級友諸賢
「神さま。私はカナンの国に着きました」
というのが私の感謝だった。明治学園の生活は悉皆気に入った。年来思慕の学校だから、苦情のありよう筈はない。最高学府の帝国大学へ入っても、これ以上の満足は覚えなかったろうと思われる。感激の余り、差当り平素の自己以上になっていた。鈍っていた信仰が刺戟された。
「こゝだ。新入学と共に生れ更ろう」
と発心した。郷里の両親と占部牧師へ然う書いて送った。祈祷、勉強、自省、交際、運動等の時間割を細かに作って、忠実に実行した。
或朝、私が五階の塔へ登って、少時のお祈から目を見開いたら、安部君が直ぐ側に来て、矢張り祈っていた。私はその敬虔な態度に感心して、又祈り始めた。再び目を見開いたが、安部君は未だ頭を下げていた。私は又々祈り足して、又々見開いたが、安部君は一生懸命だった。敵わないと思った。しかし負けるのは口惜しいから、更に初めから祈り直して、アーメンと声を立てたら、安部君もアーメンと和して漸く終った。
「お早う」
「お早う」
と双方同時に挨拶をした。
「君は豪い」
と安部君は溜息をついた。
「何うして?」
「実に能く祈る」
「君こそ能く祈る」
「いや、僕は迚も敵わない」
「そんなことはないですよ。僕は早く済んで君の方を見たら、君が未だやっていたから、又始めたんです」
と私は有りの儘を告白した。
「僕も然うですよ。負けまいと思って、済んだのを又無理にやったんです」
「それにしても僕は三度目を開いています」
「僕も一二三、矢っ張り丁度三度です」
と安部君も匿さなかった。潜水か何かの積りで、長く続くのを豪いと思っていたのだ。幼稚なものだった。信仰も進化する。安部君は現在立派な牧師さんになっているが、私はこの程度で発達が止まってしまったのである。
野崎赤羽の両君は特別として、最初に会っている所為か、私はこの安部君とは他の同級生よりも早く親んだ。先方も好意を持っていると見えて、食堂では私の隣りに坐る。
「これは何ですか?」
と私が訊く。
「葱のカツレツです」
と安部君が教える。チャペルでも、何方が努めるともなく、二人並んで席を占める。
「あの頭の禿げた西洋人は何という人ですか?」
「ニコルさんです。幾つに見えます」
「六十ぐらいでしょう」
「可哀そうに。四十そこ/\ですよ」
「若いんですね」
「あの頭に毛が生えないと、奥さんがアメリカから帰って来ないんです」
「はゝあ」
「先生、一生懸命になって、毎朝鵞鳥の生血を飲むそうです」
「そんなものが利くんですか?」
「駄目でしょう。先生、奥さんのことゝ頭のことばかり考えています。そら、頭を撫ぜながら、時計を出して見ているでしょう?」
「えゝ」
「あの時計の蓋の裏に奥さんの写真が焼きつけてあるんです」
「成程」
と私はその都度何か得るところがある。
授業が始まって二三日してからのことだった。放課後、安部君は、
「河原君、その辺へ散歩しませんか? 好いところがありますよ」
と誘ってくれた。
「お供しましょう」
と私は丁度散歩の時間だった。その頃の東京は場末が直に田圃で、学園の近所には百姓家が多かった。
「まるで田舎でしょう?」
「えゝ。水車がありますね」
「こゝが僕の散歩道です。夕方独りで来て、瞑想しながら歩きます」
「君は詩人ですな」
「斯ういう美しい自然界へ出ると、誰でも詩人になりますよ」
「東京にこんな静かなところがあるとは思いませんでした」
「夕方はあの森へ日が落ちるんです。何とも言えない景色ですよ」
「実際好い」
「讃美歌を歌いながら歩きましょう」
と安部君は早速胴間声を張り上げた。私も和して、田圃道を辿り始めた。間もなく後ろから、
「おうい」
「馬鹿野郎やあい!」
と呼ぶものがあった。
「野崎君と赤羽君だ」
と私は振り返った。
「待てよう」
と野崎君は手を挙げて、赤羽君諸共駈けて来た。
「御散歩ですか?」
と安部君が訊いた。
「いや、これです」
と野崎君は持っていた煙草を見せた。
「寄宿舎じゃ吸えないから、この辺まで出て来るんです」
と赤羽君もスパ/\やった。
「いけないぜ、野崎君。君はもうやめると言ったじゃないか?」
と私は態と大袈裟に咎めてやった。
「申訳ない。三日坊主だ」
