七
駿介の上に多忙な日々が流れた。彼は今は遲疑することなく新しい生活のなかにつき進んで行つた。ぎごちない身を人々のなかにおいて、時に左顧右眄することはあつても、たじろぐ氣持はなかつた。今の彼は嘗てない謙虚な氣持にゐた。敬虔なと云つてもいいかも知れなかつた。彼は何を措いても先づ農事の一通りを覺え込まなければならなかつた。あらゆる希望に滿ちた夢想の實現もそれからのことである。それには先づ過去の自分を棄て去ることが必要だ。この十年間の都會生活の間に我が身につけたものを次々にかなぐり棄てて行く、どこへ出て誰に見られても、誰も自分にはそんな過去を嗅ぎつけることが出來ないほどになる。外見ばかりではなく、ものの感じ方や好みまでも農民のものになり切る。都會的なものは、何も悉くが農民的なものと反撥し合ふとは限らず、排すべきものとは限らぬとしても、我が身も完全に耕作する農民に同化するためには、一應は全部的に否定してかかることが必要だとさへ思はれたのだつた。都會的なものと農民的なものと、この兩者をこのやうに對立的に考へねばならぬところに、現代の大きな不幸の根を感じながらも。
上原を訪ねて、自分の考へを率直に語つた時に、それまで殘つてゐた曖昧さと躊躇は消えたのであつた。人に語ることで、自分にもはじめて納得が行き、確信が持てたところもあるのであつた。
上原から歸つて來た日の夜、彼は同じことについて父とも話した。
「上原んとこでの話はどうだつた?」と、夜寢る前に彼がくつろいだ時に、駒平が遠慮がちに訊いた。母や妹たちもその場に居合せた。
「ええ、をぢさんとは今日久しぶりでいろいろ話しました。」
話の内容は傳へにくかつた。必ずしも今日の話合ひの模樣といふことではなしに、かねてから適當な折を見て云はねばならなかつたことについて駿介は語つた。彼の決定を告げた。學校はやめたい、そして家にゐて百姓をやりたい、と云つた。
「――今になつて、自分の進路を變へようと云ふのは、負けた、意氣地のないことのやうにも見えるでせうが、私としてはそれはどうでもいいことなのです。自分が感じたことや疑問に思つたことを、突きつめずに、わきへそらして、有耶無耶のうちに過してしまふといふことはしたくありませんから。」
駿介は父との間に、上原との場合よりももつと大きな年齡と時代との開きを感じてゐた。それは父が上原よりもその生活に社會的な廣がりがないと云ふことからであつた。だから話しづらかつた。よほど注意しても、父には耳慣れぬ言葉を使ふといふことも避けられなかつた。細かな心の經過などは云ひ現すことがほとんど不可能な氣がした。しかしそれを無理に言葉で傳へることを別に必要とはしないといふ氣が一方にはまた強かつた。彼は父に、上原よりももつと大きな時代の差を感じながらも、しかも父は上原よりももつと端的に自分を理解するにちがひないといふことを直感した。自分の同時代人よりももつとよく自分の氣持がわかるにちがひない、語ることを傳へなくても、と、さういふ氣がした。
駒平は默つて聽いてゐた。しばらく經つてから、
「何か、かういふことではないんぢやらうね。……年老つて働いてゐる親に氣の毒だとか何とか……」
「さういふことではありません。」
「うん。」
彼はうなづいて、それからぽつりぽつりと語つた。
