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Chapter 4 of 15

四

その日の夜、仕事を終へ、風呂へ入つて飯をすまし、疲れてはゐるけれど、寢るにはまだ早すぎる時間を本を讀まうと二階へ籠つてまだどれほども經たぬうちに、じゆんが上つて來てお客さんだと云ふ。自分にと云つて尋ねて來る客があるなど、考へられぬことであつたから、不審の眉をひそめて訊くと、見たことのない人で、志村と名乘つたとじゆんは云ふのだ。思はず低く叫ぶやうに云つて、駿介は立ち上り、急いで下りて行つて見ると、薄暗い土間にただひとり立つてゐるのは、果して志村克彦その人であつた。

駿介は志村を二階へ通した。椅子は駿介の手製のもの一脚きりだつたから、卷いて壁に寄せかけてあつた蓙をのべ、そこへ布團を敷いて請じた。二人は向ひ合つて坐つた。互に短く挨拶の言葉を云つた。

志村はつくづくと部屋のなかを眺めまはすやうにした。壁には駿介の仕事着の上衣やズボンが下つてゐるだけである。部屋の一隅にはわづかばかりの書物が、蓆の上にぢかに積んである。そのなかの一册が讀みかけのまま卓子の上に開かれてゐる。ほかには何もない。そして部屋の主もいつしかこの部屋の殺風景なさまが似つかはしいまでに自分を變へてゐた。

「君が歸つてゐるとは、ちつとも知らなかつたもんだから。」と、志村が云つた、

「僕もあなたがこちらにゐらつしやるつてことは知りませんでした。噂は、東京にゐたとき耳にしてゐましたけれど。」

彼等は年は五つちがひで、友人といふよりはむしろ先輩後輩の關係にあつた。田舍のことであつて見れば、同一地方からの同じ東京遊學者だといふ、ただそれだけで互に知り合ふ機會はあつたわけだが、その上に二人のそれぞれに積極的な氣持が彼等を近づけた。どこの地方にも、その秀才振りが誇張して語られ、一つの傳説にまでなつて後進者に傳へられる少數の學生があるものだが、駿介達にとつて志村克彦はさうした存在だつた。その志村が、自分の隣村の中どこの地主の息子だといふことがわかつては、白線の帽子から後光が射して見える頃の駿介の心は掻き立てられずにはゐなかつた。そしてやがて先輩訪問といふことになつたわけだ。志村はまた志村で、後にはある一つの下心から、とくに心を用ひて駿介に接近しようとした。しかし彼等はものの考へ方の點からいつても、人間的親しさの點からいつても、つひに最後までぴつたりすることなしに終つた。それは二人の個人的性格の相違といふよりは、二人がそれぞれ青年期に足を踏み入れた二つの時の間の、時間的には短いが、質的にはかなりに激しい變化によるものであつた。

「いづれ、ろくな噂ぢやあるまい。」

志村はさう云つて聲は立てずに笑つた。その乾いた、へんに老人じみた、投げやりな言ひ方を聞いた時、駿介は心のどこかで意外な、勝手のちがつた感じを持つてぢつと志村を見た。

「ずゐぶん久しぶりだね。僕もまだ學校に籍があつたし、君は高等學校へはいつたばかりの時だつたかな、最後に逢つたのは。」

その時のことはとくにはつきり、取り交された話の一々の内容までも、今も駿介の頭には殘つてゐる。その頃志村が急速におのれに深めてゐた思想について二人は語つた。といふよりは、駿介がそれについて説き聞かされた。志村は熱意をこめて語り、駿介を自分の側に引きつけようとしたのだが、駿介の態度は彼を滿足せしめるには到らなかつた。駿介が彼を理解し得ないといふのではなかつた。志村から聞く以前、相當深く讀んでさへゐたが、その原理によつてただちに自分を變へようとする迄には到らなかつた。駿介はそれほどに愼重な性格とも見えたし、やつと今青年期に足を踏み入れたばかりだといふのに、理想に胸を燃やすといふやうなこともつひに知らずに過す哀れな人間で、裝つた眞面目さのかげに、すでにきはめて俗世間的なものを行動の指針としてゐるのだといふふうに見えぬでもなかつた。それは志村を苛立たした。何が正しいかがわかつてゐながら、頬冠りで押し通すずるさと見た。彼は意地のわるい態度に出ないではゐられなかつた。だからその最後の別れは非常に氣拙いものであつた。駿介が學校も卒業間際に放擲したらしい志村の消息を又聞きに聞いて知つたのは、それから一年ほど經つてからのことであつた。

