Chapter 1 of 14

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防雪林

小林多喜二

北海道に捧ぐ

十月の末だつた。

その日、冷たい氷雨が石狩のだゞツ廣い平原に横なぐりに降つてゐた。

何處を見たつて、何んにもなかつた。電信柱の一列がどこまでも續いて行つて、マツチの棒をならべたやうになり、そしてそれが見えなくなつても、まだ平であり、何んにも眼に邪魔になるものがなかつた。所々箒のやうに立つてゐるポプラが雨と風をうけて、搖れてゐた。一面に雲が低く垂れ下つてきて、「妙に」薄暗くなつてゐた。烏が時々周章てたやうな飛び方をして、少しそれでも明るみの殘つてゐる地平線の方へ二、三羽もつれて飛んで行つた。

源吉は肩に大きな包みを負つて、三里ほど離れてゐる停車場のある町から歸つてきた。源吉たちの家は、この吹きツさらしの、平原に、二、三軒づゝ、二十軒ほど散らばつてゐた。それが村道に沿つて並んでゐたり、それから、ずツと畑の中にひツこんだりしてゐた。その中央にある小學校を除いては、みんなどの家もかやぶきだつた。屋根が變に、傾いたり、泥壁にはみんなひゞが入つたり、家の中は、外から一寸分らない程薄暗かつた。どの家にも申譯程位にしか窓が切り拔いてなかつた。家の後か、入口の向ひには馬小屋や牛小屋があつた。

農家の後からは心持ち土地が、石狩川の方へ傾斜して行つてゐた。そこは畑にはなつてゐたが、所々に、石塊が、赤土や砂と一緒にムキ出しにころがつてゐた。石狩川が年一囘――五月には必ずはんらんして、その時は、いつでもその邊は水で一杯になつたからだつた。だから、そこへは五月のはんらんが濟んでからでなくては、作物をつけなかつた。畑が盡きると、丈が膝迄位の草原だつた。そして、それが石狩川の堤に沿つて並んでゐる雜木林に續いてゐた。そこからすぐ、石狩川だつた。幅が廣くて底氣味の惡い程深く、幾つにも折れ曲つて、音もさせずに、水面の流れも見せずに、うね/\と流れてゐた。河の向ふは砂の堤になつてゐて、やつぱり野良が續いてゐた。こつち同樣のチヨコレートのやうな百姓家の頭が、地平線から浮かんでぼつ/\見えた。雄鷄が向ふでトキをつくると、こつちの鷄が、それに答へて、呼び交はすこともあつた。

源吉は何か考へこんで、むつしりして歸つてきた。通つてくるどの家も、焚火をしてゐるらしく、窓や入口やかやぶきの屋根のスキ間から煙が出てゐた。が、出た煙が雨のために眞直ぐ空に上れずに、横ひろがりになびいて、野面にすれ/″\に廣がつて行つた。家の前を通ると、だしぬけに、牛のなく幅廣い聲がした。野良に放してある牛が口をもぐ/\動かしながら頭をあげて、彼の方を見た。源吉が、自分の家にくると、中がモヤ/\とけむつてゐた。母親が何か怒鳴つてゐるのが表へ聞えた。すると、弟の由がランプのホヤをもつてけむたさに眼をこすりながら、出て來た。眼のはりが汚く輪をつくつてゐた。

「えゝ、糞母!」惡態をついた。

源吉はだまつて裏の方へつて行つた。

由は裂目が澤山入つて、ボロ/\にこぼれる泥壁に寄りかゝりながら、ランプのホヤを磨きにかゝつた。ホヤの端の方を掌で押へて、ハアーと息を吹きこんで、新聞紙の圓めたのを中に入れてやつて磨いた。それを何度も繰り返した。石油ツ臭い油煙が手についた。由は毎日々々のこのホヤ磨きが嫌で/\たまらなかつた。由がそれを磨きにかゝる迄には、母親のせきが何十邊とどならなければならなかつた。それから、由の頬を一度はなぐらなければならなかつた。

「えゝ、糞母。」由は、磨きながら、思ひ出して、獨言した。

「由、そつたらどこで、今迄なにしてるだ!」

「今いくよオ!」さう返事をした。「えゝ、糞ちゝ、」

母親はへつつひの前にしやがんで火をプウ/\吹いてゐた。髮の毛がモシヤ/\となつて、眼に煙が入る度に前掛でこすつた。薄暗い煙のなかでは、せきは人間ではない何か別な「生き物」が這ひつくばつてゐるやうに思はれた。へつつひの火でその顏の半面だけがめら/\光つて見えるのが、又なほ凄かつた。由が入つてくると、

