돌아가기
The Search for Life, Continued
Table of Contents
The Search for Life, Continued
島木健作
Reading Settings
글꼴 크기
18px
테마
라이트
다크
세피아
눈 보호
줄 간격
읽기 모드
번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 5 of 23

五

町へ來たついでに、本屋へ立ち寄つて、新刊の棚を見て行くことを、駿介はたのしみにしてゐた。ここはふだん行き慣れてゐる、縣廳のある町ではない。中等以上の學校とてもべつになかつたから、本屋の棚は貧しかつた。が、それでもそこには遠い國の中央からの文化のおとづれがあつた。駿介はむさぼるやうな眼で一段々々棚を見て行つた。心を惹かれる書物があると、手に取つて見た。ケースをすべり出る本のしつとりとした重さ。新しい紙と活字のインクのにほひ。はじめて人の手に開かれる分厚い本の頁は、小口でくつつき合つてゐて、彼の手の下でパラパラと鳴つた。その頁をひらく、皮の厚く硬い荒れた指先も、全體の風體そのものも、本屋の店先などには似つかはぬやうなものに、わづか一年足らずのうちに變つてしまつてゐた。それに伴つて書物といふものに對する彼の感じも亦變つてゐた。彼には新刊と思へたが、事實はかなり以前の發行で、箱の上に薄く埃の溜つてゐるのをプツと息で吹き拂ひなどして、手にした本を、何か貴重なものでも扱ふやうに再び棚のなかにおさめた。今日は、通俗醫學書の詰つてゐる棚も探して丹念に見た。妹のことを思つたのである。しかし彼のふところは乏しかつた。

雜誌を一册買つて、間もなくその店を出た。外は、わびしく和やかな冬の日ざしがあたたかだつた。道路に落ちるものの影を見るともう晝過ぎだつた。彼は眼についたうどん屋へ入つて行つた。一杯のうどんかけで腹ごしらへをすまし、葉の屑がゴミのやうに浮いて來る番茶を、縁の缺けた大きな湯呑みに注いで息を吹き吹き飮んでゐると、いい工合にからだがなかからあつたまつて來た。のんびりとした氣持になり、店にはほかに客とてもなかつたので、買つて來た雜誌を漫然と開いて見たりなどしながら、しばらく休んだ。

歸りの道は非常にゆつくりと踏んで、短い冬の日ざしがもう陰りはじめた頃に彼は家へ歸つて來た。入口を入ると、上り口に腰をかけて、母と話してゐる男の後ろ姿があつた。

「ああ、お歸んなさんし。――お邪魔さして貰うとりましたです。」

足音に振り向いて、少し腰を浮かしかげんにしながら男は云つた。

「まア丁度ええとこさ歸つて來た。お引き止めしといて、ほんとによござんした。」

母は云つて、それからしきりに上れとすすめ始めた。

同じ部落の廣岡卯太郎だつた。過度の勞働に背骨がまがり背中がまるくなつてしまつてゐるやうな彼は、今日はことに着ぶくれておかしな恰好だつた。何枚も重ねて着た上に、何かけものの皮を鞣して裏打ちにした袖なしを着てゐた。子供がよくするやうに、眞綿をまるくしたのを首に捲いて、一口云ふ毎にこんこんと咳き入つた。

「どうもすつかり風邪を引き込みましてなあ。今度の風邪はなかなかにしつこいもんで……もう疾うにお伺ひしてお願ひせんならんことがあつて氣になつとつたんぢやが。」

五十餘りの、瘠せて狐のやうな顏をした貧相な彼は、いかにも病後らしく一層老いて、疲れて元氣がなかつた。

彼等は上へ上つて、向ひ合つて坐つた。

「何時ぞや、一度訪ねて見えたと親父さんに聞いて居りましたが、その節は留守にしてえらう失禮しました。そのうちまた見えられることと思つてゐましたが、一向見えなさらんもんで……何かわたしに用事でも。」

「ええ……あんさんに一度よつく聞いてもらうて力になつて戴きたいことがありましてな、それで伺つたのぢやが。こないだ伺つたあの次の日からすつかり寢込んぢまひまして……わしにはまるで珍らしいこつてす。……ナニ、ほかのこつてはありません、わしらの旦那伊貝さんの田圃のこつてすが。」

「ああ、さうですか。――それでどういふ?」

「八幡さんの森の陰にあたるへんに伊貝の土地が少しばしあるが……御存知かな?」

「はア……あのあたりですか。」と、駿介は、云はれた伊貝の土地といふのはどこか知らなかつたけれど、八幡さんの森の陰といへばあのへんだと頭のなかに思ひ浮べた。

「あすこでわしは伊貝から借りてほんの少しばし作つとりますが、そのわしのすぐ隣りで畑浦――御存知でせうがな。――あれがまた作つとりまして、一段歩ほどぢやが、これがまた、伊貝の田圃です。ところがな畑浦が去年の秋限り、その田圃を作るのを止めて了ひましてな。」

