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Before the Dawn 01: Part One, Upper Volume
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Before the Dawn 01: Part One, Upper Volume
島崎藤村
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Chapter 7 of 37

二

「また、黒船ですぞ。」

七月の二十六日には、江戸からの御隠使が十二代将軍徳川家慶の薨去を伝えた。道中奉行から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。

「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使が見えてから、まだ三日にしかならない。」

と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。

「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」

と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場では継立てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色なめしの鎗を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野筑後の一行を迎えた。

ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差なぞをそこへ取り出して来て勧めた。

「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」

と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。

諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠の近く挨拶に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、

「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」

と声をかけた。

「おゝ、馬籠の本陣か。」

奉行の砕けた挨拶だ。

水野筑後は二千石の知行ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。

街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。

子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈の燈火もついた。

一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。

「半蔵は。」

と吉左衛門はおまんにたずねた。

「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外へ出て行きましたよ。」

「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」

山家らしい風呂と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月朔日は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方、牛方、人足の世話から、道路の修繕、助郷の掛合まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。

吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温めて出した一本の銚子と、到来物の鮎の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。

「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野筑後の守――あの人は二千石の知行取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」

「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」

「こういう時世になって来たのかなあ。」

寛ぎの間と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲の間につづいている。吉左衛門が自分の部屋として臥起きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、

「しかし、御苦労、御苦労。」

と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、

「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」

「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」

おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、

「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」

そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。

馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。

遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱が半蔵を苦しめたことを想って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。

この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。

「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」

「十七さ。」

その時、金兵衛は指を折って数えて見て、

「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」

よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。

「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」

「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」

「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」

半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆さんもある。おふきは乳母として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。

おふきはまた、今の本陣の「姉さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。

「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母様をよく覚えている。お袖さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩って亡くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母さまの枕もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸を病まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母さまが今まで達者でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」

半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉と里芋の子で造る芋焼餅なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。

山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐や狸、その他種々な迷信はあたりに暗く跋扈していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松が桝田屋の子息などと連れだって通って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。

山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州上田の人で児玉政雄という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経』の句読を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚のような禅僧もあったが、教えて倦まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書』の集註を読み、十五歳には『易書』や『春秋』の類にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那の小野村の小野甫邦に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚釣りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷香蔵と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。

「自分は独学で、そして固陋だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」

と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。

黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。

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