「早ぐ、ランプばつけれ!」と云つた。

由は煙いのと、何時ものむしやくしやで、半分泣きながら上つて行つて、戸棚の上からランプを下した。涙や鼻水が後から後から出た。ランプの臺を振つてみると、石油が入つてゐなかつた。

「母、油ねえど。」

「阿呆、ねがつたら、隣りさ行つてくるべ、糞たれ。」

「じえんこ(錢)は?」

「兄がら貰つて行け。」

「――隣りの犬おつかねえでえ。」

由はランプの臺を持つたまゝ、母親の後にウロ/\して立つてゐた。

せきは臺所にあげてあるザルの米を、釜の中に入れた。

「行げたら、行げ。」

由は、なぐられると思つて外へ出た。

「兄――!」さう呼んでみた。

それから裏口にりながら、もう一度「兄――」と呼んだ。源吉は裏の入口の側で茶色のした網を直してゐた。きまつた間隔を置いておもりを網につけてゐた。

「兄、じえんこ――油ば貰つてくるんだ。」

源吉はだまつて、腰のポケツトから十錢一枚出して渡した。由は一寸立ち止つて、兄のしてゐることを見てゐた。

「兄、あのなあ道廳の人來てるツて、入江の房云つてたど。」

「何時。」

「さつき、學校でよ。」

「何處さ泊つてるんだ?」

「知らない。――」

「馬鹿。」源吉は一寸身體をゆすつた。

「房どこで、んだから、網かくしたツて云つてだど。――兄、こゝさ道廳の人でも來てみれ、これだど。」由は、後に手をはしてみせた。

「――馬鹿。――行け、行け!」

由が行つてしまふと、源吉は、獨りでにやりと笑つた。それから幅の廣い、厚い肩をゆすつて笑つた。

日が暮れ出すと、風が少し強くなつてきた。そして寒くなつてきた。一寸眼さへ上げれば、限りなく廣がつてゐる平原と、地平線が見えた。その廣大な平原一面が暗くなつて、折り重なつた雲がどん/\流れてゐた。

暗くなつてから、源吉は兩手で着物の前についたゴミを拂ひ落しながら家の中に入つてきた。由はランプの下に腹這ひになつて、二、三枚位しかくつついてゐない繪本の雜誌をあつちこつちひつくりかへして見てゐた。

「姉、ここば讀んでけれや。」

由がさう云つて、爐邊で足袋を刺してゐた姉の袖を引つ張つた。

「馬鹿!」姉は自分の指を口にもつて行つて、吸つた。「馬鹿、針ば手にさしてしまつたんでないか。」

「なあ、姉、この犬どうなるんだ。」

「姉に分らなえよ。」

「よオ、――」

「うるさいつて。」

「んだら、いたづらするど。」

源吉が上り端で足を洗ひながら、お文に、

「吉村の勝居たか?」ときいた。

お文は顏をあげて兄の方を見たが、一寸だまつた。「何しただ?」

源吉も次を云はなかつた。

「居だつたよ。」それからお文がさう云つた。

「んか……何んか云つてながつたか。」

「何んも。」

「何んも? ……今晩どこさも行くつて云つてなかつたべ。」

「知らない。」

源吉は上に上ると、爐邊に安坐をかいて坐つた。家の中は長い年の間の焚火のために、天井と云はず、羽目板と云はず、何處も眞黒になつて、テカ/\光つてゐた。天井からは長い煤がいくつも下つてゐて、それが火勢や、風で、フラ/\搖れてゐた。

臺所は土間になつて居り、それがすぐ馬小屋に續いてゐた。だから何時でも馬小屋の匂ひが家に直接に入つてきた。夏など、それが熟れて、ムン/\した。馬小屋の大きな蠅が、澤山かたまつて飛んで來た。――馬が時々ひくゝいなゝいた。羽目板に身體をすりつける音や、前足でゴツ/\と板をかく音がした。

