돌아가기
死児変相
Table of Contents
死児変相
神西清
Reading Settings
글꼴 크기
18px
테마
라이트
다크
세피아
눈 보호
줄 간격
읽기 모드
번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 7 of 8

7

さうかうするうちに病院の実習期も終つて、千恵はまたG博士のお宅で起居することになりました。Hさんにはその後かけちがつて聖アグネス病院ではたうとう会はずじまひでした……。

………………………………………

さうです、母さま、いつそ本当に会はずじまひになつた方が、どれほどよかつたか知れないと思ひます。さうなれば千恵は、しぜん姉さまの消息からも遠のいて、やがて運命の波がふたたびめぐり会ふこともないくらゐ、遠く二人を隔ててくれたかも知れないのです。千恵もじつは内々それを願つてゐました。だのに結局きのふといふ日が来てしまつたのです。

きのふは朝からびしよびしよ降りの雨でした。おまけに季節はづれの生温い風がふいて、窓ガラスがすつかり曇つてしまふほどでした。お午近くになつて突然、G博士は何か急な用事を思ひだしたと見え、分厚な封書を千恵に渡すと、すぐ神田O町のある外科病院へ行つて、院長さんの返事をもらつてくるやうに言ひつけました。雨降りの日によくある電話の故障で、あらかじめ院長の在否を確かめることはできませんでしたが、まあ大抵はおいでだらうと高をくくつて行つたところ、あいにく院長は埼玉県とかの患者の招きで朝おそく出かけてお留守、帰りは早くて五時にはなるだらうとのことでした。G病院との電話の連絡は相変らずつかず、よつぽど出直さうかと思ひましたが、行つたり来たりするうちには三時間ぐらゐすぐ経つてしまふ、それに院長のお帰りだつて案外早いことがないとも限らないと思ひ返し、千恵は畳じきの狭い待合室の片隅でとにかく待つてみることにしました。外科の待合室なんてあんまり気味のいいものではありません。もつとも悪性の伝染病の心配だけはまづ無いはずですけれど、頁のまくれあがつた手垢だらけの娯楽雑誌なんか、手にとるより先に虫酸が走ります。こんなことなら文庫本でも持つて出るのだつたと後悔しても今さら追ひつきません。仕方なしに長椅子の一ばん隅つこに小さくなつて、居眠りの真似でもしようとしたのですが、どうしたものか妙に患者が立てこんで、ざわつく人々の出はいりに眼をねむつてばかりもゐられません。そのうちに、仮はうたいの上へどす黒い血がにじんでゐるやうな患者も、いやでも二人三人と目につきます。そんなことで二三十分もたつたでせうか。千恵は例のHさんに声をかけられてしまつたのです。

奇遇でした。いいえ、むしろ悪運といつた方がいいかも知れません。Hさんはちよつとした破傷風で二三日前から休暇をとり、その病院へ通つてゐるのだといふ話でした。今しがた繃帯を更へてもらつたところださうで、なるほど左の指が三本ほど一緒に真新らしい繃帯でゆはへてありました。

Hさんもこの奇遇には驚いたと見えます。暫く話してゐるうちに、千恵が時間を持てあましてゐることを知ると、そのまにN会堂の中を案内してあげようと熱心に言ひはじめました。なるほどN会堂はすぐ近所なのでした。「それに、あんたにちよいと見せたいものもあるのよ」とHさんは言ひました。このあんたにといふ言葉は、まるで雷のやうに千恵の耳を打ちました。……

「なぜですの? どうしてわたしにですの?」と、千恵は思はず言ひ返さうと身構へましたが、ふと思ひついてやめました。それは千恵の弱身からくる思ひすごしでした。Hさんは結局のところ好人物なのです。またもや怪談で千恵をおどかして、退屈しのぎをしようとしてゐるだけのことです。ほんとを言へば、千恵は手頃の案内人の見つかつたことが、むしろ嬉しかつたのかも知れません。

