七
約束の広小路で車は下りたが、料理屋待合船宿皆貞之進には馴染のないものばかりで、どこの敷居を跨ごうかということが、車の上からの問題でまだ決しない。戻って柳橋の袂を往復りして、淡紅色の洋脂が錆に剥た鉄欄の間から、今宵は神田川へ繋り船の妻さんが、桶を舷へ載せて米を磨いで居る背中に、四歳ばかりの小児が負われながら仰反って居るのを、面白いでもなく見て居たが、淀文と云うのは、府下の割烹店として名だけ聞いたことがあれば、そこへと心ざして橋に沿て左へ下り、右の新柳町の細路へ曲ろうとすると、角の家の腰障子を開けて出て来た小女が、じろ/\と顔を覗き込んで行ったのでたちまち怯れが差し、その隣の淀文へ這入ることが出来ずに、行過ぎて元の広小路へ出てしまった。考えれば案内もなくこの別天地へ乗附ける積りの勇気は、自分すら感ずるほどであったが、その勇気がいざ今の際となってとみに挫け、のそり/\また小戻りして、淀文近くへ来たが、玄関前の瓦斯の光が前側の塀にまで輝いて居るので、今度はそれに胆を打たれてまた這入得ずに行過ぎ、薄暗い河岸に佇んで、とても叶わないことならこのまま帰ろうかと思ったが、すると例の如く花笄が眼に映って断念めて帰ることはなおならない。客だッ、客だッ、客が臆することはないと又々取て返したが前まで行くと又々挫ける、それで又々々往過るのであったが、向うから勢よく駆て来た車に塀際を塞げられ、路幅の狭いのが仕合せとなって避るように御影の敷石を踏むと、入来いと呼ばれてもはや立退き難く、もとより立退くのが本意ではないので、やっと肚を据て下向いて這入り、どうぞお二階へと云れて、目を瞑るようにして駈上った。
色は白いが顔の地のあれた廿二三の婢、衝当りの六畳へ燈を点けて、こちらへと云うに貞之進はついて這入ると、この家は間ごと間ごと瓦斯を用いてある、座蒲団火鉢茶菓それから手を突てお肴はと尋ねるに、袂の巻烟草を出しかけて、さて何と云たものかと躊躇って居ると、見繕いましょうかと云れたので、ほとんど蘇生った心持でたゞうんと首肯いた。ちょこなんと独り待つ間も、胸さわぎするほかは烟草ばかりが愛しまれ、二十分ほど経った所で、椀の物を載せた膳と杯洗とを婢が持来り、酒盃を受けて下に置く時皿の物が来て、膳の体裁はやゝ整ったが、飲ず食ずですじかいに障子へ凭れかゝって居るので、婢はしきりに話懸けて自分から笑って見せたが、一向返しの詞がないのに倦ぐね、誰か呼びにお遣り遊ばすのと云うを、貞之進は望む所と障子を離れたが、また早速に答が出ずに居ると、婢は自分の肩を軽くしたさに、誰か呼んでお遣んなさいとさらに勧直したので、貞之進はわずかに耳に通ずるぐらいの声で、小歌をと思切って言うか言ぬに、はいと婢は畏まって楼下へ降行き、小歌さんをと高く呼んで、そして低声に気のつまる方と朋輩に囁いて居た。
しばらくして婢が来て、小歌さんは大中へ出て居るそうですが、貰いに遣て見ましょうかと云う、貞之進は貰うのが何か訳分らずに首肯いて居ると、名ざしの事なり貰えと云うからは、お馴染のことゝ婢は呑込んで、すぐに向河岸へ箱丁を走らせた。やがて淀文の表へ車が停って難有うと云た声が、「あら儂のではお厭なの」、まぎれもない小歌の声で、それを聞くと貞之進は一際激しい動気がして、居ずまいを改め片腕組んで、烟草を新しく吸つけて居た。小歌は羽織を帳場で脱ぎ、あの方と云えばいゝえと云うに、おやそうと急にすゝまぬ顔色、それでもお馴染だと思ってさと婢が云えば、儂はあの方だと思って、無理に幹事さんに頼んで貰って来たの、どんな方と尋ねるにこう/\と告る婢の詞が、小歌には思い当らないようで、それじゃアお馴染ではあるまいよと、立もせず坐りもせずで居るのを奥から主が、仕方がない来たものだ、ともかく二階へ行ってお呉れと促すので、はアと小歌は気が無さそうに登って行った。
見ると小歌は覚えがあるようで思出せない、毎夜の夢に忘れない貞之進が何とか、声を懸けそうなものを、これも知らぬ人のように横向いて居た、それが初心の買所だ。小歌は銚子をとってお酌と云うに、貞之進は冷たくなった猪口の残酒を飲干し、顫えまいと力を入れるほど顫えて、口へは遣らずやっぱり膳へ置たが、その時小歌は考え附いたか、たしかあなたは過日鳴鳳楼でと云うと、あゝと貞之進は初めて声を出して答え、よく入来ってよと解けた詞に嬉しさは頸筋元から這入って、例もの通り肚で躍って居た。小歌は今日は着更の姿で、上着は青味の勝った鉄色の地に、白い荒いさつま筋の出た御召縮緬、下着は同じく小豆色の御召、帯は紫地の繻珍、牡丹形の蒔絵の櫛に金足の珊瑚の簪、貞之進は我伏糸が見られるようで、羽織の襟をそっとひっぱって居たもおかしかった。