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油地獄
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油地獄
斎藤緑雨
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 3 of 15

三

縁が不思議のものなら、ほれるは一層不思議だ。今の小説家は、ほれたりほれられたりのために、鼻筋が通って口元が締って、眼におびただしい愛嬌を有するという器用な女をつくり上げるが、ほれるは必ず美にほれるのではない、ほれられたその者がすなわち美になるのだ。世間では、ちょいと見てちょいと惚れると云ておかしがるけれども、つまりちょいと惚れるのが後によくほれるので、その初めはちょいとゝ云うよりほかに指す所がない。万一あの眼元にほれたとか口元にほれたとか、乃至鼻筋にほれたとかゞ最初から知れて居れば、そのほれたのは偽わりだ、何故となれば、生れて欠点の全く無い者はないはずだから、ほれるほどの不思議が起る時に、どこが好と明らかに指すことが出来れば、どこが醜いということもまた明らかに指すことが出来る、すでに醜い所を指すことが出来ればそれでもほれると云う理は無い。貞之進は我膳の前へ斜めに坐った芸妓が、ほんのりと強られて酔った頬におしろいの匂うのを、何の気もなく見ると向うからもふと見たので、周章てゝ顔を背けて後の障子へ憑かゝったが、すぐとまた見たくなってそれとなく見るに、自分が向うを見ながら向うが見るようで自分が恥かしく、目も鼻も口もたゞ何だか好い女におもわれて、それより上の考えもまた下の考えも出なかったが、程経ってこの芸妓の名を何と云うかと知りたくなった。

彼の右隣の男は、今や十二分に酩酊で、オイと云て猪口をその芸妓に献し、お前の名は何と云う、名札を呉れ名札をと、同じことを二つ重ねて問懸けた。名札はありませんとその芸妓はすげなく答えたが、やがて帯の間を探って名札だけ取出し、上げましょうか。おゝ呉れと二度言わせて渡したのを、彼男は眼を皺めて見て、それじゃア歌ちゃんかと云て、あはゝアと面白くもないことを声高に独り笑って居た。名を知りたいと思った貞之進は歌ちゃんとだけ分りは分ったが、芸妓の名はそれでは分らない、歌吉か歌助か小歌か歌子かたゞしはそのまゝのお歌か、つい一言尋ねたくも仲々口は開かない、そのとき歌ちゃんと云れた芸妓は貞之進の方を向いて、あなたにも上ましょうかと云たこそ幸い、飛附たいほど貰いたかったがそれも手が出ない。彼男は一旦袂へ取込んだ名札を再び出して見て、何だ柳橋だ家名が無いと疑わしそうに云うを、おやそうですかと芸妓はちょっと覗き込んで、弘めの時の残りですもの、儂は名札は嫌いと云たのから見れば、一本に成てまだ間のない歌ちゃんなることが知られた。彼男はよく/\の穿鑿家と見え、それじゃ家名は何だと推返すと、知ませんよと芸妓は冷かに受けて銚子を取り、お酌/\と突附たが彼男が名札を下へ置ぬので、くどいのねあなたは、梅乃家ですよサアお酌と、同一時間に二種の事業を遣り遂げる、彼男はようやく満足して猪口を取った。名札を呉れろの家名は何だのと根掘り葉掘りするは、二度と来ない客か、来ても自腹を切らない客だと或老妓の言ったのは、この男の容子から考えて、宜べ経験のあることと信じられた。しかれども悦ぶべしその名札は、江戸三界を持廻られて、息災延命のお札より有難いに相違無い。

貞之進は始終耳を欹てゝ居たが、ついに思う名を聴得なかったので、平日ならば男児が塵芥ともせぬほどのことが胆を落し、張合なげに巻煙草を吸附て居ると、その芸妓はこっち向きに居坐り直って、あなた一本頂戴なと云って、むろん許されるのではあるけれども、まだ許しの出ない内にすでに早く手を着けたを、彼の右隣りの男は、こゝにもあると自分のを投与えたが、芸妓はやっぱり貞之進のを取って、これが善いのですよと煙草の珍しい方を取った積りの詞が、貞之進は訳無しに嬉いようで、入物ぐるみそっと芸妓の手近へ推遣って、そして自分の顔を朱で塗って居た。