「へえ、どうしてですか。何かまた年貢の問題ですか。」

「年貢は年貢ぢやが……自分の方から投げ出したんですわ。」

「ほう、自分の方から。」と、駿介は、これはまた珍らしいといふ氣がした。この土地飢饉に惱んでゐる地方で、どういふ理由があるにしろ、自分から作ることを止めるといふのは近頃餘り聞かないことではないかと思つた。それに駿介の知つてゐる畑浦はやはり一人の貧農だつた。年貢のことでたとへどう縺れようと、自分からあつさり土地を手離せるやうな身分ではなかつた。

「一體どんな風に縺れたんです、年貢のことが。」

「別に縺れたといふわけぢやありません、――作つとつちや引き合はんけに、損が行くばつかしぢやけに、それで投げ出したんですわ。そりや實際、畑浦で無うても投げ出したくもなりますわ。わしが借りとるぶんも同なじやうな田圃でなあ。どうも大した年貢なんです。若いうちはええが、年を取つてからだが弱つて來るちうと、なんぼにも根氣が續かんけんなあ。バカバカしい、こななえらい目えして、といふ氣持ばかしさきに立つやうになるんですわ。なんぼ田圃飢饉ぢやからとて、こななえらい目えしてこなな田圃まで作らんならんこたアないと思ふのは、わしかて此頃しよつ中のことですわ。別して去年みたやうに出來のわりい年にぶちあたるとなあ。したがいよいよ投げ出さうとなるとやつぱし未練が出來て……あなな田圃ぢやからとて、全く作らんとなりややつぱし困ることになるんぢやからして。それどこか、人の投げた田圃まで欲しいといふ氣まで起すことになるんです。」

「一體、その年貢といふのはどの位なんです?」

「石三なんですわ。」

「はア?」と、これには駿介は一寸出端を折られた感じだつた。一段歩に一石三斗の年貢は、それほどに驚かねばならぬ高額であるとは駿介には思へなかつた。この地方で一段歩に六俵は普通だから、石三の年貢はそのほぼ半分である。收穫高の半分の年貢といふのはこの地方では一般に普通のことである。いや、この地方のみならず、日本全國を通じて、小作料の平均額はほぼさういふものとされてゐる。廣岡の歎きと訴へから、何か法外なものを豫想させられてゐた駿介は、やや意外な氣がした。勿論この小作料の平均額は現在がさうだといふことである。現状がそのままで果して合理的であるかどうか、それを檢討しようとする立場にもいろいろあるわけだ。大學教授、農林省の官吏、産業組合の理論家、小作組合運動者などが、合理的な小作料といふものを求めて、いろいろな説をなしてゐる。しかし今駿介の眼の前にあるのは、病み衰へた一人の老貧農に過ぎない。彼が世間の平均以下を求める強い主張を云はうとするのだとは思へなかつた。

「はア石三ですか。それで……そこはどれくらゐ取れるんですか、やはり六俵ぐらゐですか。」

「二俵半ですわ。」

「ええ?」と駿介は今度はまたひどく驚かされた。我耳を疑ふやうに聞き返した。

「ええ? いくらですつて?」

「二俵半ですが。」と、廣岡は同じ言葉を繰り返した。

「二俵半て云ふと……」と、駿介は口ごもつた。――「ぢや、一石ですか。」

「はア、一石なんですわ。」

風邪でつぶれてしまつた喉から押し出すやうにして嗄れた聲で老人は答へた。急にこんこんと咳き入つて、喉をゴロゴロと鳴らした。強く咳拂ひをして、からんで來た痰を切つてそのままぐつと呑んでやつて、袖で口のあたりを拭ふと、しよぼしよぼした眼を瞬いて駿介を見た。

