九
遊びというものゝ味が真正に分ったなら、遊びは面白いことでなくて恐いことである。恐いことを知って遊ぶ者に過ちは無いけれども、それまでに一度面白いことを経ねばならぬので、過ちはその時に於て多く発生する、さりとて遊ばずに恐れる者が人間かと云えば、遊ぶ道のある間は、遊んで恐れる者の方が人間である。一夜淀文に強て酒盃を受けたぐらいでは、遊びはまだ嘗めるほどにも到らないが、それでも自分にはどこか面白い所が有たかして、貞之進はその翌日も出懸けたくなったが、もしそれに面白い所があったのなら、それは遊びが面白いのではない、女が面白かったので、唾するほどにも思わぬ小歌の詞が、句々珠のように光って感じられ、こうした時の目元、あゝした時の口元、別れてからも一々眼に浮び、ぜひですよとまたの入来を祈られて、こちらでこそぜひ逢いたく、その当座金のある身は、一日が半日、半日が一時でも行かずには居られない、二日目となれば出這入の勝手だけ分って、淀文の門口まで車で乗込み、小歌さんですかと婢が問うに、前日で仕た返詞が、すぐにと今日は口から出、三日目は向うから問ぬ先に、小歌をと命令けるほどになって、小歌が隔ての垣のだん/\取れるに随い、寡いながら、心易く話が出来るようになった。
すると、いよ/\逢いたい、ます/\逢いたい、毎日毎晩離れっこ無しに逢いたい、それは自分が小歌の笑ましげな顔を見ることが、無上の楽みであると同時に、路花墻柳の芸妓の勤、どういう家へ今日は行ったか、どういう客に今日は聘れたか、もしその家にもしその客にと、底の底までつまらないことが気になって、それで一日も自分が逢ずには居られないのだ。よもや貞之進にそんな思惑があろうとは、同宿の悪太郎輩も心附かなんだが、秋元の女房は近来貞之進の帰宿が遅く、預りの金をことごとく請戻したことから、羽織帯小袖の注文石鹸香水の吟味が内々行われることを考え合せ、密かに目を注けてあやしんで居たものゝ、それでも単身柳橋の酒楼に馳向うとは夢にも思わなかった。
勘定を御序にと云れるようになれば、遊びはもっとも入易いが、それが後に囲みをもっとも出難い所で、お気の毒さま今日は六畳が塞がってと、表寄りの九畳へ案内された貞之進は、かつて寄席で買て来た古い奴を、浮雲い調子で小歌に話懸けて居る処へ、面白そうですねと例の婢が這入って来て、その話を中途で引取ってしまったが、そうなると貞之進には詞が出ない、又初めの沈黙に帰って居ると、婢は小歌の頭髪を見て、洗ったね何だか低ったようだよそれに鬢がと云って手を掛けようとするを、何でもいゝんだよこれが好きだって、おやそうだれが、良人がさ、あきれるよ良人があり過て当りの附かない方じゃないか、千いちゃんじゃア有るまいしとともに笑った。貞之進の黒の羽織の疑念がなお存する処へ、良人という詞を聞て今日は妬ましいよりは心細いように思われ、いつもの如く後の床柱へ凭れて、虚と実と二つの竜が肚裡で闘って居ると、歌ちゃんはこの頃のろけ癖が附いたよと婢が云うを、のろけたッて宜じゃアないか亭主の前でのろけるのだものと立どころに応えて、貞之進の淋しそうな顔をじろりと視ると、あなたいつ歌ちゃんをお神さんになすったの、御披露がありませんねと笑って同く婢も貞之進の顔を視た。貞之進はそれが冗談に聞たくなく、又聞かれずに心懸に顔赧らめ、困り者ですとタッタ一言の調子が合せられずに、虚実の闘いは一先消滅し、かえってそれがために陰然地を造って、小歌を二無き者とそこへ祀ってしまった。
歌ちゃん昨日どこへ行ったのと婢が問えば、そうそうあすこで逢ったのね姉さんはと小歌が問返す、鳥口さんのお宅へ、儂はおかしい所へ行ったの、どこおかしい所ッて、写真さ、撮影て来たのお見せなと云えば、まだ来ないワ先のがあったか知らんと紙入を取出し、厭なんだよ額が出張ってと云うを婢は覗き込んで意味なく笑って居たが、いきなり引奪って貞之進へ突附け、あなたに上げましょうと婢が出したを、それはいけないのよと小歌が取返そうとする、遣るまいとする、早くお取んなさいと婢が手を伸べて差附けるに、貞之進はどちらともなく躊って居ると、婢は小歌を辛く防いであなたと云って投て寄越した。貞之進は手にも取上げず落たまゝ瞻めて居たが、小歌はいけないのいけないのと云って、そしてそこまでは取りにも来ない、かまわないのですよと婢が拾って、立際に渡して呉れたので、やっと袂へ入れて貞之進は持帰ったが、それからこの写真は、机の抽斗の錠のある方の奥へ蔵まわれ、日に夜に幾度か引出されて、人の足音のするまではながめられ、そして或時、実に或時、肌に着けられて寝たこともあった。