「こないだ、村の道で、君が自轉車に何か重いものをつけて來て、弱つてゐるのを見たんだ。僕は電車に乘つてゐた。はじめはわからなかつた。横顏を見て、見たことのある人だとおもつた。すると君が顏を上げたんでじつはびつくりしたんだ。それでも、半信半疑だつた。それで二三日前青柳へ行つたとき、上原を訪ねて訊いてみた。君とは特別な間柄なことを知つてるし、上原んとこの息子は僕の中學の後輩で、よく知つてゐるしするもんだからね。そして君のことを訊いた。病氣したんだつてね。もういいの。」

「ええ。――上原の息子つて哲造さんですね。あの人は今どうしてゐるんです。をぢさんには、東京にゐるとしかで、はつきりしたことは聞いてないんですが。」

「あいつはぐれちやつたらしいんでね。――しかし君も變つたな。上原の親父がいろいろ云つてたが。」

僕も變つたよ、とそのあとからすぐに歎息と共に續きさうな調子で聞かれた。上原は何を云つたか、訊かなくても駿介には大體は分ることであつたから、さうですか、と云つたのみで默つてゐた。

「あなたはずうつと家にお出でですか。」

「うん、ゐるよ。ゐるよりほか仕方がないぢやないか。おれや謹愼中の身の上だからね。」

そしてまたうすら笑ひをした。何氣ないものではあるが、そのやうな笑ひが駿介には氣になつてならない。何を云はなくても、その笑ひ一つで、彼の今の心のさまが見透されるといつたやうなものだ。寒々としたものである。自分に對しても、人に對しても刻薄な心を持ち續けてゐるものでなければ、このやうには笑へない、わざとそのやうな笑ひをして、強ひて自分の心を人にのぞかせようとするものは、東京での駿介の周圍には珍らしくはなかつた。駿介自身、そんなことはなかつたとはいへないある時々の自分の言葉なり、擧動なりを、ただひとりゐて顏の赤らむ恥づかしさで憶ひ出す。しかし、志村は彼等とはちがつてゐる。何を訊かなくても、駿介は志村が受けた心の傷の大きさがわかると思つた。同時に彼は不安を感じた。志村と逢つたことを悔ゆることにならうとのおそれだつた。駿介は今やうやく新しく踏み出さうとしてゐる。よそ目にはどう見えようとも、彼としては精一杯求めたあげくのことである。しかし彼は自分が進まうとしてゐる道を終局までも見通してゐるといふわけではない。知り盡して、絶對に間違はぬ唯一の道との確信があつて、しかるのちに辿りはじめたといふのではない。彼はただ、身も心もじめじめと腐るやうな境地から脱けて出ようとして、手近かな、自分に可能なところに轉換の道を求めた。そしてそこから自分にとつて何か新しいものが生れるに違ひないといふことだけは堅く豫期してゐる。どうなるかわからないが、徒らに考へるよりはともかくやつて見る、といふ便宜的なところがそこにはないとは云へない。彼がなほ最後の所で決し得ずにゐるのもそのためである。さういふ自分を知つてゐる彼は、志村と話すことで、何等かの確信を深めるといふのではなく、かへつて益々動搖を深め、折角の踏み出しの腰を折られはしないかとのおそれを感じたのであつた。

「上原が、君の此頃の氣持はどうにもわからないといふやうなことを云つてゐたが……君は東京へは歸らんのかね。」

「ええ、……當分こつちにゐるつもりです。」

「すると學校は?」

「さア……よすやうになるかも知れません。」

「惜しいぢやないか、君、そりや。」

志村はにやりと皮肉な笑ひをした。

「君みたいにずうつと苦學でやつて來てさ。もう少しといふところで。」

彼が皮肉に笑つたのは、凝り固まりの模範生である昔の杉野駿介を思ひ起してゐたからである。駿介が小心翼々たる、コチコチの勤勉屋に見えたのは、必ずしもさうなのではなくて、金にも時間にも餘裕のない苦學生であることから來たのだが、苦學生といふものが、仲間の尊敬よりは、「あいつ、なかなか殊勝でゐやがる。」といふやうな表現で、むしろ侮蔑や輕視の對象になりがちだといふことは、どこでも同じことなのである。貧乏たらしさ、といふものはどんな場合でも、見る人に愉快な氣持は與へないからだ。志村は、今の時代の知識階級の青年の生き方について、最後に駿介と逢つて語つた時のことを思ひ出した。何はともあれ、學校だけは卒業して、とひたすらにそこにのみしがみついてゐるやうな駿介に、いまいましいやうな齒がゆいやうな、噛んで吐き出してやりたいやうな氣持を抱かせられたことを思ひ出した。