驚いて、すつかり驚いてしまつて、駿介はすぐにはものを云ふことが出來なかつた。彼はさきに聞いた一石三斗といふ年貢と、たつた今聞いた全收穫の高が一石であるといふことを、どう結びつけるべきであるか、咄嗟には分らなかつた。それで彼は色々考へて見たが、やはり納得の行くやうな考へがどうにも思ひつかなかつた。ふと彼はどつちかが思ひ違ひしてゐるのではないかと思つて一石といふのはやはり一段歩の全收穫量なのかと訊ねてみた。答へは勿論さうだといふことだつた。それを聞いてしまつてから彼は、年貢だけを一段歩の標準で云つて、全收穫をほかの單位で云ふわけはあるまいし、問はでものことを訊いたと思つた。が、それにしてもやはり彼には分らず、一段歩に二俵半といふ異常に少い全收穫量もさることながら、年貢が全收穫量よりも多いといふことは一體どういふことなのか、どうしてさういふことがそもそも可能なのか、考へがつかなかつた。かういふことは自分は見たことも聞いたこともないが、この地方では別に怪しむに足りぬことなのであらうか。農村の實情についての無知識を曝露することになるが、彼は訊いて見るのほかはなかつた。

「わたしにはどうも分らんのですが……年貢が、全體の取れ高よりももつと多いといふことは一體どうなんです? どうしてそんなことが出來るんですか。足りない年貢は一體どうして拂ふんですか。それよりも、第一、それぢや何のために一體そんな田圃を作つてるんですか。あなたはさつき、こんな田圃でもやつぱり、全く作らんとなると困ると仰つたが……。」

「困るんです、そりややつぱし作らんとなりや困るんですわ。」と、老人はこつくり頷くやうに頭を二度三度下げて云つた。「裏作がありますんで。年貢の足らん分は、借りてでも買うてでも納めます。」

「裏作が……ああ、さうですか。」

迂闊であつた駿介は、何もかにも一遍でわかつた。

「裏作だけが目的なわけなんですね……表作はその全部が年貢にも足りんほどでも、人から借りて足前をせんならんほどでも、裏作があるもんだから、その收益が云ふに足りんほどのものでも、それをあてにして、作つてゐるといふわけなんですね? それでそんな田圃からも離れられないと云ふわけなんですね?」と、駿介はひどく興奮して云つた。

「さう、さう、さうなんですわ。」と、廣岡も、駿介の興奮にひきこまれるやうに、急き込んで云つた。

駿介はしばらく默つてゐた。廣岡も默つてゐた。少ししてから、

「で、裏作は何を作つてるんです。やつぱり麥ですか?」

「ええ、わしは麥と煙草をやつとります。」

「麥と煙草……兩方ですか。すると稻とで三毛作なわけですね。」

「さうですわ。三毛作なんです。一番に麥を植ゑて、こりや夏前に刈りませうが。その次あ、煙草の本畑になります。これも夏うちに乾燥がすみますわな。それからがいよいよ水田ですわ。大あわてにあわてて……忙がしいこつてす、まるで瘠せ馬の尻を引つぱたくみたいなもんで……。」

「忙がしいでせうね!」と、駿介は思はず溜息をついた。

駿介は、東京を中心とする地方の、關東の諸地方の農村を思ひ出してゐた。學生の頃、彼も時折ハイキングのコースなどを辿つたこともあつたが、その道々眼にした田舍の風景は、その頃こそ別に氣にも止めずに見過してゐたが、今思ひ出してみればたしかに彼の郷里とは違つてゐた。秋の終りから冬の間中、田圃の多くは、秋に稻を刈つた時のままの姿で放置されてゐた。切株がすつかり黝ずんで、田の上には水がじくじくして、所によつては切株の上近くまでをひたしてゐた。それらは深田や瀦水田や濕田で、水捌けがわるく、裏作は出來ないのだつた。ところが彼の郷里では排水設備だけは完備してゐた。それで田もそのほとんどが乾田だつた。そのことと氣候の温暖とが相俟つて、三毛作さへも可能であるわけだ。さうでなければまた、わづか三段か四段の土地で、どうにか一家をやつて行くといふことは考へられぬことであらう。

「まるで瘠せ馬の尻を引つぱたくみたいなもんで……。」廣岡のこの言葉が、駿介の耳から離れなかつた。廣岡はその形容で自分達と土地の双方を云つたのかも知れない。駿介には、瘠せて骨ばつた、さうしてその上を鞭打たれて赤裸かになつたやうな馬の尻と、甘土が薄く、すつかり養分を吸ひ取られて、カサカサになつてしまつたやうな瘠地の肌とが、この上ない相似性をもつて眼に見えて來るのだつた。