「わしは何も云やあせん。お前のことについては、お前の好きなやうにしたがええ。お前がはじめて東京さ出たときから、ずツとこのかた、わしはお前のことについては何も云はんことにしてゐる。もつとも云はうとしたところで、學校さ行つとるお前に何か云つたり、相談相手になつたりする力はわしには無いが。人間ちうもなア、その人その人に具はつた器量があつて、わきからどうせついて見たところで、その器量以上に拔けて出られるもんぢやない。また本人の心がけさへ過たず、肝腎のところでぐつと締つて居さへすりや、何をやつたかて大差はない。その身に備つた器量だけのものはあらはれるもんぢや。お前が學校を出て會社員や役人にならうと、家さ歸つて來て百姓をやらうと、えらい違ひはありやせん。お前がはじめて東京の學校さ行くといふことになつたとき、喜ぶでもなし悲しむでもなし、わしが餘りそつけないと云ふんで、上原なども驚いたとあとで聞いたが、行く時もさうなら、やめて歸つて來た時とてわしは別に變りやせん。……しかし、正直なところ、わしも一頃は、お前が大學校を出て、世間でいふエラ者になつてくれりやと思はんでもなかつた。おつ母さんなんぞがしきりに云ふもんで、しかしおつ母さんよりはお祖父さんぢや。うちのお祖父さんは廣く世間の役に立つた人ぢや。わしはこんなふうぢやが。しかし、そんなことはどうでもいいこつた。好きなら百姓したがええ。それもよからうて。お前らの年になつてはじめて、それも學校さ行つてたものが、泥田のなかを這ひまはるなア、ずゐぶん難儀なこつたがやれんこつちやない。つらいがたのしみなこともあるわ。うちの暮しはこの三月の間にお前が毎日見て來て知つての通りぢや。わが持地は宅地畑地雜地合せて四段、田圃が四段、ほかに小作の田が三段餘りぢや。このへんの百姓としちや、いい方と云はんけりやならん。……さうなりや、この十年は無駄な道草かと云ふにさうはならん。道草ぢやつたかも知れんが、無駄にやならん。一體、さういふ無駄といふもんはないもんぢや。見たり聞いたり、何かしたこたア、そりやこれからのちどつかで生きて働く。まるつきり方面ちがひでも、そりやそれだけのことはある。ようしたもんぢや。案じるこたアいらん。」
駿介は、それに對して何か云はねばならぬと思つた。しかしその時は何も云へなかつた。母や妹達も、二人の話の間ぢゆう、非常につつましい樣子で、一言も口をはさまなかつた。ひつそりとした、だが心のぬくくなるやうな部屋うちの空氣だつた。
明け放した縁から光を慕つて飛んで來る蟲の大きさが、人をおどろかす頃になつてゐた。明りをめぐる蟲の羽音が夜の更けを感じさせた。駒平は立ち上つた。
季節は農家にとつて、一年中にもつとも大切な時に向つてゐた。田へはもうそろそろ水を引かなければならなかつた。ひたすらに雨が待たれた。西南の海上に起る風は、この季節には特に氣をつけなければならなかつた。葉煙草が適熟期をすぐ眼の前に控へてゐるからである。
六月にはいつたある日、小ざつぱりした服裝で、鼻下に髭などある四十恰好の男が、二人の洋服男を連れて訪ねて來た。駒平は、かねて心待ちにしてゐたらしく彼等を迎へた。駿介は、初對面の挨拶を交す前に、彼がこの村の煙草耕作者組合長の松川で、洋服の男は、專賣局の局員であることに氣づいてゐた。彼等は葉煙草の檢査に來たのである。
「今日は、お暑いなかを、遠路どうも御苦勞さまでございます。」
駒平は鄭重な挨拶を述べた。縁側に腰うちかけて三人はしばらく休んだ。じゆんが茶盆に、赤や白の砂糖をかぶせたビスケツトを盛つた菓子皿を持つて出た。茶は啜つたが、菓子には誰も手を觸れなかつた。專賣局員は鞄のなかの書類にざつと眼を通しながら、やたらに扇子を忙しさうに動かした。駒平が何か云つても、ほとんど口をきかなかつた。わざとさうしてゐるやうに見られなくはなかつた。
駒平は、一行を山の煙草畑に案内した。駿介もその後に續いた。
「どうも毎日よく照りますことで。」
