八
貞之進より少し遅れて隣の広間へ来た三人連の客は、淀文がお馴染の騒ぎ好と見え、膳の出ない先から賑かであったが、芸妓も客数ほど来て、饒舌るわ/\春の潮の湧くが如く、拳を打ったり歌を唄ったり、ふたりで蚊帳の紐を釣ったとか云て足拍子のしたのは、若い妓が起って踊ったので、関のこっちだと思ったら音羽山だと云て膝を叩いたのは、年嵩な客が何彼につけて出る謡だ。首で返詞すると極った貞之進は、隣座敷の人々が臆面のないのに感じ、自分の気の弱いことが自分ながら疎まれ、せめて談話の一つなりとも顫えずに出来そうなものと、あのと肚を出た詞も口元で消てしまい、夢にまで見た小歌に出会って、欠半分の愛想も出ずに、折々偸むようにその横顔をながめ、小歌が莞爾と笑った時だけ、不知不識の間に自分も莞爾と笑い連れて、あとはただ腕組するばかりのことだから、年の行かぬ小歌には堪たえ兼て接穂なく、服粧には適応わず行過た鬼更紗の紙入を、要もないに明て見て何か探す容子、箱丁がそっと入れて行った三味線は、棹を継れたまゝ座敷境の紙門の下へ片寄られ、客も芸妓も居るか居ないか疑われるほどの静かさであった。
あなたと云て義理でもするように小歌が銚子を執った時婢が来て、ちっとも飲らないのと云ったのでそうと銚子を下へ置き、二杯足らずの酒に貞之進が眼の内までも赤くして居るのを見て、それには恥しさの籠ることゝも知らないゆえ、じゃアお逆上なさるのと椽の障子を一枚明ければどんよりと空睡たげな朧月、河浪の靄に咽ぶ間から、両国橋を行く提灯が、二階の欄干越しに三つ五つ見えて、こんもり黒んだ向河岸の森に、物思いは春の夜と知られた。欄干に片手載せて、あなたちょいと御覧なさいと小歌が云うのを、貞之進は立ちもせず振向けば、水にも雲が映って居るというだけのことで、先刻小歌が出て居た中村楼の檐に、宴散じ客去てなお毬燈の残って居るのを、今日の大中さんは何と婢が問うに、幹事さんは知った方だけれども、あとは厭な人ばかりと小歌は答えて、おもむろに元の座へ復った、その時隣の広間はいよ/\騒がしく、年を取った芸妓の声で、ちっと静になさいよと云うと、そんならこゝへは来ないと云った客の詞が、貞之進には暗に自分が嘲られたように僻んで聞え、思わず居直ったのを婢が見て取って、ほんとに元気のいゝ方、お騒々しいでしょうとどちら附かずに慰めたが、これにも貞之進は不相変答えは出なかった。
歌舞伎座が大入ですとさ、姉さん御覧なすってと小歌が云う、そうだって見たいのねえと婢が云う、それから両女は話が栄え、蠣浜橋へ毎日お参りに行く事、髪結を取替た事、梅月で誰かに汲で遣った湯の返しのなかった事、常磐屋で大臣さんにお目に懸った事、船で花見の約束に行った事、こちらの室からもしきりに笑い声が漏れるようになったが、それでも貞之進の声は交らない。過日の方はあれから入来って、あの翌晩おひとりで、そう可笑いんだよ玉ちゃんが大変岡惚して、風采のいゝ方ねえ、あら姉さんも、何だね厭に気を廻すよ、だって風采が好って、風采の好のはまだ外にあるの、御馳走さまどこに、どこにって泣通したじゃないかと云うと、小歌は婢の口を抑えるようにして、あれは言ッこ無し黒の羽織には懲々したと云て、貞之進が黒の羽織を着て居るのに心附き、あなたのことではありませんよと、撲いた烟管をふっと吹き、昨宵も逢た癖にと婢が云うのを聞ぬふりで、あんな酷い方はないのと紙入に巻いてある紙を取出し、それで所在無さに煙管掃除が始まった。「でしょう」などと前後のない詞があって、貞之進は何を話すことか一向解せぬけれども、末の一段が何だか気に懸り、ことに泣通したということが、たゞごとでないと思うと急に嫉ましいような心持が加わり、小歌のことか婢のことか、小歌のことらしくない、婢のことらしくない、それでも何方かのことだとして見ると、疑いは小歌の方に深く存り、存りながら小歌ではあるまいように断定てしまいたく、打明けて云えば、小歌に情郎でもあるように考えられて、そしてそんなことの無いのを肚で祈って居たのだ。
