Chapter 1 of 4

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熊の出る開墾地

佐左木俊郎

無蓋の二輪馬車は、初老の紳士と若い女とを乗せて、高原地帯の開墾場から奥暗い原始林の中へ消えて行った。開墾地一帯の地主、狼のような痩躯の藤沢が、開墾場一番の器量よしである千代枝を伴れて、札幌の方へ帰って行くのだった。

落葉松林が尽きると、路はもはや落ち葉に埋められて地肌を見せなかった。両側には山毛欅、いたやかえで、斎樹、おおなら、大葉柏などの落葉喬木類が密生していた。馬車はぼこぼこと落ち葉の上を駛った。その上から黄色の葉が、ぱらぱらと午後の陽に輝きながら散りかかった。渋色の樹肌には真っ赤な蔦紅葉が絡んでいた。そして傾斜地を埋めた青黒い椴松林の、白骨のように雨ざらされた枯れ梢が、雑木林の黄や紅の葉間に見え隠れするのだった。

「ほいや! しっ!」

馭者が馬を追うごとに、馬車はぎしぎしと鳴り軋めきながら、落ち葉の波の上を、沈んでは転がり浮かんでは転がって行った。

落葉松林の中の下叢の陰に、一時間も前から息を殺して馬車の近付くのを待っていた若い農夫が、馭者の馬を追う声で起ち上がった。そして猟銃を構えながら、山毛欅の大木に身体を隠して路の方を窺った。初老の紳士は、洋服の腕を若い女の背後に廻して、優しく何かを語りかけていた。若い女は軽い微笑の顔で、静かに頷くのだった。若い農夫は、一時に全身の血の湧き上がって来るのを感じた。

若い農夫は樹の陰から、五匁玉を罩めた銃口を馬車の上に向けた。彼の心臓は絶え間なく激しい動悸を続けていた。そして、狙いを定めているうちに、馬車はごとりと揺れ、ぎしぎしと軋めきながら方向を更えた。同時に密茂した樹木が車体を隠した。――一面の落ち葉で、どこが路なのか判然とはわからないのだった。馭者は樹と樹との間が遠く、熊笹のないところを選んでは馬首を更えた。その度ごとに偶然にも、馬車は急転して銃口から遁れるのだった。遁れては隠れ、遁れては樹の陰に隠れるのだった。

幾度も同じような失敗を繰り返しながら、若い農夫は猟銃を構えて、馬車の上を狙いながらその後を追いかけた。馬車は、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落ち葉をあびながら、ごとごとと樹の間を縫って行った。青年は兎のように、ひらりひらりと、大木の陰に移りとまっては、そこから馬車の上に銃口を差し向けるのだった。

突然、山時雨が襲って来た。深林の底は急に薄暗くなった。馬車の上の人達はあわてて傘を翳した。時雨は忍びやかに原始林の上を渡り過ぎて行った。自然の幽寂な音楽が遠退くにつれて、深林の底は再び明るくなった。紺碧の高い空から陽が斜めに射し込んだ。明るい陽縞の中に、もやもやと水蒸気が縺れた。落ち葉の海が、ぎらぎらと輝き出した。

最早、路は原始林の一里半の幅を尽くして、鉄道の通る村里へ近付いていた。機会はここから急転する。若い農夫は鉄砲を提げて、熊笹の中を馬車の先へと駈け出した。そして、樹陰から路の上に狙いを据えて馬車を待った。

「ほおら! しっ!」

馭者が馬を追う声がして、ぎしぎしと車体の軋めく音が近付いて来た。間もなく樹の陰から馬の首が出て、胴が見当の上を右から左へと移動した。若い農夫は激しく動悸する胸で、猟銃にしがみつくようにして引き金に指をかけた。約三十秒! とそこへ、左から右へ人影が現れた。アイヌであった。

若い農夫は驚異の眼をり、ほっと溜め息を吐くようにして、猟銃を自分の足許に立てた。アイヌはそこに立ち止まって、若い農夫の見当を遮ったまま、珍しい馬車での通行者を、いつまでも見送っていた。機会は、馬車と共に原始林から村里へと駛って行った。

雄吾は猟銃を右手に引っ掴んで、がさがさと熊笹薮の中を戻った。頭だけが興奮していて、脚にはほとんど感覚も力も無いような気がした。どうかすると、重心をさえ失いかけた。そして、ひどく咽喉が渇いていた。雄吾は無意識のうちに、開墾地帯に近い原始林の中を流れている谷川の方へ歩みをむけていた。彼は、きょときょとと四辺を見廻しながら、緩り歩いたり、急に駈け出したり、滅茶苦茶だった。

