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私たちが羽田をたつ日、東京は濃霧であった。私が東京で経験した最も深い霧。半マイルの視界がないと飛行機の離着陸ができないそうで、八時にでるはずの福岡直行便が十二時ちかくようやく飛びたった。しかし乗客一同出発をうながしたり怒ったりする者が一人もいなかったのはイノチの問題だからやむをえない。むろん私も怒らない。待合室で待っていられる私たちはむしろ幸福なのだ。着陸できない飛行機が何時間も上空を旋回している。さぞ辛いだろうなと思った。私はこのDC6型という飛行機で東京上空を旋回し、たった十分間で乗客全員がのびた経験があるのだ。半数以上ゲロをはいたものだった。
出発がおくれたので、宮崎行きの旅客機に乗りおくれ、汽車にもおくれて、その日は小倉で一泊しなければならなかった。こんな旅もまた面白いものだ。
私がこの仕事の第一回目に日向を選んだのは、旧友の中村地平君が宮崎の図書館長をしているからだ。本も借りられるし、土地の話も教えてもらえるし、こんな便利なことはないというわけで、一も二もなく日向にきめた。それに冬の旅は南に限る。
宮崎は小ヂンマリした明るい町。非常に道路の幅がひろいけれども、小ヂンマリという以外に言いようがないほど可愛いい町だ。私が小学生のころ、県庁所在地で市でないのが二つあった。宮崎と浦和だ。いまもってそんな感じの町。十二月中旬だったが、町の中に冬の気配が何一ツ見られない。図書館の前に県庁があった。県庁の庭に三百人ほどの自由労働者が赤旗をふってデモをやってる。神話の国へきていきなりデモにぶつかったのにはおどろいたが、さすがにノンビリしたもので、警官なぞ一名も出動していない。殺気だったところがなくて、南国はデモも明るかった。
日向は天孫降臨の伝説の地。しかし日向の高千穂町を主張する宮崎県と霧島山の高千穂峯を主張する鹿児島県とが高天原の本家争いをしているのでも分るように、伝説を史実化しようとするのが無理だ。伝説はこれを伝説だけのものとして受けとるのが健全だ。先祖の残した文化的遺産として軽く受けとれば足るのである。
伝説として受けとれば日向のそれは南国にふさわしい明るさにみちている。山の幸、海の幸の話。竜宮へ行って結婚する話。また十六歳の日本武尊が女装して熊襲を退治する話。この熊襲がいまわの言葉に、あなたのような強い人にははじめて会った。あなたの強さは日本一だからヤマトタケルと名のりなさいと云って死ぬ。いまの九州にもこういう無邪気な豪傑が居そうな感じではないか。
阿蘇から日向に入る古い道筋に高千穂の町がある。ここには岩戸村があったり、天の岩戸があったり、高天原も天安河原もみんな揃いすぎるほど揃っている。しかし実際に土地の神様と目される高千穂神社は一応祭神が神武天皇の兄三毛入野命となっているけれども、実際は土地の豪族高千穂太郎を祭ったものらしく、太郎の子孫は三田井姓を名のって後ながくこの地の首領となり今も高千穂の中心は三田井を地名としているのである。
日向の山間の村々には今も神楽を伝承し、それが彼らの主要な娯楽であること今も昔と変らない。その夜神楽は昔は三日三晩もつづいたものだそうだ。神楽歌には土地の人々も意味を知らない国籍不明の文句が多々あって、たとえばトウトウタラリトウタラリというようなのを河口慧海という人がチベット語だと云った。この説は眉ツバモノだと他のチベット学者の説もあって真偽は知らないが、高千穂神楽の日の舞いにはシバ荒神などというのが現れてなんとなく印度の荒れ神様との関連などを感じさせるものがあり、むかし神宮寺のあった地名をセ別当と云いならわしており、セの字に当る漢字は古老も知らない。高千穂神社の御神体は奈良朝以前の作とつたえられる素人の手づくりのような木彫で、女神の像は着物が左前であったり、ここには大陸から流れてきた流浪の遊芸人がかなり土着したのではないかと見られるフシがあるようだ。神楽と同じぐらい古いという熊襲踊りというのもある。
