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飢餓地帯を歩く ――東北農村惨状報告書――
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飢餓地帯を歩く ――東北農村惨状報告書――
下村千秋
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Chapter 3 of 3

三

「西部戦線異状なし」の中に、地上で戦争をする兵士に取っては、大地は、地べたは、土は、母の懐である。大地のみが守護してくれる。その大地の有り難さを知るものは、戦場に於ける兵士以外の者には全く解らないものだ、という意味のことが書いてあるが、百姓達に言わすれば、百姓達に取っても、大地は、土は、母の懐であるのだ。一切であるのだ。土の有り難さを知るものは、百姓以外の者には全く解らないものだ。

その大地が、その土が、今年は、一切の食物を実らせなかったのである。母の懐は、死人の懐と化してしまったのである。その最大の原因は、五月の稲の植付時から、九月の稲の実る節まで、僅か数日を除いた他の百数十日は、只の一日も平年の温度には達しなかったためであった。「ばかりか、八月九月には、二度までも、非常な厳寒と降雹とに見舞われた。水稲も、畑の作物も、僅かにその茎を育てたきり、ついに満足な実を入れる暇がなかったのであった。そうして十月が来れば、いやでもこの地方には冬が来る。十一月となれば雪が降り出す。昨年の豊年飢饉のために、さなきだに、この社会を恨み嘆いていた百姓達は、この年の飢饉襲来に依って、完全に自暴自棄の絶望状態に陥し込まれてしまったのである。彼等は、宿命論者となって、大自然の無情を儚むと同時に、一方では、被圧迫者の立場から、現在の都会中心制度、都会商工業制度から来る搾取階級の無法を恨み呪うようになってしまった。

だが、斯く考える力を持ち、それを実行に現わそうとする意志を持つ農村の若き人々に対しては、私達は、或る未来と希望とを期待することが出来るが、それをすら持つことの出来ない、純朴な老人、母親などを見るとき、私は、只、暗涙を流すより外はなかったのである。

私は、七戸町のめし屋を出ると、案内の青年の後についてこの附近の最凶作地の浦野館村へ向って歩き出した。まだ午后二時頃であったが、空一面に墨色の雲が蔽いひろがって、夕暮のように暗い。しかも田圃の中の道路は、馬車と乗合自動車とにこね上げられて、雪と泥との河である。七割の納税不能者を持つというこの村では、道路の修繕費など、一文も出ないので、この通りの泥道であるというのだ。

私はここの泥道で、七戸町へ買いものに行って来たという一人の百姓の母親と道づれになった。母親は、二つぐらいの子供を、かくまきで包み背負い、手には、買いものの風呂敷包みを持っていた。そうしてその足には、大きな藁靴をはいていた。それはまるで、竹串へ八ツ頭芋を差したようであった。泥にまみれたまま、わら屑が、雀の巣のようにほうけ出し、藁靴というよりは只のわら屑を足のまわりに纏りつけたという風であった。長野県でも、新潟県でも、雪靴というのを見たが、それはもっと手際よく作ってあったのと思い比べて見て、私は、この地方の百姓達の無器用さ、というよりは、こんな藁靴にも非常に幼稚な原始性を発見して驚いたのである。背中の子供の手には、赤い風船が一つ、竹棒の先にふわふわしていた。私はこれを見てまた思わずほろりとした気持ちになった。で、私は、言葉をかけたのである。

「ずいぶん寒いですね」

事実、私の短靴の中の足も雪水に濡れて、ちぎれそうだったのだ。

「へえ……」と、母親は答えて、どこまで行くのか、と方言で訊いた。

「浦野館まで行くつもりです」と私が答えると、浦野館に、親類でもあるのかという。無い、と答えると、それじゃ、宿屋はなし、どこへ泊るつもりかと訊き返すので、私は、「百姓家へ泊らして貰うつもりです」と答えて見た。すると、その母親は、かぼちゃのめしで、囲炉裏端へごろ寝してもいいのなら、わたしの家へ泊るがいい、と言ってくれた。私は、喜んで答えた。

「それで結構です。是非泊めていただきます」

そこで私は、そこまで私のカバンを持ちながら道案内して来てくれた三本木の青年に帰って貰うことにした。そのお礼として五十銭銀貨二つを出すと、その一つだけを取り、あとはどうしても取らない。ここにもこの地方人の純朴さが現われていた。私は、二つの銀貨を渡すために、長い間、泥道の中に彳まなければならなかった。