機会を取り遁がしてしまったことは、極度の嫉妬に燃え、復讐心に駆られていた雄吾にとって、前歯で噛み潰したいような経験だった。残念で、口惜しくて堪らなかった。がしかし、あのアイヌが、自分の将来を、自分の無謀な計画の中から救い出してくれたようにも思われた。けれども、雄吾の復讐心の火は消されはしなかった。彼はさらに、最も賢いところの悪辣な手段を考え出そうと努めるのだった。

浦幌川に流れ込むその清水の谷川の畔には、半分腐れかけた幾本もの大木が倒れていた。雄吾はそれらの大木を跨ぐのが面倒なので、猟銃を杖にして木から木へと伝い歩いた。そして、河原へ飛びおり、がぶがぶと水を呑んだ。

「雄吾!」

彼はびっくりして顔を上げた。彼は濡れた唇を掌で拭いながら、四辺に驚きの眼をった。

「どこへ行って来た? 顔色をかえて、鉄砲など持って……」

同じ開墾場の佐平爺が、向こう岸に微笑んでいた。

「熊が出てね。俺、皮がほしかったもんだから、追っかけて見たのだげっとも……」

「熊だと? 牝兎じゃねえのか?」

佐平爺は微笑みながらそう言って、魚籃を提げて川を漕いで来た。

「まあ、なんにしろ、あまり無鉄砲なごとをして、自分の身を亡ぼすようなことをするなよ。貴様の気持ちも判るが……」

「本当に、熊だってばな!」

雄吾は佐平爺の慰めるような言葉で、涙含ましい気持ちに支配されながら、それに反抗するように言った。

「俺に嘘を言わなくてもいい。――嘘をついたって、決して悪いとは限らねえさ。併し、将来の見透せねえ嘘じゃいけねえんだよ。俺は、村中きっての嘘つきだって言われるが、将来の見透せねえ嘘をついたことはねえだ。将来の見透せねえ人間がまた碌な嘘をつけるもんでもねえし。――だがさ、熊にしろ牝兎にしろ、馬車に乗って行くわけねえがらな。」

雄吾は、佐平爺の顔を視詰めていた眼を、静かに伏せた。同時に顔色が真っ蒼になった。

「何も心配するごとねえ。それだけの度胸と覚悟があるのなら、もっと考えてやるのさ。――貴様は、自分の親父が殺された時の、本当のことを知らねえで、村の作り事ばかり信じてるから、自分の恨みせえ晴らせばいいと思っていんだべが……」

「作り事って、何が裏にあったんだろうか?」

雄吾は再び佐平爺の顔を視詰めた。――嘘つき佐平、で有名な佐平爺は、嘘をつくときには、いつも口尻を曲げるのが癖だった。併し、その口尻の曲がりは、より話に真実性を持たせるのだった。だが、今日は、口尻を曲げずに佐平爺は言うのだった。

「併し、それにあ、開墾場の最初から話さねば判らねえから……まあ、火でも焚いてあたりながら……馬鹿に寒くなって来たから……」

雄吾は倒れている大木に猟銃を立て掛けて、時雨に濡れた落ち葉の間に、枯れ枝を探し歩いた。

雄吾の父親、岡本吾亮がしばらくぶりで自分の郷里に帰って来た。東京で一緒になったという若い綺麗な細君と幼い伜の雄吾を伴れて。――東京から札幌へ行き、そこで小さな新聞社の記者のようなことをしたり、時には詩なども作ったりしていた彼等の服装や生活は、ひどく派手なものとして村の百姓達の反感を買ったのだった。

「あんな身装して、どこで何していたんだべや? 喧嘩好きで腕節の強い奴だったから、碌なごとしてたんで無かんべで。」

併しその悪口は、四苦八苦の生活に喘いでいる百姓達の、羨望の言葉だった。

露国との戦争が済んでから間もない頃で、日本の農村は一般に疲弊していた。彼等の村はことにひどいようだった。――稼人を戦争へ引っ張られた農家の人達は、それまで持っていた土地を完全に耕しきることが出来なかったので、彼等は自分の持ち地にかえって重荷を感じた。のみならず、彼等はどんどん現金の要る時なのに、その収入の道がなかったので、一時土地を抵当に入れて金を借りることを考えた。稼人のない間を金に換えて置いて、稼人が帰って来たら再び自分の手許に買い戻す。こんなうまい事はない。彼等は僅かの金で土地を手放した。――併し、いよいよ戦争が済んで稼人が帰って来ても、彼等は再びその土地を自分の所有に戻すことは出来なかった。借りた金は、利息に利息を生み、土地は小作料を持って行った。俄然として疲弊は農村を襲って来た。