「ともかく學校だけは出といた方がいいよ。――身のためだよ。今のやうな時代でも、卒業證書は、たとへ爪の垢ほどでも、ものを云ふからな。」

「はははは、こりや滑稽だ。」と、彼はわざとらしく聲をあげて笑つた。

「四五年前に、あんなふうだつた君に、あの時君からああいふふうに云はれた僕が、今度は逆にこんなことを云ふなんて。まさしくこれも時勢といふもんだらうね。」

駿介は默つてゐた。

「どうしたのかね。何か面白くないことでもあつたの、パトロンとの間に。」

「いや、何もべつに。面白くないことといへばはじめからのことで、何も今日此頃の事ぢやありませんから。ただ僕ははじめから、中學の時からずうつと無理をして學校をやつて來たんだけれど、それが此頃になつて、さう無理をしてまで學校へ行く必要もないことだと思ふやうになつただけのことなんです。今頃になつてそんなふうに考へるなんて、ずゐぶん間の拔けたやうな話だけれど。」

「無理をして學校へ行つてるつて云へば、今時の學生は、多かれ少かれ、大抵のものが何等かの意味でさうだらうがね。さうしてまたそんなにしてまで通ふほどのとこぢやないと、大抵のものが考へてゐるのも事實だらうがね。しかしさうだからと云つて誰もやめはせんよ。またやめる必要もないこつた。やめもせず、さうかといつて無論熱心なわけでもなく、愚圖々々してゐるうちに、心太みたいに尻の方から押されて出るんだ。それでいいんだ。そして實際を見りや、押し出された奴の方が、途中で投げ出した奴よりも、結局はいい目を見てるんだからな。」

「そりやさうでせうね。しかし僕は別に、一般に學校をやめた方がいいとかやめない方がいいとか、何もいふつもりはないんです。やめずにやつて行けるものはやつて行つたらいいし、やめずにゐられなくなつたものはやめたらいいと思ふだけです。その人その人にあることですからね。僕は東京での自分の今のやうな學生生活は全く無意味だと思ふし、これから三年もこのまま行つたんぢや、自分の人間を腐らすばかりだと思ふんです。我慢して行けば、代償としてあとで何を得るかは知りませんが、何を得るにしたところで、もうちよつといやなんです。」

「ふん……自分の人間を腐らす? そりやさうだらうね。そしてさういふことを云ふのも君だけぢやないがね。しかし、それだからと云つて、學校をやめて、別な生活に入つたからと云つて、その生活も亦君の人間を腐らさないと、誰が一體保證できるかね? 別などんな生活が君を待つてゐるといふんだ。僕らの時とはまたちがふよ。第一、あんなふうだつた君が、こんなことを云ひ出すやうになつた、その轉換の祕密が僕には呑み込めないね。何かあるにしても大したものぢやなからう。あとで後悔するやうなものぢやないか。それとも、今の君にも僕らの時のやうな、ほんたうに過去への訣別をうながすやうな情熱といふものがあるといふのかね。」

駿介は默つてゐた。

「學生生活そのものが何もわるいんぢやない。學生として立派に生きるべき道は今日だつてある。それがわからんやうなものなら學校をやめて見たつて結局おんなじことぢやないか。ろくな生き方が出來る筈はないぢやないか。」

「無論さうですね。」

さういふことはよくわかつた上での自分の今の考へであると駿介は思つてゐた。しかし一應の理詰以外にはみ出る、細かな氣持の動きについては、ちよつと言葉で説明することは出來なかつた。

「しかしどつちにしたつて大したことはないさ。」と、志村は再びひどく冷笑的になつた。

「どうせ五十歩百歩なら、しきたりに從つて地道に行つた方が利益だよ。この結局利益といふことはじつに大したことだぜ。この原理に基いて動いてゐる大多數を嗤ふことなんぞは容易だが、實際はこれに背を向けて生きれる奴なんてものはさうあるもんぢやないんだ。義人一人もあるなしさ。身の程を知つたがいいんだ。」