先に立つて駒平は云ひながら、幾つにも折り疊んだ手拭ひで、禿げた頭から顏へかけて何べんもこするやうにして拭いた。拭くあとからすぐにふつふつと玉の汗が浮いて出るのが駿介にも見えた。よく禿げた駒平の圓い頭には、産毛のやうにぽやぽやした感じの毛が少しばかり生えて、その毛も赤く燒けてゐるやうに見えた。山の畑に通ふ、ゆるやかな細い坂道には、白い土埃りが厚くたまつて、歩く度ごとにバタツバタツと女の護謨裏の草履でも引きずる樣な厚ぼつたい音をたてた。埃は靴やズボンを汚した。人々の氣を損ずまいとして、しきりに細かに心を配つてゐるやうな、用もない時にも笑ひ顏を見せるやうな老父を見て、駿介は何とはなしにみじめな、かなしい感じを持つた。そのやうな駒平を見たことはなかつたからである。
專賣局員は、煙草畑の一角に立つて、ずーつと見まはした。
「これが第一號地だね?」と、指さした。
「はい。」と、駒平は答へた。
「畝歩は?」
「はア、一畝歩で。」
檢査員は卷尺で、畝幅を測つた。それだけで植附本數はもうわかるのだが、彼はその上に一々たんねんに本數を數へて行つた。同樣のことを各筆毎にやつた。さうして最後に第八號地に來た。
「これは豫備だね?」
「はい左樣で。」
本數が數へられた。それは五十本であつた。
調べに當つてゐた若い方の檢査員は、そこで、少し離れたところに立つてゐるもう一人の所へ行つた。調べは、もうこれですんだのであらう。見てゐる駿介も何とはなしにほつとした。
二人の檢査員はしばらく何か話してゐた。離れてゐるし、ひそひそ聲だからこつちまでは聞えない。
やがて若い方が駒平のところへ戻つて來た。そして云つた。
「二十本拔き棄てるやうに。八號地から。」
低いが、命令的な口調であつた。
「はア?」
解し兼ねるやうに、駒平は檢査員の顏を仰いだ。
「拔き棄てるんだ、二十本。」
依然、聲にも顏にも表情がなかつた。眼は、駒平の方は見ず、顎ですぐ足もとの八號地をしやくつた。
「さうなりますと豫備は……」
「豫備は三十本だ。」
「豫備は五十本までは許されとつた筈でございますが。」
と、駒平はやはらかに抗議した。
「いや、三十本だ。」
「いいえ……三十本から五十本まではいいと、役所の方からのお許しで、わしらも今迄、毎年ずうつと五十本までは作らしていただいて來たのぢやが……」
駒平は、おとなしい出方ながら、必死な氣持で抗議しながら、ちらと、少し離れたわきを見やつた。そこには松川が立つてゐる。駒平は助力を求めたのである。松川はしかし見ぬふりで、もつそり突つ立つてゐる。
「三十本から五十本といふ規則にはそりやなつてゐる。しかし實際は最低本數の三十本といふのが、普通どこでも一般のことなんだ。五十本といふのは、五十本まで許すことも出來る、といふだけのことで、これは何か特別の場合のためにさうしてある。つまり例外なんだ。いいか、わかつたか。」
輕くあしらふやうに云ふ方がまだ三十にもならぬ若い男で、云はれてゐる方がその親ほどにも見えるといふことが、この場合の兩者の對照を非常に際立つたものにしてゐた。
駒平は默つて立つて、對の葉が美しく伸びひろがつて、赭土の傾斜を覆うてゐる眼の前の煙草畑をぢつと眺めてゐた。
「わかつたら拔かにやいかんよ。早く。」と、檢査員はうながした。
「煙草を作つてもう何年にもなる。今まで毎年これで通して來たんぢやが……」と、つぶやくやうに云つて、諦め切れぬ氣持の駒平はもう一度檢査員の方へ向きなほつた。折り疊んだ手拭ひを持つた手を、低く膝のあたりまで下げて作つた笑ひをしながら、
「どうかまア一つ、旦那。折角丹誠してこれだけにしたもんぢやけに、今度だけはまア大目に見てつかあせえな。おたの申します。」
「だめだと云つたらだめなんだ。拔けといつたら拔いたらいいんだ。」
くどい、と云はないばかりに云つて、やうやく苛立つて來たふうで、靴先で地面をコツコツ蹴りながら、
