積極性の悟り
「あゝ、社長、忘れていました。この間築地の待合の女将から電話がかゝって来ました。社長の数珠がお預りしてあるそうです」
と僕は突如言ってやった。一寸の虫にも五分の魂だ。再婚多妻論を主張しながら、陰に廻って縁談の註文をつけている。僕は社長の二重取引が癪に障ったのである。
「ふうむ?」
「行って取って参りましょうか?」
「それには及ばない」
「すると熊谷はもう廃業でいらっしゃいますか?」
「何?」
「熊谷直実です」
「そんなことよりも電話がかゝっている。早く出なさい」
社長は折からの電話が勿怪の幸いで、高圧的に僕を遮った。僕もそのまゝ追究を続けなくて宜かった。社長に食ってかゝったところで、何うせ勝てるものではない。電話が僕の迫った心持を弛めてくれた。尤もそれまでには次のような遣り取りがあった。
「簡単に断ってしまったが、誰からだい?」
「僕にかゝって来たんです」
「君にしてもさ。誰からだい?」
「大野の芳子さんからです。押売です。又音楽会の切符を買ってくれと言うんです」
「買ってやれば宜いじゃないか?」
「断りました」
「何故?」
「面倒です」
「そんな不親切なことはないよ。家へ教えに来ているんだ。俺に買って貰いたいと言ったんじゃないかい?」
「社長さんにも五枚ばかりと言いましたが、断りました。喪中ですから」
「喪中だって構わない。行く行かないは別として、十枚買ってやりなさい」
「はあ」
「直ぐ電話をかけて」
「何処からだったか分りません」
「学校からに定っている」
大野の芳子さんというのは僕の従姉だ。ピアノの先生として二つの女学校に勤めている上に、一週一回社長邸へ来て令嬢に教える。僕が推薦したのだ。上のお嬢さんの時からだから、以来五年近くになる。奥さんのお気に入りだった。僕は芳子さんの学校二つに電話をかけて、二つ目で捉まえることが出来た。切符を十枚買うと言ったら、大喜びをした。
「小野寺君、今の話の続きを行こう」
と社長が申入れた。
「もう何うでも宜いです」
僕は単純だ。従姉に親切を尽して貰った丈けで、社長の誠意を感じたのだった。
「あれも一時、これも一時だよ。数珠をまさぐって南無阿弥陀仏を唱えていたのも俺の姿、今又この通り会社の仕事で張り切って阿修羅のようになっているのも俺の姿だ。君には何方の姿が俺らしく見えるかね?」
「無論今の社長の方です」
「死んだ家内も俺が素人坊主になるのは喜ぶまい。内助の功を立てゝ、俺を今日あらしめたんだから、今日の俺が益活躍するように望んでいるだろうと思う」
「はあ」
「俺は消極の悟りから積極の悟りに目が覚めたんだ。熊谷や西行は浮世の無情を感じて人生から退会したが、皆その真似をしたら、世の中は何うなる! 火事があっても逃げちゃ駄目だ。俺は何処までも正会員で行く」
「僕は初めから社長のお念仏には反対でした。しかし若輩の出しゃばる幕じゃないと思って、差控えていたんです」
「俺もさ。早く話せば宜かったのに、君には一番余計お念仏を聞かせているものだから、つい言いそびれていたんだ」
「分りました」
「あれも一時、これも一時」
「はあ」
「人生正会員、これが結局俺の開いた悟りだ。世を捨てゝ山に入る人山にても、尚お憂き時はいずこ行くらん。逃げるのは卑怯だ。皆正会員になって、ジャン/\やる。俺も好い加減頭が鈍いよ。彼方へ打っ突かり、此方へ打っ突かりして、漸く本当のところへ漕ぎつけたんだから」
と社長は心境の変化を説明した。
僕は悉皆納得が行った。同時に人生正会員という言葉が頭の中に残った。僕は矢張り社長を尊敬しているから、社長から暗示を受けると強く利く。
「何? あなた、人生正会員ってのは」
と妻が疑問を起した。家でも頻りに口走ったのだった。
「この間も話した通り、社長はもうお念仏をやめた。これからは元通りになって、人生の正会員で行くと言っている」
「正会員って?」
「本当の会員さ。人生の正会員になって、ジャン/\やるそうだ」
「無論そうでしょう。三十七のお嫁さんが欲しいんですから」
「成程。それじゃその前提かな?」
「狸よ。叔父さんは」
「融通が利くというのか、それからそれと考えて妙な理窟をつける」
「神通自在でしょう。あなたなんか迚も敵いませんわ」
社長は実際事業欲で張り切っていた。一年ぶりで仕事に油が乗って来たのだろう。然るに会社の隅々には小半年前の評判が消え残っている。社長は念仏に凝って社員の俸給を上げることを忘れているともいい、会社をやめて西国巡礼に出掛けるともいう。
「社長」
「何だね?」
「近い中に学校仲間の会がありますから、人生正会員のことを話しても宜いですか? 社長のお念仏が問題になって、途轍もないデマが飛んでいますから、この際迷夢一掃の必要があるでしょう」
「何んなことを言っているんだね?」
「種々あります。会社をやめて永平寺へ修行に入るというのと、獣医学校へ行って去勢してしまったというのがあります」
「何だって?」
「ハッハヽヽ」
「碌なことを言わない奴等だ」
「僕は人生正会員の理想に共鳴を感じます。あれを話して、社長の真面目を明らかにしてやりたいと思うんです」
