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Selected Poems of the Manyoshu
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Selected Poems of the Manyoshu
斎藤茂吉
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Chapter 7 of 21

巻第六

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山高み白木綿花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも 〔巻六・九〇九〕 笠金村

元正天皇、養老七年夏五月芳野離宮に行幸あった時、従駕の笠金村が作った長歌の反歌である。「白木綿」は栲、穀(穀桑楮)の皮から作った白布、その白木綿の如くに水の流れ落つる状態である。「河内」は、河から繞らされている土地をいう。既に人麿の歌に、「たぎつ河内に船出するかも」(巻一・三九)がある。また、「見れど飽かぬかも」という結句も、人麿の、「珠水激る滝の宮処は、見れど飽かぬかも」(巻一・三六)のほか、万葉には可なりある。

この一首は、従駕の作であるから、謹んで作っているので、その歌調もおのずから華朗で荘重である。けれどもそれだけ類型的、図案的で、特に人麿の歌句の模倣なども目立つのである。併し、この朗々とした荘重な歌調は、人麿あたりから脈を引いて、一つの伝統的なものであり、万葉調といえば、直ちに此種のものを聯想し得る程であるから、後代の吾等は時を以て顧るべき性質のものである。巻九(一七三六)に、「山高み白木綿花に落ちたぎつ夏実の河門見れど飽かぬかも」というのがあるのは、恐らく此歌の模倣であろうから、そうすれば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意を牽いたに相違ない。

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奥つ島荒磯の玉藻潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも 〔巻六・九一八〕 山部赤人

聖武天皇、神亀元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である。「沖つ島」は沖にある島の意で、此処は玉津島のことである。

一首の意は、沖の島の荒磯に生えている玉藻刈もしたが、今に潮が満ちて来て荒磯が隠れてしまうなら、心残りがして、玉藻を恋しくおもうだろう、というのである。長歌の方で、「潮干れば玉藻苅りつつ、神代より然ぞ尊き、玉津島山」とあるのを受けている。

第四句、板本、「伊隠去者」であるから、「い隠れゆかば」或は「い隠ろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※隠去者」となっているから、「※」を上につけて「潮干みちて隠ろひゆかば」とも訓んでいる。これは二つの訓とも尊重して味うことが出来る。

この歌は、中心は、「潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも」にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感が漂っていて佳い歌である。海の玉藻に対する係恋とも云うべきもので、「思ほえむかも」は、多くは恋人とか旧都などに対して用いる言葉であるが、この歌では「玉藻」に云っている。もっとも集中には、例えば、「飼飯の浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀はおもほゆるかも」(巻十二・三二〇〇)、「飫宇海の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河のおもほゆらくに」(巻三・三七一)の如きがあって、共通して使われている。行幸に供奉し、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだろうが、必ずしも「宮廷歌人」などという意図が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露しているようである。一般が自由でこだわりのなかった聖世を反映していると謂っていい。また、「宮廷歌人」などと云っても、現代の人々の持っている「宮廷歌人」の西洋まがいの概念と違った気持で供奉したことをも知らねばならぬのである。

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若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る 〔巻六・九一九〕 山部赤人

赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜とも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟の意である。

一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。

やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさして鶴鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない。

巻十五に、「鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独さ寝れば」(三六二六)、「沖辺より潮満ち来らし韓の浦に求食りする鶴鳴きて騒ぎぬ」(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられていたのであろう。

なお、「難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴わたる見ゆ」(巻七・一一六〇)、「円方の湊の渚鳥浪立てや妻呼び立てて辺に近づくも」(同・一一六二)、「夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖浪高み己妻喚ばふ」(同・一一六五)というのもあり、赤人の此歌と共に置いて味ってよい歌である。特に、「妻呼びたてて辺に近づくも」、「沖浪高み己妻喚ばふ」の句は、なかなか佳いものだから看過しない方がよいとおもう。

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み芳野の象山の際の木末には幾許も騒ぐ鳥のこゑかも 〔巻六・九二四〕 山部赤人

