一
お惠には、それはさう仲々慣れきることの出來ない事だつた。何度も――何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク/\したし、周章てた。そして、又その度に夫の龍吉に云はれもした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。
――組合の人達が集つて、議題を論議し合つてゐるとき、お惠がお茶を持つて階段を上つて行くと、夫の聲で、
「嬶の意識の訓練となると、手こずるつて……。」さう云つてゐるのを一度ならず聞いた。
「××は臺所から――これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」
「實際、俺の嬶シヤポだ。」
「ワイフとの理論鬪爭になると、負けるんだなあ。」と、そして、皆にひやかされた。
夫は聲を出して、自分で自分の身體を抱えこむやうに、恐縮した。
朝、龍吉が齒を磨いてゐた。側で、お惠が臺所の流しに置いてある洗面器にお湯を入れてやつてゐた。
「ローザつて知つてるか。」夫が楊子で、口をモグ/\させながら、フト思ひ出して訊いた。
「ローザア?」
「ローザさ。」
「レーニンなら知つてるけど……。」
龍吉はひくゝ「お前は馬鹿だ。」と云つた。
お惠はさういふ事をちつとも知らうと思ひ、又はさうするために努めた事さへ無かつた。それ等は覺えられもしないし、覺えたつて、どうにもならない氣がしてゐた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の幸子から知らされた位だつた。一旦それを覺えると、自家にくる組合の工藤さんとか、阪西さんとか、鈴本さんとか、夫などが口ぐせのやうに「レーニン」とか「マルクス」とか云つてゐるのに氣付いた。何かの拍子に、だから、お惠が「マルクスは勞働者の神樣みたいな人なんだつてね。」と、夫に云つたとき、夫が、へえ! といふ顏付でお惠を見て、「何處から聞いてきた。」と賞められても、さう嬉しい氣は別にしなかつた。
然しお惠は、夫や組合の人達や、又その人達のする事に惡意は持つてゐなかつた。初め、然し、お惠は薄汚い、それに何處かに凄味をもつた組合の人達を見ると、おぢけついた。その印象がしばらくお惠の氣持の中に殘つてゐた。けれども變にニヤ/\したり、馬鹿丁寧であつたりする學校の先生(夫の同僚)などよりは、一緒に話し合つてゐるとみんな氣持のよい人達だつた。物事にさう拘はりがなく、ネチ/\してゐなかつた。かへつて、子供らしくて、お惠などをキヤツ/\と笑はせたり、初めモヂ/\しながら、御飯を御馳走になつてゆくと、次ぎからは自分達の方から「御飯」を催促したりした。風呂賃をねだつたり、煙草錢をもらつたりする。然し、それが如何にも單純な、飾らない氣持からされた。だん/\お惠は皆に好意を持ち出してゐた。
港一帶にゼネラル・ストライキがあつた時、お惠は外で色々「恐ろしい噂さ」を聞いた。あの工藤さんや、鈴本さんなどの指導してゐるストライキがその「恐ろしい」ストライキである事が、はじめはどうしても呑込めなかつた。
「誰にとつて、一體あのストライキが恐ろしいつて云ふんだ。金持にかい、貧乏人にかい。」
夫にさう云はれた。が、腹からその理窟が分りかねた。
「理窟でないよ。」
新聞には、毎日のやうに大きな活字で、ストライキの事が出た。O全市を眞暗にして、金持の家を燒打ちするだらうとか、警官と衝突して檢束されたとか、(さういふ中に渡や工藤がゐたりした。)このストライキは全市の呪ひであるとか……。お惠は夫の龍吉までが、殆んど組合の事務所に泊りつきりでストライキの中に入つてゐる事を思ひ、思はず眉をひそめた。龍吉が、寢不足のはれぼつたい青い、險をもつた顏をして歸つてきたとき、「いゝんですか?」ときいた。
「途中スパイに尾行られたのを、今うまくまいて來たんだ。」
そして、すぐ蒲團にくるまつた。「五時になつたら起してくれ。」
お惠はその枕もとに、しばらく坐つてゐた。お惠はこんな場合、何時でも夫のしてゐることを言葉に出してまで云つた事がなかつた。然し、やつぱり、そんなに苦しんで、何もかも犧牲にしてやつて、それが一體どの位の役に立つんだらう。――プロレタリアの社會が、さう/\來さうにも思へない。お惠はひよい/\考へた。幸子もゐる、本當のところあんまり飛んでもない事をしてもらひたくなかつた。夫のしてゐる事が、ワザ/\食へなくなるやうにする事であるとしか思へなかつた。