高千穂には穴居の土グモが住みついていたという。また熊襲は退治されるばかりで朝廷の味方になったという記事はないらしいが、大隅薩摩の隼人族は古い昔のころから朝廷に招かれて遊芸に奉仕しており、飛騨のタクミが大工の奉仕をするように遊芸を専門に招かれて演じていたのである。遊芸のダシモノが神話などにふれるのは当然であるから、大隅日向の遊芸人が天孫降臨の地を自分のふるさとの話として演じても不思議はない。天孫降臨の伝説が日向に結びついてしまったのは、案外こんなわけではないかと思うのである。
高千穂の人々はむしろ甚しく温和で素直で熊襲的な気風はないのである。熊襲的なところをあげれば三日三晩も夜神楽をぶッ通しで踊りぬく遊び好きなところと、色情に対して開放的な明るさであろう。神楽にも熊襲踊りにも交接を直接踊りにとりいれた痛快で陽気なものが少からぬ由で、見物衆が眠む気を催したり退屈を表しはじめるとちょいとその踊りを用い、また女子や子供にはそれをもって人生案内とし、彼らの人生が豊かであるように指導の役目を果しているのだそうだ。
「ヒエツキ唄」で有名な椎葉は高千穂から山越えして十八里の隣村であるが、ここは女の里として名高いところ。高千穂の若い衆は神楽など見せに行って椎葉の娘を見そめると、往復三十六里の山道を物ともせず夜道をいそいでランデブーに通うのは昔も今も変らぬ由。疲れるとその場にゴロ寝して休み、また道を急いで女のもとに通う。今も昔と変らずもっぱら山越えで、バスで通うような者はない。またバスではいったん海へでて別の谷川沿いにまた山中深くわけいるのだから歩く方が時間的にも早いぐらい。この土地の人々の生活は太古さながら、大自然さながらだ。椎葉では客人に娘を伽につけてもてなす風習が残っているのである。「ヒエツキ唄」は流行歌では哀調切々だが、実はアイビキの唄だ。男の合図がきこえるから馬に水をやるとごまかして男のところへ行きましょうという唄だ。土地の人々の唄い方では哀調よりも豪快なものの方が強くでている。高千穂にのこる「刈干切り唄」の方がむしろ哀調が高いが、これは唄い方がむずかしいからそのままでは流行歌になりそうもない。
往復三十六里の山道をアイビキに通う風習というものも日本ではスケールの大きいアイビキであろう。彼らは天性的に健脚なのである。彼らの農家は屋根に千木をつけている。これは熊本県の阿蘇山中の村々においてもそうであるが、彼らが本来このような住居をしていた種族と断じることは危険であろう。彼らにそのような住居を教えた人を想定することもできるからだ。彼らの気質は素直で温和であり、人の教えをよくきいて、そして自力で改良することを知らないようなノンキな風格があるように見える。体形は概して小柄で一見弱々しく、三十六里のアイビキや、夜通しの神楽や、開放的で豪快な色おどりなどは想像できないようなところがおもしろい。この神楽は高千穂ばかりでなく、日向の山中の部落には所々に行われているのである。
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天孫降臨や神武天皇の説話についてはこれを神話もしくは伝説という以上に云うべき筋合のことではないが、日向に豪族が住んでいたことはその多くの古墳群によって知ることができる。群馬県にも日向に劣らぬぐらい古墳が多くお隣りの足利にはいくつかの山々が全部小古墳でおおわれているような大密集地帯もあって、おしなべて諸国の多くが昔はそのようであったろうと私は考えているのだ。
