Chapter 1 of 3

清之介君の結婚式は二ヵ月かゝったというので未だに一つ話になっている。新夫婦は式後愛情真に濃かに、一ヵ月と二十何日というもの絶対に引き籠っていた。余り念が入った所為か、清之介君はその揚句初めて出勤する時、ネクタイの結び方を忘れてしまった。こんな筈はなかったのにと、白シャツ一枚で頻に我と我が喉の縊り方を研究している中に悪寒を覚えて、用心の為め又三四日休んだ。元来結婚式と新婚旅行の為め五日の予定で休暇を取ってから、丁度二月目で無事な顔を同僚に見せたのである。今は子供が三人も出来て、もう旧聞に属するけれど、これがその当座会社内の大評判だった。

その頃世界風邪、一名西班牙インフルエンザというのが日本中に流行した。これは日本が欧洲大戦に参加して一等国になった実証でも何でもなく、実に迷惑千万な到来物だった。悪性の流行性感冒で、罹ると直ぐに肺炎を発する。東京丈けでも毎日何百という市民がこの疫癘に攫われて行く。学校も一時閉鎖となる有様。誰が死んだ彼れが死んだと、自分の一家は恙なくても、少くとも、知人友人を失わないものはなかったろう。この騒ぎの名残が今日でも東京の電車に跡を止めている。――咳嗽噴嚔をする時は布片又は紙などにて鼻口を覆うこと――とある。嚔はその方針を一々電車の掲示に指定して置くほど人生の大問題だろうか? 鼻腔に故障のない限りは、頼まれても然う無暗に出る筈のものでない。然るに当時は嚔から世界風邪が感染したのである。西班牙人の男性か女性か知らないが、第一回に嚔をしたものゝ上に百千の呪いあれ! 嚔はその処置を市当局で斯くの如く制定するほどの重大事件になった。この要旨を布衍して、命を惜しい人は皆烏天狗のようなマスクをつけて歩いた。恐水病の流行った頃口籠を篏められて難渋したことのある畜犬共は、

「はて、到頭人間もやられたわい」

と目を見開いて快哉を叫んだと承る。この流感が猖獗を極めている最中に清之介君は結婚式を挙げたのである。

嫁の座に直った時、支配人の令嬢妙子さんは、姫御前のあられもない、極めて大きな嚔を一つして、唯さえ心恥かしい花の顔容を赤らめた。しかしその席に列していた父親は、

「はゝあ、娘は何処かで褒められている。今朝の新聞にも娘の結婚のことが出ていた。虎の門出身の才媛として写真まで載せてあったから、今頃は彼方此方で器量を褒めているのだろう」