さて、その青年と別れると、私は、子供をおぶった母親の後について、その日の暮れ方、どろどろの足を、その家の土間へ踏み入れたのであった。この家の周囲には、雪に蔽われた田圃と畑とが、荒寥としてひろがっていた。その庭には、藁塚が四つ五つ、円い塔を作って居り、家の周囲には、雪除けの藁の垣が張りめぐらされていた。軒の下には、一尺あまりの氷柱がずらりと寒い色にぶら下り、またその下には、めしの中へ入れて食べるための大根の葉、もろこしの穂などが繩にしばられ、幾重にも釣り下げられてあった。

家の中は、料金不払いで電燈も消されたとかで、炉の焚火で僅かに照らしている。炉端の一方には真黒な屏風が立てられ、そこに子供の着物やおしめがじっとりと掛けられていた。そうして、その屏風のうしろには、一枚の障子もなくて、ふだんの居間であり、めしを食う所であり、また寝る場所でもあった。そうしてまた、これと向い合った板仕切りの向う側は厩であった。それは、中に六尺巾の土間を挟むだけで、彼等が寝たりめしを食ったりする所と、九尺とは離れていないのであった。しかもその板仕切りは、隙間だらけなので、黒い馬の姿の輪廓がはっきりと見えていた。

この地方の百姓達には、馬もまた家族の一員である。だからこそ、南部馬の名に依って知られている良馬が出るのであろうが、これほどまで人と馬とが近々と寝起きしているとは、私はそれまで知らなかったのである。

蚤虱馬の尿する枕もと

これは、芭蕉の「奥の細道」の中の一句であるが、私はこの夜、この炉端にごろ寝しながら、この句を思い出し、この地方の百姓の生活ぶりは、元禄の芭蕉の時代も、昭和の吾々の時代も、少しも変っていないのだ、と思わずにはいられなかったのである。

さて、その炉端には、当家の主人が、ぼんやりと焚火を見詰めていた。いつ剃りを当てたのか解らない髯面の中に、目だけを白く光らしている。しかし主人は、私を連れて来たわけを主婦から訊くと、その白い目を細めてこころよく迎えてくれたのである。

私は泥靴を脱いで、炉の火に氷のような足をかざした。炉にかけた鍋の中には、何かぐずぐず煮えている。それは、めしの時に食べたが、くだけ米に、かぼちゃのうらなりを混ぜたものであった。うらなり南瓜は、平年には、田圃へ棄ててしもうものである。ぐしゃぐしゃで、味もそっけもないものであった。

主人は、方言を出来るだけ標準語に直しながら、ぼつりぼつりと話し出した。話すことは勿論暗いことばかりであった。同じ村内に、たった六銭の金がないばかりで、満洲へ出征している息子からの手紙を見損ったという老父のあることも話した。

「切手の不足税六銭が払えないばかりに手紙は元へかえされちまったのだそうです。それで、親爺さんは、涙を流しながら言ってだです。どっちりと重い手紙でした。いろんなことが書いてあったに違えねえだ。わしはそれを手に取って、よくさわって見て、伜の心持ちを読み取ったです、と言ってやした。ほんとの話かどうか、何んでも満洲の兵隊は、一人について、歯ブラシが二十本も渡ったり、キャラメルが十ずつも配られたりするちゅうが、こちらの国の家では、六銭の金にも不自由している始末ですからな」

これに似た哀話が、中郡和徳村のある出征軍人の家族にもあった。それは、その軍人の妹が病死したが、葬式を出す金がまるで無いばかりか、それを満洲の兄へ知らせる手紙を送ることも出来なかった。満洲の兄は、このことを、ある新聞の記事に依って知り、一人声を忍ばせて泣いていた。それが、隊長の目に止り、二十円の葬式費を隊の名で送り届けて来たので、やっと葬式を済すことが出来たというのであった。

めし時になると、主人はまたこう言った。「まだこれでも、もみ殻を取ったくだけ米ですから、どうやら咽喉が通るが、そのうちに、くだけ米も無くなるので、こんどは、もみ殻の着いたままを、かぼちゃやじゃが芋に混ぜて食べるのです。これは平年には、馬が喰うものだが、今年は、わし達が馬になるです」