然しお惠は組合の人達の色々な話や勞働者の悲慘な生活を知り、勞働者達は苦しい、苦しくてたまらないんだ、だから彼等は理窟なしに自分達の生活を搾り上げてゐる金持に「こん畜生!」といふ氣になるのだ。組合の人達はそれを指導し、その鬪爭を擴大してゆく、お惠にはさういふ事も分つてきた。夫達のしてゐる事が、それがお惠には何時見込のつくことか分らない事だとしても、非常に「大きな」「偉い」事だ、といふ一種の「誇り」に似た氣持さへ覺えてきた。
龍吉は三度目の檢束で、學校が首になり、小間物屋でどうにか暮して行かなければならなくなつた。その時――何時か來る、その漠然とした氣持はもつてゐたのだが――お惠は何かで不意になぐられたやうなめまひを感じた。然しそのことにこだわつて、クド/\云はない程になつてゐた。
龍吉は勤めといふ引つかゝはりが無くなると、運動の方へもつと積極的に入り込んで行つた。それからスパイがよく家へやつてくるやうになつた。お惠は店先をウロ/\してゐる見なれない男を見ると、寒氣を感じた。それだけなら、だが、まだまだよかつた。さういふ男が標札を見ながら家へ入つてくると、「一寸警察まで來てくれ。」さう云つて龍吉を引張つてゆくことがあつた。夫が二人位の和服に守られて家を出てゆく、それは見て居れない情景だつた。行つてしまつてからは、變に物淋しいガランドウな氣持が何時迄も殘つた。お惠は人より心臟が弱いのか、さういふことのあつた時は、何時迄もドキついた鼓動がとまらなかつた。お惠は胸を押へたまゝ、紙のやうに白くなつた顏をして、家の中をウロ/\した。
――それは全くお惠には、さう仲々慣れきれる事の出來ないことだつた。何度も――何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク/\したし、周章てた。そして又その度に夫に云はれたりした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。お惠にはさうだつた。
三月十五日の未明に、寢てゐる處を起され、家の中をすつかり搜索されて、お互にものも云はせないで、夫が五六人の裁判所と警察の人に連れて行かれたとき、お惠はかへつてぼんやりしてしまつて、何時迄も寢床の上に坐つたまゝでゐた。思はず、ワツと泣き出したのは、それから餘つ程經つてからだつた。
その朝、幸子はオヤツと思つて、何かの物音で眼をさました。幸子は、パツチリ開いた眼で、無意識に家のなかを見廻はした。何時だらう、朝だらうかと思つた。何故つて、次の室からは五六人の人達の何かザワついてゐる音が聞えてきてゐた。眞夜中なら、そんな筈はない。だが、まだ電燈が明るくついてゐる。朝ではない。どうしたんだらう。疊の上をひつきりなしに、ミシ/\誰か歩いてゐる音がする。
「次の室も調べる。」襖のそばで知らない人の聲がした。
「寢る處ですから、何にもありません。」お母さんが殊更に低くしてゐる聲だつた。
「調べてもらつたつていゝよ。」父だつた。
「幸ちやんが眼でも覺すと…………。」
幸子には所々しかはつきり聞えなかつた。彼女は人が入つてきたら、眠つてゐる振りをしてゐなければならないのだ、と思つた。
棚からものを下したり、新聞紙がガサ/\いつたり、疊を起すやうな音がしたり、タンスの引出しを一つ一つ――七つ迄開けてゐる。それで全部だつた。幸子はそれを心で數えてゐた。すると、臺所の方では戸棚を開けてゐる。幸子は身體のずウと底の方からザワザワと寒氣がしてきた。さうなると、身體をどう曲げても、どう向きを變えても、その寒氣がとまらず、身體が顫えてきた。ひよいとすると、齒と齒が小刻みにカタ/\と鳴つた。びつくりして、顎に力を入れて、それをとめた。父と母の一言も云ふのが聞えない。どうしてゐるんだらう。何か云つてゐるのは、よその人ばかりだつた。
自分の家には、何時でも澤山の人達がくる、然し今來てゐるのはさういふ人達とは、まるつきり異つた恐ろしい直感をおぼえさせた。
襖が開いた。急にまばゆい光が巾廣く、斜めに差しこんだ。幸子は周章てゝ眼をとぢた。心臟の鼓動が急にドキドキし出した。が、寢がへりを打つ振りをして、幸子は薄眼をあけて見た。母が胸の上に手をくみながら、自分の寢顏をみてゐた。血の氣のない無氣味な顏をしてゐる。父は少し離れて、よその人達の探す手先を見てゐた。電燈のすぐ横にゐるせいか、父の顏が妙にいかつく見えた。
知らない人は五人ゐた。一人はひげを生やした一番上の人らしく、大きな黒い折鞄を持つて、探がしてゐる人達に何か云つた。云はれた人達は、その通りにした。巡査が二人ゐた。あとの二人は普通の服を着てゐた。――お父さんは何をしたんだらう。この人達はそして何をしやうとしてゐるんだらう。よその人は幸子の學校道具に手をかけたり、本を一册々々倒に振つたりした。色々な遊び道具を疊の上へ無遠慮に開けた。幸子は妙に感情がたかぶつてきた。そして、それが眼の底へヂクリ、ヂクリと涙をにぢませてきた。