「……だとすると、作物の出來だつて自然良くないといふことになりませうが。」

「さうです、さうですとも――急がなきやなりませんから、麥だつて、早目に刈つて了はにやなりません。もつとも麥は少し早目の方が却つてええなんどと云ふ者もあるにやありますが……煙草も本畑への移植がほかとはずんと後れるよつて、どうしても晩作ぢや。しかもそいつを、あとに肝腎の稻が待つとるよつて、人のよりも早うにすまさにやならん。自然、もう少し熟さにやならん、今摘んだんぢやあかんちうことが、みすみす分つとる葉までも急いで摘んでしまふことになります。結局は云はんとも知れとることですわ。乾燥しても黄變がよういかんけに、ろくな葉は出來よりやしません……稻だつてさうですわ。なにせえ、八月になつてから植ゑ附けるんだによつて、しつかり實の入るひまもなも無いやうなもんです。さつき二俵半と申したですが、ありやええ時のこつてす。去年なんざアひどくつて……そんで、わしらとこぢやしよつ中青米です。實の入らん青米ですわ。こりやあんさんなんぞ食うたこたアありませんぢやろが。苦うてただ炊いたんぢや食へやしません。そんななア、碎いて、蓬のなかさ入れて、團子にして食ふんですわ。さうすりや苦みが消えますよつて。……わしら米麥半々の麥飯なんぞ食うたこたアありやしませんぜ。いつだつて、二升の麥に三合の米入れて炊くんですわ。味噌つくる麹にや、碎け米のほか使つたこたアありやしません。……なんしろ、さうで無うてさへ瘠せた田圃を、後から後からと苛めるんやけに。肥えるひまなんぞありやしません。土地だつて生きもののひとつこつてす。たまにや養分をやつて休ませんことにや。」

「元來が惡田で普通なみには取れないんですね。それでそれだけぢや間に合はないから裏作をやつてひどく無理をする。それで益々土地は瘠せる……三毛作だと云ふことと土地が瘠せてゐるといふことと、兩方から來るんですね、たつたそれしきや取れないといふのは。」

「さう、さう、さうなんですわ。」

「どうなんでせう、どうしたつて普通にはなれない惡い土地なんでせうか?」

「そりや惡い土地にや違ひやしません。ぢやが、金と時間をかけて甘土を肥やしさへすりや、良うならん土地なんてものもありやしませんわ。」

廣岡はぶつつりと云ひ切つた。云はれて了つてから、いかにも分りきつたことを訊いたものだと駿介は思つた。そして、その分り切つた事がその通り廣岡の手によつて出來るのであれば、何も問題は無いのだつた。

「八月も餘程經つてから稻を植ゑるとなると、それはどこから持つて來て移植するんですか? 無論苗代からぢやないでせうし。」

「そりや、ほかの田圃の稻を取つて來てそこさ移すんです。……稻の苗はかう、八寸四方の四角に植ゑますやらう、」廣岡は手を上げて、ものを植ゑ附ける恰好をして見せた、「そん時、その四角の眞ん中に一本づつ餘分に植ゑつけておくんです。その一本づつを後になつて引つこ拔いて來て、さつきの、煙草のあとの田圃さ植ゑるんです。その引つこ拔くのがまたえらいぜえ、八月の末にもなりや、もうしつかと根を張つてゐるけんのう。汗と泥とでびしやびしやぢやが。」

「……それで何ですか、畑浦の投げ出した田圃といふのは、今もそのままになつてるわけですか?」

「さうです、そのままになつとりますわ。今でも刈株が殘つとります。暖かうなりやぺんぺん草が生えるこつてござんせう。」

「それでも年貢は下げんのですか? たとへ僅かでも作れば出來る土地を遊ばせておくといふ法はないですね。村のためにも、大きくは國のためにもならんことですがね。何よりもこの土地の狹い地方に勿體ない話だ。――年貢を下げて作らせるやうにすれば、小作人が喜ぶばかりぢやなく、第一自分もとくだらうと思ふが。」と、駿介には伊貝の氣持がどうにも解せなかつた。「しかしどうもそれぢやほかに望み手もないわけだ。」

「さうなんですわ。それぢやなんぼにもみんなよう辛抱し切れんけに。何しろ年貢を金で買うて納めにやならんのやけに。それで普段は田圃の取り合ひをしくさる連中までがそこばつかしは御免を蒙つとります。わしが畑浦のと似たやうな田圃をどうにか辛抱して作つてをれるのは、全く煙草があるからですわ。米と麥とで年貢がすませりやまアよろしい、煙草が儲けになりや、と諦めとるんです。煙草だけ目當てに土地を借つとるやうなわけです。煙草を作つとらん畑浦が投げ出したなア無理ありません。まるで年貢を納めるためだけに土地を借つとるやうなもんですけに。」

「それにしても畑浦も思ひ切り好すぎたなあ、伊貝さんによつく理解の行くやう頼み込んで見たらよかつたのに。餘り話しても見なかつたんでせう?」

「差配の沼波には話したんです。伊貝の旦那には話しやしません。なかなかさう心易う話せるもんぢやござんせん。――それでなあ、杉野のあんさん、」と、廣岡は改めて杉野の名を呼んで、駿介を見た。