外へ出ると、かなりの吹き降りになつてゐました。それが刻一刻とはげしくなるばかりで、やがてO町の交叉点からN会堂の方へのぼるだだつ広い鋪装道路にかかつた頃には、コウモリもまともには差してゐられないほどになりました。どうやら風向きも変つたらしく、北の空めがけてどす黒い鉛いろの雲が、ひしめき上つてゆくのが見えました。そんな空を背景に、もうついそこに黒々と姿をあらはしてゐるN堂のドオムは、まるでゆらゆら揺れてゐるやうに見えました。千恵はさつきのHさんの言葉を思ひ出しました。「見せたいものもある」なんて、一体なんのことなんだらう。……今度はさつきとは違つて、この変にぼやかした尻つ尾の方が気になりました。「なあに、どうせHさんのことだ。ひよつとするとどこか柱のかげあたりに、例の血あぶらの染みか何かがこびりついてゐでもして、それを千恵に自慢さうに見せてくれるぐらゐなところなのだらう。よし、今日はうんと平気なふりをしてやらう」……そんな妙なことを千恵は考へました。そのくせ胸の中はだんだん不安になつて行きました。

やがてHさんは見知らぬ横町へ折れました。するとすぐ会堂の裏門がありました。それまでもう何べんか会堂の構内をふらつき廻つてゐたくせに、千恵はそんなところに裏門のあることはつい知らずにゐました。白い門柱のあひだを通ると、そこはちよつとした谷間みたいな感じの一廓でした。両側には住宅風の小さな二階家が立ちならび、正面は幅のひろい切り立つやうな石の段々でした。その段々の上はすぐN堂の灰色のずしりと重たい胴体でした。もう大円蓋は目に入らず、ただその寒ざむとした胴の灰色の壁だけが、のしかかるやうに聳えてゐるのでした。その谷間は風の吹きだまりになつてゐるらしく、雨に叩き落された柏や何かの大きな枯葉が、ところどころべつたり敷石に貼りついてゐて、千恵は何べんも足を滑らせさうになりましたが(ほら、母さまもご存じのあの古いゴムの編上靴をはいてゐたのです――)やがて石段を登りかけようとして、二人は思はずあッと声を立ててしまひました。それは石段ではなくて滝だつたのです。

ふしぎな光景でした。水はものの四五間もありさうな石段の幅ぜんたいにひろがつて、音もなくゆつくり流れ落ちてゐるのでした。風が本堂の両側からこの谷間へ吹きおろすたびに、一段々々きれいなさざ波を立ててしぶくのでしたが、そのため水は片側に吹き落されるでもありませんでした。相変らずゆつくり一段ごとに流れおりてくるのです。その水は階段のすぐ足もとにかなりの大きさの水溜りを作つて、それから左右に分れて土の上を流れるのでしたが、そこはもう奔流といつてもいいくらゐの勢ひでした。さすがのHさんもこんな光景は初めてだと見えて、暫く呆れたやうに立ちすくんでゐましたが、やがて何か冗談めいたことを言ふと、水溜りをぼちやぼちや渡つて、石段をのぼりだしました。千恵もそれに従ひました。

もちろん足をさらはれるほどの水勢ではありません。ただちよつと気味が悪いだけのことです。水はあとからあとから流れ落ちて来ます。それはちやうど、本堂の裾から垂れてゐる経帷子の裾を踏んで行くやうな気持だつたと言つたら、母さまはお笑ひになるでせうか。でも千恵は冗談どころではありませんでした。どうしたわけか胸が早鐘をうつてゐました。もつともそれは、ほとんど絶え間なしに本堂のあたりから吹きおろしてくる風に傘をうばはれまいとする、その努力のせゐも手伝つてゐたかも知れません。

それでも十段ほど登つて、そこで一休みし、また暫く登りつめたころ、横なぐりに吹きつけた風に傘をながされて、千恵の頭のうへが空つぽになりました。それで黒つぽい雨具をつけた婦人が二人、上からおりてくるのに気がつきました。「おや、あんなところに人が!」とは思ひましたが、まさかそれが姉さまとFさんだらうとは、その瞬間おもひもかけなかつたのです。あちらも用心しいしい悠くり下りてくるのですから、すれ違ふまでにはだいぶ時間がかかつたのです。距離がやがて二三段にまで縮まつて、二人のレーンコートの黒い裾が目にはいりだした時、また千恵の傘がぐいと横にかしいで、思はず千恵は姉さまの顔を下から見上げてしまつたのです。その刹那、眼と眼がぶつかつたやうな気がしました。ひやりとして、あわてて眼をそらしましたが、もうその時は傘がひとりでに立ち直つて、姉さまの上半身は隠れてしまつてゐました。その足もとが何かためらふやうに、ほんの二三秒動かなかつたのを、千恵は覚えてをります。その二三秒のあひだに、とても永い永い時間が流れたやうな気がいたします。ひよつとするとそれは、実際かなり長い時間だつたのかも知れません。やがて二人はそろそろと千恵の横をおりて行きました。二人とも傘はささずに手に持ち、Fさんが片つ方の腕を姉さまの背中へ軽く廻してゐました。