「結構だが、人生正会員の内容が分っているかね」
「分っていますとも」
「しかし君あたりはまだ人生の準会員だよ」
「何故ですか?」
「子供がないじゃないか? 若し向う三軒両隣り、皆君達夫婦のようだったら、日本は何うなると思う? 次の代がないから当然亡びてしまう」
「今に一人や二人出来ますよ。まだ結婚してから五年しかたっていません」
「二人でも足りない。各夫婦が二人しか生まないとすると後継を拵えた丈けだから元々だ。蓄えというものがない。見る/\、戦争疫癘その他の事故に蚕食されて、人類は滅亡を遂げる」
「三人なら正会員ですか?」
「先ずその辺だろうね。多々益弁じる。俺が高等学校で読んだ英語の教科書に面白い話があった。ゴッテンブルグの伯爵というのが王様巡行の折、三十六名の息子息女を御覧に入れて、これが私の国家に対する貢献でございますと申上げたそうだ。意味深長じゃないか?」
「三十六人というと一腹じゃありますまい」
「幾腹でも構わない」
「すると……」
「何だい?」
「いや、もう結構です」
「来世の帳尻かい? それは又来世へ行った時の話だろう。生きているものは積極的に生きて行く外に仕方がない」
一周忌の法要が済んでから数日たって、僕達夫婦は社長邸へ夕食に招待された。相客があると思ったら、僕達と令息令嬢達ばかりだった。社長は立派な正会員だ。四男二女があって、一人も欠けない。長男次男は大学を卒業して、それ/″\職業についている。長女は嫁いでもう子供がある。
「喪中一年間、種々と面倒を見て貰って助かった」
と社長は食後僕達を別間に請じて、お礼を述べながら、金一封を尚子に推し進めた。足繁く通って貰った車代だと言う。
「頂戴して置きなさい。厭なら僕が貰うよ」
と僕は冗談を言って受けさせた。
「お礼と一緒にお頼みだ。俺の身の振り方を頼むよ。子供もあるし、いつまでも一人じゃいられない」
「青山さんあたりからお話があったんじゃございませんか?」
「あったけれど、あすこは奥さんが勘違いをしている。五十二の人を推薦したから断ったら、四十七と四十三のを持って来て、この辺で満足なさいと圧迫するんだ」
「四十三なら丁度好いじゃありませんか?」
「いけない。西洋では自分の年を二で割って七を加えたのが丁度好いことになっている。俺の場合は三十七の人が理想的だ」
「三十七。はゝあ」
と僕は初耳のようにして、年の差異を指折り数えた。
「開きがあるようだけれど、この原則の間違っていないことは、もっと若いものに当て箝めて見ると分る。三十の人なら十五に七だから、二十二になる」
「あら、私達も三十と二十二でしたわ」
と尚子も知っていながら今更のように調子を合せた。
「その通りだ。そこで俺は三十七を金科玉条としている。八以上は困ると言ってあるのに、青山君の奥さんは四十三の太っ女を持って来たんだ」
「三十七以下なら宜しゅうございましょう?」
「若い分には構わないが、此方も相当多いんだから気の毒だ。三十七として置く。それ以上でもなく、以下でもなし。そういうのはないだろうかね?」
「それは広い世間ですもの、お子さんのない未亡人でお綺麗な方がございましょう」
「綺麗ということは条件だけれど、未亡人はいけない。独身で、いや、未婚、いや/\、初婚でないと困る」
「すると初婚でお綺麗で三十七でございますわね」
「うむ。一つ探して下さい。小野寺君と力を併せて」
「僕も及ばずながら心掛けます」
暮春の宵の朧月夜だった。社長邸を辞して電車の停留場へ向う途中、
「美人で初婚で三十七。むずかしい註文を引受けた」
と僕が呟いた。
「三十七とお切りになったのは何ういう次第でしょうかね?」
と妻は探究的興味に刺戟されていた。
「それは西洋の公式さ。自分の年を二で割って七を加える」
「一つぐらい上でも下でも宜かりそうなものなのに、何か意味がありそうね」
「あれで変に几帳面なところがあるんだよ」
「あなた」
「何だい?」
「大野の芳子さんはお幾つでしょうか?」
「芳子さんか? あの人は僕より三つ多いかな。いや、二つ多い。神戸の姉と同じだ。三十七だ。おや/\」
「御覧なさい」
「未婚だね。ピアノの修業が一生懸命で有らゆる縁談を断ってしまったんだから」
「そうしてお綺麗ですわ」
「驚いたな。三拍子揃ったものが手近にいるとは」
「芳子さんのことよ、屹度」
「はてな」
「そうよ。日曜にいらっしゃるんですから、時々お目にかゝるんでしょう」
「すると芳子さんを貰ってくれという謎だろうか?」
「二十三も違うんですから、まさか明らさまには仰有れませんわ」
「何うだろうね? 芳子さんは行くだろうか?」
「さあ。先生として立派にやっていらっしゃるんですから」
「しかし先生をやっていると、いつまでも準会員だぜ」
「訊いて見ましょうか?」
「うむ。それにしても社長は権謀術数に富んだ人だな。あの公式も自分で考え出したのかも知れない」
「でも、私達に当て篏まっているんですから」
と僕達は朧夜の街頭に立ち止まって、首を鳩めていた。
(昭和十六年六月、講談倶楽部)
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