志村は空嘯くやうにして云つた。

「で、學校をよして歸つて來て、君は一體何をやる氣なんだ。」

「僕は百姓をやるつもりです。」

「百姓? 君自身がかね?」

「さう。」

「成程ね。」と、志村は改めて、駿介の外貌にまでも現れてゐる變り樣を注意するやうに見た。

「で、どういふ氣持でやるのかね? まさか僕などが昔やつたやうなことをやるんぢやあるまい。」

「勿論、そんなことぢやありません。」

「しかし、ただインテリをやめて百姓になる。親父さんのあとを繼ぐ、といふだけぢやないだらう。何か抱負といつたやうなものがあるわけだらう。」

「今のところべつに、さうした抱負といふやうなものはないんです。今のところはただ年老つて知らぬ間にだいぶ弱つた親父の手助けをする、これからではずゐぶん困難だらうが、何とかして百姓仕事を一人前になるまで習つて行く、それだけが目的ですね。そりや僕にだつて、農村と農民の現状についての色々な考へといふものがないわけはない。從つてその考へに基いた抱負といふものがないわけもなく、まるきりないなどといへば嘘になりますが、しかし今の僕には、それを人前に押し立てて行くことから始めようといふ氣がないといふまでなんです。自信がないのだと云へば云へますがね。それを人前に押し立てる前に僕にはしなければならぬことがある。そしてそのうちには僕のその抱負といふやうなものが、社會にとつて、それから僕自身にとつてもどれだけ眞實なものかといふことがわかつて來るだらう。さう思つてゐるんです。人前に押し立てるのはそれからでも遲くはない、――それで、今は百姓仕事をすることそのことが望みであり目的であるといふ風に云つてゐるわけなんです。もつともその方がかへつてむづかしくて、なかなかさういふ氣持になり切れるわけのものではないかも知れませんが。しかし僕はただそれだけの生活でも、今までよりはましだとおもふ。ともかくそれが生活と呼び得るものだといふことだけからでもね。そこには何か空疎でない、實質的な、内容の一杯詰つてゐるものがある。身も心も一つに集注して、そこにぶつかつて行けるだけのものがある。今はただそれだけのことです。そこからどういふ結果が生れるか、僕にとつてどういふ新しいものが生れるか、それは僕自身にも豫想のつかぬことです。」

「生れはしないだらうね、別に何も新しいものは、そこからは。」と、志村は落ち着き拂つて云つた。

説明拔きで、結論だけをさきにそこへ投げつけて、相手をぢつと見つめた。相手が何か云ひ出すのを待つてゐた。が、云ひ出さぬので、彼は續けた。

「君が、君自身の主觀で何か新しいものがそこから生れて來たやうな氣がして喜ぶといふことは勿論おのづから別なことさ。さういふ氣がして喜ぶといふことはその人の勝手だし、それで喜んで居れれば幸福さ。その人間だけはどうにか救はれた氣持になることが出來る。さういふ子供みたいな大人は、何時になつてもどこにでもゐるもんだ。自分の思つてゐることやしてゐることのほんたうの姿を、廣い世間の中に投げ出して見ることが出來ないといふ點で子供さ。それぞれに何かしら玩具を持たせられて喜んでゐるといふ點で子供さ。いろんな玩具があるよ、神聖なる勞働、母なる大地……君が、農民生活には何はともあれ、空疎ではない充實したものがある、實質的なものがある、健康なものがある、などと云ひ出す口ぶりは、ラヂオの青年の夕べの農村青年代表や、農村を地盤にしてゐる政治屋や、ある種の思想善導家や、さういふものを思はせる。君がさういふことを云ひ出したといふことは、僕には實に一種の興味を誘はれることなんだ。」

「なぜ、さういふふうにだけ云ふんです。さういふふうにだけ云はなきやならないんです。それぢや何も生れつこはないぢやありませんか。ともかく何かやつて見ようと云ふんです。やらして見たらいいぢやありませんか。方向を變へて見よう。何かを賭けて新しくやつて見ようといふ、さういふ決意は、それが何であれ、だんだん今の僕らの周圍には見出し得なくなつてゐるんです。さういふ決意を持ち得たといふことだけでも僕は自分としては非常にいいことだと思つてゐるんです。創造と發展はそこから期待出來るし――」

「決意の方向を、内容を、問はないのかね。それの社會的性質を問はないのかね。」

「そりや勿論それを問題にしないのぢやありません。」

「何かを賭ける、決意する、――それだけでもう何か素晴らしいことに思ひ込んで、感傷的になつてゐるんだ。そのなかに溺れてゐるんだ。僕らの時代には、具體的内容をはなれて單に決意一般なんてものは問題にもならなかつた。もつともつとさきの所で議論してゐた。ひどいおくれ方だ!」