「駄目だなあ。静岡県は」
「群馬県が誘惑するんだもの」
「ハッハヽヽヽ」
と赤羽君は膝を叩いて笑い出した。
「二人で時々散歩に出る道理が分ったよ」
と私は思い当った。
「まあ/\、勘弁してくれよ」
と野崎君は責任を感じているようだった。
「構わないよ。君の勝手だもの」
「もう信用しないかい?」
「そんなことはない」
「勉強は大にする。到頭落ちつく決心がついたんだから」
「もう宜いよ。冗談に言ったんだよ」
と私は気の毒になった。
四人連れ立って歩き始めた。
「安部君」
と赤羽君が話しかけた。
「何ですか?」
「煙草は何故いけないんでしょう?」
「さあ。分りませんな」
と安部君は明答を避けた。議論を吹っかけられると思ったのらしい。
「聖書に煙草を飲むべからずという規則が出ているんですか?」
「そんなことはありません。基督は煙草以前の人です」
「見給え、野崎君。僕が勝った」
と赤羽君が威張った。
「そんなことは僕だって知っているよ」
「知らなかったじゃないか?」
「あれは聖書の戒から来ていると言ったんだ」
「煙草以前の人が煙草の戒をする筈はないよ」
「それは然うさ」
「見給え」
「しかし直接煙草の戒でなくても、今の時代に引き直して、意味が然う取れゝば同じことじゃないか?」
「今更誤魔化しても駄目だよ」
「誤魔化すものか。僕は単に一般的に煙草は聖書の教訓に反くからいけないんだろうと言ったばかりだ」
と野崎君が主張した。
「君は狡い。何も知らないくせに」
「何を知らない?」
「新島襄先生を知らなかったじゃないか? 基督教のことは何も知らない」
「君こそ知らないよ」
「君はミッション・スクールを知らなかったじゃないか?」
と赤羽君が敦圉いた。
「やめ給え。喧嘩になる」
と安部君が心配して割り込んだ。双方少時黙った後、
「赤羽君、それじゃ君は基督のことを知っているのか?」
と野崎君が再び進み寄った。
「知っているとも」
「基督は紀元前何年の人だ?」
「さあ」
「言って見ろ。早く言って見ろ」
「待て」
「大体で宜い。西洋歴史の試験だ。知っているなら、早く言え」
「一寸待ってくれ」
と赤羽君は考え込んだまゝ、行き詰まってしまった。
「見ろ、馬鹿野郎!」
と野崎君が極めつけた。
「…………」
「基督紀元を知らない奴があるか?」
「知っているよ。基督は紀元元年だ」
「教わってから言っても駄目だよ」
「つい釣り込まれたんだ」
「知らなかったんだよ」
「君が詭弁を弄するからさ。これは驚いた。頭が何うかしている」
と赤羽君には何処か愚なるが如きところがあった。
安部君は再び讃美歌を歌い始めた。私も負けない気になって怒鳴った。しかし敵わない。安部君は恐ろしい胴間声を出す。
「君の声は太いですな?」
と私は歌の切れ目に訊いて見た。
「ベースですよ」
「は?」
「ベース」
「何のことですか?」
「御存知ありませんか? 正式に習っているんです」
と来た。田舎の教会育ちは情けない。私は少し極りが悪くなって、ふと見返ったら、野崎君と赤羽君がもういなかった。
「何うしたんだろう?」
「敬遠したんですよ、窮屈で」
「あの百姓家のところから曲ったんだ」
と私が立ち止まって見返った時、
「馬鹿野郎やあい!」
と呼ぶ声が聞えた。
「ひどい奴等だ」
「河原と安部の馬鹿野郎やあい!」
「何だ? こん畜生!」
と私は声の方角へ二三歩進んだ。
「君、それはいけませんよ。悪に敵すること勿れです」
と安部君が制した。
「余り失敬だ」
「あの二人は心に疚しいところがあって、僕達と一緒に歩けないから逃げて行ったんです。もう構わない方が宜いです」
「あゝ、彼処へ行く。広い道へ出たんです」
と私は二人の姿を立木の間に認めた。
「沈淪に至る路は濶、その門は大なり。これより入るもの多し」
と安部君が聖句を引用した。私は早速、
「命に至る路は窄、その門は小さし。その路を得るもの少なり」
と受けた。
「ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「あの二人は俗物ですよ」
「命の為めに何を食い何を飲まんと思い患っているんです」
「命は糧より勝ることを知りません」
