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それはたしかに肉體的なものからも來てゐた。冬にはいると窓が北に展いてゐて小さな部屋は晝も暗くて寒かつた。火鉢に粗惡な炭をつぎ、順吉はこもつてゐたが、ぢきにのどや鼻をいため、頭痛になやんだ。咳入るごとに黄色くどろりとした痰が出て單純な風邪とはおもへなかつた。彼は心を引き立てようとし、よく散歩に出、繁華な街を行き、人間のさまざまな營みを見てあるいたが、美しさやいきいきとした喜びは感じられず、醜さと輕蔑したい無意味なものだけが眼についた。飮食し、繁殖する人間の生のいとなみ全體を引つくるめて嫌惡した。彼は場所をかへ、電車にゆられて、遠く河向うの工場地帶までも出かけて行つた。煤煙をうかべて流れる大川のほとりや、鉛いろの空に煙を吐く大煙突の立つ塀の近くなどに立つて時を過した。退け時の工場の門をあふれる勞働者の波にもまじつた。勞働者のあつまる飯屋の片隅の席にかけて、彼等の話に耳を傾けもした。さういふことが一體何になるといふのだ? だが彼はそんなこともして見ずにはゐられなかつたのである。家へ歸つて最後まで手許に殘つたわずかな書物に、深く心をひそめようとした。しかし豫期したものは酬いられなかつた。頭は惡くはない。むしろ冴えてゐる。細かにたたみこんだ論理の筋道を追及することによく堪へ得た。しかしそれは單なる理解にとどまつた。一行々々が冴え返り、ひきつけられたり突きはなされたりするうちに、結局大きな喜びをともなつて心底に消しがたいあとをとどめるといふものではなかつた。なんといふ乾いたこれらの文字どもであることだらう。昔おなじものから受けた感動はどこへ行つたのだらう。
これが五年間の生活が自分にもたらしたもののすべてか? 彼は全體的な衰弱と、生活力の喪失とを感じた。何によらず欲望が旺で、未知なもの新しいものに心を惹かれ、むさぼるやうに讀み、書き、見、ほんとうに生きてゐると感じ、全身が内からの活力に燃えてゐた時代を彼ははるかな昔のやうに感じた。自分はまだ三十の若さではないか。彼はおのれに向つて齒ぎしりした。さういふ彼を一ヶ月後の島田との約束の日が待つてゐる。順吉はそこでほんとうに全身の不安とおそれとにをののいたのである。
生活のために鬪ひ得るものは、彼自身が積極的な生活者でなければならない。人間の欲望を肯定し、人間の生きる姿を美しと見、民衆の生活を深く愛し得るものでなくてはならない。順吉ははじめて今の自分のありのままの姿を見たやうな氣がした。島田に會ふまでの自分は一體何の力で動いてゐたか? 惰性で動いてゐたともいへるし、頭だけで動いてゐたともいへるし、強制された一つの力にひきずられてゐたともいへる。何れにしてもやむことのできぬうちからの力にうながされての動きではなかつた。決着をむやみに急いでゐるのなども、自信のなさのあらはれであつた。それではみじめなことになつて終るのほかはない。
そして彼はすでに過去に於て右の經驗者であつた。古傷を癒さうと焦るの餘り、今またおなじ軌道につかうとする。だが古傷は癒されず、新しい傷を得るだけであらう。
一度おのれの内部に眼を向けるやいなや、彼は假借なくおのれの弱點を摘發した。自分に流れてゐる父祖の血のことを思つた。父と母とから自分が受けついでゐるもののことを思つた。弱點と見られるものもそのもの本來の性質としては弱點でもなんでもなかつた。むしろ美點となり得るものであるかも知れなかつた。ただ、彼が(原文二字缺)の人として立ち現れる瞬間にたちまち否定さるべきものに變るのである。自分でそれと知つて、自分で處理できるものはよかつた、知つてゐながら、自分の意志の遠く彼方にあるものにはだまつて引きずりまはされるのほかはなかつた。
あらゆる自分をひきとめる力に抗して順吉はしかし島田に會ふ日を忘れなかつた。約束の日に約束の場所に行き、決着をつけなかつたならば、それでおしまひだと彼は思つた。このまま進むことで二度と起てないやうな傷を受けるよりも、もつとだめな人間になつてしまふだらう。あの日彼は自分自身に向つて叩きつけた。「それがどうしたつていふんだ。そりやお前のいふ通りさ。お前はやくざな人間だ、理論とか思想とかいふものだつて何一つものになつてやしないんだ、だがそれが一體どうしたつていふんだ? お前がそんな人間でゐながら、しかもそんな道をたどらねばならなかつたといふことはなんでもないことなのか? 一體この國には、言葉のほんとうの意味での知識人、思想の人なんていふものがはたしてゐるのか?(原文八行缺)」