そこへ岡本吾亮が素晴らしい話を持って帰って来たのだった。――彼の知人が北海道に無代で提供してもいい百五十万坪という莫大な土地を持っているという話だった。併しそれは道庁から十年間のうちに開拓するという条件でもらったもので、既に二十家族からの人々が開墾しているが、なかなか開墾しきれないので、残りの三年の間に開墾してしまわなければ道庁から取り上げられてしまうのだ。がそれは惜しい。誰か開墾する者は無いだろうか? 自分は道庁から取り上げられたものとして提供するし、開墾中の食糧ぐらいは貸してもいい。それは開墾場から利益があがるようになってから年々少しずつ返してくれればいいと、そこの藤沢という地主が言っているとのことだった。そして吾亮は、食うものを作る人間が食えなくなったからとて、他の職業に就いたのでは、かえって食うものが少なくなるばかりだ。だから農村の失業者は、なるべく開墾地へ行って、自分で自分の食うものを作るべきだ。そういう意味で、自分は一人でも行くつもりだが、誰か一緒に行く者は無いだろうかと言うのだった。

岡本のこの話は、新しい土地について耕作しなければならぬ村の人人の間に、非常な人気を呼んだ。彼への悪口は急に、讃辞へと一変した。

「あの人は、やっぱり、どこか偉いところがあるんだよ。俺も伴れて行ってもらえてえもんだ。」

こうして、ここにも二十家族に近い移住開墾者群の一団が成立したのだった。

彼等が北海道に渡ったのは晩春の頃だった。高原地帯の原始林は既に、黝んだ薄紫色の新芽に装われていたが、野宿をするには、未だ寒かった。併し既に営まれている二十に近い開墾小屋は、とても他人を容れる余地を持たない、いずれも小さなものばかりだった。彼等は開墾場に近い深林の中に枯れ木を焚いて一夜を明かした。そして翌日から思い思いの小屋をかけたのだった。

開墾地として選定されていた場所は、原始林に囲まれた処女地だった。幅三十町、長さ五十町ほどの荒れ野原の一部分だった。萩と茅と野茨ばかりの枯れ叢の中に、寿命を尽くして枯れ朽ちた大木を混ぜて、発育のいい大葉柏が斑らに散在していた。そして原始林地帯がところどころに、荒れ野原へ岬のように突入しているのだった。

彼等の原始的な生活が、そこに始められた。深林を背負って、彼等は南に向けて小屋の入り口を並べた。陽があがれば野原に出て男達は木の根を掘っくりかえし、女達は土塊を打っ砕き、陽が沈めば小屋に帰って眠るのだった。そして、四五年の後から年賦で返済する条件で、少しばかりの米と味噌と塩とが地主から貸し付けられるだけで、その他の物はすべて自給自足だった。彼等は最初に蕎麦を蒔き黍などを作った。次に玉蜀黍、馬鈴薯、南瓜を作り、小豆、白黒二種の大豆、大麦、小麦と土地の成長に伴れて作物の種類を増して行った。併し、そうなるまでが大変だった。

「こうして腕の抜けるほど稼いで、こんな馬の食うようなものを食って、着るものも着ずに乞食のような身装をして暮らすんなら、郷里の方にいたって、暮らせねえことも無かったべが……」

若い女達は、そう言い合って泣いた。

「何を言いやがるんだ。郷里で乞食が出来るかい? 乞食は大抵他国へ行ってするもんだぜ。我々だって、乞食する積もりでここさ来たんじゃねえか。土地をもらうんだぞ。よっぽどの襤褸を着ねえじゃ、もらわれめえじゃねえか?」

佐平はこう言って、皆を笑わせた。皆は、土地をもらうという言葉で元気になるのであったが、しかし、移住当時のまま一枚の着物すら作れないような自給自足の生活が三四年も続くと、彼女達の着物は雑巾よりもひどくなった。雪に閉じ籠められて働けない冬籠もりの期間は、馬鈴薯と南瓜ばかり食っているために、春になると最早、顔が果物のように黄色を帯びて来て、人間の肌色を失っているのだった。

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