「そりやおくれてるでせうが、おくれてゐることを責めるばかりでは仕方がないでせう。さうなつたのには色々複雜な原因があるわけです。しかし僕らは、それは自分たちのせゐぢやない、仕方がないと云つて、投げてゐることは出來ない。さういふ状態におかれてゐるとすれば、そのおかれてゐる所から出發する以外に道はないんだから。」

「――決意一般を強調することなんかが、むしろ今日に於ては危險だといふことぐらゐわかりさうなもんだ。君の考へで行けば、今日のインテリが、ある種の英雄達に惚れ込んでゐるのなんぞも是認されるんだらう。――『なんだかんだと云つても、ともかく彼らは思つたことを實際にやるからなあ。』と、かうだ。――先づやらして見たらいいぢやないか、批判はそれからのことでいいぢやないか、といふやうな君の尤もらしい抗議も、そのやらうといふ行爲の性質によりけりだよ。君のインテリ廢業、君の『歸農』が、何か新しい意義を持つてゐるかのやうな、見せかけの君の決意にもかかはらず、社會的に見るとき、すでに試驗ずみで、今さら『先づやらして見たらいい』といふほどのこともない、みすぼらしく古ぼけたものだと云ふことに、まさか氣づかないやうな君だとは思へないがね。」

「僕は何も今まで人の歩まぬ新しい道だなどとは無論思ひはしません。それは僕に取つての一つの道だと云ふだけです。そしてそれが言葉のほんたうの意味での新しい道に通じないとは云へないと、期待する氣持があるのです、――あなたの云ふことが正しくないとは僕は思はない。しかしあなたは誰に對しても同じ態度で、同じことを云ふ、さういふやうな氣がするんです。何も僕らに對して特別寛大であつて欲しい、などと云ふんぢやありませんけどね。昔あなたなんかと同じ立場にあつた人、でなくても、何等かの思想や行動の立場を持つてゐた人が、今日、僕の云ふのに似たことを云ひ出したとして、それは言葉の上では同じやうでも、本質は非常に違つたものだと思ふんです。その人達にとつてはそれは歸着點です。迷ひの末にそこに落ち着いた、安住の地を見出したといふやうなものです。そこから生れるものもおのづからわかつてゐます。――しかし、僕にとつては、其處の所は出發點です。僕はまだ今までに一度も何等かの思想や行動の確固たる立場を持つたことのない人間です。これから何かを持つのです。僕はそんなものはいらんとか、簡單にさういふものが持てんのが現代ぢやないか、とか云つてすましてゐることは出來ない。社會は動いてゐる。さうして僕等は生きてゐる。しかし僕等は目的なしに、ただ押し流されて生きることを欲しない。僕等は切に立場の如きものを求めてゐる。だがそれは觀念の世界を行つたり來たりしてゐることによつては求め得ない。――さういふ僕等と、彼等とをあなたは一緒にしてゐると思ふのです。彼等に對する批判としてはあなたの言葉は當つてゐるかも知れない。しかし僕等への批判としては當らない……立場をまだ持たぬと云ふことは立場の抛棄といふことではない。立場や方向のきまつて居らぬ一切がくだらぬとすれば、そこに到るまでの過程は一體どうなるんです。」

「今の時代の僕等青年にもつと温かな理解を持て、とまアかういふわけだね。」

志村は皮肉な口ぶりで云つた。

「果して出發點であるか、求めつつある過程であるかといふことも、こりや、見極めるのになかなか面倒なことでね。果してそれがほんたうに出發點であつたかどうかといふことは後になつてはじめて云へることでね。到達した目的點から見てさう云へることでね。案外その出發點でいい氣持になつて、ぬくぬくとしけこんでしまふものがないとは云へないんだから……しかし、これは今から云ふべきことではないとしておかう。

しかし君のいふやうな意味の出發點だとしても、僕の批判は一向困らないね。出發點として見ても、僕らの眼には、現代のものとしてさういふのは餘りに……遠慮なく云つて了へば愚鈍に見えるんだ。君が取らうとしてゐる道の、君は嫌ひな言葉かも知れんが、社會的な歴史的な性質といふものが、君の主觀とは無關係に、とうの昔にちやんと規定されてしまつてゐるからね。