「空の鳥を見よ。稼ことなく穡ことをせず、倉に蓄うることなし」
「この故に明日のことを思い患う勿れ」
「明日は明日のことを思い患え」
「一日の苦労は一日にて足れり」
と二人は基督の言葉で語り合った。お互に此方も知っているぞという見栄があった。
「時に河原君、君は明治学園が気に入りましたか?」
と安部君は話題を更えた。
「えゝ」
「好い学校でしょう?」
「申分ないんですが、一つ案外に感じたことがあります」
「何ですか?」
「ミッション・スクールだから、生徒は皆信者だろうと思っていたら然うじゃないんですもの」
と私は元来怪しげな信仰を如何にも確実のように衒った。考えて見れば、馬鹿なものだった。
「それは仕方ありませんよ。誰でも入れるんですから」
「ミッション・スクールなら、もっと信仰を勧めれば宜いでしょう。もっと伝道的に」
「チャペルでやる礼拝がその積りですよ」
「あんなことじゃ求道者は出ますまい?」
「さあ」
「洗礼を志願するものがあるんですか?」
「ありますよ。僕なんか然うでした。それから日曜には朝晩説教があります」
「誰がやるんですか?」
「ジョンソン博士です。晩は他の人ですけれど」
「早く聴きたいものですな」
「明後日あります。一緒に行きましょう。女学園と一緒です」
「女学生が来るんですか?」
「えゝ。僕達は右側に坐ります。女学園の連中は左側です。それで面白いんですよ」
「何ですか?」
「皆女学生の方を見るんです」
「説教中にですか?」
「えゝ」
「それは不都合千万だ」
「ハッハヽヽヽ」
「叱られるでしょう?」
「何あに、時計が左側の壁にかけてあるものですから、それを見る風をして誤魔化します」
「狡いんですね」
「これを『左向け』と言っています」
「成程」
「皆左向けばかりするものですから、いつかジョンソン博士がチャペルで冷かしましたよ。『皆さんの首、少し左へ曲る癖出来ました。その道理、何でありますか?』って」
「ハッハヽヽ」
「皆やっているんですよ」
「しかし皆信者でしょう?」
「信者には限りません。生徒ですから」
「中学部も神学部も出るんですね?」
「えゝ。神学生が一番左向けをします」
「これは驚いた」
「アメリカあたりじゃ皆然うですって」
「然う言えば、君も少し左へ曲っていますよ」
「ハッハヽヽヽ。僕は大丈夫です」
と安部君は否定した。
「級で信者は君と僕と吉田君丈けですね」
「もう一人立花君があれでも信者です」
「熱心ですか?」
「蝙蝠ですよ」
「え?」
「蝙蝠信者ですよ。エソップにあるでしょう? 蝙蝠は鳥の仲間へ入ると、おれは鳥だと言って、獣の仲間へ入ると、おれは獣だと言います。立花君もその通りです。信者の仲間へ入ると、信者らしくして、未信者の仲間へ入ると、未信者らしくします」
「厭な奴だなあ」
「抜け目がないんです」
「僕はそんな裏表のある人間は嫌いです」
と私は更生一新の発心をしたばかりだったから、無暗に理想が高くて他を律するに厳しかった。
「しかし成績は好いですよ。特待生です」
「一番ですか?」
「えゝ」
「君は二番でしょう?」
「僕は三番です。吉田君が二番です」
「吉田君は真面目のようですね?」
「あの人は模範的です。好い信仰を持っています。お父さんが牧師ですからね」
「道理で違う」
「残余は皆未信者で中には無神論者もいます」
「誰ですか?」
「高木君です。痛快な男ですよ」
「もう一人何とかいうのがいるじゃありませんか?」
「佐伯君ですか? 谷君ですか?」
「さあ。何方でしょうか? 僕のことを田舎ものって言いました。野崎君が憤って、突き飛ばしましたよ」
「丈の高い方ですか?」
「えゝ」
「それじゃ佐伯君です」
「あれは生意気ですね」
「案外好人物ですよ。金持のお坊っちゃんですから、皆に煽てられて威張るんです。谷君は佐伯君の腰巾着です」
「通学生ですね、二人とも」
「えゝ。何方も負けず劣らず成績が悪くて、仮級ばかりやって来ました」
と安部君は級友の銘々伝を大略果した。
土曜日の晩に級の懇親会があった。この散歩の翌日だったように覚えているが、もっと後だったかも知れない。席上、野崎君と赤羽君が組打をして卓子を倒したので、二十何年後の今日、未だに一つ話になっている。級長の立花君と副級長の吉田君が発起人で、英文の案内状が廻った。