聖武天皇神亀二年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作ったものである。「象山」は芳野離宮の近くにある山で、「際」は「間」で、間とか中とかいう意味になる。「奈良の山の山の際にい隠るまで」(巻一・一七)という額田王の歌の「山の際」も奈良山の連なって居る間にという意。此処では、象山の中に立ち繁っている樹木というのに落着く。

一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、実に沢山の鳥が鳴いて居る、というので、中味は単純であるが、それだけ此処に出ている中味が磨をかけられて光彩を放つに至っている。この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」に作歌衝迫もおのずから集注せられている。この光景に相対したと仮定して見ても、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」とだけに云い切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、赤人傑作の一つであろう。「幾許」という副詞も注意すべきもので、集中、「神柄か幾許尊き」(巻二・二二〇)「妹が家に雪かも降ると見るまでに幾許もまがふ梅の花かも」(巻五・八四四)、「誰が苑の梅の花かも久方の清き月夜に幾許散り来る」(巻十・二三二五)等の例がある。この赤人の「幾許も騒ぐ」は、主に群鳥の声であるが、鳥の姿も見えていてかまわぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の「かも」であるが、名詞から続く「かも」を据えるのはむずかしいのだけれども、この歌では、「ここだも騒ぐ」に続けたから声調が完備した。そういう点でも赤人の大きい歌人であることが分かる。

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ぬばたまの夜の深けぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く 〔巻六・九二五〕 山部赤人

赤人作で前歌と同時の作である。「久木」は即ち歴木、楸樹で赤目柏である。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹の立ちしげっている、景色よい芳野川の川原に、千鳥が頻りに鳴いて居る、というのである。

この歌は夜景で、千鳥の鳴声がその中心をなしているが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。「久木生ふる清き河原」の句も、現にその光景を見ているのでなくともよく、写象として浮んだものであろう。或は月明の川原とも解し得る、それは「清き」の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの「清き」は川原一帯の佳景という意味にとる方がいいようである。併しこの歌は、そういう詮議を必要としない程統一せられていて、読者は左程解釈上思い悩むことが無くて済んでいるのは、視覚も聴覚も融合した、一つの感じで無理なく綜合せられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の声だけでは物足りないのかも知れない。「久木生ふる清き河原」という、視覚上の要素が却って必要なのかも知れない。その辺の解明が能く私に出来ないけれども、全体として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」(巻一・三七)とも比較が出来るし、また、笠金村とも同行したのだから、金村の、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿も吾もみ吉野の滝の床磐の常ならぬかも」(同・九二二)の二首とも比較することが出来る。比較して見ると、赤人の歌の方が具体的で、落着いて写生している。なお、声調のうち、第三句の「久木生ふる」という伸びた句と、結句の「しば鳴く」と端的に止めたのを注意していいだろう。

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島隠り吾が榜ぎ来れば羨しかも大和へのぼる真熊野の船 〔巻六・九四四〕 山部赤人

山部赤人が、辛荷島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗って榜いで来ると、羨しいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、というので、旅にいて家郷の大和をおもうのは、今から見ればただの常套手段のように見えるが、当時の人には、そういう常套語が、既に一種の感動を伴って聞こえて来たものと見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船・伊豆手船・足柄小船などいふあるも、みなこの類とすべし」とあり、「浦回榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし」(巻十二・三一七二)の例がある。「羨しかも」は、「羨しきかも」と同じだが当時は終止言からも直ぐ続けた。結句は、「真熊野の船」という名詞止めで、「棚無し小船」などの止めと同じだが、「の」が入っているので、それだけの落着がある。第三句の、「羨しかも」は小休止があるので、前の歌の「潟を無み」などと同様、幾らか此処で弛むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、旅の寂しい情を籠めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、「玉藻苅る辛荷の島に島回する鵜にしもあれや家思はざらむ」(巻六・九四三)というのがある。これは若し鵜ででもあったら、家の事をおもわずに済むだろう、というので「羨しかも」という気持と相通じている。鵜を捉えて詠んでいるのは写生でおもしろい。

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風吹けば浪か立たむと伺候に都多の細江に浦隠り居り 〔巻六・九四五〕 山部赤人