しかしその間にも生活は惡くなつて行き、心は荒み、頭も濁つて行くやうであつた。夜毎に裏街のやうなところをほつつきあるくことが多くなつた。ある夜、彼は遂にかつて足を踏み入れたことのない惡い場所へはじめて足を踏み入れた。必ずしも淫蕩な精神に追ひやられての末ではなかつた。むしろ過去と今後の自分を思つた感傷の末であるといつてよかつた。彼は夜更けて家へ歸つて來た。恐ろしい自己嫌惡につかまれて蒼白になり、口も利けなかつた。彼は布團を引つかぶつて寢た。寢つけなくて幻影を描きつづけてゐたが、やがてとろとろと眠りのなかに落ちこんでしまつた……何時間かして彼は眼をさました。母が枕元に坐つてゐる。
おちかは心配さうに順吉の顏をのぞきこんでゐた。手拭ひでそつと額の汗をぬぐつてくれたところであつた。「どうかおしかえ? たいへん汗をおかきのやうだが。さつきはうなされとつたし。」
順吉はぎよつとして布團を蹴つて起き上つた。
「いや、なんでもないんです、なんだか少し夢を見てたもんだから。」
彼は手拭ひを借りて、脇の下や額の汗をぬぐつた。また横になつたが、ほんとうにわるい夢を見續けてゐる氣持であつた。やがてそのなかからしだいに大きなものになつて迫つて來る一つの像があつた、おちかのそれであつた。
彼はこの時ぐらゐ、母を大きく強く意識したことはなかつた。日々顏を合して暮し、彼は母を考へぬ筈はなかつた。むしろそれは餘りに重々しく彼を壓し、彼は正面から向ふことを避けてゐたのであつた。問題は解決を要求してゐた、彼は臆病からのばしのばししてゐたのだ。最後の土壇場までほつておき、その時が來たとき、「なに、なるようになるさ!」さういつて過ぎることにも彼は慣れてゐた。それで結構、なるやうになる問題もあつた。だが、今彼が當面してゐる問題はそれではすまなかつた。
おちかは八方に氣を兼ねながら生きてゐた。ひつそりと、自分の存在を眼立たぬものにし、その癖この一家内において彼女ほどに忙しく立働いてゐるものはないのだつた。廣い家ぢゆうの朝夕の拭掃除から、臺所から洗濯から、子供の身のまはりの始末から、時には使ひ走りまでやつた。順吉が來てからはとくに息せき切つてゐた。おちかは二人の現在に注がれてゐる世間の眼に射すくめられてゐるばかりではない、一人子の順吉の前でさへ一度は胸で調べて見て、それからいひだすといふふうだつた。昔からおちかはさうであつた。物心ついて以來順吉は日蔭者にも似た母の姿以外のものを見たことがない。子供の順吉の最初の記憶に殘る母の不幸はある日の食卓での出來事だつた。四人の異母兄たちが、ずらりと食卓をかこみ、大急ぎでかつこんでゐた。母は給仕をしてゐた。突然になかの一人が、箸を投げ出して叫んだ。
「おつけに蟲がはいつてゐる!」汁の實にまじつて何かの黒い小さな蟲が煮られ、浮んでゐた。子供たちはみな箸を投げ出し、わざとらしくのどをゲーゲーいはせ、賄征伐の寄宿舍の惡童のやうに卓をたたいてもう飯は食はぬといひ出した。母は青くなつた。騷ぎを聞きつけてまだ寢てゐた父が起きて來て、子供らよりも母を叱りその場はそれでをさまつたが、午後になつて歸つて來た子供らは口々に學校を遲刻したと父に訴へ、父はそんな子供のいふことを取り上げて、母を呼びつけて強く叱つた。母は一言もいはず、物陰で泣いてゐた。子供の順吉も悲しくなつて泣いたが、その小さな心は、父や異母兄たちへの怒りよりも、母への愛と憎しみとで一ぱいだつた。母にたいするふしぎな感情に苦しんだこれが最初の經驗だつた。順吉の中學三年以後は、母子はしばらくはなればなれに暮した。順吉は玄關番となり、おちかは家政婦として働いてゐたのである。時々順吉は訪ねて行つた、おちかは勝手口から上げ、臺所の隣の二疊に通じ、主人からの貰ひもので今日の日のためにしまつておいたらしいその頃はまだ珍らしかつた洋菓子などを取り出して來るのであつた。自分にたいする愛撫の情をあらはすにさへ遠慮がちな、その癖腹ではどんなにか自分の事ばかり思つてゐるか知れない母を見ると、順吉はいらだたしく不機嫌になり、眼の前の菓子を邪慳におしやつていふのであつた。
