師匠の現代化
「銀の字、おれに英語を教えろ」
と師匠が言い出したのは、それから間もないことだった。奥さんや美代子さんの懇願を容れて、時代に目覚める努力を始めたのである。
「へい。しかし私もお教えするほどは出来ません」
銀さんは奥さんに予め頼まれていたけれど、自信がない。
「何と言ったっけかな? あれは」
「へい?」
「英語のイロハさ」
「ABCでございますか?」
「それ/\。しかしイロハは面倒だから習わない。本字から行こう。本字を片仮名で覚えれば宜いんだ」
「へゝえ」
「芸術家ってのは何だい? 英語の本字は」
「アーチストです」
「芸人は?」
「さあ。矢っ張りアーチストでしょう」
「彼方じゃ同じかね?」
「へい」
「成程。お前の言う通りの理窟だな。芸人が芸術家になるんだから」
「何うも同じだろうと思うんですけれど」
「インテリ/\と皆がよく言うが、あれは学者かい?」
「いや、知識階級のことです」
「道理でこの頃皆が俺のことをインテリと言う」
「御評判ですよ」
「仲間には英語を知っているようなインテリは一人もない。ところで素義は何と言う? 素人義太夫の旦那衆のことは」
「アマチャーです」
「甘ちゃん?」
「アマチャーでございます」
「玄人は?」
「プロフェッショナルです」
「野球と同じだな。今日はこれ丈けとして、今の本字を書いて置いておくれ。毎日頼む」
「へい」
「菅秀才じゃないが、一日に一字学べば、三百六十五字の教えだ」
「単語も必要ですけれど、応用的に書き抜きを拵える方が早くはないでしょうか?」
「書き抜きというと科白かい?」
「へい」
「弟子から科白を習うのは情けないが、近道なら仕方がない。一つ見本を拵えて、見せておくれ」
鐘太夫はグン/\時代に目覚めた。附け焼刃もあるが、元来器用人の上に義太夫語りだから真に迫る。科白もよく覚えた。
「素人衆の義太夫は技巧が好い加減ですけれど、霊感的即興がありますから、案外聞けますよ。熱ですよ、要するに。幾ら技巧づけられていても、インスピレーションのない義太夫は泡の抜けたビールのようなものです」
なぞとやる。
「鐘さんは急にインテリになったね」
「うむ。英語をペラ/\使うから、此方は戸迷いをする」
と旦那衆も恐れを為す。鐘さんの現代化に調子を合せなければならないのは三味線の鞆作さんだ。この人は老年だから始末が悪い。
「鞆作さん」
「へい」
「お互太夫と三味線は野球と同じことでチームワークですよ」
「チムワクというと?」
「組んでやることです。協同作業です」
「組んでいるがな、初めから」
「それだから組合仕事です」
「チムワク。チグハグと覚えて置きましょうか? ハッハヽヽ」
「物の見方を新しくすれば、心持も新しくなりますよ」
「大きに」
「お互に時代に目覚めて、ジャン/\やりましょう」
「へい」
「ついては、あなたも洋服を着て下さい」
「私が?」
「えゝ」
「この年で?」
「何の年だって、西洋人を御覧なさい。皆洋服です」
「成程」
「似合いますよ」
「似合っても似合わなくても、あなたと私は名コンビですから、仕方ありません」
「名コンビは有難いですな。鞆作さんのヒットです」
「ヒットというと?」
鐘師匠は薬が利いた。元来進取的の人だから、至って自然に芸人という因襲から自己を解放してしまった。奥さんも美代子さんも満足だった。
「銀さん、お蔭さまよ、本当に」
と奥さんがお礼を言った。
「何う致しまして」
「少しお薬が利き過ぎたくらいよ。私にまで洋装をしろと仰有るんですから」
「結構じゃありませんか? お似合いになりますよ、奥さんは」
「まさか。こんなお婆さんが」
「いや、奥さんはお若いです」
と銀の字、如才ない。昨今少し野心が頭を擡げて来た。師匠夫婦の覚えが芽出度いにつれて、美代子さんが目につく。内弟子は自分一人だ。師匠の名跡を継げば、美代子さんが貰える。幸い嫌われていないようだ。
「師匠思いね、あなたは本当に」
と感心してくれた。誠意が通じているのだ。人間には心のアンテナというものがある。後五年で一人前の太夫さんになれるとすると、自分は二十九、美代子さんは二十だ。丁度好い。
或日、奥さんが銀太夫君を呼びつけて、
「銀さん、こんなお話、美代子のいるところでは出来ませんけれどもね」
と声を潜めた。そら、来たと銀さんは思った。頭が好いから察しが早い。
「何ですか? 奥さん」
「お蔭さまで師匠も悉皆時代に目覚めて現代的になりましたが、一つ困ることに、無暗と若がりますの」
「はゝあ」
「第一、派手でしょう? 洋服の柄が」
「しかし新人ですから若がるのは当り前でしょう」
「でも、程度問題ですわ。美代子と一緒に歩くのは具合が悪いなんて言っているんですもの」
「何故でしょうか?」
「あんな大きな娘があると思われたくないんですって。丁度五十ですよ、もう。幾ら時代に目覚めたって、そんなに若がる年でしょうか?」
「さあ」
「あなたは大抵ついて歩いているんですから、責任を持って下さらなければ困りますよ。師匠は神楽坂あたりで若いのに煽てられるんじゃないでしょうか?」
「さあ」
「若しあなたが師匠にばかり忠義を尽して、私に隠し立てをするようなら、私だって考えがございますよ」
「奥さん、僕、決して隠し立てなんか致しません」
「神楽坂へは芸者衆へお稽古をつけに行くのよ。お稽古は昼間ですわ。芸者衆は夜が稼業ですから。それに夜の十時十一時までかゝるのは変じゃありませんか?」
「…………」
「些っとしっかりして下さらないと困りますよ」
「へい。気をつけます」
銀二郎君は将来美代子さんを貰ってくれという相談だと思ったから当てが外れた。そればかりでない。厄介な役目を仰せつかった。それは師匠が出先で会う婦人について一々報告するようにということだった。師匠は男っ振りが好い。その為めか、奥さんは出入りの女太夫や女弟子に警戒することは分っていたが、これほどまでとは思わなかった。奥さんに考えがあるというのはお払い箱のことだ。追い出されては、美代子さんも何も玉なしになる。