脂を拭いた紙を寝覚の端へまるめ込んで、手を手巾でもんで居るその手巾は、過日の白茶地ではないが、貞之進はそれに妙なことが思い出されて、じっと小歌の顔を看上げると、そうとは知ぬ小歌はふいと立て廊下へ出たが、その時広間からも芸妓が出て来て、一人かえと云たのは明かに聞えたが、えと振返った小歌が眉を寄たのは障子が隔てゝ見えなかった。貞之進は疾うから※頭というものが気になり、それを受るべき小歌の目の前で包むことが出来兼、世間の人はどういう振合に遣るものかと、自分から面白くもない心悶えの種を造って居たが、小歌の出て行ったのをこの時ばかりは幸いと思ったけれど、婢がなお動かずに居るのでどうも手が出し難く、さればと云て遣らずにも居られないので、もじ/\として居ると、何と思ったか婢もまた立て行たので、この間にと皺のない紙へ皺をつけて、両女の坐って居た辺へ投出した、小歌は手水に下りたので、帳場の前で箱丁に何か云って居る処へ婢が来て、歌ちゃんあの方のお名前を知って居るかえ、いゝえ知らないよ過日鳴鳳楼で大勢の時お目に懸ったばかり、伺って御覧な、何とか云んだっけ、狡いよと笑いながらまた連立て登って来たが、その時広間の客は騒飽きて帰る所で、送出す芸妓の一人が、小歌がこちらへ這入ろうとして開た障子の隙から、通りがゝりに振向いて行たのを、貞之進はすでに見られてからなお顔を隠したが、残して在た一つの紙包を、箱丁へと云て婢の前へ投るように出したゞけは、秋元の女房が与って力ある所で、お礼をと婢が促して小歌と共に改めて手を支えた時、貞之進もこれに答礼せねばならぬような気持で、自然に頭が低ったように見えたのも奇であった。御飯はと婢が尋ぬるに、やめますと云えば、ぽっちり召上れ毒ですよと、傍から口を添た小歌の詞に、大真実が籠って居るように貞之進は請取れて、茶に漬てやっと一椀の飯を済した跡で見れば、最初一寸口をつけた椀の物の外の、白い方の魚軒が二片程箸に懸ったばかりだ。
帰り際に臨んでまだお早いでは御座ませんかは、かゝる土地の習いだけれども、それを貞之進は誠にしていつまでも此家に居たく、勘定と云たいのが云えずにむずついて居る間に時刻が移り、月高く屋の棟に隠れて、鳴る鐘は浅草の十一時、風に乃の声も伝わらない、お車はと婢に問れて、思切って勘定をと云うと帳場ではすでに出来て居て、車より先に書附が来た。請取と剰銭とを盆に載て出され、いつぞや同宿の相原が、どこかで剰銭は入らないよと云たのを憶い出し、わずか六銭という剰銭を、この淀文へ残すもおかしく取るもおかしく、しばらくそのままにして居る傍から、どうぞ御近日と今日は「どうぞ」を判然云われて、それを汐に立って婢があなたと呼んだは、その剰銭を請取へ包んで呉れたので、今となって残したのが気まりが悪く、急わしく袂へ投り込んで梯子を下りる後から、帽子を持て随いて来た小歌が、帽子の内側に名刺の挾んであるのを認け、これはあなたの、そうなの、目賀田さんと云うのと、のゝ字三つに念を入れて推されたので、恥しくもないことにぽっとし、お立ですよと婢が高く呼ぶと、ばた/\と男女二三人送りに出たのでまた縮くみ、玄関へ下立つと今日周章てゝ穿ちがえて来たものか、銭湯行の下駄が勿体らしく揃えてあるので、これにも狼狽えて戸口へ出て、柳という字を赤く太く提灯へ書いた車へ乗ろうとして、気の惑いか軾棒に躓き、御機嫌克うという声を俯いて聞いたが、それから本郷へ帰って夢は一層巧になった。