Chapter 1 of 16

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恐怖城

佐左木俊郎

第一章

森谷牧場の無蓋二輪の箱馬車は放牧場のコンクリートの門を出ると、高原地帯の新道路を一直線に走っていった。馬車には森谷家の令嬢の紀久子と、その婚約者の松田敬二郎とが乗っていた。松田敬二郎が牧場の用事で真駒内の種畜場へ出かけるのを、令嬢の紀久子が市街地まで送っていくのだった。

空は孔雀青の色を広げていた。陽は激しくぎらぎらと照りつけていた。路傍の芒が銀のように光っていた。

「眩しいわ」

紀久子は馬車の上に薄紫色のパラソルを開いた。

「冬服じゃ暑かったかしら?」

「夜になると寒いんですもの」

「暑いのはもう日中だけですね」

そして、二人はパラソルの下で身近く寄り添った。

「ほいやっ、しっ!」

馭者は長い鞭を振り上げて馬を追った。馬車はごとごと揺れながら走った。敬二郎と紀久子とはそーっと手を握り合った。

「ほいやっ!」

馭者は鞭を振り上げ振り上げては、その手を馭者台の横へ持っていった。そこには一梃の猟銃がその銃口をパラソルの下の二人のほうへ向けて、横たえられてあった。猟銃は馬車の動揺につれてひどく躍っていた。

「あら! 奇麗に紅葉しているわ。楓かしら!」

紀久子はパラソルを窄めながら言った。

「あれは山毛欅じゃないかな? 山毛欅か楡でしょう。楓ならもっと紅くなるから」

馬車はそして、原生林帯の中へ入っていった。道はそこで一面の落ち葉にうずめられ、もはや一分の地肌をも見せてはいなかった。落ち葉の海! 火の海! 一面の落ち葉は陽に映えて火のように輝いていた。そして、湿っぽい林道の両側には熊笹の藪が高くなり、熊笹の間からは闊葉樹が群立して原生樹林帯はしだいに奥暗くなっていった。暗灰褐色の樹皮が鱗状に剥き出しかけている春楡の幹、水楢、桂の灰色の肌、鵜松明樺、一面に刺のある※木、栓木、白樺の雪白の肌、馬車は原生闊葉樹の間を午後の陽に輝きながら、ばらばらと散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道の上をぼこぼこと転がっていった。

「ほいやっ、しっ!」

道はその右手に深い渓谷を持ち出して、谷底の椴松林帯はアスファルトのように黒く、その梢の枯枝が白骨のように雨ざれていた。谷の上に伸びた樹木の渋色の幹には真っ赤な蔦が絡んでいたりした。馬車はぎしぎしと鳴り軋みながら、落ち葉の波の上をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは転がっていった。

「おいっ! 正勝くん! 鉄砲を持ってきているんだね。危ないじゃないか。弾丸は入っていないのか?」

馭者台の猟銃に気がついて、敬二郎はそう言いながら猟銃に手を出した。

瞬間! 猟銃は轟然と鳴り響いた。

「あっ!」

敬二郎は横に身を躱した。紀久子がその横腹に抱きついた。馬が驚いて跳び上がった。正勝は怪訝そうな顔をして、馭者台から振り返った。

「どどど、ど、どうしたんだ?」

敬二郎は思うように口が利けなかった。彼は歯の根が合わなかった。真っ青な顔をして木の葉のように顫えていた。

「引っ張ったんですか?」

馭者の正勝は沼のような落ち着きをもって訊いた。

「引っ張るも引っ張らないも、弾丸を込めた鉄砲を……」

「本当に危なかったわ。ほんの二、三分くらいだったわ。わたしの額のところを、弾丸がすっと通っていったの、はっきりと分かってよ」

紀久子は溜息をつくようにして、敬二郎の脇から顔を出した。

「本当に危なかったよ。ほんのちょっとのところで、いまごろは二人とも死んでるところだった」

敬二郎のうちには、まだ驚愕の顫えが尾を引いていた。

「熊が出る季節なもんだから、鉄砲を持ってないといつどんなことが……」

「熊が出るからって、弾丸の詰まっている鉄砲をそんなところへ縛りつけて、引っ張れば発砲するようにしておくってことはないよ」

「そんなわけじゃなかったのですがね。弾丸を込めてからここへ置いたのが少し動くもんだから、なにげなく縄をかけてしまって」

「引金へ縄をかけるなんて……」

「正勝! おまえこれから無闇と鉄砲など持ち出しちゃ駄目よ」

紀久子は命令的に言った。

「無闇と持ち出したわけじゃないんですがね。これからしばらくの間は鉄砲も持たずに、馬を連れて歩くってわけにはいきませんよ。なにしろこれからは熊の出る季節ですからね」