歌ちゃんと呼ぶ声がするのをその芸妓は振返り、そこは懲々だよと口の内で云って、こちらへおいでと頤で招いて居ると、やがて来のは同じ年配で、御召の大縞の上着に段通織の下着、鼠緞子の帯を締め、芸子潰しに銀のあばれ綯という扮粧、歌ちゃんまだ着更ないの、でもすぐ行く待てと云うのだものと嫣然笑えば、そう、ひどく酔されちゃったと今来たのもまた嫣然笑ってようやく坐った。ほんとに口駄らないよと云うのを何だと思えば、それあの燭台の前に居る、あゝあの服を着た方よ、好男子が居ると高ちゃんが云うから行って見ると、眼鏡の金縁へ燭りが映ってそれで顔が光るのよ、高ちゃんはじきあれだと云って、手巾を口へあてゝじろりと貞之進を見たので、今迄歌ちゃんの頸の動く通り自分の頸も動かして居た貞之進は、この時試験に遇うような心持がして、お前、見に行くから悪いのさと云った歌ちゃんの詞は、まるで俯いて居る間に聞いた。それから両女はしきりに話合って居たが、今度は小歌小歌と声に色があるものなら、どすぐろい声で呼ばれるにハイと長く答え、膝の上に在った蜀紅錦の煙草入を右手に持ったまゝ立って行ったので、貞之進は魂いを赤の絞り放しのしょい揚に縋らせ、ぼんやり後影を目送って口惜いような気がする間に、あとから来た段通織の下着もまた起って行ったので、桜媚び海棠酔った我膳の前の春はたちまち去って、肴核狼藉骨飛び箸転がるの秋となった。ただすこしく貞之進の心を安んじたは、柳橋の芸妓梅乃家の小歌と、今の呼声によって初めて承知されたことだ。

その前貞之進は知己なる飯田の人というのに挨拶を仕たくって居たが、その時その人がちょうど座敷を出るのを認けたから、もしや帰るのかと思って奮って起ってその人の跡を逐い、例の沈黙と云れる調子を以て、きれ/″\と怪い挨拶を施し、別れてこちらへ来懸ったが、序にと二階を下て用達に行くと、手を洗う後ろに立て居たのは、料らざりき歌ちゃんすなわち小歌で、この多勢の宴会に一々お附申すのではなけれど、出会ったまゝ先刻顔を覚えた客だと思えばそこが商売で、あなたこれをと白茶地に紋形のある手巾を出したのを、貞之進はそれが取りにくいよりは取ていゝか悪いかゞ分らないで、自分の袂から惜気のない白半巾を出そうとするのを、あら儂のではお厭なの、どうせねと推附るようにして渡した時、何とも云えぬ香気が鼻から眼へかけて貞之進はまず眩いた。座敷へかえってもそれから何だか気に懸るようなことが出来て、しかも心配は毫しもないが胸さわぎがするので、烟草も沈着いて吸えずに半分で灰吹の裡へ葬った。そうこうする内、右隣の男も見えなくなったので、貞之進もいざ帰ろうと思ったが妙に引留める者がある、何が引留めるかと考えるに形が無い。心を決して玄関に到るに、あたかもその時帳場の横で黒縮緬の羽織を着、鳩鼠色の紐を結んで居たのは小歌で、貞之進は何か云いたかったが云う折でもなく、又云うことも出来ぬのでそのまゝ下足番の所へ行った。

鳴鳳楼の門を出ると、幸い一人乗の車が居たので貞之進はこれへ乗ろうとする時、跡から同じく車で来て行過ぎたのは、正しく貰って帰る小歌だ。我が乗った車も存外疾くて、ほどなく逐着て二三町は続いて駈けたが、夜目なれば貞之進はただ先へ行く車の主の頭だけを見て、それでどこまでも続いて駈けて居たい心持がしたが、我車の方がフイと町角を曲ったので、あっと振返ったが向うの車はもう見えない、なぜ曲ったと叱りたいにも本郷へ出る道は一筋、秋元へ帰ったのは九時近い頃であったが、さてその夜は容易に眠られない。

Chapter 3 of 15
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