「折入つてあんさんに一つお願ひぢやが、聞いておくんなさるまいか。やはりわしらぢやあかん、やつぱし學のある人でなけにやあかんよつて、一つ是非にと思つて、それで今日はお邪魔に上りましたやうなわけですが……。」

「わたしが皆さんのお力になれるかどうかはわかりませんが……それでどういふ――」

「畑浦が投げ出した田圃をわしが作りたいんですが……わしに作らして貰へるやう伊貝の旦那にあんさんから一つ願つて見て下さらんでせうか。」

「ほう、あなたが作りますか、その田圃を。」と、云つて、駿介は云ふべからざる一種の感動を受けた。

廣岡はさういふ小作地を作ることの苦痛をなげきを以て述べて來た。しかも彼は畑浦のやうにその土地を投げ出さうとするどころか、人が投げ出した最惡の田をまで拾つて耕さうといふのだ。さうせずには居れないのだ。それほどまでに土地を欲してゐる。それほどまでに土地に結ばれて生きてゐるのだ。この事實が何よりも先づ強く駿介の心を打つた。

しかし廣岡とても新しくその土地を耕すに當つては、今迄の條件を改善して貰ふことを願はないわけにはいかなかつた。さうして貰はなければ安心して土地は作れなかつた。そしてそれについて駿介の助力が願はれるのだ。今迄の通りの條件でいいといふのなら、伊貝にして見れば畑浦から廣岡に乘り代へるだけのことだから、廣岡自身の交渉で事はすむだらう。しかし状態の改善といふことになるとさうはいかなかつた。

「あんさんが力を入れて下さつて、それでいよいよ駄目ときまりや、わしもすつぱりと諦めますわ。そん時は今まで通りでも結構やけに、わしに作らして貰へるやう頼んで見て下さるまいか。」

廣岡はさうまで云ふのであつた。

駿介は義憤をさへも感じた。これほどまでに眞摯な生活者の願ひといふものは少ない。そしてこれはまた單純な小作料の減免ともちがふ。事柄は小さくても、國と社會にとつて重要な農村の生産力がなほざりにされてゐるのを救ふといふことでもある。廣岡がたとへそれでいいと諦めたところで、決して今迄通りの條件が許されていいといふわけのものではない。

駿介は暫く默つて、火鉢の灰のあたりを見つめてゐた。やがて顏を上げて、廣岡を見て云つた。

「わたしは伊貝さんといふ人には一度も會つたこともありませんが……いいでせう、話して見ませう。わたし直接にか、誰か人を介してか、……兎も角、話してみませう。云ふことが通るかどうかは分らないことですが。」

「どうぞまア何分よろしうお願ひ申し上げます。」

廣岡は、膝の上においた兩手をきちんと揃へて、低く頭を下げた。

「畑浦の方は伊貝とはもうすつかり手が切れてゐるんですね? この話に對して畑浦の方からべつにどうといふことはありませんね?」と、駿介は訊いた。

「ええ、ええ、そりやもうすつかりけりのついとる事ぢやけに。」

二三世間話をして、やがてあたりが暗くなりかけた頃に、廣岡は歸つて行つた。

駿介はかなり興奮してゐた。廣岡の話の内容、彼からものを頼まれたこと、そしてそれを引き受けてしまつたことに對して興奮してゐた。「いいでせう、話して見ませう」とはつきり肯うた自分の言葉に對しても興奮してゐた。何しろかうしたことは始めての經驗であつたから。

彼は廣岡に、もつと詳しく訊いておかねばならぬことがあつたやうな氣がした。また頼まれて、その場ですぐに受け合つたのは、少し輕はずみではなかつたかと云ふやうな氣もした。それまでにもう少し何か考へて見ねばならぬことがあつたのではないか。少し考へさせてくれ、とでも云つて、一先づ彼を歸すのが至當であつたのではないかとも思つた。

しかし、事は何しろ餘りにもはつきりしてゐた。事柄そのものは、誰も疑ふ餘地がなかつた。いやしくも、常識のある人間ならば、それがどうでなければならぬかについては、異論などあるべき筈がないと云へる性質の事柄だつた。

今のところ、かうした問題が起つた時に、駿介が、意見を尋ねたり、相談したりすることが出來るのは、父の駒平だけである。學問なぞはないけれど、父の圓滿な常識と、生活が生んだ叡智と、六十年の經驗と、圭角のとれた練れた人柄とに、駿介は信頼してゐた。