ところで、このような食物で、幾月となく生きつないで行くうちに、栄養不良から、先ず子供の健康が害されることは明らかであった。これは、この数日後に、青森県庁の農務課長の口から聞いたことであるが、現に凶作地の小学校生徒の健康は甚だしく害されつつあることが、県の巡廻医師に依って発見されたということであった。で、食糧の最も欠乏する三月四月に入って、尚も現状のまま放置しとくならば、栄養不良に依る子供の死亡率が激増するのではないか、ということであった。

夕めしが済むと、灯はなし、もう寝るより外はなかった、主人と主婦と子供とは、炉端の屏風のかげに、ぼろ布を重ね縫ったような布団にくるまって寝た、私は、一枚のかけ布団をかけ、それへかしわにくるまって寝た。私は、寝ながら訊いて見た。

「こちらでは、お子さんは一人ですか?」

すると、主婦が、

「なアに、もう一人、今年十七になるのがあるのです」と答えた。

その娘は、今、どこにいるか、私はそれを訊いて見たかったが、ここではもうそれを訊くのが余りに残酷に思われて来た。で、黙っていると主人が、溜息をつくようにして言った。

「その娘は、今、東京の方へ行ってます。この村からは、紡績へ出る娘がずいぶん多いですが、わしの娘は、五年の年期で、売り飛ばしてしまったです」

これには私は合槌も打てなかった。

僅か二三円の手附金で、一人の娘が売られて行くと、東京の新聞にはあったが、それは新聞のよたであった。いかに純朴な百姓といえども、それほど愚かではない。しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一人の娘が、或いは私娼に、或いは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。私はその実例を、蟹田村の近くのある部落で見たのである。

そこは、青森市から、乗合自動車で三時間ほど、陸奥湾を右に見ながら、泥と雪の道を走らねばならなかった。このあたりも、殆んど無収穫の地であった。しかし、百姓達の多くは、一方では漁夫でもあったので、いわし、たらの漁をして、今のところどうやら生きつづけているというのであった。が、それも一月一杯で、二月以後は、当分無漁となる。しかも、今までは年々、北海道から何百人とまとめて、漁夫を刈り出しに来たが、今年はてんで来ないという。ここでも、二月以後の生活は全く絶望であるというのである。

私は暗い思いで、揺られていた。それは一月二日の午後で、一旦止んだ雪が、またさんさんと降り出して来た。降り出すと、海面は、一面の灰色に鎖され、行く手の道も、半丁先は見えないほどであった。

「ひょっとしたら、吹雪になるだ」と、私の隣りの男が言っていたが、果して、六里ほど進んだところで、雪は、渦を巻いて走り飛び出した。と、私のうしろに坐っていた老人が言った。

「飢饉の上に、三日も吹雪いたら、この辺の百姓は、干死んでしまうだ。天明年間の飢饉年には、三万人からの人が干死んで、生き残った者共は、人間の肉、そいつも十七八の娘の肉がうまいというで、それが干死ぬのを待って食ったという話だが、うっかりすると、今年もそんなことになるだ。明治三十五年と、大正二年の飢饉はわしもよく知ってるだが、どっちも今年ほどじゃなかった。今年のような飢饉が来るというのも、いよいよ世が末になった証拠だ」

「だからさ、どうせ干死ぬなら、せめて一度でも、米のめしをげんなりするほど喰って見てえと思ってるだ」

「一度でも喰えりゃまだいいだ。岩手の山奥じゃ、茶碗一ぱいの米のめしを、家から家へ持ち廻して、目で見るだけで喜んでるちゅうだ。それほどだから、病人が出来ると、枕元へその米のめしを置いとけば、病気が直るとせえ言ってるちゅうだ。米を作る百姓が、米のめしを拝むことしか出来ねえとは、全く嘘のような話だよ」

自動車は吹雪をついて走っている、人々はそれで黙ったが、この時、うしろの方で、パンという音がした。

「畜生奴、とうとうパンクしちめえやがった」

運転手は、パンクを予期してたもののようにそう言って、車を止めた。宿屋のある蟹田村まではまだ一里半ほどある。この吹雪の中を歩いて行ける筈はなし、車の中のものは、私を合せて四人、道路に面した或る百姓家の中へ避難したのであった。