赤人作で前歌の続である。「都多の細江」は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、船場川の川口になっている。当時はなるべく陸近く舟行し、少し風が荒いと船を泊めたので、こういう歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだろうと、心配して様子を見ながら、都多の川口のところに船を寄せて隠れておる、というのである。第三句、原文「伺候爾」は、旧訓マツホドニ。代匠記サモラフニ。古義サモラヒニ。この「さもらふ」は、「東の滝の御門にさもらへど」(巻二・一八四)の如く、伺候する意が本だが、転じて様子を伺うこととなった。「大御舟泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ」(巻七・一一七一)、「朝なぎに舳向け榜がむと、さもらふと」(巻二十・四三九八)等の例がある。

この歌も、旅の苦しみを念頭に置いているようだが、そういう響はなくて、寧ろ清淡とも謂うべき情調がにじみ出でている。ことに結句の、「浦隠り居り」などは、なかなか落着いた句である。そして読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を広義抒情詩と見立てるから、叙景・抒情をば截然と区別しないが、総じて赤人のものには、激越性が無く、静かに落着いて、物を観ている点を、後代の吾等は学んでいるのである。

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ますらをと思へる吾や水茎の水城のうへに涕拭はむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人

大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島という遊行女婦が居た。旅人が馬を水城(貯水池の大きな堤)に駐めて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「凡ならば左も右も為むを恐みと振りたき袖を忍びてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道は雲隠りたり然れども我が振る袖を無礼と思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人の和えた二首中の一首である。

一首の意は、大丈夫だと自任していたこの俺も、お前との別離が悲しく、此処の〔水茎の〕(枕詞)水城のうえに、涙を落すのだ、というのである。

児島の歌も、軽佻でないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔を交えた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫とおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。

「真袖もち涙を拭ひ、咽びつつ言問すれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。

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千万の軍なりとも言挙せず取りて来ぬべき男とぞ念ふ 〔巻六・九七二〕 高橋虫麿

天平四年八月、藤原宇合(不比等の子)が西海道節度使(兵馬の政を掌る)になって赴任する時、高橋虫麿の詠んだものである。「言挙せず」は、「神ながら言挙せぬ国」(巻十三・三二五三)、「言挙せず妹に依り寝む」(巻十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此と言葉に出していわないことである。

一首の意は、縦い千万の軍勢なりとも、彼此と言葉に云わずに、前触などせずに、直ちに討取って来る武将だとおもう、君は、というので、威勢をつけて行を盛にしたものである。虫麿の此処の長歌も技法に屈折のあるものだが、虫麿歌集の長歌にもなかなか佳作があって、作者の力量をおもわしめるが、この短歌一首も、調べを強く緊めて、武将を送るにふさわしい声調を出している。彼此いっても、この万葉調がもはや吾等には出来ない。

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丈夫の行くとふ道ぞ凡ろかに念ひて行くな丈夫の伴 〔巻六・九七四〕 聖武天皇

聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道に布いた。聖武天皇が其等の節度使等が任に赴く時に、酒を賜わり、この御製を作りたもうた。その長歌の反歌である。

一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思うな、大丈夫の汝等よ、と宣うので、功をおさめて早く帰れという大御心が含まれている。「行くとふ」の「とふ」は「といふ」で、天地のことわりとして人のいう意である。「おほろかに」は、おおよそに、軽々しく、平凡にぐらいの意で、「百種の言ぞ隠れるおほろかにすな」(巻八・一四五六)、「おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門を退り出めやも」(巻十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に満ちて、闊達至極のものと拝誦し奉る。「大君の辺にこそ死なめ」の語のおのずからにして口を漏るるは、国民の自然のこえだということを念わねばならぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、「食国の遠の御朝廷に、汝等が斯く罷りなば、平らけく吾は遊ばむ、手抱きて我は御在さむ、天皇朕がうづの御手もち、掻撫でぞ労ぎたまふ、うち撫でぞ労ぎたまふ、還り来む日相飲まむ酒ぞ、この豊御酒は」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ、手抱きて我はいまさむ」とは、慈愛遍照する現神のみ声である。