と解釈した。

間もなく盃の取り交しに移った時、花嫁は二つ続けて嚔をした。矢張りその場に控えていた母親は小首を傾げて、

「これはしたり。娘は誰に憎まれているのだろう? 憎むものゝないように態姑のないところを選んだのだが、不思議なこともあればあるものだ」

と考え込んだ。

盃ごとが終った時、妙子さんは三つ嚔をして、両手で顔を覆った。父親の思えらく、

「吉兆、吉兆! 婿は娘に惚れている」

しかしお土産物の披露が済んで花婿が先ず席を立った時、花嫁は四つ続けて嚔をした。母親は娘の側に躪り寄って、

「妙子や、お前風邪をひいたんじゃないの?」

と不安そうに尋ねた。

「私、先刻から頭が痛くて仕方がありませんの」

と妙子さんは涙をホロ/\零した。仲人は花嫁のお土産の披露の中に西班牙インフルエンザを言い落したのである。

「熱は然うないようですがね」

と母親は娘の額に手を当てゝいる。

「困ったなあ。精養軒の方へもう皆集まっている時分だのに、妙子や、お前我慢出来ないかい?」

と父親はそれほどまでに思っていない。

「矢っ張りありますよ、少し、熱が。ひょっとすると……」

と母親が言っている中に、既に諺にある嚔の数をし尽した妙子さんは咳をし始めて、

「私、背中から水を浴びせられるように悪寒がして、迚も起きちゃいられませんわ」

とガタ/\震え出した。

「流感か知ら」

と父親は初めて思い当った。

「休まして戴きましょう。何にも心配することはありませんよ。もう此処がお前の家ですからね。寝ていようが起きていようがお前の勝手です」

と母親は娘に智恵をつけて、

「児島さん、もし、児島さん、一寸」

と仲人を麾いた。

「実は娘が流感らしいんでね」

と父親が用件を伝えた。今回は仲人でも平常は会社の下僚だから、児島さんは、

「はゝあ、それは/\」

と恐縮して、

「如何計らいましょうか?」

「直ぐ寝かしてやってくれ給え。それから医者だ。急いでね」

と父親は悉皆支配人になってしまった。

妙子さんは早速別間で床についた。斯ういう場合の用心にと羽二重の夜のものまで持って来ていたが、花婿の方でも、チャンと用意してあった。これによっても当時世界風邪が何れくらい流行っていたか察しられる。それは然うとして親戚の面々は急に手持ち無沙汰になって、立ったり坐ったりしている。

「皆さんは兎に角……ホテルじゃない、精養軒の方へお引き取り下さい。御覧の通りの次第ですから、婿だけ披露式に出すことと致します」

と父親が言う。

「あなた、芽出度い披露式早々から片一方欠けるなんかは縁起じゃございませんよ」

と母親は流感に罹れば死ぬものと思い込んでいるから、兎角気にする。

「でも芽出度い結婚式に発病しているじゃないか? 丈夫なもの丈け行くより外仕方がないよ」

「それですから、延しては戴けますまいか知ら?」

「今更延せないよ。もう会社のものが皆集まっている。清之介君丈けに出て貰うさ」

「それじゃ片一方が欠けると申しているんですよ」

「清之介君が出なけりゃ両方欠けるぜ。両方欠ければ一家全滅じゃないか?」

「そんなことを仰有るものじゃございませんよ」

「それじゃ何うすれば宜いんだ?」

と父親はムシャクシャしている。

「清之介さんには家に残って戴いて、児島さん御夫婦と私達が一寸顔出しをすれば宜しいじゃございませんか? ねえ、児島さん?」

「左様々々」

と児島さんは相槌を打つ。

「しかし当人達が一向顔を見せなければ披露にならない。それじゃ写真でも並べるかな、告別式のように」

と父親はもう焼け無茶だ。

「まあ/\、御病気のことですから、お客さま方も御承知下さるでしょう」

と北海道から来た清之介君の兄が口を出して、

「それに清之介は披露といっても同僚ばかりで皆見知り越しでしょうから、家に残るとして、仲人のお方と二方で宜しいじゃございますまいか? 私もお供致します」

と自分の存在を主張した。重役の令嬢と平社員の結婚だから、何うしても婿側の肩身が狭い。先方の親戚は豪そうなのが十何人か控えているのに、此方は北海道の運送屋さんが唯一の兄で、これが中風の父親と親類全体を一手に代表している。尤も九州の叔母の配偶に陸軍大佐がある。清之介君は心細さの余りこの人に列席して貰おうと思って、再三懇願したけれど、遠隔の地とあって到頭来てくれなかった。

「会社のものばかりなら何うでも構いませんが、他からも大勢見えるのです。しかし妻が御幣を担ぎますから、仰せに従いましょうかな」

「そこのところは私から宜しくお客さま方へ申し上げます」

と仲人も口を添えた。

「然う願いましょう。それじゃ清之介君、頼みますよ」

と父親は時刻が追々移るので、竟に納得した。

「は、承知致しました。もう間もなく医者も参りますから、は」

と清之介君は舅即ち支配人と思っているから、甚だ腰が低い。

「成る可く早く切り上げて参りますから、何うぞね」

と母親も頼む。

「は、かしこまりました。は」

と一同が自動車に乗り込むのを見送って、清之介君は花嫁の休んでいる部屋へ引き返し、羽織袴のまゝでその枕頭に侍した。式は済んでもまだ言葉一つ交さないのだから女房とは思えない。如何に勇を鼓しても支配人の令嬢という頭がある。