「お父つあん、今日、廣岡の親爺さんがやつて來ましてね。」と、それから間もなく駒平が外から歸つて來ると、駿介はすぐに云つた。そして夜になつて寛いだ時に、廣岡が持つて來た話の内容を父に告げた。

「わたしは初耳だつたけれど、そんなことがあるんですねえ。ちよつと驚いたな。」

「ありや札つきの田圃やけんなあ。何も畑浦がはじめてぢやないわ。今迄入れ代り立ち代りして何代も代の代つて來とる田圃でな。あれぢや今に作るものが無うなるやらうと、人事ながら氣になるんぢや。」

事實を知つてゐる駒平は別に驚きもしなかつた。しかし無關心ではなかつた。炬燵の上に片頬を寄せて、壁の方を見てゐる眼は、考へ深さうな色を見せてゐた。彼は廣岡がそのやうな話を、餘人ならぬ自分の息子の所へ持つて來たといふこと、そのやうな相談を持ちかけられた自分の息子の身の上について考へてゐるのだつた。

「無論こんなことはどこにもここにもあるといふやうな話ぢやないでせう。」

「そりや、ない。」

「何も難かしい理窟なんぞぢやない、世間一般の常識に外れたことだと思ふがなあ。小作料が何に基づいてきめられ、どのやうにして今の平均に落ち着いてゐるかについては色々説明もされるでせうが、何れにしたつて全體の收穫量が根本の基準でせう。全收穫量がこれこれだから、その何割を地主、何割を小作、といふ風に分けてるんでせう。さうでなくちや兩方が立つて行かんのだから……全收穫量より多い小作料なんて聞いたことも見たこともありやしない、徳川時代だつて、五公五民とか七公三民とか云つたんですからね。」

「うん。」

「何でせう、伊貝の土地だつて何も一率に一石三斗といふわけぢやないんでせう。多いところは多いやうに少いところは少いやうに取つてゐるんでせう。」

「そりや、さうぢや。上田で七、八俵取れるとこは石六斗の年貢ぢや。大體このへんの年貢は石二、三斗から石六斗までやから……。」

「そんなら廣岡の田圃だつて全收穫が二俵半なら一俵と少しの年貢にするのが常識でせうがね。」

「一石二三斗はこのへんぢや安い年貢の部ぢやけに、そのなかさ籠めて了うたんぢやらう。」

「そんな無茶なこと。」

駿介は、父が、今日に限つた事ではないが、彼の感情にそのまま乘つて來ないのが、今日は非常に物足りなかつた。

「それは何ぢや、地主は裏作のことも勘定さ入れてるからのことなんぢや。表作だけやつたらむろんそななこと絶對に出來るこつちやないが……。」

「しかしまともな年貢の所にだつて裏作はあるんだから。――そんなふうに云やあ、裏作にも年貢をかけるといふことになるぢやありませんか。それぢや世間一般の仕來りにも反するでせう。麥年貢なぞ取つてるとこ、今でもどこかにありますか。」

「今ぢやもう恐らくなからうわい。昔はあつたもんぢやが。」

「さうでせう。しかし廣岡の場合は麥年貢よりももつと無理ですからね。また煙草を作るからと云つて、それに對して別に年貢をかけるといふ者もないんだし。一體どうしたんでせう、持つてるものにして見りや、ほんの僅かなことぢやないですか。世間なみにしてやつたらどういふもんでせうかね。」

「持つてる者ぢやからこそ、僅かが僅かにならんのぢや。それを僅かと云ふやうやつたら、物持ちにやなりやせん。」

「したが結局とくでせう、伊貝にしたってさうした方が。田圃に草を生やしておくより。」

「廣岡や、似たやうな二三のものの問題としてだけ考へるんぢやないによつて。持つとる者は持つとる者らしく先の先までも考へとるもんぢや。年貢を上げるといふこたア造作ない、下げるといふこたア大變ぢや、ほかのものへも響くよつて――響かいでも響くやらうと考へるによつて。廣岡の年貢の負かつたなああした特別の田圃やからと思ふものだけやつたら世話ないが、その特別といふことよりや負かつたといふ事だけを一途に思ひ詰めて、今度は我身の上を考へる者もあるわけぢや。伊貝なんざさうした先々までも考へとるんぢや。してまた地主なりやそりや當り前のこつちやからして。物持ちも辛いわ。」

成程さうしたものかと頭で納得することは容易だが、さうした物持ちの心理といふものは、駿介にはまだどうもぴつたりとは來ない。

「伊貝の今の主人公といふのは一體どんな人なんです。」

村切つての有力者である伊貝の名は、子供の頃から聞いて知つてはゐるが、長年の間郷里を離れてゐた駿介はその當主の人となりについては、噂話の程度にしか知ることがなかつた。

