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私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。
私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。
だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。
子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。
ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。
私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。
私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。
私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。
私の母を苦しめたのは貧乏と私だけではないので、そのころは母に持病があって膀胱結石というもので時々夜となく昼となく呻り通している。そのうえ、私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違わぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上なのである)この三人のうち上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持って遊びにくる、私の母が半気違いになるのは無理がないので、これがみんな私に当ることになる。私は今では理由が分るから当然だと思うけれども、当時は分らないので、極度に母を憎んでいた。母の愛す外の兄妹を憎み、なぜ私のみ憎まれるのか、私はたしか八ツぐらいのとき、その怒りに逆上して、出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違い)を追い廻したことがあった。私は三つ年上の兄などは眼中に入れていなかった。腕力でも読書力でも私の方が上である自信をもち、兄のような敬意など払ったことがなかった。それほど可愛らしさというもののない、ただ憎たらしい傲慢なヒネクレ者であった。いくらか環境のせいもあっても、大部分は生れつきであったと思う。そのくせ卑怯未練で、人の知らない悪事は口をぬぐい、告げ口密告はする、しかも自分がそれよりも尚悪いことをやりながら、平然と人を陥入れて、自分だけ良い子になり、しかも大概成功した。なぜなら、子供のしわざと思えぬほど首尾一貫し、バレたときの用心がちゃんと仕掛けてあり、大概の人は私を信用するのであった。私は大概の大人よりも狡猾であったのである。
八ツぐらいの時であったが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰い子だと言った。そのときの私の嬉しかったこと。この鬼婆アの子供ではなかった、という発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいったとき、どこかにいる本当の母を考えていつも幸福であった。私を可愛がってくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであった。それは後年、母の口からきいて分った。母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変ったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛していた子供はなかったのである。母のためには命をすてるほど母を愛していた。その私の気質を昔から知っていたのは先妻の三番目の娘に当る人で、上の二人は母を殺そうとしたが、この三番目は母に憎まれながら母に甘えよりかかっていた。その境遇から私の気質がよく分り、私が子供のとき、暴風の日私が海へ行って荒れ海の中で蛤をとってきた、それは母が食べたいと言ったからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとってきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかった。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとじこもったが、そのときこの姉がそッと部屋へはいってきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違うこの姉が誰よりも好きだったので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかった。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されていた。他の誰にも愛されていなかった。
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私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じていた。私は父を知らなかった。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであった。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられていることが私にとっては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであった。
父は誠実であった。約をまもり、嘘をつかなかった。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかった、父は人に道をゆずり、自分の栄達をあとまわしにした。それは全て父の行った事実である。そしてそれは私に於てその逆が真実である如く、父に於ても、その逆が本当の父の心であったと思う。父は悪事のできない男であった。なぜなら、人に賞揚せられたかったからである。そしてそのために自分を犠牲にする人であったと私は思う。私自身から割りだして、そう思ったのである。
私は先ず第一に父のスケールの小ささを泣きたいほど切なく胸に焼きつけているのだ。父は表面豪放であったが、実はうんざりするほど小さな律義者でありながら、実は小さな悪党であったと思う。
私がなぜ殆ど私の無関係なこの老人をスケールの小ささで胸に焼きつけているかというと、私は震災のとき、東京におり、父はもう死床に臥したきり動くことができなかった。私は地震のときトラムプの一人占いをやっていると、ガタガタゆれて壁がトラムプを並べた上へ落ちた。立上って逃げだすと戸が倒れ、唐紙、障子が倒れ、それをひょろひょろとさけながら庭へ下りると瓦が落ちてくる、私は父を思いだして寝室へはいると、床の間の鴨居が落ちており、そこで父の枕元の長押を両手で支えていたことを覚えている。
その翌日であったと思う。私は父に命ぜられて火事見舞に行った。加藤高明と若槻礼次郎を訪れたのである。若槻礼次郎邸では名刺を置いてきただけだったが、加藤高明のところでは招ぜられて加藤高明に会い、一中学生の私に丁重極まる言葉で色々父の容態を質問された。私はもう会話も覚えておらぬ。全てを忘れているが、私はこの大きな男、まったく、入道のような大坊主で、顔の長くて円くて大きいこと、海坊主のような男であったが、ひどく大袈裟な物々しい男のくせに、私と何の距てもない心の幼さが分るようであった。私の父は頑固で物々しく気むずかしく、そのへんの外貌は似たところもあったが、私の父の方がもっと子供っぽいところがあった。然し私の父の本当の心は私と通じる幼さは微塵もなかった。父は大人であった。夢がなかった。加藤高明には、妙な幼さが私の心にやにわに通じてきた。私はすぐホッとした気持になっていた。そして私の父のスケールの小ささを痛切に感じたのである。私はそのとき十八であった。