家の中にはまんなかにたつた一つのランプが點つてゐた。そのランプ自身の影が、丸太で組んである天井の梁に映つてゐた。ランプが動く度に影がユラ/\搖れた。

母親のせきはテーブルを持ち出しながら、

「源、お前え何んか勝さんに用でもあるのか?」ときいた。

「何んも。」

「網の相手そんだら誰だ。」

「ん……誰でもえゝ。」

「道廳の役人が來てるツて聞いたで。えゝか。」

源吉は肩を一寸動かして、「役人か……」さう云つて笑つた。

「なア兄、この犬どうするんだ。」

由が今度は繪本を源吉の側にもつて行つた。「こんだこの犬が仇討をするんだべか。――」

「母、ドザ(紺で、絲で刺した着物)ば仕度してけれや。」

「よオ、兄、この犬きつと強えどう。隣の庄、この犬、狼んか弱いんだつてきかねえんだ。嘘だなあ、兄。」

「これで二ヶ月も三ヶ月も魚ば喰つたことねえべよ、母。――馬鹿にしてる!」源吉はこはい聲を出した。

「んだつて、オツかねえ眞似までして……。」

「馬鹿こけや!」

母親は獨言のやうに何かぶつ/\云つた。

「さあ、まんまくべ。」

母親は焚火の上にかけてある鍋から、菜葉の味噌汁を皆に盛つて出した。「ん、お文もやめにして、まんまだ。」

由は、兄の眞似をするのが好きだつた。なるべく大きく安坐をかき、それから肱を張つて、飯を食ふ――時々、兄の方を見ながら、自分の恰好を直した。

「なア、兄、犬と狼とどつちが強えんだ。犬だなあ。」

「だまつて、さつさとけづかれ。」

せきが、芋と小豆の交つた熱い粥をフウ/\吹きながら、叱つた。鼻水を何度も忙しくすゝり上げた。

由は一杯の粥を食つてしまふと、箸で茶碗をカン/\とたゝいてせきに出した。

「兄、芳ちやんから手紙が來てたよ。」

「ん。」

「こゝにゐた時の方がなつかしいつて、そんなこと書いてるんだよ。フンだものなア、何がこつたら所。」

お文は、本當にフンとしたやうな顏をした。

「又! ――んだつて本當かもしれねえべよ。」母が口を入れた。

「うそ。大嘘、こつたらどこの何處がえゝツてか。どこば見たつてなんもなくて、たゞ廣ろくて、隣の家さ行ぐつたつて、遠足みたえで、電氣も無えば、電信も無え、汽車まで見たことも無え――んで、みんな薄汚え恰好ばかりして、みんなごろつきで、……。」

「兄、犬の方強えでなア。」

「んでさ、都會は汚れてゐると、そんなことが分る度に、石狩川のほとりで、働いてた頃の、ことが思ひ出されるつて。」

「んだべさ。」

「何んが、んだべさだ。こつたら處で、馬の尻ばたゝいて、糞の臭ひにとツつかれて働いて――フンだよ。」

「なア、兄、お文この頃駄目だでア。」

せきが源吉の方を見て、云つた。

源吉はだまつてゐた。

「わしも札幌さ行きてえからつて、云つてやれば、來るどこでねえつて――そのくせ、自分であつたらに行きたがつたこと忘れてよ。」

外では、時々豆でもぶツつけるやうに、雨が横なぐりに當る音がした。その度にランプが搖れて、後の障子に大きくうつつてゐる皆の影をゆすつた。――延びたり、ちゞんだりした。

由は飯を食ひ終ると、焚火に、兩足を立てゝ、繪本を見た。小指の先程のチンポコを出したまゝだつた。

「兄、狼見たことあるか。」

「見たことねえ。」

「繪で見たべよ。」

「ん。」

「どつち強い。」

「強え方強えべよ。」

「いや/\、駄目――え。」

源吉は大きな聲を出して笑つた。

樹の根ツこをくべてある爐の火が、節の處に行つたせゐか、パチ/\となつて、火が爐の外へはねとんだ。

一つが由の「朝顏の莟みたいな」チンポコへとんだ。

「熱ツ々々……」

由は繪本をなげ飛ばすと、後へひつくりかへつて、着物をバタ/\とほろつた。

「ホラ、見ろ、そつたらもの向けてるから、火の神樣におこられたんだべ。馬鹿。」

「糞、ううーうん、/\、」

由が半分泣きさうにして、身體をゆすつた。

せきとお文は臺所に、ローソクを立てゝ、茶碗などを洗つた。そこに取りつけてある窓にプツ/\と雨が當つた。そして横にスウーと硝子の面を流れた。

「ひどくなるでア。」

お文も「兄、やめればえゝによ。」と云つた。

「俺アだぢ來た頃なんてみんな取りてえだけ秋味(鮭)ばとつたもんだ。夜、だまつてれば、キユ/\/\つて、秋味なア河面さ頭ば出して泣くの聞えたもんだ。」

お文がくすツと笑つた。

「ん、馬鹿。ほんたうだで。をかしイ世の中になつたもんだ。」

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