前篇 マルチル・マルチレスの数々
一五四七年一月、一艘のポルトガル商船が九州の一角に坐礁して引卸しにかゝつてゐると、丘の上から騎馬で駈け降りてきた二人の日本人があつて、手拭を打ちふり、その船に乗せてくれないかと叫びたてゝゐる。
四名の水夫がボートを下し岸へ漕ぎ寄せて聞いてみると、事情があつて追跡を受けてゐる者であるが、かうしてゐるうちにも追手の者が来さうであるから、船に乗せて一時の急を救つてもらひたいといふ頼みである。
水夫達は当惑したが、見れば一人はかねて九州ヒヤマレゴ(該当地不詳)の港で面識のある者であるから、とにかくボートに乗せて本船へ漕ぎもどることにした。
ところへ同じ丘の上から十四名の騎馬の者が現れてきて、二人の者を渡さなければ鏖殺しにしてしまふと敦圉いて罵り騒いでゐる。そこへ又九名の者が駈けつけてきて、追手の数は二十三名となつた。
水夫達は驚いて急ぎ本船に漕戻り、二人を乗せて印度へ向けて立去つた。なかの一人を弥次郎と言つた。
この船の船長はかねて印度の開教者フランシスコ・サビエルの徳を慕ふ者だつたので、弥次郎の行末をあはれみ、改宗をすゝめて、サビエルに会ふ手引をした。その年十一月、弥次郎は馬拉加でサビエルに会ふことができた。
印度土人は無智野蛮で、生活は本能のまゝであり、懶惰狡猾で信義がなかつた。基督教のいましめは彼等にとつて死を意味した。サビエルは布教の前途に失望の念を抱かざるを得なかつた。
さて、弥次郎と暫らく起臥を共にして指導してみると、彼の天性怜悧であり、信義に厚く、信仰は又熾烈である。日本人とはこのやうな者であるなら、日本こそ布教すべき地であるとサビエルは思つた。弥次郎を遣はされたのも日本を伝道せよとの天父の聖旨であらうと信じ、こゝに日本伝道を決意、弥次郎をゴアの学院へ送り、諸般の準備をとゝのへた。弥次郎はゴアで洗礼を受け、その教名をパウロと言つた。
トルレス神父、フェルナンデス法弟、その他の者を従へ、パウロの案内によつてその故郷鹿児島へ上陸したのは一五四九年八月十五日、聖母まりや昇天祭の日であつた。
弥次郎の縁者知己はその転宗を怪しまず、遠く海外を遍歴した勇気を賞讃。島津貴久はパウロ弥次郎を引見して、跪いて聖母まりやの絵姿に礼拝し、改めてその油絵を懇望したが、他に代るべき絵姿がなかつたので応じるわけにいかなかつた。
一般に日本人は宗教に淡泊である。異体の知れない唐天竺の神様でも、神様とあれば頭の一度や二度ぐらゐいつでも下げるに躊躇しない代りには、先祖代々の信心にもそれほど執着してゐない。
日蓮が大きな迫害を受けたのは、彼自らが他宗を非難したからであり、基督教の布教でも、仏僧に宗論を吹かけ、仏僧の堕落を難じ、事毎に異端に向つて敵対を示さなければ、彼等の受けた迫害も尠かつたに相違ない。
一般の善男善女はサビエル一行が天竺から来たときいて、仏教の本場の坊主が来たと思つた。
最も磊落なのは禅僧であつた。彼等は宗派のひとつぐらゐ増えたところで馬耳東風のたちだから、天竺渡来の坊主共をことごとく歓待し、大いに胸襟をひらいてみせた。
鹿児島に福昌寺の忍室といつて博識の聞え高い老僧があつた。サビエルはこの禅僧と親交を結び、屡々往来したが、或る日数人の坊主が坐禅を組んでゐるのを見て、あれは何をしてゐるのかと訊ねた。
「さればさ。あした貰ふ布施のことやら女のことでも考へてゐるのだらうて。どうせ碌なことは考へをらん奴等でな」と年老いた禅僧は磊落に答へてカラ/\と笑つた。
サビエルの真摯一方の精神に本来無東西の磊落は通じる筈がないのである。禅僧は己れの神も苦業も信じてはゐないと断じ、仏教のこの大いなる不誠実を忽ち本国へ報告した。
豊後の国で深田寺のなにがしといふ禅僧はじめ数名の坊主と会見したことがあつた。
深田寺は禅問答の要領で、サビエルの顔を熟視しながら、見覚えのある顔だが貴公はその覚えがないかと言つた。
もとより知らない顔だから、その覚えはござらぬとサビエルは答へた。
すると深田寺は失笑して旁の坊主に向ひ、この仁は見覚えがないと言ふが、知らないふりをするのは奇妙千万なと語つて、「貴公は千五百年前、比叡山でをれをつかまへて絹五十反売りつけをつた仁ではないか。今度もあの時の残り物を商ひに来をつたのだらう。ワッハッハッハ」と言つた。
サビエルは禅問答の要領など聞知してゐなかつたから、仏僧共の無智傲慢な言説に唖然として、貴殿はいくつになられるかと訊ねた。
深田寺は五十二になると答へた。
サビエルはこれを聞くより儼然坐を正して仏僧を睨まへて、五十二歳の者がどうして千五百年前に絹を買ふことができたか、又、比叡山は開かれてから千年にも満たない山だといふではないか、とあたりまへの屁理窟を言つて、不謹慎な言説を責めつけた。約束の違ふ言ひがゝりだから、禅僧は語に窮したとある。
禅問答には禅問答の約束があつて、両者互に約束を承知の上でなければ、飛躍した論理も悟りも意味をなさない。そこでかういふ問答の結果がどうかと言へば、仲間同志の禅坊主だけ寄り集つて、彼奴は悟りの分らない担板漢だなどと言つて般若湯で気焔をあげてもゐられるけれども、然し、かういふ約束の足場は確固不動のものではないから、内省の魔が忍びこんでくる時には晏如としてはゐられない。辛酸万苦して飛躍を重ねた論理も、誠実無類な生き方を伴はなければ忽ち本拠を失つて、傲然自恃の怪力も微塵に砕け散る惨状を呈してしまふ。サビエルはじめ伴天連入満の誠実謙遜な生き方に圧倒されて、敬服せざるを得なくなるのである。
仏僧の切支丹転宗は相継いでかなりあつたが、その者は禅僧であつたといふ。
忍室もサビエルの誠実な生き方に心服、自力の本拠を失つた一人であつた。後年鹿児島を訪れた法弟アルメーダに向つて、自分には禅僧としての地位名望があるので外聞をはばかつて控へてゐたが、死に先立つて洗礼を受けたいものだと言ひだした。老僧の孤影悄然木枯の荒野に落ちたやうに哀れであるが、このあつさりした転向ぶりはカトリックの執拗な信仰できたへたアルメーダには判らないから、インチキ千万な坊主だと思つて拒絶してしまつた。
京畿地方を開教したビレラが将軍足利義輝に謁見して布教の免許を受けることができたのも、建仁寺の一禅僧の斡旋であつた。
サビエルも之に先立つて中国から京畿を廻つたが、当時は戦乱の最中で、京都は衰微の極に達し、布教どころではなかつた。この道中、喜捨はすべて貧民に頒ち与へ、自分はボロ服を着て、野宿をしたり食物にも事欠きながら、乞食のやうな旅行をつゞけて説法した。熱帯からやつて来たので特に寒気に苦しんで屡々発病したが、乗物を用ひず、ミサの祭具を詰めこんだズダ袋を背負つて歩いた。欧羅巴にゐた頃から伝道の生涯をかうして押通してきたのである。諸方で信者はできたが、前途の隆盛を望み得るといふ程ではなかつた。