「何だ、二十本ぐらゐ。」と、吐き出すやうに云つた。
うつむいてゐた駒平は、それを聞くと、急に顏を上げて、今までに似も似つかぬ鋭さで、下から相手をじろつと見た。傍觀者の地位にあつて、切迫した感情に襲はれながら、何か起りさうなハラハラした氣持で見てゐた駿介は、思はずどきつとした。
しかし駒平はすぐに以前の姿にかへつた。默つて畑の方へ下りて行つた。彼は諦めたのである。
端の方から拔いて行つた。手傳ふまでもない仕事だが、ただ見てゐることは出來なくて、駿介は父の傍へ行つた。親子は默つて次々に葉煙草の木を引つこ拔いた。二十本の葉煙草を拔き去るのに長い時間はかからなかつた。畑の一隅に寄せあつめて來て、何か云ひたげに、駒平は檢査員の方を見やつた。檢査員は近寄つて來て、拔き去つたものの本數を調べた。
「燒き棄てるんだ、すぐ。」と、彼は云つた。
そのやうなことにならうとはゆめおもつてはゐなかつたから、竹籠などは持つて來てはゐない。二人は兩手で、胸のところへ抱きかかへて、運ばなければならなかつた。煙草畑のとなりはいはゆる雜地になつてゐる。雜地といふのは、山の、雜木が生えたままで開墾せられぬところを土地臺帳面でさう呼んでゐるのである。その雜地の、木が伐り倒されてやや廣い空地になつてゐるところへ、葉煙草を運んで行つて積み上げた。
どうする? とでも問ひたげに、駿介は駒平を見た。
「落葉と柴を集めにや。」と、駒平はぶつつけるやうに云つた。
二人は雜木林のなかから落葉と柴とを集めて來た。日照りが續くので落葉はよく乾いてゐる。かなりの嵩に積んでから、
「駿、おめえマツチを持つてゐたつけか?」
ふところへ手を突つ込んで見て、駒平が云つた。駿介は折よく持つてゐて、駒平に渡した。
駒平はマツチを擦つた。落葉は燃えはじめた。はじめ白い煙りだけを上げてゐたのが、隙間に風が入ると、パツと赤い焔になつて、すぐに柴に燃え移つた。パチパチと小氣味のいい音を立てて火花を散らした。火勢はだんだん強くなつて行つた。傍に立つてゐるとカツカと顏がほてつて目眩めくやうであつた。
駒平は葉煙草をつかんで、その焔の上に投げてやつた。火勢は一時、急に弱まつた。葉煙草の葉は焦げてちりちりと縮まり、ぶすぶす燻ぶりはじめた。
よく晴れた初夏のまひるの空に、ゆらゆらと白い青い煙りはあがり、葉煙草は燃えて行つた。生の葉は燃えがわるく、いつまでも燻ぶる程度を餘り出なかつたが、落葉と柴との火勢に助けられて燃えた。落葉と柴とは時々足して行つた。
二人の檢査員は、やや離れたところに立つてこの焚火を見てゐた。
燃えるに從つてあたりは強烈なたばこのにほひで一ぱいになつた。たばこを吸わぬ駿介は、そのにほひに噎せ、なかば醉つたやうに、頭はくらくらした。煙りは眼にも鼻にもしみた。駒平も大きなくしやみをした。照りつける日と燃える火とで汗がじとじとに滲み出て來た。するとその時になつてはじめて、顏から手から胸のあたりまで、ニコチンでべとべとしてゐることに氣づいた。
葉煙草は少しづつ火にくべられた。最後の二三本が投げ込まれた。それも眞黒になつた頃、駒平は木の枝を取つて、火中を突つき、かきまはしなどした。煙りと焔とは絶えず上つた。火の粉も時々飛んだ。白い灰となつて飛び、頭や肩にふりかかつて來るものもあつた。
しかし火勢は次第に衰へて行つた。煙りと匂ひとだけがいつまでも濃かつた。駒平と駿介とは汗と一緒に涙も流してゐた。眼がしくしくして拭いても拭いても出た。汗と涙とを拭く手拭ひもニコチンでべとついてゐて、臭かつた。
遂に眞黒な燃え殘りだけが餘り大きくはない嵩となつて殘つた。完全な灰とはなり切らぬものも、もはや全く原形をとどめなかつた。