「どんな人かと云うて……。」駒平は簡單な言葉ではうまくは云へぬらしかつた。

「幸藏といふ人はまだ隱居してるわけぢやないんですね、もうだいぶの年でせうが、實權はやはりあの人が……。」

「ああ、ああ、隱居どころか、まだまださかんなもんぢや。さうさな、もう六十七八にならうわい、さあ、わしとどつちが上だつたやら……。」

駒平はそこで駿介の顏にぢつと見入つた。

「それで何かい、お前はその廣岡の頼みといふのを聞いてやるつもりなのかい。」

「ええ……」と、駿介は何か非常に強い決心を要求されるやうな氣がした。「聞いてやらなければならないと思ひますが。わざわざああやつて訪ねて來て、くれぐれも頼んで行つたんですから。出來るか出來ないかわかりませんが。わたしには荷が勝ちすぎたことかも知れないし……お父つあんはどう思ひます。」

「そりや、見込まれて力になつてくれろと云はれりや、引き受けんわけには行かんやらうなあ。荷が勝ち過ぎるかどうかはやつて見にやわからん。結果は今からあれこれ思うて見る要もない。何もかも經驗ぢや。」彼はきつぱりと云つた。

「ぢやが、伊貝は難物ぢやて。」

そして駒平は、伊貝幸藏の人となり、彼の村に於ける有力な地位について大體の話をした。駿介は心を留めて聞いてゐた。聞き終つて彼は事の解決が、必ずしもた易くはないであらうことを、改めて思ひ知らされたのである。

「だが、何れにしても爭ひにだけはならんやうにせえ。理を説くよりや、情に訴へるこつちや。どこどこまでも下手に出て歎願するんぢや。なんというても小作は弱いもんぢやけに。爭ひになることは、どんな場合にも避けるやうせんならんぞ。」

「しかしそんな人柄の人ならむしろ理詰めで押して行つた方がいいんぢやないかと思ひますがえ……勿論僕は爭ふつもりはありません。また爭ひになるわけはありません、廣岡がああまでおとなしく出てゐるのですから。しかし廣岡は諦めることが出來てもどうも僕の氣はすまないなあ。理を説いて、情に訴へて、それでも聞かれないとなると……。」

「その時は默つて引き下るまでのこつちや。」駒平は低いが非常に強い調子で云つた。「こつちが眞心こめて説いて、願つて、それで聞かれにや仕方ないわ、それきり默るまでのこつちや。それ以上云へば爭ひにならうが。しかしそんな爭ひは要もないこつちや、止めたがええ。」

「ぢやあ、負けになるわけですね。」

「何が負けぢや。」殆ど斷乎として駒平は云つた。「お前はそれを負けと思ふんか? わしはさうは思はん。物の道理は説けば必ず人に聞かれるものとは限りやせん。聞かれる時もありや、聞かれん時もある。聞かれんのはこつちのせゐばかりぢやないぞ。それをどうしてすぐに負けだと云ふんや。そななことにお構ひなく正しい物の道理といふもなアいつだつてあらうが。たとへ今聞かれんからとて、おのれの云ふことがその理に合つとりさへすりや、いつかはきつと聞かれる時が來べき筈のもんぢやらうが。さう思はにや、何も出來やせんぞ。聞き入れられん時にや、默つて引つ込む。用もない爭ひはせん、まだその時は來んのぢやによつて。」

その平凡な信條を、駒平は確信に滿ちて語つた。それは彼の内からの聲として、ほとんど信念にまでなつてゐる響きを傳へたので、駿介はぐつと押された。駒平の言葉とその内容だけなら、老獪な、獨善的な處世哲學とでも何とでも云へるやうなものであつたが、それが六十歳の彼の肉體を通した、おのづからな聲として出て來たので、その場では駿介は反對することは勿論、批評がましいことも云へなかつた。さうしてその限りでは、父の云ふことは正しいのだと思つた。意見が、抽象的に表現され、問題にされてゐる限りでは、正しいとも正しくないとも云へぬ、特定の場合に特定の生きた人間の肉體を通した聲として聞いて、始めてそれが云へる、さういふことがある。駿介は新しい父を見たやうに思つた。

自分はそれでよからう、やるだけのことはやつたのだからと、自分はそれで滿足することは出來よう、しかし當の廣岡はどうなる? 遂に未解決に終つた現實に引き續き向ひ合つて行かなければならない廣岡はどうなる? 彼は諦めてゐるからそれでいいといふのか?