ところへ一艘のポルトガル商船が豊後へ来着して、当時山口に布教中のサビエルを豊後に招いた。
サビエルは招きに応じて例の通りのボロ服にズダ袋を背負ひ途中に発病してフラ/\と辿りついたが、ポルトガル商船の方では六十三発の祝砲をぶつぱなし、盛装したポルトガル商人が騎馬の大行列をねつて、彼等の敬愛する東洋の布教長の来着を迎へた。一行は病み衰へたサビエルを見て切に乗馬をすゝめたが、サビエルは肯じないので、一同も馬から下りて、聖師の後から馬の轡を引つぱつて戻つてきた。
府内の城では砲声をきゝつけて、ポルトガル商船が海賊と戦争を始めたものと考へた。早速家老を大将に加勢の一隊を差向けたが、サビエル来着の祝砲と分つて復命。改めて迎への使者を差向けたところが、ポルトガル商船の方では日本人の気質を呑込んでゐて、十五発の大砲を放つて使者の来着に敬意を表したから、使者一行は大満足で、サビエルの威光を肝に銘じて引下つた。
サビエルが領主大友義鎮に謁見の日が輪をかけた騒ぎであつた。砲声殷々と轟く中に、船長ガマを指揮官として、先頭に聖母の像を捧げ、ポルトガル商人水夫総勢揃つて金銀の鎖で飾つた色とりどりの礼服をきて行列をねり、左右二列の楽隊を配し、錦繍の国旗をひるがへして府内城下に乗込んだ。進物として異国の珍器を数々贈つたから、大友義鎮はじめ家臣一同絶大の敬意を払つてサビエルを迎へ、基督教は一時に上下に浸潤した。
ここに於てサビエルは、日本人は威儀の旺なる者を敬ひ、又進物を愛することを痛感し、今後の布教にこの気質を利用すべしと悟り、爾来続々来朝の伴天連はこれを日本布教法の原則のやうに採用した。
始めて信長に謁見したのは神父フロイスであつた。
一五六九年春光麗な一日のことで、かねて尽力を頼んでおいた和田惟政から俄に三十騎の迎へが来て、即刻出頭せよと伝へた。フロイスは黒い法衣をまとふて二条城の工事場へ行つた。
信長は狩衣をきて、堀にかゝる橋の橋板の上に立ち、工事を指図してゐたが、フロイスが遥か遠い所から敬々しく一礼するのを見て、さしまねいた。フロイスが近づくと日が照るから帽子をかぶつてゐても構はないと言つた。
信長はフロイスの年齢や出産地やどこで坊主の勉強をしたかといふやうなことを訊いたのち、日本人がお前の教法を信じなかつたらお前は印度へ帰るのかと尋ねた。フロイスは答へて、たとひ一人でも信じる人がある以上は決して日本を去らないと言つた。談偶々仏僧の上に及んだところ、信長は大きな怒りを表はして、彼等は驕奢放逸に耽り愚民の浄財をまきあげて酒食に費してゐるものだと大声で罵つた。会談二時間に及んで、京都居住と布教の免許を与へた。
フロイスは信長に就て次のやうに書いてゐる。
「信長は尾張三分の二の主たる殿の二男で、その天下を統一し始めた頃は凡そ三十七歳であつた。体格は中背で瘠形で、髯は少く、音声はよく響き、非常に戦に長じ、武術に身を委ね、威厳を好み、又賞罰に厳であつた。苟も己れを侮る者があれば仮藉しない。然し事柄によつては開闊で、又慈心にも富んでゐた。睡眠時間は少く、早起であつた。貪る心はなく、決断に富み、戦闘の術策に於ては甚だ狡猾であり、恐しく又強く怒る。但し必ずしも常に怒るのではない。部下の云ふ事に従ふのは稀で、又多くは之を用ひず、何人も彼を恐れ又尊敬した。酒は飲まず、小食であり、起居動作は極めて鷹揚で、顔付は尊大であつた。日本中の大名等に対して、何れをも軽蔑して、彼等と話すには、自分の部下に対する様であつた。気宇が大きく、又忍耐に富み、戦が不利でも驚かない。理解がよく、判断は明確で、神仏を拝む事や、異教の卜占や、迷信的習慣を総て軽蔑した。名目の上では始めは法華宗に属してゐるやに見えたが、権勢の加はるに及んで、あらゆる偶像や神仏の礼拝を軽蔑し、又或る点では禅宗的見解を抱いて、アニマの不滅や、来世の賞罰等を考へなかつた。その家居には、非常に清潔を好み、何物でも極めて気を配つて順序よくした。又人が話をするのにぐづ/\したり、長口上を述べるのを甚だしく嫌つたが、極めて卑賤な者や、最も卑しい奴僕に対しても心おきなく話をしかけた。特に好んだ事柄は、有名な茶の湯、良馬、利刀、鷹狩で、又上下の別なく、裸体で角力をとるのを見て喜んだ。何人でも刀を帯びて彼に近づくのは禁物であつた。然しどことなく陰鬱の暗影があつたが、困難な仕事にかゝれば大胆で恐るゝ所なく、言下にその命を奉じた」
一五七三年、信長天下を統一。仏教を断圧し、諸寺を焼き、僧兵を打ち亡し、切支丹を擁護した。
信長は基督教を信仰してはゐなかつたが、切支丹を擁護し、仏僧を断圧するのが彼の天下統一に便利であつたし、坊主の堕落を憎んでゐたので、清貧童貞に甘んじて私慾なく貧民病者のために奔走する伴天連の誠実を高く買つた。
或る日のこと、信長は京都へ来たついでにオルガンチノとロレンソを招いて、彼等を別室へ伴つて侍臣を遠ざけたうへ、お前達は常日頃説いてゐる神の存在だのアニマの不滅だのといふやうなことを本当に信じてゐるのだらうか、今日は隠さず打開けてくれないかと秘かに訊ねた。いつぞや同じことを仏僧に訊ねたところが、彼等は仏の存在も来世も信じてはゐないが愚民を諭すに便利だから方便として用ひてゐるのだと答へ、切支丹の伴天連だつて同じことで、嘘と知りながら信仰をひろめてゐるのだと附加へた。信長も神仏の存在だのアニマの不滅だのといふやうなことは馬鹿々々しくて信ずる気持になれなかつたので、学識高い伴天連たちが愚にもつかないことを甚だ熱心に説教するのが不思議でならなかつたのである。
オルガンチノは之をきくより旁にあつた地球儀をとりあげ、伊太利亜の地を指して、これは自分の生れた国伊太利亜であるが、本国を遠く離れ、数々の危険を冒して万里の波濤を渡り、知るべもない異国へ神の教へを弘めるために来るからには、もとより一命は神に捧げてしまつてゐる。閣下も良く御存知のやうに自分達は斎戒窮苦の生活をまもつて貧民病者のために又あらゆる人の幸福のために自ら求める所なく働いてゐるといふのも、現世を望まず、一命を天にまします聖主に捧げてゐるからに他ならない。神の存在を信じ、来世の幸福を信じなければ、どうしてこのやうな困苦の生活に甘んじることができませうかと言つた。
信長はこれをきいて、彼等の真摯誠実な信仰を深く喜び、廉潔を愛し、毫も彼等の心事を疑はなかつたけれども、同時に、彼等の脳髄にはどうも異状があるやうだと疑ふ様子であつたといふ。