「懇親会ってのはソーシャル・ガザーリングかい? 一つ覚えた。流石にミッション・スクールだ」
と野崎君が感じた。
「これは間違っている。会はソサイチーだ」
と赤羽君は別に説を立てた。
「その会とは会が違うよ」
「会は何でも会さ」
「団体の会はソサイチーさ。集会はガザーリングかミーチングさ」
「成程」
「分ったかい? 基督は紀元元年だよ」
と野崎君はこれ丈け余計だった。赤羽君は黙って唇を咬んだ。これがこだわりになったと思われる。
会は教室で催された。未だ電燈がなくて、ランプだった。それも発起人が自分のを持って行った。寄宿舎には集会室があったが、土曜日だったから、他の会で塞がっていたのだった。私達は教壇の卓子を中央へ持って来て、それを取巻いた。通学生は来なかったから、唯七名の会合だった。立花君が開会の辞を述べて、
「これから指名しますから、当った人は成るべく詳しく自己紹介を願います。河原君」
と突如私を指した。私は立ち上ったが、用意がない。慌しく出身中学と生年月日を言って着席したら、立花君が、
「御郷里は何処ですか? 何うぞもう少し」
と請求した。私は又立って、
「郷里は静岡県○○町、千秋の雪を戴く富士山の裾野であります」
と附け足した。
「静岡県、もっとやれ」
と野崎君が力をつけてくれた。
「赤羽君」
と立花君が指名した。私達は三人並んでいた。
「私は群馬県の産であります」
と赤羽君が立上った時、皆クス/\笑った。もう幾度も聞いている。
「群馬県と申しても、馬ばかり出るところではありません。大人物が出ています」
「始まったぞ、新島襄先生が」
と野崎君が先廻りをした。
「新島襄何者ぞ? 彼の如きは群馬県の本領を語るものに非ず。群馬県からはもっと豪い人物が雲霞の如くに輩出している」
「誰だ?」
「国定忠次を初めとして、日本国中を風靡したる長脇差を見よ。彼等は皆上州の産だ。上州長脇差という言葉さえ出来ている。静岡県の比でない」
「…………」
「臍が茶を湧かす。静岡県の富士の山が何だ?」
「…………」
「磔茂左衛門は上州の義民であります。古来上州人は義に篤い。一諾を重んじて命を捨てることを何とも思わない。私はその上州人であります。生れ在所は安中町、ケチな野郎でございますが、何うぞ宜しくお見知り置きを願い上げます」
と赤羽君は博奕打の真似をした。大喝采だった。
「野崎君」
と立花君が指名した。
「静岡県の比でないとは何だ? 君は清水の次郎長を知らないか?」
と野崎君は赤羽君を睨みつけた。何方も何方だ。ミッション・スクールの教室で同郷出身の博奕打を自慢し合っている。
「文句があるなら後から聞こう」
「野崎君、願います」
と立花君が促した。
「僕は静岡県、河原君と同県ですが少し西へ寄って、遠州であります。遠州人は上州人よりも強い」
「強くない」
と赤羽君が弥次った。
「いや、強い。その証拠に、僕の村には上州無宿の墓が二三十ある。これは昔、上州の博奕打が喧嘩に来たのを皆叩き殺してしまったのだ。殺した方と殺された方と何方が強いんだ?」
と野崎君は側に坐っていた赤羽君の頭をコツンとやった。
「こん畜生!」
と赤羽君は立ち上りざま、野崎君に横ビンタを食わした。
「何をしやがる」
と野崎君がその手を捉えて、組み打ちになった。
「よせ/\」
と私達は止めたが、二人は揉み合って、卓子の上へ倒れかゝった。ガタンという物音、室内が真暗になった。
「ランプが破れたぞ」
「危い/\」
と皆口々に言いながら手探りを始めた。その瞬間、床の上がパッと燃え上った。流れた石油に火がついたのである。
「火事だあ」
と叫んだものがあった。皆羽織を脱いで叩き消した。野崎君も赤羽君も喧嘩を忘れて手伝っていた。
「滅法界もない」
と小使の老人が提灯を持って駈けつけた。
「もう大丈夫だ」
「いけません。火事を出すようなものに教室は貸せません。猪股先生に申上げる」
「後はもう気をつけるから」
と立花君が歎願したけれど、小使は承知しなかった。懇親会が取り止めになったのみならず、翌々朝学校の掲示板に、
「教室にて集会を催すことを一切禁止す」
と出ていた。