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士やも空しかるべき万代に語りつぐべき名は立てずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良

山上憶良の痾に沈める時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思二子等一歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束(藤原真楯)が、河辺朝臣東人を使として病を問わしめた、その時の作だとある。

一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即いていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。

巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯踏み越え、さしまくる情障らず、後代の語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。

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振仰けて若月見れば一目見し人の眉引おもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持

大伴家持の作った、初月の歌である。大伴家持の年代の明かな歌中、最も早期のもので、家持十六歳ぐらいの時だろうといわれている。「眉引」は眉墨を以て眉を画くことで、薬師寺所蔵の吉祥天女、或は正倉院御蔵の樹下美人などの眉の如き最も具体的な例である。書紀仲哀巻に、譬如二美女之※一、有二向津国一。※、此云二麻用弭枳一。古事記中巻、応神天皇御製歌に、麻用賀岐許邇加岐多礼、和名鈔容飾具に、黛、和名万由須美。集中の例は、「おもはぬに到らば妹が嬉しみと笑まむ眉引おもほゆるかも」(巻十一・二五四六)、「我妹子が笑まひ眉引面影にかかりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等がある。

一首の意は、三日月を仰ぎ見ると、ただ一目見た美人の眉引のようである、というので、少年向きの美しい歌である。併し家持は少年にして斯く流暢な歌調を実行し得たのであるから、歌が好きで、先輩の作や古歌の数々を勉強していたものであろう。この歌で、「一目見し」に家持は興味を持っている如くであるが、「一目見し人に恋ふらく天霧らし零り来る雪の消ぬべく念ほゆ」(巻十・二三四〇)、「花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し児ゆゑ千たび歎きつ」(巻十一・二五六五)等の例が若干ある。家持の歌は、斯く美しく、覚官的でもあるが、彼の歌には、なお、「なでしこが花見る毎に処女らが笑ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡く川びの柔草のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)の如き歌をも作っている。「笑ひのにほひ」は青年の体に即いた語でなかなか旨いところがある。併し此等の歌を以て、万葉最上級の歌と伍せしめるのはいかがとも思うが、万葉鑑賞にはこういう歌をもまた通過せねばならぬのである。

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御民われ生ける験あり天地の栄ゆる時に遇へらく念へば 〔巻六・九九六〕 海犬養岡麿

天平六年、海犬養岡麿が詔に応えまつった歌である。一首の意は、天皇の御民である私等は、この天地と共に栄ゆる盛大の御世に遭遇して、何という生き甲斐のあることであろう、というのである。「験」は効験、結果、甲斐等の意味に落着く。「天ざかる鄙の奴に天人し斯く恋すらば生ける験あり」(巻十八・四〇八二)という家持の用例もある。一首は応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、此時代の歌には時々見当るのであって、その恩想を統一して一首の声調を完うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛うじて作るに止る状態となった。此の歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人等も競い勉めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った。

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児等しあらば二人聞かむを沖つ渚に鳴くなる鶴の暁の声 〔巻六・一〇〇〇〕 守部王

聖武天皇天平六年春三月、難波宮に行幸あった時、諸人が歌を作った。此一首は守部王(舎人親王の御子)の歌である。一首は、若し奈良に残して来た嬬も一しょなら、二人で聞くものを、沖の渚に鳴いて居る鶴の暁のこえよ、何とも云えぬ佳い声よ、という程の歌である。なぜ私は此一首を選んだかというに、特に集中で秀歌というのでなく、結句が「鳴くなる鶴の暁のこゑ」の如く名詞止めであるのみならず、後世新古今時代に発達した、名詞止めの歌調が此歌に既にあって、新古今調と違った、重厚なゆらぎを有っているのに目を留めたゆえであった。なお、巻十九(四一四三)に、「もののふの八十をとめ等がみまがふ寺井のうへの堅香子の花」、巻十九(四一九三)に、「ほととぎす鳴く羽触にも散りにけり盛過ぐらし藤浪の花」という歌の結句も、上代の古調歌には無い名詞止めの歌である。

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