馭者は反抗的に言った。

「とにかく、そこへ置くことは絶対にいかんね。こっちに寄越したまえ」

敬二郎は叱りつけるように鋭く言った。

「弾丸はもう詰まってないのだから、どこへ置いたってもう危なくはないだか……」

反抗的な語調で繰り返しながらも、正勝は猟銃を解かないわけにはいかなかった。

「それじゃ、これも一緒にそっちへ置いてください」

馭者はそうして、猟銃と一緒に弾嚢帯をも敬二郎に渡した。

「本当に危なかったわ。正勝! これからは気をつけないと駄目よ」

紀久子は女王の冷厳さをもって言った。

「ほいやっ、しっ!」

正勝は鞭を振り上げて馬を追った。

そして、馬車はまた、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは走った。

馭者の正勝は固く唇を噛み締めながら馬を追った。彼の沼のような落ち着きのうちには、激しい敵愾心が嵐のように乱れているのだった。彼はそれをじっと抑えつけていた。

(次の機会を待とう!)

彼は心の中に呟いて、わずかに慰めた。

(いまの弾丸さえ逸れなかったら……)

慰めの言葉のあとからすぐ別の想念が湧いてきて、正勝は容易に諦め切れなかった。

(あの弾丸で男のほうだけでも倒れてしまえば、女のほうなんかどうにだってなったのだから……)

彼のうちの復讐の炎は、失敗の口惜しさを加えて、かえって激しく燃え立った。

(よし! 帰り道だ! 帰り道で女だけでも先に殺ってしまおう!)

彼は心のうちに叫んだ。

(女のほうを殺っておいて、男の苦しむのを見たほうがかえって面白い。あいつがあれを奪っておれに与えた苦しみを、おれはあれを殺っつけておれの背負わされた苦悶の何倍かの苦悶を、何倍かの深刻さであいつに突っ返してやるんだ)

正勝の思いはしだいに悪魔的になってきた。彼の敬二郎と紀久子とに対する遣る瀬ないような復讐心は、復讐のことを考えるだけでも幾分は慰められるのだった。彼は馬の歩むに委せて、その考えのうちに没頭した。

(しかし、紀久子だってただ簡単に鉄砲で撃ち殺したのでは面白くない。敬二郎よりもだいいち、あの女を苦しめてやらなければならないのだ。何もかも、あの女から出発していることなのだから……)

彼はそう考えて、その脳髄の隅に新たな積極的な復讐の手段を探った。

(そうだ! 谷底を目がけて馬車をひっくり返すことだ。そうだ! おれは馭者台から飛び降りておいて、馬車を谷底へ追い込んでやることだ。馬が谷を目がけて駆け下りなかったら、馬を押し落としてでもあいつらごと馬車をひっくり返してやるんだ。それだけでは万一に死ななかったにしても、谷から這い上がってくるまでには熊のために食い殺されるに相違ないから……)

しかし、馬車はもう谷の上を過ぎて、道の両側にはふたたび原生樹林が続いていた。

(なぜこの手段をもっと早く思いつかなかったのだろう?)

彼はそう心のうちに呟いて、馬車がすでに谷の上を過ぎていることを残念がった。

(帰り道だ! 帰り道で女のほうだけでも……)

彼はそう考えて、沼のような落ち着きを装いながら馬車を追い進めた。

原生闊葉樹林帯を抜けると、馬車は植林落葉松帯の中を通り、開墾地帯に出ていった。道はようやく平坦になってきた。馬車は軽やかに走った。

午後の陽は畑地一面に玻璃色の光を撒いていた。どこまでもどこまでも黄褐色の大豆畑が続き、その茎や莢についている微毛が陰影につれてきらきらと畑一面に蜘蛛の巣が張っているように光っていた。そして、ところどころには玉蜀黍がその枯葉をがさがさと摺り合わせていたりした。