一説によれば、もし基督教があくまで一夫一婦の掟を強ひなければ、信長も切支丹になつたであらうと言はれてゐる。然し、もとより当にはならない。豊臣秀吉ですら或る時神父に向つて、殿中の侍女のうちで切支丹を奉じる者の操行端正なことを賞讃したあげく、もし一夫一婦の掟をもうすこし緩めてくれゝば自分も切支丹になつてもいゝと公言した。もとより之は機嫌のいゝ時に人の喜びさうなことを言つてみる秀吉の癖であり気まぐれであつた。
信長自身は一夫一婦に辟易したが、伴天連入満が清貧童貞に甘んじて厳しい掟に順ひ苟も私利のためには計らぬ様を賞美した。かくて切支丹は天下統一者の保護を得て、一時に隆盛に赴いた。
信長の居城安土には、城の下の水辺に壮大な南蛮寺が建立され、有馬と並んでセミナリヨ(神父を教師にした洋風の学校)が設けられて、諸国の青年貴公子がこゝに集ひ、ラテン語を学び、油絵を描き、西洋の楽器をかなでた。
信長は教会の音楽を愛したといふが、後に切支丹を断圧した秀吉も西洋音楽を愛好して殿中に楽士を招いて奏せしめたといふことで、一般に切支丹の祭儀の荘厳、リタニヤの音調が人心を惹きつけたことは甚大であつた。
ある仏教徒の大名は切支丹であつた息子の葬儀に参列してその荘厳な儀式に感極まつて落涙、師父に深く感謝の意を表したと云ひ、ガゴが山口へ来て降誕祭の祭儀を営んだ時には、夜半のミサに信者達は感動して泣いてしまつたと云ふ。又長崎に初めてトドス・サントス寺院ができて、復活祭の祝をした時、その聖クワルタ(水曜)の日に、師父自ら十二名の貧民の足を洗つてキリシトの例に傚ひ、つゞいて信者は行列を組んでヂシビリナで身体を打ち血を流しながら罪を悔いる誠を表はして寺院に繰込んだが、これを見る参詣の信者達は泣きだしてしまつた。
かういふ例は諸方に沢山行はれて、やがて切支丹へ改宗の機縁をつくつたに相違ない。
セミナリヨの貴公子達も特に音楽を愛好して、巧に演奏する者もできた。まだ切支丹ではない青年達も神父に就て洋学を習ふことを誇とし、血なまぐさい戦乱を経てきたばかりの安土城下は忽ちハイカラ青年の楽園となつた。
一五七七年、オルガンチノは本国へ次のやうな報告をだして、日本人は気の小さいのが大嫌ひで話の分らない人間を蔑むから、日本人に接するには特に大度が大切である。日本人自体が概して大度で自尊心が逞しく、大袈裟なことをしたいと思ふと、その為には盲進もする。又、頗る新奇を好む気質だから、例へばエチオピアの黒人でも連れて来て見せたら大当りをとるだらう、と書き送つた。
ところが二年後、教会支部長ワリニャーニが巡察使として来朝のとき、本当に黒ん坊を連れて来た。天正九年の復活祭の余興に黒ん坊の踊りをだして絶大の人気をよび、信長に謁見せしめた。信長も度胆をぬかれて、人間の皮膚がこれほど黒い筈は有り得ないから作りものだと疑つて、着物を脱がせ、褌もとらせて仔細に点検した後にやうやく正真正銘皮膚の色に間違ひないと納得、以来この珍物が気に入つて身辺に侍らせ、奴僕として使つてゐたが、本能寺の変に暗夜に紛れて行衛不明になつてしまつた。暗夜に紛れる筈であつた。
一五八二年、信長変死。
秀吉は信長のあとを受けて、表面切支丹を保護することに変りがなかつた。
小西行長の母マグダレナの手を経て差出した願書に許可を与へて免許状を下附し、安土の南蛮寺とセミナリヨを大坂に移させてその献堂式には自ら参列、又、日本従管区長コエリョに公式謁見を許して、支那朝鮮征伐の計画をきかせたり、軍艦二隻の斡旋を頼んだり、平服に着替へてきて城内や工事場を案内して説明してきかせた。切支丹断圧の気配など微塵もなかつたのである。
ところが一五八七年、九州征伐のため筑前博多に出向いてゐた秀吉は、突然切支丹教師追放を発令した。陰暦六月十九日深夜の出来事であつた。
秀吉が九州征伐を終へて博多へ来たとき、従管長コエリョは山口からやつて来て謁見して戦捷祝賀の辞を述べた。秀吉は大変喜んで、その答礼にわざ/\コエリョを船中に訪問して、益々切支丹を保護することを約束した。これが陰暦六月十九日昼間の出来事であつた。その深夜追放令がでたのであるから青天霹靂で、秀吉自身も昼のうちは切支丹追放など夢想もしなかつたに相違ない。
その夜、秀吉は酒宴を催して大いに泥酔してゐたさうだ。侍医兼侍従の施薬院全宗が御相手を承つてゐたが、酔つ払つた秀吉に切支丹を讒訴して焚きつけた。秀吉もその気になつて忽ち切支丹教師追放といふことになり、追放令は酒宴の席で書き上げられて発令されたといふことである。
尤も一夜の気まぐれにせよ秀告が急にその気になるためには何か理由がある筈で、丁度その頃平戸に来ていた二艘のポルトガル商船を博多へ廻航させようとして布教長コエリョに命じたところ、コエリョは航路危険と海峡狭隘を理由に拒絶した。これは多分この日の昼コエリョを船中に訪問したときの話であらう。秀吉は表面了解した風をみせたが、内心不快を禁じ得なかつたといふ話もあり、有馬の美女を側女にしようとしたが、いづれも切支丹で側女になる者がなかつたので、美女狩出しの役目を引受けた施薬院全宗が腹を立て、切支丹を奉じる者は小娘まで殿下の命令をきかないと言つて焚きつけたのだといふ話もある。
天下統一を誇つてゐた秀吉は、命令が思ひ通りに行はれない時には忽ち威厳を傷けられたやうに考へて癇癪を起し、思ひをかけた美女が手にはいらぬ腹癒せには千利久を殺し、蒲生秀行の会津百万石を没収した。有馬の小娘ひとりのことでも、酔余の癇癪にまかせて、切支丹教師追放を思ひ立つてしまふぐらゐ、有り得ない話ではなかつた。
当時切支丹の勢力は天下に及びさうな形勢で、さういふ勢力に対する天下征服者の漠然たる反感不安もひそかに育つてゐたであらう。小さな癇癪から一時に爆発、一夜のうちに堂々たる追放令が出来上つてしまつた。
追放令と同時に、明石領主ジュスト高山右近に向けて、棄教命令の使者が立つた。小西、大友、黒田、蒲生、有馬、大村など切支丹大名は沢山あつたが、彼等には沙汰がなく、唯ジュスト高山一人にのみ棄教命令が発せられたといふのは、ジュスト右近は領内の仏寺を毀し、仏僧を追放家臣に改宗を命じる等極端な狂信ぶりであつたから、仏僧側の反感が特に強烈の為であつた。棄教命令の文書には、唯一の天父を信じる者が異端の君主に忠義をつくす筈がないといふ駄々ッ子めいた理窟が書いてあつたさうだ。
ジュスト右近は棄教を拒絶、浪人した。
