一
霞ガ浦といえば、みなさんはごぞんじでしょうね。茨城県の南の方にある、周囲百四十四キロほどの湖で、日本第二の広さをもったものであります。
日本第一の近江のびわ湖は、そのぐるりがほとんど山ですが、霞ガ浦は関東平野のまんなかにあるので、山らしい山は、七、八里はなれた北の方に筑波山が紫の色を見せているだけで、あとはどこを見まわしても、なだらかな丘がほんのり、うす紫に見えているばかりであります。
ですから、この湖の景色は、平凡といえば平凡ですが、びわ湖のように、夏、ぐるりの山の上に夕立雲がわいたり、冬、銀色の雪が光ったりすると、少しすごいような景色になるのとはちがって、春夏秋冬、いつもおだやかな感じにつつまれています。びわ湖を、厳格なおとうさんとすれば、霞ガ浦は、やさしいおかあさんのようだともいえるでしょう。この湖の周囲には、土浦、石岡、潮来、江戸崎などという町々のほかに、たくさんの百姓村が、一里おき二里おきにならんでいます。大むかし、人間は波のおだやかな海岸とか、川の岸とか、湖のまわりなどに一番さきすんだものですから、このおかあさんのようなやさしい霞ガ浦のまわりには、もちろんずっと大むかしから人がすんでいたのです。いまでも、方々から貝塚がほりだされたり、矢の根石やいろんな石器が発見されたりするのでも、それがわかります。
それで、百姓村でもずいぶんふるい歴史をもった村があり、何十代つづいたかわからないような百姓家が、方々に残っているわけです。
林太郎の村も、このふるい歴史をもった村のひとつでした。湖の南の岸の丘の上にあって、戸数は五十戸ばかりでした。また林太郎の家も何十代つづいたかわからないという旧家で、村の一番北のはずれに、霞ガ浦を見下して、大きなわら屋根をかぶっていました。
しかし、旧家というのは名ばかりで、いまでは、屋敷まわりの大きな杉林はきりはらわれ、米倉はとりこわされ、馬もいないうまやと、屋根に草がぼうぼうにはえた納屋があるきりの、貧乏な百姓となっていました。同じ村の百姓も年々貧乏になっていきましたが、林太郎の家は村一番の旧家であるうえに、むかしは「名主」というのをつとめ、十年前ごろまでは村の、「総代」というのをやっていただけ、その貧乏がひじょうにめだつのでした。
林太郎のおじいさんは、それを年中苦にしていて、
「せめて子どもでも大ぜいいたら、にぎやかでいいのだが、林太郎ひとりきりだから、よけいに家の中がめいるばかりだ。」
といっていました。林太郎はことし十一才で、小学校の五年生になっていましたが、弟も妹もなく、まったくの一粒っ子なのでした。あとは、おとうさんとおかあさんとおじいさんの三人きりでしたから、がらんとした広い暗い家の中にいると、人はどこにいるかわからないほどで、まったく陰気だったのです。