家の中の暗さ惨めさは、浦野館村の百姓家と変りがなかった。私達は、上り框の炉端へ、足を踏み入れて火にあたった。

しばらくすると、風が少し静まった。二人の男は、五六丁先が自分の家だからと言って、穏やかになりかけた吹雪の中を出て行った。残ったのは、私と、五十歳ほどの老婆である。その老婆は、蟹田村から更らに一里近く山手に入った小国村のものであった。私はこの老婆と、その一夜を炉端で明したのだが、老婆は、私を相手にさまざまの身の上話をした末に、

「実は今日は、娘を、青森市のごけ屋(私娼の家)へ置いて来たのです」という意味を、方言で話し出たのであった。

何故娘をそんな所へ置いて来たか、それを今更ら尋ねる必要はない。私はまたも暗い思いで黙っていると、老婆は、一人言のようにぼそぼそと、こんな意味のことも言った。

「わしの村は、稲田一反歩から二斗ばかしか取れなかった。それで、みんな外米を買って喰べているが、それを買うには金が先だ。その金を取るには、炭を焼くしかないが、その炭を焼くには炭材を買わねばならぬ。というのは、青森県下の山林の七割までは官有林で、一俵の炭を焼くにも、その官有林の木を現金で払い下げねばならぬ、という始末で、わしらの村の百姓達も、今、ほとほと途方に暮れている……」

この老婆は、見かけに依らず、青森県下の山林の七割までは官有林だということを知って居り、それに対して一つの意見を持っていたのであった。

また老婆は、こういう意味のことも言った。「この辺の百姓はまだ布団というものに寝られるので結構だ、これから西の方の、北津軽郡の車力村、稲垣村、西津軽郡の相内、内潟、武田の村々の百姓達は、布団と名のつくものは一枚も持っていない。みんなワラの中へ寝るのだ。一番下に稲のワラを敷き、その上に、ネシキというむしろのように織った菅を敷き、百姓達はその上にじかに寝る。そして、上には十三潟から取れる水藻で作ったネゴ(やっぱりむしろのように織ったもの)を掛けるのだ。割に暖かいが、がさごそと、いや全く、綿布団とは大変な違いだ」

私は、岩手の山間の百姓達の生活が、生蕃人ほどの原始的であることに驚いたのであったが、青森の百姓達も、これほどなのかと、再び驚かずにはいられなかった。その前日、やっぱりワラの中に寝る百姓達の話をした男が、

「飢饉は飢饉として救わねばならぬが、同時に、この機会に、岩手、青森の百姓達の生活が、この年まで、いかに原始的な惨めな生活に虐げられて来ているかを暴露して、都会の消費生活者の目を覚してやらねばならぬ。昭和の御代に、粟や稗を常食とし、ワラの中に寝起きしている日本人がいるのだ、という事実を、為政当局者の眼前へさらけ出して見せねばならぬ!」と、叫んだのであったが、私も、この老婆の話を聞きながらも、全くそうだと思わずにはいられなかった。

老婆は今迄の話の結論のようにして、こういう意味を言ったのである。「さっきの話ではないが、人の肉を喰ったのは昔の人ばかりではない。わし達も、つまりは人間を喰い合っている。子供を生かそうとすれば、親の肉を喰わせねばならぬし、親を生かそうとすれば子供の肉を喰わねばならぬ。そして、わしは今、娘を喰って生きようとしている」

私は、思わず老婆の顔を見詰めた。この老婆は、娘を売って来た小金を持っているらしく、それを頻りと気にした。そして、傍にいる私をまで、時々警戒するような素振を見せるには、私も少しばかり参った。

さて、その翌日の夜、私は、この老婆の娘を訪ねるために青森市の私娼窟へ入って行ったのであった。粉雪が降っては止み、降っては止んでいた。そして、往来には、雪と氷とがカンカンに凍っていて、私は幾度か、辷り倒れそうになった。そこは、海岸に近い所で、陸奥湾から吹きつけて来る寒風が、寒い往来の夜の空気を、引き裂くように吹き抜けていた。私は、この三日前、浅虫温泉の近くの凶作地、小湊村を歩いている時も、雪と風とに、からだ中が凍りつくような目に会ったが、しかし、それもこれほどではなかった。私娼窟――暗黒街へ、その女を訪ねて行くという気持ちも大分私の心を寒くしたせいもあったではあろうが。