一方切支丹教師の方は追放令に服したふりをして有馬領に隠れ、法服をぬいで布教に従事、秀吉の癇癪の和ぐ時を待つことゝしたが、折からアゴスチノ小西行長が肥後、天草の領主となつたので、彼等に保護を加へることができた。
酔余の気まぐれから発令された追放令であるから、徹底して行はれなかつたが、秀吉も亦固執せず、一々追究しなかつた。
切支丹の勢力には影響少く、却つて教師が追放されるとの噂に細川ガラシャは急いで洗礼を受けたし、信長の次子北畠信雄やその叔父織田有楽斎など有力な大名も洗礼を受け、筑前山門の城主田中吉政も洗礼を受けてバルトロメヨと名乗り、家臣八百三十人もつゞいて信者となつた。秀吉の弟大和大納言秀長や京都の所司代前田玄以は信者ではなかつたけれども、切支丹に同情して保護を加へた。
表面布教に従事することはできなかつたが、ロドリゲスやオルガンチノはこの最中にも通辞といふ名目で大坂城に出入を許され、他日を期して秀吉の怒りを和げることに力めて、朝鮮遠征軍には従軍教師を送ることもできた。
この時まで来朝の教師達はすべてゼスス会に属してゐた。日本の伝道を統制するため、日本に於ける伝道はゼスス会に限るといふグレゴリヨ十三世の令書が発せられてゐたのであつた。したがつて、マニラに勢力をもつフランシスコ会、ドミニコ会、オグスチノ会は日本伝道を欲してゐたが、志をとげることが出来なかつた。
日本の教師追放令がマニラに伝はり、日本教会全滅といふ大袈裟な誤報となつて飛んできた。かねて日本伝道の機会をねらつてゐたフランシスカン達にとつて、ゼスス会全滅の誤報は、教皇の令書を無視して日本伝道に赴く絶好の口実であつた。
折からマニラのイスパニヤ商人達は、日本に於けるポルトガル商人の勢力を駆逐して貿易を独専したいと思つてゐたので、ポルトガルと関係密接なゼスス会凋落の報に好機到来と見て、自国の宗派によつて日本教会の再興をはかり、貿易の便宜を得ようといふ魂胆をもつに至つた。
さういふ機運のあるところへ、秀吉の使節と自称してマニラに現はれた野心児原田孫七郎が日比通商と教師派遣を説いたから、三者の魂胆一致して、フランシスコ会の神父ペトロ・バプチスタ一行の軽率極まる日本渡来となつた。一五九三年のことであつた。
日本に上陸してみれば、教会全滅は全然誤報で、ゼスス会の教師達は秀吉の怒りを避けて法服を脱ぎ表向きは布教に従事しないふりをしてゐたが、教会の組織は微動もせず、信者にも変動なく、隠然たる盛運を持続してゐる。
ゼスス会への対立意識に盲ひてしまつたフランシスカン一行は、日本の事情に通じたゼスス会と連絡をとることも為さず、ひたすら関白の癇癪を避けて隠忍自重のゼスス会を尻目に、追放令下の国土たることを無視して、公然布教に従事しはじめた。
大坂に「ペレムの家」といふ僧院をたてゝ、長崎にサン・ラザロの寺をつくり、京都にはボルチュンクラ寺院をたてゝマニラから豊富な資金がくるにまかせて華々しく布教につとめ、又、癩病院をもうけて、治療の奇蹟を宣伝した。
この傲慢な布教ぶりは癇癪もちの太閤を刺戟するに十分で、折悪しく突発したサン・ヘリペ号事件をきつかけに、切支丹の一大悲運は到来した。
一五九六年、土佐の浦戸にイスパニヤ商船サン・ヘリペ号が坐礁、五奉行の一人増田長盛が出張して、法規によつて貨物を没収しようとしたところが、船長デ・ランダは憤慨して、海図を持出してきてフィリッピン、東印度、アメリカ諸州等イスパニヤ領の広大なことを示したあげく、イスパニヤを侮辱する時は忽ち日本にも禍がくるであらうと威嚇した。
この報告に秀吉の激怒爆発、切支丹は国土を奪ふ手段であると断じて、切支丹教師逮捕令を発令、石田三成に誅戮を命じた。一五九六年十二月九日であつた。
教師達は殉教の覚悟をかためて逮捕を待ち、諸国の信者は陸続京都へ集つて来た。ジュスト高山は死を覚悟して自首。京都所司代前田玄以の長子左近はその弟従弟と共に八名の近臣を伴つて篠山から上洛、師父と共に殉教を覚悟。内藤如安も死を決意し、細川ガラシャは就刑の衣裳をつくつて命の下る日を待つた。
通辞の役で大坂城に出入してゐたロドリゲスの奔走で石田三成を動かすことができ、その斡旋によつて、切支丹全体の問題からイスパニヤ人を主とする逮捕令に変更。マニラから来た教師のみを死刑と決定。
ペトロ・バプチスタ神父、御昇天のマルチン神父等フランシスカン六名、ほかに日本人信徒パウロ三木をはじめとして十八名、合せて二十四名逮捕。十二歳の少年ルドビコ、十三歳のアントニヨ、十四歳のトマス等も加はつてゐた。
彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で洗礼名をペトロとよぶ二名の者が護送の一行と共に殉教を志願、合計二十六名となり、一五九七年二月五日、長崎立山の海にひらかれた丘の上でクルスにかけられて突殺された。
ペトロ・バプチスタは謝恩歌を唱へ、槍の穂先が腋下に突き刺さる時、ゼスス・マリヤと叫び、少年アントニヨは聖母讃美歌を唱へ、槍を受けて後に、ゼスス・マリヤと叫んだ。パウロ三木は槍を受けるまで得意の熱弁で説教し、少年ルドビコは槍が腋下に突込んだとき天国々々と叫んだが、暫く両手のみビク/\動いてのちに絶息。マルチン神父は詩篇を唱へ終つて、主よ我魂を御手に委せ奉ると云ふとき脇腹を突かれたが、槍の穂先が折れて腹中に残つたので、刑吏はクルスへ登つて行つて槍を引抜いて降りてきて、もう一度突き直して殺すことができた。
一五九八年九月十八日、秀吉永眠。
家康は貿易を望んでゐたので、切支丹に圧迫を示さなかつたが、秀吉の断圧をきつかけにして、地方の諸侯に部分的な迫害が行はれ、殉教者が現はれはじめた。
加藤清正は領内の切支丹に改宗を命じて、法華経頂戴の誓をなさしめ、転宗を拒絶したヨハネ南五郎左衛門とシモン竹田五兵衛は斬首。ヨハネの母ヨハンナ、妻マグダレナ、養子ルイス(七歳)、シモンの妻イネスは磔にかけられて殉教した。
マグダレナは第一の突きが外れて頭巾が落ち、両眼を覆ふてしまつたので、その時までキリシトの御名を呼んでゐたが、このとき、天が見えませぬ、と言つた。イネスの順番が来たとき、マグダレナの殉教に感動した刑吏はイネスを十字架にかけることを拒絶したので、代りの者が現はれてこれを上げたが、彼等は突き方が下手だつたので数回とも急所を外れ頭巾は用捨なく眼に落ちかゝつて、イネスは息をひきとるまで天を仰ぐことができなかつた。この磔を執行した市川治兵衛は感動して、切支丹に改宗した。