「それは子供のばかりです……。」
母が立つたまゝ、低い聲で云つた。よその人は生返事を口の中で分らなくして、然しやめなかつた。
一通りの取調べが終ると、皆は一度室の中をグル/\見廻はして、出て行つた。襖が閉つた。――室が暗くなつた。幸子は危くワツと泣き出す處だつた。
父と折鞄が始め低く何か云つてゐた。だん/\聲が高くなつてきて、何を話してゐるか幸子にも聞えてきた。
「とにかく來て下さい。」折鞄が云つてゐる。
「とにかくぢや分らないよ。」
「こゝで云ふ必要がないんだ。來て貰えばいゝんだ。」だん/\言葉がぞんざいになつて行つた。
「理由は?」
「分らん。」
「ぢや、行く必要は認めない。」
「認めやうが、認めまいが、こつちは…………。」
「そんな不法な、無茶な話があるか。」
「何が無茶だ。來れば分るつて云つてるぢやないか。」
「何時もの手だ。」
「手でも何んでもいゝ。――とにかく來て貰ふんだ。」
父が急に口をつむんでしまつた。と、力一杯に襖が開いて、父が入つてきた。後から母がついてきた。五人は次の間に立つて、こつちを向いてゐる。
「ズボン。」
父は怒つた聲で母に云つた。母は默つてズボンを出してやつた。父はズボンに片足を入れた。然し、もう片足を入れるのに、何度も中心を失つてよろけ、しくじつた。父の頬が興奮からピク/\動いてゐた。父はシヤツを着たり、ネクタイを結んだりするのにつゝかゝつたり、まごついたりして、――殊に、ネクタイが仲々結べなかつた。それを見て、母が側から手を出した。
「いゝ/\!」父は邪險にそれを拂つた。父は妙に周章てゝゐた。
母はオロ/\した樣子で父に何か話しかけた。
「お互に話してもらつては困る。」次の間から、折鞄がピタリと釘を打つた。
又幸子の寢てゐる室が暗くなつた。ドヤドヤと澤山の足音が亂れて、土間に降りたつてゐる。――表の戸が開いた。一寸そこで足音が澱むと、何か話聲が聞えた。幸子がたまらなくなつて、寢卷のまゝ起き立つた。ブル、ブルンと一瞬間で頭から足の爪先まで寒氣がきた。襖を細目に開けて覗いた。――父は上り端に腰を下して、かゞんで靴の紐を結んでゐた。よその人は土間につゝ立つてゐる。母はやつぱり胸に手をあてたまゝ、柱に自分の身體を支えて、青白い顏をしてゐる。變な沈默だつた。
不圖――不圖幸子は分つた氣がした。それもすつかり分つた氣がした。「レーニンだ!」と思つた。これ等のことが皆レーニンから來てゐることだ、それに氣付いた。色々な本の澤山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられてゐる寫眞のレーニンの顏が、アリ/\と幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた學校の吉田といふ小使さんと、そつくりの顏だつた。そして、それに――組合の人達がくる度に、父と一緒に色々な歌をうたつた。幸子は然し、子供の歌に對する敏感さから、大人達の誰よりも早く「×旗の歌」や「メーデイの歌」を覺えてしまつた。幸子は學校でも家でも「からたちの唄」や「カナリヤの歌」なぞと一緒に、その歌を意味も分らずに、何處ででも歌つた。それで、何度も幸子は組合の人から頭を撫てもらつた。――父は決して惡い人でないし、惡いこともする筈がない。幸子には、だからそれは矢張り「レーニン」と「×旗の歌」のせいだとしか思へない氣がした。――さうだ、確かにそれしかない。
父が立ち上つた。――幸子は火事の夜のやうに、齒をカタ/\いはせてゐた。――皆外へ出た。母の青い顏がその時動いた。唇も何か云ふやうに動いたやうだつた。が、言葉が出なかつた。出たかも知れないが、幸子には聞えなかつた。母の、身體を支えてゐる柱の手先きに、力が入つてゐるのが分つた。――父は一寸帽子をかぶり直し、母の顏を見た。それから、チヨツキのボタンの一つかゝつてゐたのを外し、それを又かけ直した。落付きなく又母の顏を見た。――父の身體が半分戸の外へ出た。
「幸を氣付けろ…………。」
かすれた乾いた聲で云ふと、父は無理に出したやうな咳をした。
母は後から續いて外へ出た。
幸子は寢床に走り入ると、うつ伏せになつて、そのまゝ枕に顏をあてゝ泣き出した。幸子は泣きながら、急に父を連れて行つたよその人が憎くなつた。「憎いのはあいつ等だ、あいつ等だ。」と思つた。さう思ふと、なほ悲しくて泣けた。幸子は恐ろしさに顫えながら、今度も「お父さん」「お父さん」と、父を叫びながら、心一杯に泣いた。