「妙子、何うだね、容態は?」

と食わせれば宜かったのに、清之介君は極めて自然に、

「妙子さん、御気分は如何でございますか?」

とやってしまった。天下を嬶に渡すか渡さないかは最初の第一歩にある。

「頭が痛くて……」

と花嫁はもう余所行きは止めている。ここで覚るところあっても晩くはなかったのに清之介君は、

「もう医者が見える筈でございますが、斯うしている間に一つお熱を計らせて戴きましょう」

と矢張り羽織袴を脱がず、下へも置かない扱いを続けた。

「計って頂戴。大分あるようですよ」

「お待ち下さい。唯今検温器を探して参ります」

「序にお白湯を一杯頂戴、婆やに然う仰有ってね」

と妙子さんは何も当日から支配人の娘を鼻にかけたのでなく、単に良人として遇したのである。然るに清之介君は女房を支配人の令嬢として遇していたから、

「は、承知致しました」

と応じた。女中もいるし、里から婆やも手伝いに来ているのだから、それに命じて煙草でも喫っていれば宜いのに、自らお湯を汲んで来て、

「お熱うございますよ。検温器はこゝに置きます」

「来い/\早々御面倒をかけますわね」

と妙子さんは病苦の中にも態粗雑な言葉を吟味して女房振りを見せているのに、

「いゝえ、何う致しまして」

と清之介君は何処までも女房を令嬢扱いにしている。後日悉皆細君の下敷になってしまったのも全く道理のないことでない。

妙子さんはもう嚔は止まったが、頻りに咳をした。時計を見つめていた清之介君が、

「もう宜しゅうございましょう」

と言っても聞えないくらいだった。拠なく、

「失礼でございますが、一寸……」

と断って、妙子さんの腋の下から検温器を引き出さなければならなかった。

「大変でございますよ。三十九度七分!」

「流感でしょうね?」

と微かに呟いて、妙子さんは目を閉じた。長い睫毛に涙が露と宿っていた。

「さあ、何うでございましょうか知ら? お胸がお痛みでございましょうか?」

と訊いても返辞がなかった。唯息使いだけが小刻みに荒く聞える。

「妙子さん、あなたお苦しゅうございましょうね?」

「…………」

「もう医者が参りましょう」

細君は良人の奴隷ではない。御機嫌次第では良人の言葉に応答しなくても宜い。殊に自分が何か屈託があって良人が小煩い時には然う一々返辞をするものでない。若しそれがお気に召さなくて、

「おい、返辞をしろ! お前は耳がないのか?」

と極めつけられたら、

「あなたは随分勝手なお方ね。私の欲しいものを二つ返辞で買って下すったことがございますの?」

と遣り返す資格がある。妙子さんはもう細君だから、この作法の実行を心掛けていたのである。然るに分りの悪い清之介君は、

「妙子さん、あなたお白湯は召し上りませんの?」

と飽くまであなたさまに崇め奉っている。

折から俥が玄関に止まって、婆やと女中が医者を案内して来た。待ち侘びていた清之介君は慇懃に迎えて、座蒲団を薦め、早速発病の次第を説明し始めた。先生は、

「はゝあ。はゝあ」

と頷きながら聴いている。

「はゝあ、成程、結婚式で……それはお芽出度うございました」

と軽くお辞儀をして花嫁の方へ振り向き、

「……はゝあ、そのまゝお休みに……披露式へはお出にならずに……はゝあ、成程、瀬戸際まで漕ぎつけて、それは少々お気の毒でございましたな」

と又清之介君を顧みて破顔一笑した。

診察の結果は申すまでもなく流行の世界風邪と決定した。こゝ両三日が最も大切で肺炎に変じないとも限らないとあった。医者は手当の方法を詳しく言い含め、尚お看護婦の周旋を引き受けて立ち去った。後には清之介君、もう羽織袴どころではなかった。女中を氷屋へ走らせる。追っかけて婆やに氷嚢を買いにやる。その間に自ら瓦斯にかゝって湯湯婆のお湯を沸す。嫁を貰うとばかり思い込んでいて、看病の支度はしてある筈がないから、実際慌てたのである。

「あなた、私癒りましょうかね?」

と妙子さんは心細そうに尋ねた。

「大丈夫でございますよ。未だ肺炎と定まった次第ではありませんから、御心配なすっちゃいけません」

と清之介君は力をつけた。

「母は未だでしょうか?」

「もうソロ/\お帰りでございましょう」

「真正に御迷惑をかけて申訳ありませんわね」

「いや、何う致しまして」

清之介君の迷惑は啻に花嫁の介抱丈けに止まらなかった。妙子さんが三日目に医者の懸念通り肺炎と変症した頃から、清之介君も咳をし始めて、晩に一寝入りすると熱が出た。そうして翌日は流感、その翌々日は肺炎と事が捗った。双方勝り劣りのない重態で、一時は会社でも何方が早く片付くだろうかと噂をしていた。しかし里方総出の看護が効を奏して、妙子さんの熱が先ず分離し、それから三日目に清之介君のが分離した。何うしても細君本位の家庭と見えて、良人は後になる。