しかし最後に、當然、右の考へが鋭く迫つて來た時に、駿介ははたと當惑した。まだ時が來ないのだからと云つて、すますことの出來るのは自分達であつて廣岡ではない。廣岡の現實は差迫つたものなのだ。

駿介は、自分達が、自身も氣づかないやうな欺瞞(自己と他人と双方に對する)に落ち込まうとしてゐるのではないかとの懼れを感じた。しかしその懼れを父に向つて云ふこともなしに、深く事の重大さを思ひ詰めてゐた。

「顏も知らぬ私がいきなり伊貝に會つたりするよりも、誰か伊貝と懇意な村の有力者に頼んでもらつた方がいいかも知れませんね。どうでせう?」

「うん、さういふ適當な人があればなあ。」

「村長はどうでせう? 岩濱さんには、私は二度ほど會つて――煙草の許可が下りるやうに願ひに行つた時と、その後お禮に行つた時と會つて、たつたそれだけだけれどいろいろ打ち解けて話して、あの人は私には非常に好意を持つてくれてるらしいんです。しきりに遊びに來い、遊びに來いと云つてくれるんです。東京に勉強に行つてる同じ年頃の息子があるせゐでもあらうけれど、……あの人はどうでせう?」

「村長か、……岩濱さんはええ人やけどなあ、田舍には珍らしくものの理解のよう出來た人ぢやが、人間がおだやかに過ぎとる上に、伊貝のこととなるとのう。云ふべきことも云はんとく、といふことがあるんぢや。伊貝との間に、一寸の隙間や縺れが出來ても村會がやり惡うなるけんのう。村會へ出とるもんの大半は伊貝の言葉一つでどうにもなるんぢやけに。――しかし、一應話して見ることはそりやええやらうな。」

――その夜、寢床へ入つてからも、駿介の頭は長い間冴えてゐた。

杉野駿介は社會主義者ではなかつた。學生時代には讀書の世界で學説として一應の知識を得たに止まり、將來の進路がそれによつて動かされるといふまでの大きな影響を、社會主義諸學説からは遂に受けることなくて終つた。それは彼の境遇や、性格や、特に當時の社會状勢に因つた。だから今の彼の行動の世界にまで衝き動かす動機と感情には、ならびにその行動が生み出す結果の見透しには、社會主義的なものはなかつた。何に限らず彼にはまだイズムはないのだつた。

廣岡卯太郎がもたらした話が、駿介の内に惹き起した感情は、あらゆるイズム以前のもの、もしくは以後のものであつた。それは階級的なものでもなかつた。また駿介といふ個人にのみ起り得る何か特別なものでもなかつた。健全な常識と人間的關心を持つ者ならば、誰であらうと同じものをその話から感ずるに違ひないと思はれるものであつた。それは全く一般的な、ただ人間的なものであつた。

廣岡の周圍の人々は、今まで何等怪しむところがなかつたのであらうか? 彼等は常識と人間的關心とを持たぬのであらうか? さうではない。ただ彼等には力が、あるひは意志がなかつたのだ。自分の手に負へないと知ると、見て見ぬふりをして過ぎる。それに人間は慣れ易いものだ。はじめはどう思はうと、やがては、それが當り前の事ででもあるやうに思はせられて行く。

新鮮な、みづみづしさにある今の駿介の心情は、人々がどんなに些細と見る事柄に向つても、純粹な正常な健康な動きを見せる。しかし彼も亦彼の周圍の人達と同じく乾いた心になり、何を見ても聞いても當り前だ、世のならひだと思ふやうにならぬとは限らない。駿介はそれを懼れてゐる。その意味からも見て見ぬふりは出來ない、あるひは内にのみ籠つてはならぬ。そのやうなみづみづしさ、若々しさの保たれる道は、對象への積極的な働きかけのなかにあることを駿介は知つてゐる。

「わしらのところぢやしよつ中青米です。……二升の麥さ三合の米入れて炊くんですわ。」廣岡の訴へは駿介の耳に殘つてゐた。しかしもつと強く彼の想像の眼に浮んで來るのは、草が生えるままに放置されてゐるといふ田圃だつた。物の生産を少しでも増加させることにみんな躍起となつてゐる今日の農村に、そんな土地がたとへ少しでもあらうとは、信ぜられぬことであつた。

ともかく早速明日にでも行つて話して見ようと、からだが温まり、次第に眠くなつて行く頭に人の好ささうな村長の顏を思ひうかべながら、駿介は思ひ續けた。

Chapter 5 of 23
|
광고
읽던 작가의 책을 무료로
다자이 오사무, 아쿠타가와 같은 고전부터 신간까지. 전자책은 바로, 종이책은 집으로 받습니다.
캠페인 둘러보기