刑場をとりまいた信者達は夕暮れ役人の制止もきかず刑場へなだれこんで、布切や紙や自分の着物に殉教者の血をふくませて持帰り、翌日は血の滲んだ砂の最後の一粒まで持去つた。遺骸は解き放すことを許されなかつたので、くづれ落ちるにつれて集められ、長崎のコレヂヨの祭壇の下へ安置されたが、ヨハネとシモンの首だけは手に入れることができなかつた。
つゞいて肥後の切支丹の柱石だつた三人の慈悲役が四年間の責苦の後に斬首され(一六〇九年)十二のトマスと六つのペトロが、今殺された父親の血潮の上で斬首されたが、六つのペトロが怯えも見せずに血海の中に跪いて小さな首をさしのべたので、三人の刑吏は斬ることを拒み、居合せた非人が斬首の役を引受けてペトロの首に三撃を加へてのちに殺すことができた。
清正の命によつて切支丹の逮捕処刑を司り、最も残酷な迫害を辞さなかつた八代の奉行角左衛門は、処刑を終へて槍を返しに来た役人に、自分は今日からこの槍をもつ資格がないやうな気がすると言つてゐたが、やがて、切支丹にはならなかつたが、手にかけた殉教者達を讃美し、その行蹟を世に伝へた。
毛利領では、その重臣、芸州三入の城主メルキオル熊谷豊前守が一族臣下百余名と共に殉教。同じく山口で神父の代理をつとめてゐた切支丹の中心人物、盲人の琵琶法師ダミヤンが殉教した。
切支丹の熱心な信者でその領土にコレジヨやセミナリヨや多くの神父を保護してゐたドン・ヨハネ有馬晴信は、政治上の失敗から息子のドン・ミカエル直純に訴人されて斬首され、ドン・ミカエルは棄教して最も惨忍な迫害をはじめ、信者の重立つ人々を追放し、ミカエル伊東、マシヤス小市、レオ北喜左衛門等は斬首され、レオは上意打によつて突然首を刎ねられたが、切支丹の正しい死に方をするために、斬られてのちに腰の刀を抜きとつて遠くへ投げすてゝ、ことぎれた。薩摩にも迫害が起つて、レオ七右衛門は片手にロザリオを片手に聖母の油絵を捧げて首を刎ねられて殉教した。
家康も漸次迫害を見せはじめて、先づ直参の切支丹を追放し(一六一二年)大奥に仕へてゐたジュリヤおたあを島流しにしたが、外国教師の大追放を行ひ、切支丹を国禁するに至つたのは一六一四年のことであつた。
家康が切支丹を黙認したのは専ら貿易のためであつたが、一六〇〇年、オランダ船エラスムス号が難破状態で豊後に到着、その水先案内をつとめてゐたウヰリヤム・アダムスは徳川家に召抱へられて、家康のために船をつくり、数学の初歩を教へ、それまで日本に来なかつたオランダ・イギリスの商船を日本に引きつけるもとをなした。
オランダとイギリスは新教を奉じロマ教会から分離して、カトリックとは仇敵の間柄であり、中にもオランダはイスパニヤ王なる皇帝の領土から脱したもので、イスパニヤの反逆者であつた。
オランダの東印度会社設立は一六〇二年のことで、ポルトガル、イスパニヤの勢力を駆逐して東洋貿易制覇の野心に燃えてゐたから、その仇敵たる国々を陥れるためには、卑劣な手段も択ばなかつた。
彼等は日本の為政者達が切支丹を疑惑視するのを利用して、中傷密告につとめ、「オランダ人御忠節」といふ日本語を生んだ。
オランダが正式に日本と通商を開始したのは一六〇九年であつた。
同じ年、前フィリッピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコは新イスパニヤ(メキシコ)へ赴くためにマニラを出帆したが、難破して日本に漂着、家康の手厚いもてなしを受けた。
ビベロは駿府に於て家康に謁見したが、家康は二段から成る台の上に坐り、その四歩前に金張の衝立があつて、ビベロはその陰に坐つた。家康は六十ぐらゐで、中背でふとつてゐた。顔の色はそれ以前に謁見した秀忠に比べると余程褐色が薄く、白味を帯びて、どことなく情味のある顔付に見えた。
偶々、謁見の途中に或る格式の高い大名が入つてきたが、この大名は百歩手前で平伏して、数分間面を畳に伏せ、二万デュカットの金銀と絹を献上して引下るのを目撃した。
この日、ビベロは家康に次の要求の覚え書を提出した。
一、帝国に在住する各修道会の司祭に対する公式の保護、並びにその駐在所及び天主堂を自由に使用すべき件。二、皇帝とイスパニヤ王間に於ける同盟承認の件。三、該同盟の証として、イスパニヤ人の仇敵にして最悪の海賊たるオランダ人追放の件。 家康には、国際間の重要な交渉に宗教のやうな下らぬことを固執するビベロの気持が分らなかつた。
当時新イスパニヤの坑夫は熟練をもつて聞えてをり、日本の坑夫は取り得べきものの半分も取り得ないといふので、家康は新イスパニヤの坑夫五十名の送付方をビベロに依頼したが、ビベロは之に対して、重ねて天主堂の自由使用と聖務執行の許可を条件とし、又、最悪の海賊たるオランダ人追放の請願を再び作製して差出した。
家康はこの請願に応じなかつた。
一六一一年、新イスパニヤの大使ドン・ヌーニョ・デ・ソトヌヨールがフランシスコ会のソテロを伴つて来朝、日本の海辺測量の許可を受けた。
御忠節のオランダ人はこれを知つて勇みたち、新イスパニヤにせよルソンにせよイスパニヤ人が測量した土地は、いづれもやがてイスパニヤの領土となつたと説きふせ、日本の海辺を測量したイスパニヤ及びその同腹たるポルトガルは切支丹を利用して国土を奪ふものであることを家康に信じさせた。
家康はオランダとの通商開始後、切支丹を断圧しても貿易は可能であるとの確信をもつに至つたので、切支丹は国土を奪ふ手段であるとの口実を得て禁教を決意、一六一四年一月二十八日、切支丹国禁、外国教師追放を発令。
大久保相模守は命を受けて上洛、南蛮寺を焼き毀し、手当り次第に信徒を縛して、宗門をころべと命じ、之を拒む者は米俵に入れて、役人が街から街を押しころがして、ころべ/\と囃しながら練りまはつた。女は遊女屋へ預け、裸体でさらすこともあつて棄教を強要、内藤ジュリヤは侍女と共に容貌をきづゝけ髪を斬り落した。
外国教師の全部と日本人信徒の中の重立つ人々四百余名は天川とマニラへ追放されることとなり、続々長崎へ送られてきたが、船の準備と順風の都合で、出帆は秋まで延期された。
長崎の感情は激発し、日と共に亢奮の坩堝に落込み、信徒達はマルチリヨの覚悟をかため、それに処する心得を胸にたたみ、日夜に会合をひらいた。
陽春四月、フランシスコ会はその布教長チチヤンが先導となつて大説教をなし、先づ癩病患者の足を洗ひ、上衣をぬいで自分をクルスに縛らせてキリシトの受難になぞらへ、この十字架を先頭に担いで、信者達はヂシビリナで身体を打ちながら、受難の覚悟を示して大行列を開始した。
ドミニコ会は之につゞいてペンテコステの月曜に殉教覚悟の示威行列。その翌日はアゴスチノ会が長崎全市を練り歩き、最も自重してゐたゼスス会も堪りかねて示威行列。かくて日毎に思ひ/\の行列が街から街を練り歩き、叫び、祈り、行き違ひ、或ひは合して、うねり流れた。