談話をしても差支えない程度まで元気づいた時、未だ毎日采配を振りに来る母親が二人の病室の仕切りになっていた襖を外してくれた。

「妙子さん、もう御安心でございますね」

と清之介君が先ず御機嫌を伺った。

「宜うございましたわね。あなたも」

と妙子さんは同慶の意を伝えた。

「私、もうお目にかゝれないと思いましたのよ」

「私も。でも最早大丈夫でしょうね?」

「大丈夫でございますとも」

「飛んだお土産を持って来て真正にお気の毒でしたわね」

「いや、何う致しまして」

と清之介君は死ぬほどの目に会わされても一向意に介していない。

肥立ちに入っても用心の為め双方に看護婦が附き添っていたから、清之介君は細君と打ち解ける機会がなかった。随って矢張り女房と思えない。依然として支配人の令嬢「妙子さん」の「あなた」だった。尚お具合の悪いことには東京に身寄りのない清之介君は、この大患の間何彼につけて細君のお里に負うところが甚だ多かったのである。見す見す妙子さんのお土産を背負ったことは分っていても、

「お蔭さまで命拾いを致しました」

と支配人夫婦にお礼を言わなければならなかった。好い面の皮だけれど、両親に於ても然う確信しているから仕方がない。妙子さんのが伝ったとは決して仰有らない。唯清之介さんが流感に罹った、と全く別口に扱っている。母親は殊に身贔屓が強く、

「娘は確かに音楽会から背負って参ったのでございますよ。一人で沢山なところへ婿まで罹りましてね。而もこの方が余程念入りでございました。あれは潜伏期の長いほど性質が悪いと申します。娘のと違って直ぐ呼吸困難に陥りますから、一週間というもの私が附きゝりでございました。まあ、酸素吸入で命を買ったようなものでございます。でも式が済んでからで宜うございましたよ。他人では迚もあれ丈け立ち入った看病は出来ませんからね」

と言っている。肚の中では清之介君のが妙子さんに伝ったと思っているのかも知れない。兎に角里は嫁の親であると同時に婿の命の親になってしまった。新婚早々これ丈けの恩顧を蒙ったのだから、唯さえ下り勝ちの頭が全く上らなくなったのも無理はない。

清之介君は一ツ橋出身である。お天道さまは今勤めている会社ばかりに照らない。人並の腕のあるものは何処へ行っても食える。支配人の令嬢を貰わなくても、立身出世の道はいくらもある。清之介君の縁談を耳にした時、同勤の親友辻村君はこの理を推して、

「支配人の女婿ということは一生祟るぜ。いくら出世をしてもあれはあれだからと言われる。僕は君の個性の為めに惜しむのさ」

と注意を喚んだ。しかし清之介君は既に一応首を縦に振った後だったから、

「何あに、個性は全うするさ。養子に行くんじゃあるまいし、高が女一匹だもの、何うにでも操縦するよ」

と自分の立場を弁護する外なかった。

それはさて置き、若い血汐の漲っている有難さ、新夫婦はズン/\回復した。看護婦もお暇が出て、初めて水入らずの新家庭になった。但し里方干渉の習慣は流感のどさくさ紛れに堅く根を張ってしまって、母親が一日置きに見舞いに来る。尤も妙子さんは末の娘だから呉れたような貰ったようなところという最初からの註文で、東京に親戚のない清之介君に白羽の矢が立ったのである。それはお婿さんも仲人の打ち明け話で承知だったが、単に希望に過ぎないと解釈していた。

ところが或日のこと、

「あなた、今日は少し御相談があってお母さんがお見えになったんですよ」

と妙子さんが紹介した。

「実は宅の家作が一軒急に明いたのでございます。清之介さんも御存知じゃなくて? 宅から停留場へ出る道で、赤いポストの側の門構えでございます」

と母親は直ぐに喋り出した。

「こゝよりも余っ程大きくて日当りが好いんですよ。肺炎の後は一体なら転地する方が安心ですけれど、然うも参りませんから、ねえ、あなた、越しましょうよ」

と妙子さんも口を添えた。

「はゝあ、私達が引越すんでございますか?」

と清之介君は初めて意味が分った。

「まあ、他人ごとのように仰有って。オホヽヽヽ。お母さん、私達お家賃は払いませんよ」

「いゝえ、敷金まで入れて貰いますよ。オホヽヽヽ」

と母子が面白そうに笑って、もう転宅が定ってしまったのである。

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