんです?」

「もう一つの方って、どれのことだい?」

「そら、それですよ、この、女王を狙ってるやつはどうしたんです?」

「おや、おや! 君は憶えがないんだね!」

「いや、僕は初めから、ちゃんと手を数えて、何もかも憶えていますよ。君はたった今それをここへ持って来たんです。そいつは、ほら、ここにあるべきです!」

「ここにある筈だって?」と、ノズドゥリョフは真赤になって言った。「ふん、して見ると君はいんちきだな!」

「いや、そう言う君こそいんちきでしょう。ただそれが旨く行かなかっただけで。」

「なに、おれを一体、何だというんだ?」とノズドゥリョフが言った。「おれが、いかさまをやるとでも言うのか?」

「僕は君なんだとも言やしませんがね、ただ今後はもう一切お相手をしませんからね。」

「いいや、今更やめることは出来ないぞ、」とノズドゥリョフは、赫っと急きこんで言った。「勝負は始まったのだから!」

「君の方で正直な人間にふさわしい指し方をしない以上、僕は止める権利がありますよ。」

「嘘をつけ! 君にそんなことは言わせないぞ!」

「いいや、君の方こそ嘘をついているのです!」

「おれはいかさまなんかやらなかったのだから、君も今更やめるって法はない。どうしても勝負をつけなきゃならないぞ!」

「そんなことを言ったって、無理にやらせることは出来ないでしょう。」こうチチコフは冷然と言い放って、将棋盤に進みよるなり、駒を引っ掻きまわしてしまった。

ノズドゥリョフは烈火のようになって、チチコフに詰めよった。その剣幕に、こちらは思わず二三歩、後へさがった。

「是が非でも指させずにおくものか。駒を掻きまぜたって、なんにもなりゃしないぞ! 順序はちゃんと憶えている。もう一度、もとどおりに並べかえるだけだ。」

「いや、もうお仕舞いですよ。僕はもう君とは指しませんからね。」

「じゃあ、君はどうしても指さないというんだな?」

「君と将棋なんか指されないことは、分りきってるじゃありませんか。」

「いんにゃ、さあ、はっきり言い給え、どうしても指さないんだね?」こうノズドゥリョフはなおも詰めよりながら言った。

「指しません。」そうは言ったもののチチコフは、事態がいよいよ急迫して来たので、万一の場合にそなえて両手を顔の近くへ持って行った。この用心は確かに時宜を得たものであった、というのは、その時ノズドゥリョフが力まかせに手を一つ振りまわしたからで……危く、我等の主人公のふっくらした気持の好い片頬に、消しがたい汚辱の痕が残るところであった。けれど幸いにも彼は殴打を免がれて、ノズドゥリョフの激した両手を掴んで、しっかりと押えつけた。

「ポルフィーリイ! パウルーシカ!」と、ノズドゥリョフは手を振りほどこうとして躍起になりながら、狂気のように喚きたてた。

この声を聞くとチチコフは、こんな大人げない場面を召使どもに見られては工合が悪いし、それに、ノズドゥリョフを捉まえていたところで所詮無駄だと思ったので、掴んでいた手を放した。ちょうどそこへ、ポルフィーリイがパウルーシカと一緒に入って来た。殊にパウルーシカというのは頑丈な若者で、こんな奴と事を構えては、全然勝味がなかった。

「それじゃあ、君はどうしてもこの勝負をつけないというんだな?」と、ノズドゥリョフが言った。「そうならそうと、はっきり返事をし給え!」

「勝負をつけようにも、つけられませんよ。」そう言ってチチコフは、ちらと窓の外を見やった。すっかり用意の出来ている自分の半蓋馬車が眼についた。セリファンは合図のあり次第、馬車をポーチへ寄せようと待ち構えているらしい。しかも、如何ともこの部屋から外へ逃げ出しようがない。扉口には二人の頑丈な鈍物が立ちはだかっているのだ。

「じゃあ、どうしても勝負をつけないというんだな?」とノズドゥリョフは、火のように顔をほてらせながら繰りかえした。

「君がもし、正直な人間らしくやればですが……しかし、もうお相手は御免です。」

「ああ、それじゃあ指せないってんだな、悪党! 自分の方に勝味がないものだから、それで指さないんだな! さあ、こいつを殴しつけろ!」こう彼は、ポルフィーリイとパウルーシカに向って、無我夢中で喚きたてた。そして自分でも長い桜の煙管を握って屹と身を構えた。チチコフはサッと布のよう顔色を変えた。彼は何か言おうとしたが、唇がブルブル顫えるだけで声は出なかった。