「おつかさん、僕はこんな薄荷のはいつたお菓子なんぞ嫌ひさ。」
すると母は世にも情けない顏になつた。その姿がまたたまらないみじめさで胸に迫り、順吉は歸らうと立ち上るのだ。おちかはうしろから追ひすがるやうにし、とめるのだが、きかぬと知るとだまつて手に何かを握らせるのだつた。感觸といつもの例で、それが紙にひねつた五十錢玉二つであることを順吉は知つてゐた。それを押し戻し、時にはそこへおとして歸つて來る彼は、うつたへどころのない、泣くに泣かれぬ氣持であつた。
順吉が囹圄にあつて後もやはりさうだつた。おちかはあとにもさきにもただの一度しか彼を訪ねては來なかつた。その折角の一度の折は、情が迫つて言ひたいことも言へずに歸らなければならなかつた。歸つて行く母の後姿を見て、順吉は入所後はじめて涙をながした。涙を見せまいとしてすぐに編笠をかぶつた。彼は昔のやうに不機嫌な怒つたやうな顏をして母に逢つた。この場におよんでさへ、なほもそんな顏を母に見せる自分に順吉は泣きたいものを感じた。互ひの深い愛情が、素直に、あけひろげに抱き合ふことのできない自分たち親子に彼は宿命を感じた。おちかは二度と會ひに來ず、腹では煮えかへる思ひをしながら息子のことは氣にも出さずに暮して來た。
このみじめな老いた母がいま順吉の前に立つてゐる。過去において棄てねばならぬものはためらふことなく投げ棄てて來た。その度毎に一歩前進したとの感を深くした。身につけてゐるものとてはむろん多くはなかつた。しかし世俗的なものの誘惑は多く、そしてまたそれは取らうとすれば取れぬものではなかつた。いはゆる青春の特權に屬するものとも彼は別れた。より眞實の青春を生きんがために。最大の軛である肉親とのわかれは、この前の時には今日ほどのさびしさではその解決を迫りはしなかつた。今はわかれはただの別離ではない。順吉は迷つた。しかし何を今さら迷ふことがあるといふのだ。この問題にたいする彼らの態度を規制する原則といふものは、他の問題におけると同じく直線的な明快さで打ち樹てられてゐる。(原文八行缺)
ある日彼は暮近い銀座の雜沓のなかをあるいてゐた。道路の片隅に老婆がひとり、蜜柑箱樣の箱をおき、その上の臺に三錢五錢の玩具を並べて賣つてゐた。八ツ口に手を入れ空つ風のなかにふるへてゐたが、時々おもひだしたやうに玩具の一つを手に取り、口にあててピーと吹いた。そして行人を見送つた。しかし誰も立ちどまる者はない。恐ろしいものを見るおもひで順吉は老婆をふりかへつて見た。
おちかは彼女の過去についてはほとんど語らなかつた。それだけにまた母の不幸な生涯わけても自分の出生以前の母について順吉は想像し、そこで必ずつき當るのは最初の結婚の破綻だつた。それが何もかもの始まりであると一應は思へたが、さうではなく、その先があつた。元藩士の役人の家に生れながらおちかは眼に一丁字なかつた。女子に文字など何するかと彼女の父はいつた。おちかの弟の一人が學業半ばに死んだとき、父はおちかたち女の子等を前において、此奴ら束になつて死んだ佛に代ればよかつた、といつた。憎惡のこもつた聲の響であつた。おちかの生涯の不幸は、その當時にあつて女に生れたといふ出生の事實のなかに、すでに刻印されてゐた。
自分のゆがめられた青春、母の不幸、日々見聞するあらゆる個人の不幸、すべての社會的矛盾、それらをそれの眞實の原因にまで追ひつめて行つて順吉がつきあたるところはつねに一つだ。諸現象は彼に於てつねに一つのものによつて統一された。現實は複雜である。現實は割り切れぬものと人はいふ。しかしながら仔細に見れば割り切れぬと見える現實は實はおのれ自身の姿をもつて見事に割り切つて見せてゐるのだ。ただ何人にもそれが見えるといふわけにはいかぬ。現象の本質的でない意味をあれこれと誇張しはやし立て單純なものまで複雜にし、道に迷つてかへつて喜んでゐる一派を、今日の産物としてあらゆる方面に順吉は見出さねばならなかつた。横行してゐるものはそれでなければ、土足で踏みにじるやうなやり方で現實を割り切つて見せてゐる一つの勢力だつた。――母の不幸の眞の原因を思ひ、それの除去の道を思へば思ふほど、新しい社會への翅望は、順吉の胸に燃えるのだつた。眞實に母を愛する道にこそ向へ。百萬のおちかとおなじみじめな母の歡喜の日に向つて歩きつづけよ。