気がつくとHさんが五六段うへに立つて、千恵を見て笑つてゐました。片眼をつぶつて、舌でも出したさうな笑ひ顔でした。「ほらね、やつぱり私の言つた通りでしよ?」と、その顔には書いてありました。千恵はさも平気さうなふりをしてHさんに追ひつき、かうして「姉さま!」と呼びかける機会は千恵にとつて永遠に失はれてしまつたのです。

やがてHさんと千恵は、石段をのぼりきつたすぐ横手にある小さな潜り戸から、本堂へはいりました。閂に錠がかけてなく、引くとすぐ開いたのに、Hさんはちよつと小首をかしげたやうな様子でした。……

………………………………………

母さま、千恵はかうしてかねがね一目みたいと心にかけてゐたあの本堂の中へはいつたわけなのですが、思ひ構へてゐたやうな大層なことは、何一つそこにはありませんでした。千恵は何かしら姉さまの秘密をとく鍵のやうなものがあすこに隠れてゐるやうな気がして、その幻の鍵がしだいにふくれあがつて来て、一頃はどうにも始末がならなかつたものでしたが、いざこの眼で見てみれば、秘密も謎も鍵も、そんなものは初めから何もありはしなかつたのです。堂内は冷えびえした午後の薄ら明りでした。吹き降りの気配は忘れたやうに去つて、静寂がさむざむとあたりを籠めてゐるだけでした。その静寂のなかに、どこからかお香の匂ひが漂つてくるやうな気がしました。もつともこれは気のせゐだつたかも知れません。期待した血なまぐさい臭ひなんか、これつぱかしも残つてはゐませんでした。広びろしたコンクリートの床は掃除がきれいに行きとどいてゐて、血の痕はおろか、足跡ひとつ塵つぱ一本落ちてはゐませんでした。ただ千恵たちが最初のぞきこんだ場所から少し離れたところに、ぽつぽつと小さな水の垂れた痕があつて、それが右手の外陣のあたりまでずうつと続いてゐただけです。何か漏るバケツでも運んでいつた跡のやうに見えました。

内陣は金色の聖障にさへぎられて、何一つ見えないのですが、なんだかほんのりした光が中にこもつてゐるやうな気がしました。そのため内陣の天井のあたりは、うつすらと薔薇色に煙つてゐるやうに思はれました。何かしら温かい感じのあるのはそこだけで、あとはそらぞらしい一面の散光でした。金色の聖障に描きならべてある聖者たちの像までが、そんな光線のなかでは変にけばけばしい、うそ寒い感じを吹きつけてくるのでした。

「ほら、あの辺が最後まで死骸が残つてゐた場所なのよ」と、Hさんは外陣の一角を指さして見せました。それは例のバケツの水みたいな痕が行つてゐる先のところでした。質素な木の長椅子が五六脚つみ重ねてあるだけで、もちろん何一つ目につくやうなものはありませんでした。

さうです、それは初めから分りきつてゐたことなのです。千恵がばかだつただけの話なのです。

「古島さんがゐると、内陣の中が見せてもらへるんだけどねえ」

と、Hさんがちよつと言訳めいた調子で言ひました、――「あいにくと今日はどこかへ出かけたらしいわ。いつもなら今じぶんあの部屋で勉強してゐるんだけれど。……内陣には色んな立派な宝物があるのよ。……」

さう言はれてみれば、さつき潜り戸から暗い廊下へはいつた時、とつつきの物置めいた小部屋の戸をHさんは軽く叩いて、返事がないので中を覗きこんだりしましたが、あれはつまりあの青年をさがしてゐたものと見えます。すると結局、さつきHさんが「見せたいもの」と言つたのは、その宝物のことだつたといふわけになります。「なあんだ!」と千恵は思ひ当つて、あやふく笑ひだしさうになりました。やつぱりHさんはHさんだつたので、とんだ取越し苦労が千恵はわれながらをかしかつたのです。

Chapter 7 of 8
|
광고
읽고 쓰면, 책은 무료입니다
서평단에 선정되면 출판사가 책을 보내 줍니다. 블로그나 인스타그램에 서평을 남기면 포인트로 쌓입니다.
모집 중인 캠페인 보기