大和朝廷の勢力が定まるまでは日本いたるところに豪族同士の争いや戦いが行われ、私の考えでは勝者は必ず敵の祖先の墓などをあばいて敵方の荘厳の絶滅をはかったに相違ないと思うのだ。三輪神社は山が御神体であるが、私はそこに大国主命の墓があって敵方に破壊されたのではないかと考える。大国主命が負けた神様であることからその想像をしてみるのだが、日本では山上墳がないと云われているけれども、飛騨にも日向にも山上の古墳はあるし、赤城山中にはヒツギ石という巨石があってここには明かにヒツギの字を用い、赤城神社の神様の墓の石だろうと土地の人々は云い伝えている。破壊された墓である。蘇我入鹿やエミシが巨大な墓をつくったことは分っているがそれは今日どこにも見ることができないことなぞによっても、負けた豪族の墓があばかれ破壊されてその種族の荘厳の絶滅がはかられたであろうことは考えられるであろう。私は諸国の山上に祭祀趾と伝えられる石組み様のものの中には破壊された古墳がかなり多いのではないかと考えているのである。たとえば信州なぞにはその国の伝説や歴史なぞから当然大古墳がなければならぬと思われるところにそれがないということも、信州が負けて亡ぼされた人の国であり、今日伝わるものが少いということが、むしろその帝国が相手にとって大敵だったアカシになるのではないかと考える。
その逆に、今日古墳群が数多く残っているところは勝った側の国であり、つまりは天皇家に関係のある国、天皇家に直接ではなくともその天皇家の功臣等に関係の深い国、そういうように見てとってよろしいのではなかろうか。今の日本に古い時代の古墳が見られないということは、勝ったり負けたりのうちに全部亡び、ちょうど野球の勝抜戦と同じように全部亡び、天皇家といえども勝ちのこる前には一再ならず負けたこともあって、大和朝廷の勢力が定まる前の全ての豪族の残した荘厳が全滅したのではないかと思う。
日向の古墳群はどうやら四五世紀をさかのぼることができないらしいが、そして大和の古墳群もそれ以上にさかのぼることができないらしいが、それが天皇家の勢力が定まった年代でもあって、そして日向が天皇家に浅からぬ関係があるであろうことは神話よりも古墳群が無事のこっていることで想定してよいのではないかと考えるのだ。
私のこの種の考え方は一文士のあまりにも文学的な歴史観にすぎないのだが、人間が為すであろうこと、行うであろうことの考察から歴史を考えてみることも、一つの試みとして有ってもよかろうと思うのである。
いったいに日向は山の国である。しかし古代の文化は洪水の難がないような山中からひらけてきたもので、神武天皇誕生の地と伝えられる狭野神社のあたり高原の地も、高千穂の村々もいずれも洪水の難がなく、しかし水利も悪くないようなわりに恵まれたところであり、それは大和の飛鳥などについても特に云えることであろう。
私が今度の九州旅行で呆れたのは、どこへ行っても水害のあとが生々しいことであった。高千穂へ行く道などは特にひどくて自動車は難行に難行したが、山奥の高千穂へくると、ここにはもう水害がない。田畑はいかにもみのりゆたかな感じで、それは高原の地についても同じであった。これらの山地では最高千二百ミリから千ミリの降雨があったそうだが、それでもさしたる被害はなかったという。めぐまれた土地なのだ。西都原古墳群のあたりも台地がつづき、ここは平野の中央に位しての台地だから相当な豪族が住んでいたのは当然で、気候から云っても日本で一等といってよいほど住みよい土地だ。私も中村地平君のようなノンキな仕事があれば日向へ土着したいと思ったほどである。
なんといっても、日向の旅では高千穂がおもしろかった。高天原の伝説のせいではなくて、そういう伝説の地に住んでいる人々の生態が独特のものであったからである。それは天孫とも関係がなければ、伝説中の熊襲にも似ておらぬからである。一番似ていることは流浪の遊芸人が土着したような面影である。
伝説による天皇家の家来の中で日向もしくはその附近の出の種族かも知れないと考えられるものに共通した一ツのことがあるのである。たとえば兵隊の久米部である。または夜間皇居を守ったという佐伯である。または遊芸に奉仕した隼人である。彼らに共通の一ツは身分は低いけれども皇居の守護とか遊芸とか料理人等に奉仕し、直接天皇の身辺のことに従事してその安危を支えるような奉仕についていることだ。しかも身分は低いのである。そして異形であり、しかし温和もしくは勇敢であるが忠誠で、その心ばえを愛されているのである。