十一月七、八両日、数艘の船に分乗して、教師信徒四百余名天川とマニラへ追放。尚少数の教師は潜伏して日本に残つた。
翌年三月、七十一名の身分ある信徒が津軽へ追放された。
こゝに切支丹は全く禁令され、これより約三十年、切支丹の最後の一人に至るまで徹底的な探索迫害がくりひらかれ、海外からは之に応じて死を覚悟して潜入する神父達の執拗極まる情熱と、之を迎へて殲滅殺戮最後の一滴の血潮まで飽くことを知らぬ情熱と、遊ぶ子供の情熱に似た単調さで、同じ致命をくりかへす。
一六一五年(追放の翌年)イタリヤ人の伴天連アダミ、ポルトガル人伴天連コウロス、イタリヤ人伴天連ゾラ、その随員日本人入満ガスパル定松、ポルトガル人伴天連パセオ、日本人入満シモン・エンポ、ポルトガル人伴天連コスタ、その随員日本人入満山本デオニソ、ポルトガル人バルレト、日本人ニコラス・スクナガ・ケイアン、いづれも天川へいつたん追放されてのち、引返して日本に潜入。
アダミは潜入後十九年間潜伏布教、一六三三年長崎で穴つるし。コウロスは潜入後二十年潜伏布教、捜査に追はれて田舎小屋で行き倒れ。パセオは一六二六年長崎で火あぶり。ゾラとガスパル定松は肥前肥後に潜伏布教、一六二六年島原で捕はれて長崎で火あぶり。シモン・エンポは一六二三年江戸芝で火あぶり。コスタと山本デオニソは中国に潜伏布教、一六三三年周防で捕はれて、コスタは長崎で穴つるし、山本は小倉で火あぶり。バルレトは一六二〇年江戸附近で衰弱の極行き倒れた。
一六一六年。ポルトガル人伴天連デオゴ・カルバリョ、日本人伴天連シスト・トクウン潜入。
デオゴは奥羽に潜入布教して蝦夷にまで進んだが、一六二四年、仙台領の下嵐江鉱山で坑夫信徒六十名と共に捕へられ、仙台へ送られて、二月十八日の厳寒、広瀬川畔へ水溜を掘り杭を打ちこんだ処刑場へ縛りつけられて氷責。
第一日目は三時間後に引上げられて、マテオ次兵衛とジュリアン次右衛門が砂の上へ引上げられてから、絶息した。
二月二十二日、第二回目の氷責。膝までの水の中で、長く立たせ、又、胸までの水の中で坐らせ、二様の姿勢を繰り返させた。役人たちは棄教をうながしたが徒労であつた。
夕方になつて水に氷が張つてきてから急激に苦痛がまして、レオ今右衛門はひどく苦しみ、最初に息を引とつた。デオゴは苦しむレオに向つて「束の間ですぞ」と叫びつゞけてゐた。
二番目はアントニヨ佐左衛門で、三番目はマチヤス正太夫。神父は彼がまだ生きてゐると思つてゐて声をかけたが、二度呼んで、縡切れてゐることが分つた。つゞいてアンデレヤ二右衛門、マチヤス孫兵衛、マチヤス太郎右衛門が順次に息絶えて、神父はすべての信徒たちが縡切れるのを見とどけた。彼は夜半まで生きてゐた。すべての信徒が死んで後は、動かなかつたし、喋らなかつた。
日本人伴天連シスト・トクウンは長崎で穴つるし。
一六一七年。ペトロ三甫、ミゲル春甫、アントニヨ休意、ゴンザロ扶斎、いづれも天川へ追放されてのち、引返して潜入、一六二〇年捕へられて、いづれも火あぶり。イスパニヤ人ガルベス、イタリヤ人リカルドもこの年潜入して、いづれも火あぶり。
この年、大追放の際逃れて潜伏、布教に従事してゐたペトロとマチャードの二人が捕へられて斬首された。それから五日目、同じく潜伏して布教中のナバレテとエルナンドの二人は、逃げ隠れて効果の乏しい布教に余命を消すよりはと、血といのちの布教を決意、公然法服を着て、長崎の入口に小屋をつくつて説教をはじめた。聴衆三千余人。翌日は伊木力で野外に祭壇を設けてミサ聖祭を献て、大村に乗込んで、棄教した領主に再び改宗をすゝめる書翰を捧げて、捕はれた。
三日後、高島の海辺で斬首。訣別のために群集して叫び追ひ泣く信徒達を避けて、役人は舟で三つの島をめぐり、四つ目の高島に上陸。二人の神父は刑吏達に感謝の言葉を述べ、彼等の首を切る筈の刀を借り受けて押しいただいたのち、各々片手にはロザリオを片手には点火した蝋燭を捧げて、ナバレテは一刀のもとに首を刎ねられ、エルナンドは第一撃で耳の附根まで切られたが、立ち上つて天の方を望まうとして、第三撃で倒れた。
死体は棺に入れて三十尋の海底に沈められた。信徒達は二ヶ月探したが無効であつた。六ヶ月目に一つの棺のみ浮き上つて海辺へあげられたので、屍体はひそかに本国へ送られた。
この殉教はマニラに伝はり、彼の地の信徒に大きな感動をひきおこした。必要ならば尚多くの致命人を送らうと、七人の神父が潜入を決意。一六一八年、商人に扮して潜入。
オルスッチとジュアンの二人は上陸後直ちに朝鮮人信徒コスモ竹屋の家で捕はれ、五年在牢して、火あぶり。
他の五人は各地に散つて潜伏布教、グチエレスは一六二九年長崎附近で捕へられて穴つるし。デエゴとマルチノは消息不明、アントニヨは一六二七年殉教。
一六一九年。クルスのデエゴ、アンデレのフランシスコ、ビセンテ、ペトロ、バラジヤスの五名潜入。前者四名は一六二二年いづれも火あぶり。バラジヤスは東北地方に潜入、一六三八年、仙台で捕へられて江戸へ送られ、芝で火あぶり。伴天連火刑の最後となつた。
この年、十月十七日、京都で五十二名の殉教があつた。
五十二名は十一台の大八車に積込まれて刑場へ送られたが、先頭と最後の二つの車が男と子供で、ほかの車は全部女と乳飲児であつた。大仏殿と向き合つてゐる加茂川べりに火刑の柱が立ち並び、少し離れて杜があつた。
火の手があがると、祈念の声は煙の中で大きなひとかたまりの歌となつた。テクラの娘カタリナは「お母さん、もう目が見えない」と叫び、母親は小さなルシヤを胸にしつかと抱いてゐたが、必死に娘の方を向いて「マリヤ様にお願ひなさい」と叫びつゞけた。テクラは余りしつかと小さなルシヤを抱きしめてゐたので、死後、その胸から幼女の屍体を離すことができなかつた。
又、長崎では、十一月十八日、潜伏教師をかくまつた徳庵、レオナルド木村、ポルトガル人ドミニコ・ジョルジュ、朝鮮人コスモ竹屋、ショーウン等が漫火によつて火炙りにされた。レオナルド木村は焔が綱を焼切つたとき、地面へ屈んで燠を掻きあつめて頭にのせて、「主を讃め奉る」を歌つた。小舟に乗つた信徒の少年達は二つの唱歌隊に分れ、火の絶えるまで、楽器に合せて聖歌を歌ひ、殉教の最後を見とどけた。
一六二〇年。アゴスチノ会のズニカとフロレスは日本人で信徒の船頭平山常陳の船で潜入。直ちに捕へられて長崎で火あぶり。平山常陳も火あぶり。ほかに累連者十二名は首を斬られた。
