心境の変化
「小野寺君、一寸」
と或日専務の青山さんが僕を食堂の一隅へ引っ張って行って、
「君に一つ訊きたいことがある」
と言った。
「何でございますか?」
「社長は再婚の意志があるか知ら?」
「ありませんね。絶対に」
「僕もあるまいと見ているんだが、家内が承知しない。好い候補者があるんだ」
「駄目ですよ」
「直接当って見ようと思ったんだけれど、何分あの通り南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で隙がない」
「道心堅固ですよ」
「しかし今のまゝじゃ家が困るだろう。自分だって不自由で仕方あるまい」
「昔いた女中頭の清というのが又来て総取締りをやっています。社長の気に入りですから、都合が好いです。妻も時々見に行きます」
「兎に角、これから先長いことだから、君、一つ勧めて見てくれないか?」
「迚も/\。叱られます」
と僕は固辞した。
それから間もなく庶務課長の広瀬さんが再婚した。この人はもう一年余り鰥暮しをしていた。基督信者だから、社長のように出家の発心もしなかった。奥さんは三年患い続けて死んだのである。諦めが好い次第だ。今度は若くて綺麗なのを貰ったという評判だった。再婚は大抵内輪だけで済ます。広瀬さんは社長室へ来て、事後報告をして行った。
「はてね。広瀬君は見違えた。一年で糟糠の妻を忘れるような男かな?」
と社長は後から首を傾げた。
「大丈夫でしょう。広瀬さんは基督信者ですから」
と僕は興味を持って弁護の労を執った。
「基督信者なら、尚更のことじゃないか? 基督信者は一夫一妻の筈だぜ」
「そうです。その点は仏教なんかと違って、頗る厳重です」
「仏教なんかとは何だ?」
社長は数珠でテーブルを叩いた。ダン/\仏教が荒っぽくなって来る。
「他の宗教と違ってという意味でした」
「仏教だって一夫一妻だよ。君はマホメット教あたりと勘違いをしているんじゃないか?」
「マホメット教は公認的に一夫多妻ですけれど」
「基督教の一夫一妻も当てにならない。妻を亡くした後に又妻を貰えば、何う勘定しても、一夫二妻になる」
「それは数理的にはそうでしょうけれど、時間的には一夫一妻です」
「いや、時間的にも一夫多妻だ。基督信者は来世を信じるんだろう?」
「無論です。死ねば天国へ行くんですから」
「来世は現世の延長だ。既に妻が天国で待っている。その上にもう一人貰えば、結局、天国へ行って一夫二妻になる」
「理窟はそうでしょうけれど」
「事実もそうだよ。一プラス一は二だ」
「成程」
僕はもう争うべきでないと思った。議論をして御機嫌に逆らう必要はない。再婚問題に関する社長の意向が分れば宜いのだ。
「すると何だな。君は尚子さんに間違があれば再婚する気だな」
「いや、僕は社長の模範に倣って独身を守ります」
「模範も何もない。それが本当だ」
「はあ」
「家へ帰って尚子さんに誓い給え。仮りにあなたに間違があっても一生独身で暮しますからって」
「そう申します。尚子の奴、僕の手を取って喜ぶでしょう」
「君のところはいつも春風駘蕩のようだが、子供のないのが玉に疵だな」
「仲が好過ぎるからでしょう」
「こら! 直ぐそう調子づく」
と社長は猿臂を伸した。僕はもう少しで数珠で打たれるところだった。何うも仏教が荒行になって来ると思った。
専務の青山さんは仲人志望を諦めない。帽子を被らないものは昇給させるなというくらいだから、思い込むと執念が深いのだろう。又食堂で僕を捉まえて、
「小野寺君、その後天下の大勢は何うだね?」
と訊いた。
「全然見込がありません。再婚は一夫多妻だそうですから」
と僕は広瀬さんの場合を話して、社長の主張を説明した。
「そういうことを問題にして真剣になる丈け脈があるんじゃないかな? これはもう少し議論を吹っかけて探って見るんだね」
「駄目ですよ。うっかりすると打ん撲られます」
「兎に角、少しでも心境に変化が見えたら、知らせてくれ給え」
僕は庶務課長の広瀬さんと極く親しい。仕事の上からも、お互は絶えず接触を保つ必要がある。間もなく年が改まったのを切っかけに、広瀬さんは僕を家へ招いてくれた。新夫人を紹介する為めだった。僕が社長の道心を話したら、広瀬さんは宗教家丈けに、それは結構なことだと言った。社長の再婚反対論には一切触れない。僕はこれでも考えている。社長がこう言っていると一々相手に話した日には、会社の中が四分五裂してしまう。僕が社長の頭陀袋の口を握っているから、会社全体の統一が取れるのである。
「小野寺君、社長は?」
と言って、その直後広瀬さんが秘書室へ入って来た。
「まだいらっしゃいません」
「丁度好い。面白いことがあるんだよ。俄か普請の大伽藍がグラつき出した」
「何のことですか?」