理論的にも實際的にも、試驗ずみ、批判ずみの古いものが、いかに手を換へ品を換へして、その時代その時代にふさはしい裝をこらして現れることか。そして若いジエネレーシヨンをたぶらかすことか。たとへどんなに新しさうな顏つきをしてゐても、大抵は古物の複製版さ。君の場合なんかはあんまりはつきりしすぎてゐる。――二つ三つよく知られた名をあげて見りやそれで充分ぢやないか。武者小路の新しい村、もつと古いところでみみづのたはごとの蘆花、蘆花の貧弱な縮小版に江渡某なんていふのもあつたね。糸魚川に引つ込んだ相馬御風なんかも擧げてもいいかも知れない。島崎藤村なんかも息子を田舍へやつて百姓にするといふので、何か尤らしい感想を書いてゐたぢやないか。小説のなかにはトルストイにレーヴインといふ先生がある。君なんか好きかも知れないな。もつとも君がレーヴインになるには、まづあれだけの土地持ちにならなきやならないがね。……これらはみんな文學者で、書いたりしやべつたりするから我々は知つてゐるが、我々の知らないこの派の亞流はずゐぶん多いことだらうよ。彼らに共通してゐるのは先づ第一に一種の農民主義だ。土に還れ主義だ。母なる大地の讃美だ。さういふ強調が今の時代にどういふ意味を持つてゐるかは、今さら云ふまでもないだらう。除去さるべき惡の根源に立ち向ふ勇氣は勿論、見極める勇氣さへ持たぬ小ブルジヨアが、窖のなかに駈け込むためにつけた一つの假面さ。

第二は、結局は同じことだが、鼻持ちのならぬ獨善主義だ。そしてこれこそ僕のもつとも憎惡を感ずるものだ。彼等の生活が、社會的に何か積極的な意義を持つといふ意味で立派なもので、彼等が多少なりともそれについて思ひをひそめた筈の社會惡に對して、何等かの力ででもあると思つてゐるのだらうか? ほんたうにさう思つてゐる者なんぞ恐らくひとりだつてゐやしないさ。自分達の無力は、自分達が一番よつく知つてゐるんだ。そんな生活なんぞ何でもありやしないぢやないか。うるさい世間から出來るだけ自分の身を遠ざけたい、人のことなんかどうでもいい、自分だけがぬくぬくしてゐたい――一體そのほかの何だといふんだ。耕すに手頃な土地なんぞ手に入れることが出來てさ、それもそれだけで食ふといふのなら大へんなことだが、耕すといふことも旦那藝で、田園趣味の程度ですましておいて差支へない結構な御身分なんだ。東京の郊外で、恩給で食つてゐるのと何も取り立てて區別さるべきものはないさ。

そんならそれでいいんだ。自分でちやんとそれを辨へてつつましくやつてゐるのならそれでいいんだ。ところが實際は彼等はその裝つた愼しさのかげから、ほとんどあらゆる陋劣な娑婆ツ氣を臆面もなくのぞかせる。何かもの欲しげにちらりちらりとのぞかせる。自分達の生活に何か特別な社會的意義があるかに人に思ひ込ませたがる。おれだつてかうしながら世を憂ひてゐるのだぞ、といふところを見せたがる。そして本など書きはじめる。」

ふいに、志村はぷつつりと口を噤んだ。

段々激しい漫罵になつて行く自分の言葉に、その時はじめて氣づいたのかも知れない。

痛烈に罵りながら、しかし志村は意氣が昂つてゐるとも見えなかつた。その興奮もどこかパツと燃え切らぬ陰性なものであつた。彼は青黒く、骨張つた、面長な顏を、ややうつむき加減にして内に籠つた感じの聲で話した。

駿介はかすかに顏を赤めた。それは彼が面と向つて皮肉られ罵られたからではなかつた。ぶすぶすくすぶつてゐるやうな相手の興奮が自然彼にまで傳はつたのであつた。が、それは彼自身が興奮してゐるといふこととはちがつてゐた。彼は烈しい言葉が自分に向けられているやうな氣がしなかつた。そこに名を擧げられたやうな人達もしくは所謂農民主義者一般に向けられてゐるやうな氣さへしなかつた。志村の忿懣は何かべつな、しかとは定められぬものに向けて投げられてゐるやうなひびきを持つてゐた。そのなかに志村自身をさへ含めたものに向けられてゐると思へるのであつた。

駿介は反駁しようとはしなかつた。自分が何ものであるか、それは自分にもよくわかつてはゐない。しかし自分は、志村が擧げて云つたやうな人々と同一ではない。彼等に共通な點もそれはあるだらう。しかし彼等が覆ひ得ない、彼等からハミ出してゐるものもあると思つた。それは何も、自分が個人として彼等よりすぐれてゐるからではない。時代的に彼等を乘り越えてゐるといふことだ。彼等が安んじ得た境地に自分達はもはや安んじ得ないであらう。宿命的にさうなのである。