一六二一年。天川から兵士に扮して潜入した三人のゼスイトがあり、カストロは肥後島原に潜伏布教して一六二六年島原山中で行き倒れ。コンスタンツォは五島で捕はれて一六二二年田平で火あぶり。ボルセスは一六三三年長崎で穴つるし。
ワスケス、カステレド、ミゲル・カルバリョの三名は交趾商人、マニラ人、ポルトガル兵士に扮して潜入。交趾商人に扮してきたワスケスは東洋的な容貌であつたと見えて、後には日本の武士に扮して牢内に忍び入り、とらはれの信者を慰問。カルバリョと共に一六二四年火あぶり。カステレドも一六二四年捕はれて火あぶり。
一六二二年。嘗て支倉六右衛門をローマへ伴ふた伴天連ソテロは日本人入満ルイス笹田を随へて潜入、直ちに捕へられて、二人共に火あぶり。
この年の九月十日に、長崎立山で五十五人の殉教があつた。三十名の日本人信徒が斬首され、次に二十五名の外人及び日本人の聖職者が火刑になつた。
出来るだけ苦痛を長くするために薪は柱から遠ざけられ、時々水をかけて火勢を弱め、又絶望の誘惑に曝されて逃げだすことが出来るやうに縄目がゆるく仕掛けてあつた。それは刑場を取まいた数万の信徒達に、彼等の信ずる師父等の信仰の足らないことを納得させるためであつた。
カルロ・スピノラ神父が最初に死んだ。丁度一時間後であつた。一度衣服に火がついたので苦痛を長くするために多量の水がかけられた。然し、結果は窒息死で、遺骸は長衣をつけたまゝ硬直してゐた。
驚くほどしつかりしてゐたのは日本人神父セバスチャン木村で、死ぬまでに三時間かゝり、腕を十字に組んだまゝ火を視凝めて遂に姿勢をくづさなかつた。
イヤシント・オファネル神父が木村師以上に長く生きて、真夜中に、さうして最後に絶命した。丈高く強壮な彼の身体から「ゼスス! マリヤ!」といふ極めて強いしつかりした叫びが三度発せられて、それが最後の時であつた。
結局、デエゴ柴、ドミニコ丹波といふドミニコ会のイルマン二人だけが火刑の苦痛に堪へかねて、縄目を外して、飛出してひと思ひに首を刎ねられることを願つた。刑吏達は容赦もなく寄つてたかつて二人をつかまへ、火焔の中へ投げ入れて、上から鉤で抑へつけて、殺してしまつた。
敬虔な信徒達は砂時計を持ちだして、犠牲者達の絶息を祈りつゝ視凝めてゐたのであつた。
この年は、この外にも、長崎附近だけで百数十名の殉教があつた。
一六二三年。前年の大殉教はマニラの神父達を刺戟して、その血をキリシトに捧げるために、更に十名の教師が決意をかためて潜入した。奉行は直ちに嗅ぎつけて捜査したが一人も捕へることが出来ず、彼等は諸方に分散潜伏、数年或ひは十数年布教の後捕へられて、アゴスチノ会のフランシスコは火あぶり。カルバリョ火あぶり。フランシスコ会のフランシスコとラウレルも火あぶり。ゴメスは江戸で穴つるし。カブリエルは一六三二年捕へられて殺され方は不明。ルカスは長崎で穴つるし。エルキシヤ同じく長崎で穴つるし。ベルトランは一六二六年癩病小屋に潜伏中逮捕。その宿主でマルタといふ癩病女は神父の捕はれたのを見て自分も共に捕はれて処刑されることを願つたが、許されず。マルタは天に向つて、自分をパアデレ様より離し給ふなと叫びつゝ神父に縋りつかうとしたが手先はなく、之を必死に追ひ縋つたが足先はなかつた。ラウダアト・ドウヌム、その他日本語のオラショを唱へ、パアデレ様と離し給ふなと叫び追ひ、離れ去る気配がないので、ベルトラン神父は火あぶり。マルタほか二人の癩病者は打首。
この年、江戸で原主水はじめ五十名、芝で火あぶり。つゞいて、その妻子二十六名、同処で火あぶり。
一六二九年。日本人の伴天連が四人、故国へ潜入。トメ六左衛門は一六三三年長崎附近で行き倒れ。ミゲル益田は江戸で穴つるし。ペトロ・カッスイも同じく江戸で穴つるし。四人目のトメイ次兵衛は金鍔次兵衛(又は次太夫とも云ふ)の名によつて当時天下を聳動させた人物で、神出鬼没を極め、切支丹伴天連の妖術使ひと信じられて、九州諸大名の軍勢数万人を飜弄した。
トメイは潜入後、長崎奉行竹中采女の馬廻り役に入込んで、自由に役所牢屋に出入することができ、大村に入牢してゐたアゴスチノ会のグチエレス神父と連絡して、給金をさいて給養し、通信を運んだ。一六三二年グチエレス刑死の後は、アゴスチノ会の教師が絶えたので、トメイは独力信徒の世話につとめ、隠れて市内近郷の信者を訪ねて、慰問し、告白をきいた。嗅ぎつけられて露顕したのは一六三三年秋であつた。
露顕、逃亡するや、大村領戸根の塩釜師が彼を山中にかくまつてゐるといふ密告があり、大村藩では家老大村彦右衛門を指揮官に、同藩の記録によると、城内番人と諸役人、小路町諸村押の者だけを残して「家士残らず諸村の給人、小給、足軽、長柄の者、土民に至るまで悉く相催し、各々頭奉行を定め、手合して警固目附を一組づゝ相定めた」といふことで、藩内総動員を行つた。
長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から浦上への往還筋から大村湾の西海岸全体の山中到る所に関所を設け、海には見張を出し、海岸線三十里とその山中に監視網を張りめぐらした。寄せ集めの軍勢だから同志打ちの危険があるので合印しをつくり、佐賀勢は藁の占縄、平戸勢は大小の鞘に白紙三つ巻、島原勢は左の袖に白紙、大村勢は背三縫に隈取紙をつけた。各勢は列を定めて出歩く刻限をきめ、夕暮になると合図して押止り、その場所に篝火を焚いて交替で不寝番を置いた。
かういふ騒ぎを三十七日間つゞけて、たつた一人のトメイ次兵衛を追ひ廻したが、労して効なく、この時すでにトメイは江戸へ逐電して、将軍家のお小姓組の間を伝道して廻つてゐた。
布教の結果次第に感化が及んで、信者も多くなり、役人に嗅ぎつけられてきたので、再び長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から七年へかけて二年間、又々長崎で大騒動をまきおこした。
トメイは刀の鍔のあたりに金のメダイユかクルスのやうなものを仕込んでゐたらしく、事あるたびにそれを手にとる習慣であつたのが人々の注意を惹くやうになつて、その金鍔に切支丹妖術の鍵があるといふ風説がとび、金鍔次兵衛といふ名前が生れた。
一六三七年、長崎の戸町番所に近い山の穴の中で捕はれ、十二月六日、穴つるし。
一六三三年、ゼスス会の巡察使ビエイラはじめ十一名潜入。
すでに警戒厳重を極めて殆んど活動の余地がなく、ビエイラは大坂で捕はれてのち、長崎へ送られ、幕府の特命によつて更に長崎から江戸へ送られ、将軍に差出す教理要略を書き残して、一六三四年、江戸市中引廻しのうへ他の六名と共に穴つるし。
