Chapter 1 of 23

Chapter 1

この日記を発表するに就ては、迷った。書く意味はあったが、発表する意味があるかどうか、疑った。

この日記を書いた理由は日記の中に語ってあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういう風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。

私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識していたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかというようなことを論ずるだろうと考えた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違っているというようなことは、然し、どうでもいいことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知っているかどうか、それすらが大いに疑問なのである。

だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑ったのだが、然し、考えてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。

そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。

平野君からの注文は「戯作者文学論」というので、私は常に自ら戯作者を以て任じているので、私にとって小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかったのではないかと思う。

私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかも知れない。然し、そう、大して違わない。私はただの戯作者でもかまわない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭の上で、私は戯作しているだけなのだ。

生存を賭ける、ということも、別段、大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。

それで私は、私の小説がどんな風にして出来上るか、事実をお目にかける方が簡単だと思った。ところが、私は、とても厭だったのは、この「女体」四十二枚に二十日もかかって、厭に馬鹿馬鹿しく苦吟しているということだった。それはこの「女体」が長篇小説の書きだしなので、この長篇小説は「恋を探して」という題にしようと思っており、まだ書きあげてはいないのだが、長篇の書きだしというものには、一応、全部の見透しや計算のようなものが、多少は必要なのである。伏線のようなものが必要なのである。

そんなものの全然必要でないもの、ただ書くことによって発展して行く場合が多く、私は元来そういう主義で、そういう作品が主なのだけれども、この「女体」だけはちょっと違って、私は作品の構成にちょっとばかり捉われたり頭を悩ましたりした。私はどうもこの日録が、妙に物々しく、苦吟、懊悩しているようなのが、厭なので、私は元来、そんな人間ではない。私はこの小説以外は一日に三十枚、時には四十枚も書くのが普通の例で、尤も、考えている時間の方が、書くよりも長い。尤も、書きだすと、考えていたこととまるで違ったものに自然になってしまうのが普通なのである。

それで、どうも、発表するのが厭な気がしたのだけれども、それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない。日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。

小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だから又、作品でもあるかも知れぬということを、一言お断り致しておきます。

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