やがて志村は續けた。

「インテリにとつては今の時代は辛い時代だよ。その辛さに君などは負けたのさ、しかもその辛さをほんのちよつぴり舌の先で嘗めたといふだけでさ。君は逃げ出したんだ。そしてそれを合理化するために、インテリとして生きるよりも、農民や勞働者として生きることの方が、ただそれだけで本質的に高く立派な道であるといふ考へを人にも自分にも押しつけてゐるんだ。さういふ自分に都合のいいところだけ、昔の左翼の機械的な考へをこつそり拜借して來てさ、インテリ一般、勞働者農民一般を何か對比して見て優劣を云ふなんてことは今時はやらんし、バカげたことだよ。それぞれの階級や社會層の歴史的特性をいふこととはまた違ふんだからね。どの階級や層に屬してゐようと、個人の問題としては具體的な生き方の問題だけぢやないか、彼の價値を決定するのは。今の時代には今の時代の眞のインテリとしての道はあるんだ。その道をこそ行くべきだ。何も田舍へ歸つて肥桶を擔がなくたつてさ。――君の道は結局逃避の道だ。」

彼はさう斷じた。

「君に歸るべき家があり、耕作すべき幾ばくかの土地が保證されてゐるといふことが、君にそんな贅澤な望みも起させたんだ。そんな條件にないものは、インテリであることがどんなに苦しくたつて、インテリを廢業するわけにはいきやしない。君の轉換の内心の祕密を一應伏せて、結果だけから云やあ、君は選擇の自由を持つた惠まれた條件にゐて、むしろらくな道を選んだといふまでのことさ。――君は百姓に生れた幸福を感謝すべきなんだ。」

「そりや、僕は感謝してゐます。」と、駿介は答へた。嫌味でなくただ素直な氣持でさう云つたのであつた。志村のやうな意味でではなくても、駿介は自分が農民の家の生れであることを、感謝する心を次第に深めつつあつたのである。

「僕の取らうとしてゐる道は、案外古い道に通じてゐるかも知れない、といふよりは古い道に落ち込みかねないものだと思つてゐます。しかし僕らがそのために苦しんでゐるいはゆる自己完成がかつての人達のやうに獨善的な行き方で果されると思ふのだつたらはじめから今のやうな苦しみはない。僕の轉換といふやうなものもないわけです。僕が轉換しようとしてもがいてゐることは、そのまま、獨善主義に止まり得ないことを示してゐると思ふんです。そりや、今のやうな時代だつて、小さい殼のなかに閉ぢ籠つて、自分だけの生活を、日かげの花みたいにいたはりながら行くことだつたら、必ずしも困難なことぢやない。さういふ生活を慰めいたはる、あるひはさういふ生活として完成さして行く道具はいくらでもちやんと揃つてゐます。そしてかつての時代には、さういふ完成が、自己完成だといふことにされてゐた。しかし今は個人の生活も、はじめつから、社會との關係に於て以外には考へられない。自己完成といふことも、社會への積極的な働きかけの道、自分の意志を、社會的價値へ轉化する道において以外には決して求められない。個人の意志の社會的價値への轉化の道にしても、その獨りよがりなものについては僕らは一應知つてゐて自己批判の道は與へられてゐるし……だから、求める努力を抛棄してしまつたとしたらともかく、さうでない以上はかつての時のやうな獨善主義には落ち込まずに行けようと思ふんです。」

「自己完成? 君がさういふ云ひ方をするなんかも僕には一種の興味を誘はれることだね。どうやら二十年位昔の青年の言葉を聞くやうな氣がする……自分の人格を完成することを第一義として君は農村へ入つて行くのかね。さういふ君が農村問題なんかに對してどんな考へを持つてゐるか僕は訊きたいね。」

「――インテリと勞働者農民の問題についても、僕はあなたがさつき云つたやうには考へてはゐません。それとはまるで反對です。僕は何も知識階級論や農民論をやつて、そこから自分の運命を測定して、自分の去就を決定したといふんぢやないんですから。僕にとつて僕自身の生き方が具體的に問題になつて來たので、それはあなたの云ふ通りです。所謂眞のインテリとしての道を今の僕に對比させて何かいふといふことこそおかしなことだと思ふ。これもあなたの云つた通り僕がどういふ社會の層に屬してゐようと問題ではなく、どう生きるかといふ實際がだいじなのですからね。さうするとそこでまたあなたは立場とか方向とかを問題にして來て、さつきからの話になるでせうし、それでは循環してきりがないでせう。」