一六三七年。天草と島原の間の湯ヶ島に切支丹が会合して、次のやうな触れ状をつくり、島原天草領内に配布した。
「態と申遣し候。天人天下り成され候て、ゼンチヨどもは、デウス様より火のスイチヨ成され候間、何者なりとも切支丹に成り候はば、こなたへ早々御越しあるべく候。村々の庄屋、乙名、早々御越あるべく候。島中此状御廻し可有之候。ゼンチヨ方にても切支丹になり候者、御免なさるべく候。恐惶謹言。
右早々村々へ御廻し成さるべく候由中入り候。天人の御使に遺し申候間、村中の者に御申附成さるべく候。切支丹になり申候者の外は、日本六十六国共に、デウス様より御定にてインヘルノへ踏込成さるべく候間、其分御心得なさるべく候。天草の内、大矢野に此中御座なされ候四郎様と申す人も、天人にて御座候。爰元に御座候間其分御心得あるべく候。已上」
天草大矢野に住してゐる小西の旧臣益田甚兵希の子、四郎時貞といふ十六歳の少年を天人に担ぎあげて、事を起さうといふ謀主たちの談合であつた。
かういふ陰謀があるところへ、百姓一揆が起つた。
教会の記録によれば、島原の領主が暴政を擅にして人民を窘げ、年貢の外にあらゆる名目をつけて重税を課し、之に応じない者は厳罰に処し、或ひは妻女を捕へて水責にする習はしであつたが、こゝに平右衛門といふ百姓があつて、やつぱり税の言ひがゝりから美人の娘を召捕られ、水責の上、裸体で杭にいましめられて、松明の火で焼かれたから、平右衛門は狂気の如くなり、日頃の圧政に堪へかねて加勢した村人と共に代官所に乱入して、代官はじめ役人三十余人を殺したといふことであり、日本側の記録によれば、有馬村で、角蔵三吉といふ二名の者が、切支丹の画を祀つてゐるところへ役人が踏みこんだところ、乱闘となり、代官林兵右衛門を殺すに至つたといふ。とにかくこの騒動を口火にして、益田四郎一味の陰謀が合流、島原の乱となつた。
上使板倉内膳は十数万を指揮して攻撃したが却つて反撃され、内膳は銃弾を乳下に受けて戦死。第二回目の上使、松平伊豆守が代つて督戦、翌年春、原城を落して平定した。
謀反人三万七千の軍勢は殲滅せられ、生き残つた女子供は三日にわたつて全部斬殺された。松平伊豆守の子、輝綱の日記「剰へ童女ニ至ルマデ死ヲ喜ビ斬罪ヲ蒙ル。是レ平生人心ノ至ス所二非ズ。彼ノ宗門浸々タル所以ナリ」然し、武器をとつて反抗したかどによつて、この数万の死は殉教とは認められてゐない。
島原の乱の結果は鎖国が施行せられ、切支丹の迫害は又その絶頂をきはめた。かくて全国の切支丹は急速にその終滅に近づいたが、外国教師の潜入は尚つゞいた。
一六三七年。イタリヤ人マルセロ・フランシスコ・マストリリ潜入。
彼は故国イタリヤに於て、血を以て日本潜入を決意。直接将軍に面接して説法の覚悟をかため、数年にわたつて渡来を計画、イスパニヤ国王の援助を得てゴアに渡り、遂に単独日本に潜入、薩摩に上陸して日向の沿岸を伝ひ江戸へと志したが、日向の櫛の津で捕へられた。
二百人の警衛づきで長崎へ引立てられ、水責の後、梯子責で失神、三日目に焼鏝。十月十四日刑場へ引きだされたが、途中説法のできないやうに口に詰物をかまされ、頭の右半分を剃つて左半分は赤く彩色し、膝までしかない赤い着物をきせて、肩から罪状を書いた小旗を流し、鎖でつないで馬に乗せた。穴つるし。四日目にはまだ息があつた。
切支丹禁令以来、神父を入牢せしめれば牢番が感化され、斬首火刑に処すれば刑吏や観衆が感動して却つて改宗する者がある始末に、この対策が頭痛の種で、死の荘厳を封じることが、一代の大事となり、一六三三年、穴つるしといふ殺し方が発明された。この発明に二十年かかつたが、効果はあつて、滑稽異様なもがきぶりは聊かも荘重を感ぜしめず、また一日や二日では死なゝいので、見物人もうんざりして引上げてしまふやうになつた。
マストリリ潜入の年に四名のドミニカンが二名の従者を随へて琉球に辿りついたが、捕はれて長崎へ送られ、皆殺された。刑の執行が秘密にされて殺され方は分らない。
一六四二年。巡察使ルビノは日本潜入を天父の使命と確信、計画遂行に心を砕き、マニラ総督の援助を受けて、同志を二隊に分け、自分は第一隊を指揮して潜入。一行はパアデレ五人に従者三名、支那人に扮して来たが、薩摩の一角で岩に乗上げて、捕はれた。長崎へ送られて、火責め、水責めの拷問で六ヶ月責めつけられたが一人も屈する者がなく、奉行もうんざりして死刑を決し、一六四三年三月十六日、大拷問にかけてのち、マストリリに施したと同様の異様な化粧をさせて引廻しの上、一同穴つるし。
ルビノは五日目に死んだが、最後に三人生き残つて、九日目にも呼吸が絶えないので、しびれを切らして、三月二十五日に首を斬つた。
一六四三年。ルビノ第二隊は先発隊を追ふて筑前かぢめ大島に上陸。
教師五人に従者五人、合せて十名の一行で、一同さかやきを剃り、和服を着て、日本人に扮して来たが、直ちに怪しまれて捕へられ、長崎へ送られ、更に江戸小石川の切支丹屋敷へ移された。こゝで様々の拷問、誘惑を受けて、全員残らず背教した。
この潜入は六十余年後に行はれたヨワン・シローテの例外的な潜入を除いて、日本切支丹史の最後をなした潜入であつたが、この時まで一人の棄教者も出さなかつた潜入教師も、最後に至つて全員残らずころんでしまつた。
この一行の長、ペトロ・マルケスはころんでのち十五年生きのびて八十歳で永眠。アロンゾは一度ころび、後に立直つて死んだ。フランシスコ・カッサロは切支丹屋敷の独房へ女と一緒に入れておかれ誘惑に負けてころび、いくばくもなく永眠。ジュセッペ・キヤラは我国でジョゼフ・コウロと呼ばれ、ころんで後は岡本三右衛門といふ日本名を貰つて、宗門改役の御用をつとめ、四十二年後八十四歳で永眠した。小石川無量院に葬られて、戒名は入専浄真信士。日本人イルマンのビエイラはその本名は不明であるが、棄教して妻を娶り、切支丹屋敷に住んで南甫といふ名で呼ばれてゐたが、一六七八年、七十九歳で永眠。同じく小石川無量院に葬られて、大変いかめしい戒名を貰ひ、正誉順帰禅定門と云ふ。
従者のひとりに広東生れの支那人で棄教後寿庵と呼ばれた者があつた。棄教後結婚して生れた娘に婿まであつたが、後に至つて痛悔して、立上らうと焦り、再び切支丹を奉じる旨の上書を出しかけたのを家族の者が引留めた。一六九一年、八十一歳で永眠。交趾人でトナトといふ者、棄教後は二宮と呼ばれ、結婚して五十余年切支丹屋敷に生き延び、最後まで生き残つて、一七〇〇年、七十八歳で永眠した。日本切支丹は全滅した。