「こいつを殴しつけろ!」ノズドゥリョフはこう叫びながら、桜の煙管を振りかざして、まるで難攻不落の城塞へでも攻め寄せるように、全身を火のようにほてらせて、汗ぐっしょりになりながら前へ詰めよった。「殴しつけろ!」と彼は、ちょうど、向う見ずな蛮勇のために大会戦の時には、その手を扼して動かさないようにと特別な命令の出ることで有名になっている無鉄砲な中尉が大突撃の時、自分の小隊に向って『突貫ッ!』と叫ぶ、あれと同じような声をあげて喚いたものである。ところがその中尉はもうすっかり戦闘熱にうかされて、彼の頭は旋風のように混乱してしまい、眼の前に*10スヴォロフ将軍の姿でもチラつくように勇躍して、巧名手柄に向って突進するのだ。彼は自分の猪突猛進が総攻撃の作戦を台無しにしてしまうことも、雲に聳ゆる要害堅固な城塞の銃眼から数限りなき銃口がこちらを狙っていることも、自分の率いる無力な一小隊などは木葉微塵に吹き飛ばされてしまうだろうことも、彼の喚き叫ぶ咽喉をハタと閉ざしてしまおうとして、宿命的な敵弾がもうヒューンと唸り声を立てながらこちらへ飛んで来つつあることも、てんで考えようとはしないで、遮二無二突進しながら、『進めえッ、進め!』と喚くのである。ところが、ノズドゥリョフの方が、城塞に向って突貫する、向う見ずな、逆上した中尉であったにしても、彼が攻め寄せて行った城塞そのものは、いっこう難攻不落でもなさそうだった。それどころかこの城塞ときては、すっかり怖気づいてしまって、魂も身に添わぬ為体であった。彼がそれで自分の身を防ごうと思った椅子は、逸はやく二人の奴隷によって彼の手からぎ取られてしまったので、今や彼は観念の眼をつぶって、生きた心地もなく、この家の主人のチェルケス製の煙管を真向から受けようと待ち構えていた。まったく彼の身がどうなることやら、神様にだって分らなかったが、計らずも運命の神が我等の主人公の脇腹や、肩や、きちんと整った躯のあらゆる部分を救ってくれたのである。思いがけなく、まるで天からでも降って来たように、不意にリンリンと鳴る鈴の音が聞こえ出すと、やがてこの家の玄関へ乗りつけるらしい馬車の車輪の音がはっきり聞こえて、それから、ついに停ったらしい三頭立の癇の立った馬の荒い鼻嵐と重苦しい息切れが部屋の中まで響いて来たのである。一同は思わず窓の外を見た。誰か、半ば軍服がかったフロックを著て口髭を生やした男が馬車から降りた。その男は玄関で案内を乞うと、ちょうどチチコフがまだ先刻の恐怖から我れに返る暇もなく、人間がかつて際会した最も哀れな状態にあるところへ、つかつかと入って来た。

「ちょっとお尋ねしますが、ノズドゥリョフさんと仰っしゃるのは何方ですか?」その見知らぬ男は、長い煙管を鷲掴みにして突っ立っているノズドゥリョフと、ようやく不利な情勢から立ちなおりかけたチチコフを、やや訝かしげに見やりながら、訊ねた。

「そう言う君は誰ですか? それから先きに承わりたい。」とノズドゥリョフは、その男の方へ近寄りながら、訊き返した。

「郡の警察署長です。」

「それで、どんな用があるんですね?」

「私は、或る事件の決定するまであなたが起訴されておいでになる旨、報告に接したことをお伝えに参ったのです。」

「何を馬鹿な、或る事件って、いったい何だね?」と、ノズドゥリョフが言った。

「あなたは酩酊のあまり、地主マクシーモフに棍棒をもって個人的な侮辱を加えたという事件に関係しておられるのです。」

「嘘をつけ! おれは地主のマクシーモフなんて見たこともないのだ。」

「お黙りなさい! 私は役人ですぞ。そういう言葉は御自分の召使に向って仰っしゃるべきで、この方に対してはお慎みなさい。」

ここでチチコフは、ノズドゥリョフがそれにどう返答をするか、そんなことは聞こうともしないで、急いで帽子を掴むと、そのまま警察署長の後ろをすり抜けて玄関へ飛び出し、半蓋馬車へ乗りこみざまセリファンに向って、全速力で馬を走らせよと言いつけたのである。

*1 オポデリドック パーウェルをもじって故意とこんな滑稽な名前で揶揄ったのである。*2 ソフロン 古代ギリシアの道化劇作者の名前。*3 紙腔琴 長方形の箱の中に音を発する装置があり、楽譜を刻んだ紙を函の中央部に並んだ簧列の間にとおして把手を廻すと自動的に音楽を奏する楽器。*4 マルボロー ジョン・チャーチル(1650-1722)イギリスの名将で政治家。ヨーク侯(後のヤコフ二世)に重んぜられ、女帝アンナにも仕えて、スペイン戦争その他では英国軍の名声を全世界に轟かした。*5 ソーテルン 産地ソーテルン市の名を冠したフランス産の白葡萄酒。*6 王水 強硝酸と強塩酸との混合液で、通常の酸に溶解せぬ金、白金を溶解し得る強烈な作用を有する。*7 ブルガンデイ フランス産の赤白の葡萄酒、渋味が強い。*8 ブルダスタヤ フランス種の猟犬。グリッフォンともいう。*9 サイプラス 英領サイプラス島産の酒の名。*10 スヴォロフ将軍 伯爵アレクサンドル・ワシーリエヴィッチ(1730-1800)元帥。七年戦争に勇名を馳せた将軍。ポーランドやトルコの軍を破り、プガチョフの乱を平定し、後、フランスのイタリア侵略を阻止した功によりイタリア政府より公爵を授かる。

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