私娼窟は、窟の名にふさわしくはない、広いガランとした往来の両側に、うす暗く並んでいた。大ていは一戸一戸に別れた二階建で、私娼の家としては大き過ぎたが、それだけに、うらぶれた感じが漂っていた。多くは、三人か四人の女を置き、それが、入口の小座敷の中にいて、前をうろつく男達を呼び込んでいた。いけすかないが、えけしかないと発音するので、場所が場所だけ、ちょっとおかしかった。

ところで、彼女の家はすぐ解った。入口に四人の女が立っていた。私は、彼女の本名を言って、その中から彼女を見出すと、すぐ二階へ上った。部屋は、日本中のどの私娼窟の部屋にも共通した恐ろしく荒れすさんだ部屋であった。彼女は、はじめ、私をひどく警戒したが、私が彼女の母親に会ったことを話すと、それから急に打ち解けた。

しかし、百姓村にのみ育った女だけ、その容子は――紅や白粉をこてこてと塗りつけているだけ、むしろ滑稽なほど奇怪な感じであった。

「いつ、ここへ来たの?」「もう十日ばかりになる」

「いつから店へ出ているの?」「三日前から」

そんな会話から、彼女は、彼女の母親も話さなかったことを話し出した。それは彼女の父親に関することであった。

彼女の父親は、村と、青森市とを往復して相当手広い商売をしていた。雑貨の卸し商であった。が、年々の不景気で、にっちもさっちも動きがつかなくなっている所へ、今年の凶作と、つづいて、銀行の支払停止とに出会った。(今、青森県下の銀行の殆んどは、支払停止である)で金の融通が全く利かなくなり、同時に商売はぱったりと行き詰ってしまった。父親は最早半分絶望状態になった。そして、各方面の不義理はそのままにして、単身、青森市へ飛び出してしまった。

父親は、埠頭の仲仕となった。しかし、さなきだに頼み人がない所へ、見ず知らずの父親が入り込んでも、まるで仕事にありつけなかった。父親は毎日、雪風に吹かれながら、埠頭の倉庫のかげで、弁当を食うだけのことしかしなかった。そうして、やがてその弁当も持って行けない日が来た。或る日である。父親は、空腹のあまり、仲間の弁当を盗んで喰った。それがすぐ発見され、父親は、仲間のものから袋叩きにされた。そして足腰も立てぬまでに負傷した。

父親は、木賃宿の一室に、一人棄てられたように寝ていた。

「それから四日目か五日目に、お父つァんは死んだの。怪我のために死んだのか、干死んでしまったのか、それはだれも知らない……」

娘は、最後に、津軽弁でこう言ったのである。

私は、これで筆を擱こう。餓死線上にうめいている人々をさんざん書いた後に、こんな話を持ち出すのは、読者も堪らないだろうし、書く私は尚更堪らないから。

青森県庁では、いま、あらゆる努力と方法とで、救済方法を講じている。現に、去年の暮には、県会議員三十三名が、全部お揃いで上京し救済金の借り出しに奔走したとかである。その救済方法は、先ず、破産しかけている県下の銀行を救済し、そして、それに依って融資の道を開き県下の商工業者を救済し、そうして後、飢饉地帯の百姓達を救済するのだと私は聞いた。いや、そうじゃない。直接百姓達へ、金も融通するし、食糧も給与するのだ、とも聞いた。

夜道には日が暮れないそうだが、凶作地帯の暗黒は、只の暗黒ではないのだ。ということは、県当局者も充分御存じで、その一人は現にこう言ったのである。

「もしこの青森県下に、只一人でも、餓死者を出したなら、それこそ聖代の恥辱である。われわれは絶対に、聖代を恥辱せしめてはならぬ!」

私は、県下の百姓達と共に、この言葉に非常な信頼と期待を掛けよう。

(尚、秋田県北海道の惨状も記す筈であったが、紙面の都合で割愛する。其惨状は以上に依て推察して戴きたい)一九三二年一月十日(昭和七年二月)

●図書カード

Chapter 3 of 3
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