しばらくして、馬車の前方に一人の人影が見えだした。馬車の進むにつれしだいに大きく、しだいに形を整えて、その後姿が接近してきた。赤い帯、頭のてっぺんに載っている桃割れ。錆茶の塗下駄。十六、七の少女だった。少女はその小脇に風呂敷包みを抱えていた。そして、少女は何かに追い立てられているように、急いでいた。

「あら! 蔦やじゃないかしら?」

紀久子は立ち上がるようにして言った。敬二郎も顔を上げた。しかし、正勝はなんらの感動をも受けてはいないもののようにして、馬を追い進めた。

「ほいやっ!」

鞭が玻璃色の空気の中にぴゅっと鳴った。

「正勝! 蔦やじゃない?」

「さあ?」

正勝は簡単に片づけた。彼は自分の妹について、ほとんど無関心のような態度を見せた。

「正勝! おまえは呑気ね。自分の妹じゃないの? 正勝!」

「妹かしれませんが、しかしおれの知ったことじゃないです」

「正勝! おまえはこのごろ少し変ね?」

そのとたんに、少女はくるりと背後を振り返った。

敬二郎が言った。

「蔦代だ」

「蔦やだわ。どこへ行く気なのかしら? あの子は……」

馬車はそのうちにもしだいに近く、蔦代の背後に接近していった。蔦代は狼狽の物腰を見せて、後ろを振り返り振り返り早足に急いだ。

しかし、馬車がいよいよ彼女の後ろに接近してその横を通り過ぎようとしても、正勝は馬車を停めようとはしなかった。

「正勝! 馬車をお停めよ! おまえはずいぶんと薄情なのね、自分の妹が一人で歩いているのに……」

紀久子は冷厳な態度で言った。正勝は無言だった。彼は黙々として馬車を停めただけだった。

「蔦や! おまえはどこへ行くの?」

紀久子は馬車の上から声をかけた。

しかし、蔦代は路傍に馬車を避け、顔を伏せたまま答えようとはしなかった。

「蔦や! どこへ行く気なのよ? え?」

紀久子は繰り返した。しかし、蔦代は依然として顔を伏せたままだった。

「言わないんなら言わなくてもいいわ。おまえ、どこかへ逃げていくつもりなのね、蔦や!」

「とにかく、どこへ行くにしても馬車へ乗せたらどうです」

敬二郎が傍から言った。

「蔦や? おまえ、どこかへ行く気なら行ってもいいわ。とにかく、わたしたち停車場まで行くんだから、一緒に馬車へお乗り。おまえ停車場へ行くんだろう? 蔦や!」

しかし、蔦代は下駄で路面に落書きなどをしていて、顔を上げようとはしなかった。

「蔦や! 急いでいるんだから早くお乗り! 早く!」

紀久子にそう促されて、蔦代は仕方なく馬車へ寄ってきた。そして、彼女は顔を伏せたままで隅のほうにそーっと腰を下ろした。その彼女の目には、涙がいっぱいに湧いていた。

沈黙が続いた。だれも口を利こうとはしなかった。馬車も停まったままだった。馬だけがときどきぴしっぴしっと尾を振って、横腹に飛びつこうとする蠅を叩き落としていた。

「正勝! 何をぼんやりしているの? 急いでいるのに」

しばらくしてから、紀久子が言った。

「ほいやっ、しっ!」

鞭がぴゅっと鳴った。馬は習慣的にどどっとふた足、三足を駆け出した。馬車はそして、ごとごとと平坦な道を走っていった。

「蔦や! おまえ、本当にどこへ行くつもりなの? え? 蔦や!」

紀久子はしばらくしてから訊いた。しかし、蔦代は依然として答えなかった。紀久子は繰り返した。

「どこへ行くつもりなの? 蔦や! おまえはそれをわたしにも言えないの? 蔦や! おまえは、わたしがおまえをどんなに思っているかってこと、おまえには分からないんだね。ねえ? 蔦や!」

「いいえ! それは……それは……」

「いいえ! 蔦やには、わたしがおまえをどんなに思っているかってことが少しも分かっていないんだわ。わたしはおまえを、ただの女中だなんて思ってやしないのよ。自分の妹か何かのようにして、なんでもおまえには、特別にしているのに、それがおまえには分からないんだわ」

「いいえ! お嬢さま!」

蔦代は唇を引き歪めながら、涙に濡れぎらぎらと光っている目を上げた。

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