「社長の道心さ。築地の銀トンボという待合から電話がかゝって来た。この間数珠を置き忘れた人がありますが、社長さんじゃないでしょうかと言うんだ」
「ハッハヽヽ」
「紫水晶のだそうだ。社長は何うだね? 数珠を持っているかね?」
「さあ。気がつきませんでしたが、そう言えばこの二三日持っていなかったかも知れませんよ」
「お預りして置きますから、そう申上げて下さいと言うんだ。社長だろう、屹度。この間から会が続いたようだから」
「社長に相違ありません。酔っ払ったんでしょう」
「矢っ張り飲むんですか?」
「般若湯の方は坊さんも飲むからと言って、制限を加えません。ハッハヽヽ。俄か普請の大伽藍とは、広瀬さんも皮肉ですな」
「ハッハヽヽ」
「利きますよ」
「内証だぜ」
「含んで置きます。ところで数珠のことはあなたから仰有って下さい」
「僕は駄目だ。基督信者という看板の手前、仏教の名僧に向って、待合へ数珠をお忘れになりましたかと訊くのは皮肉になる」
「構わないでしょう、職務上のことですから」
「いや、危い」
「僕も御免蒙りますよ」
「何故?」
「叱られます。大将、初めと違って、この頃は気が荒くなっていますから」
「それじゃ僕は社長秘書に伝えて置いたということで責任解除にして貰う」
「宜いですとも。社長の方から訊く筈はありません。万一訊いたら、あゝ、そうだったと思い出したように言いましょう」
僕はその日社長の出勤が待遠しかった。昼からやって来たが、果して数珠は持っていなかった。のみならず、机の引出や書類箱の中を頻りに探すのだった。
「社長、何か見えませんか?」
「いや、何にも」
と社長は否定して、書類に向った。尚お気をつけていたら、盲判の南無阿弥陀仏も唱えたり唱えなかったりだった。
それから数珠のない日が続いて、念仏が自然に消え去った。もう鷲のような目を見開いて、盲判を捺す。
「青山さん、心境の変化が聊か認められるようです」
と僕は約束に従って、青山専務に報告した。
「聊かとは君も鈍いな。実はもう始まっているんだよ」
「何ですか?」
「縁談さ」
「はゝあ」
「驚いたよ。大悟一番どころじゃない。僕の家内の同窓で五十二の未亡人を持って行ったんだ。前の奥さんより一つ若い上に、子供を生まなかったから、コッテリお化粧をすると四十台に見えるんだ。しかし社長は鼻息が荒い。こんな婆さんが何になるのかと言って、問題にしない」
「再婚の意志があるんですか?」
「駄目だな、君は。始終側についていながら」
と青山さんはひどい。此方は大事を取って、報告を延期していたのだ。
「確証を握ってからと思って待っていたんです」
「意志があるのないのじゃない。三十台で初婚で美人でなければ困るという註文だ」
「へゝえ?」
「悉皆若返ってしまった。しかし三十台で初婚で美人と三つ条件の揃うものはなか/\ない。美人なら三十にならない中に誰か貰ってしまう」
「二十台ならあるでしょう」
「あるけれど、先方で来ない。此方は六十の爺さんだ」
「矢っ張り一種の大悟徹底ですよ。図々しい方へ突き抜けてしまったんです。呆れ返って物が言えません」
と僕は少し癪に障って来た。会社中で僕が一番余計に空念仏を聞かされたのだった。
「実は家内も憤慨した。同い年のものを婆さんと呼ばれゝば、好い心持がしない。前の奥さんを侮辱することにもなると言って、早速逆襲に出掛けたんだ」
「成程。いつか妻が社長のところで奥さんにお目にかゝったと言っていました」
「その時だろう、屹度。日曜だった。社長は年来連れ添っているものなら、五十二でも三でも自分より年上でも構わないと言うんだそうだ。何となれば、若い頃を知っているから、現在は婆さんでも割増がつく。あなたのところだってそうでしょうと皮肉ったそうだよ」
「ハッハヽヽ」
「しかし今初対面の婆さんを貰うんじゃ割増が絶対的に考えられないから、ロマンチックの気分になれないと言う。ロマンスで行こうというんだから、爺さん、ナカ/\贅沢だ。何処で研究したのか、西洋では嫁を貰う場合、自分の年を二で割って七を加えたのを適正年齢とすると主張して、三十台も三十七以下でなければ御免蒙ると言っている」
「二十三違いますよ。大将、少し何うかしているんじゃないでしょうか?」
「いや、本気だ。この二で割って七を加えるという公式も社長の年が六十だから、ひどく開きがあるように思われるけれど、仮りに三十の青年として考えて見給え。二で割ると十五だ。それに七を加えれば、二十二になる。三十に二十二なら釣合が取れる」
「不思議ですな。僕のところも抑の初めは僕が三十で妻が二十二でしたよ」
「見給え。乗り出して来た」
「そういう次第でもないですけれど」
「二十四の青年なら、十二に七だから、嫁さんは十九になる。これは大いに根拠があると賛成したら、忽ち家内に胸倉を取られたよ。ハッハヽヽ」
と青山さんは大笑いをして行ってしまった。