二人の檢査員はこの最後を見屆けるまで立ち續けてゐた。見屆けてから二人は去つた。松川も去つた。
「糞ぼつこが!」
止み難い忿懣を、駒平はただその一言に籠めて、彼等の後ろから、低くしかし強く投げつけただけであつた。
家へ歸つた駿介は、煙草耕作者組合から買はされた木札に必要事項の書き入れにかかつた。書き入れ項目の欄は、木札の表面に、燒印で捺されてゐる。そこに今日檢査員立會の上で調べた事項を書き込むのである。各筆毎に番號を入れ、畝歩を記入し、本數を書き込み、最後に耕作者の姓名を記す。全部の木札に書き終つたら、これを一本づつ細竹につけて、番號順にそれぞれの畑地に立てる。
書きながら駿介の心は熱く燃えてゐた。それは彼が今までに嘗て感じたことのない種類の感情だつた。今しがたの煙草耕作地での出來事は彼の眼にも心にも灼きついてゐた。自分の老いた父に關してゐたからか、自分の一家の利害に多少とも直接關することであつたからか。さうではあらう。しかしさうとばかりは云へないと思つた。他人の同樣な場合に立ち會つてもなほ同じやうな感情は持つに違ひないと思つた。彼は、彼も亦見聞きしていくらかは知つてゐる、葉煙草耕作についての百姓の勞苦を思ひうかべた。
それは苗床の底に敷きつめる落葉のかき集め、本畑に入れる數百貫もの堆肥の準備といふやうな仕事に始まる。それらは前年のうちにすまされねばならぬ。春、苗が六七葉を生じたところで苗床から本畑へ移植してからは、無事に根附くまで、どのやうな心勞であらうか。殊に水に不自由なこの地方にあつてはひとしほ苦勞が多い。根附いたと思ふと今度は、夜の眼も寢ずに風を警戒しなければならぬ。やがて適熟期が來る。その間も全身をニコチンだらけにして絶えず不要な芽を摘まねばならぬ。いよいよ葉をかいて乾燥する運びになるが、乾燥室建築の費用の捻出に惱まぬものはない。乾燥室は共同出資で建てることによつて、負擔を輕くするやうにしてゐるが、自分で一室建て増さねばならぬやうな時には、費用は少くとも百五十圓はかかり、それは年六分ぐらゐの利子で無理して借り入れられ、あとあとまでも長く尾を引く。乾燥には一ヶ月の餘もかかる。しかも季節は丁度眞夏で、罐の火を焚いて、温度の調節をはかりながらの仕事である。
それら一切の經過が駿介の腦裏に浮んだ。水を入れたタンクを背負つて傾斜した畑道を行く、押しひしがれたやうな駒平の姿が特になまなましかつた。さつき畑でニコチンによごれた手は、ざつと洗つて來た今もなほ、筆の軸ににちやつくほどであつた。それは彼の想像の世界を實感にまで深め、強めた。自分自らもう何度も煙草栽培の實際に當つて來たもののやうな感じがするのであつた。
三十本から五十本まで許されてゐる豫備を、必ず最低の三十本にしなければならぬといふことは、駿介にはどうしても飮み込めなかつた。毎年の例に違ふとすればいよいよのことである。しかし駿介は實際のところ、煙草專賣局の規則とその實際の仕事については何も知らないのだ。それを知つたならば、或は成程と納得されることがあるのかも知れぬが、さうならそれは知識の無いものにも納得の行くやう、説明されねばならぬ。何れにしても、規則か人か、その何れかに缺陷がある。
しかし駿介にとつてそのことはそれほどのことではなかつた。といふよりは、ほかのもう一つの事があつて、駿介の心をより強く打つたのである。彼は生産に無關係な、もしくは直接生産の過程に與らない人間が、生産する人間の勞働をどのやうに取り扱ひ得るものであるかといふことをはじめて自分の眼で見たのであつた。多くの人々によつて輕く見過されるやうな事實も、今の駿介のやはらかな心には、消し難い印象をとどめたのである。