駿介は漸く議論を厭ふ氣持になつて來てゐた。いいかげんに話を切り上げたいと思つた。

しかし、その時はもう志村はべつに心をとめて聞いてゐるのでもない素ぶりだつた。何かほかのことを考へてゐるやうだつた。わざとそのやうに見せかけることで、相手への蔑視を示したのかも知れなかつた。

二人の間に沈默がつづいた。

しばらくして駿介が訊いた。

「あなたは此頃どのやうにしてゐらつしやるんです。」

人の生活についてはいろいろに云ふ、しかし、君自身のそれは一體どうなつてゐるんだ。さういふきめつける氣持は別にして、彼はそれについて訊きたかつた。さうだ、それについて訊くことこそ、志村との話において自分の期待するものだつた。嘗ても、彼に會ひたい、會はねばならぬと思つたのもそのためだつた。今までの話は、餘りに自分の事にのみかかづらつて來た。

「僕か」と志村は冷淡に云つて、

「僕は何もやつてゐやしないよ。人に向つて云へるやうなことは。」

何かの理由で自分に話すことを好まぬのであらうか。しかし彼の調子は物憂げだつた。

「そりや僕もね、こつちへ歸つて來てからもう十ヶ月になるんだから、その間にちよいちよい村の事になど關係したやうなこともあつたよ。僕の家は、村ではまア有力者といつた部類に入るだらう。親父がいろんなことに關係してゐるし、僕が歸つて居れば村では少いインテリの一人でもあるしするもんだから、いろんな相談を持ちかけて來る。たとへば出荷組合を作らうといふのでその組織の事とか、村に青物市場を開設するとかいふやうなことだ。しかしどうも僕は、實のところ、さういふ仕事に對して一生懸命に打ち込む氣にはなれないんだ。今の僕は、彼等のところまで降りて來て、彼等と同じ場に立つて、せいぜい彼等に助言したり、彼等に缺けてゐる知識を補つてやつたりするのが關の山だ。しかしそんなことが一體なんだらう。さらにまた、出荷組合や、青物市場や、さういふものがただそれだけでは一體なんだらう。働くものの日常のために一錢二錢の利益を確保するといふことの理解も色々だらう。それを少しづつ積み重ねて行きさへすれば、それでどうにかなるだらうとぼんやり考へてやつてる仕事にはどうしたつて打ち込めやしない。やつてることの先が餘りに見えすくんでね。やらぬうちからその限界がはつきりしてゐる。それが何になるんだ! と懷疑的な氣持になるんだ。さうかといつて、觀念の上ではどんなに自由であり得ても、實際の仕事の上では、それ以上には出られないからね。」

志村のこれらの言葉は眞率なひびきを傳へた。揶揄や嘲弄や怒りやをこめ、幾らかの虚飾がつきまとはないわけにはいなかつた今までの調子にはないものがあつた。

「――何れそのうち、僕は東京へ出ようと思つてゐる。」と、彼は附け加へた。

「どうしてそれが無意味だといふふうに思ふんです? ただそれだけの仕事だつていい、助力してやつた方が、やらぬ方よりはいいぢやありませんか?」と、駿介は熱心に云つた。

「君はほんたうにさう思ふかね? 疑はずさう思ひ込めるかね?」と、志村は正面から駿介を見て云つた。

「ええ……僕は單純なのかも知れないが。」

「ふむ……」と、志村は考へ込むやうにして、

「さう思ひ込めるといふのは、ともかく、君は仕合せだ。君は君なりにどうにかやつて行けるだらうよ。」

別に皮肉な口調ではなしにさう云つた。

それきり、二人はまた默つてしまつた。

やがて志村は立ち上つた。

「ぢやあ、また來る。」

何か云ひ殘したこと、訊き殘したことが胸に一ぱいに蟠つてゐるやうでゐながら、駿介は彼を引き止めることができなかつた。

駿介はおもてまで送つて出て、闇のなかにのつそり立ち去る志村を見送つた。

歸つて來た部屋には、志村が吸ひ殘した吸殼から、紫煙が靜かにゆらめいてゐた。

駿介は云ひ知れぬ寂しさを感じた。そして考へに沈んだ。

Chapter 4 of 15
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