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僕の書く人物が陰気だとあなたは言うが、それは僕のせいではない。メランコリックな人間に限って陽気なことを書くし、陽気な連中は却って悲哀を追い求める。ところで僕は陽気な男だ。少くもこれまで三十年の生涯を面白可笑しく送って来た男だ――そんな意味のことを、彼は小説道の上でいわば弟子どころに当るアヴィーロヴァ夫人に書いている(一八九七年十月)。
これは些か瘠我慢が勝っているかも知れない。少くも例の快活な冗談口の一種には相違ない。だがそうした冗談口が屡反語的に真相を明している実例をわれわれは既に十分見て来たはずだ。またわれわれは、彼には非常な快活さと非常な暗鬱さとが刻々に交替する癖があった、という友人たちの証言にも接している。この「陽気」さを見すごしては、おそらくどんなチェーホフ論も片輪になるほかはあるまい。
チェーホフの笑い、あるいはユーモア。――恐らくこれほどしっくりした題目は他にあまり類例がないだろう。レクラム文庫にはたしか『フモレスケン・ウント・ザティーレン』と題する相当分厚なチェーホフ短篇集があったと記憶する。おそらくよその国には見られぬこの破格の優遇も、却って文庫編輯者の並々ならぬ達見を思わせるほどだ。ところが飜って考えると、およそチェーホフの笑いほどに世の評伝家から不当な取扱いを受けているものも、あまり類例がないと言うこともできそうである。管見によればチェーホフの笑いは、彼の非情に少くも劣らぬだけの重要性をもつ。それは非情と相俟って、彼の存在を支える車の両輪だったとさえ言っていい。実際もし彼に笑いがなかったら、通常われわれ人間という弱き者にとって最後に残される支えであるところの「憎悪」からも完全に切断されている彼の非情な芸術は、一体どんな形をとることになったか想像も及ばないのである。それは先ほど引合いに出したジョイスにしろポウイスにしろ、畢竟ある種の緊張ないしは或る残酷な感じから、必ずしも免かれ得ていないのを見れば、容易にうなずける事がらでなければならない。チェーホフの笑いが彼の生活と芸術において演じた大きな役割については、恐らく別にそれを主題にした一文を必要とするだろう。以下はいわばこの未熟な序説に一応のしめくくりを附ける意味で、問題のありかを二、三指摘するにすぎない。
通説によればチェーホフの文学生活は、一八八七年『イヴァーノフ』の執筆を境目にして、前後の両時期に分たれる。前者はアントーシャ・チェーホンテという筆名をもって蔽われる一時代で、つまり初期のユーモア作家としての活動期を示す。後期はこれと明白に区別されるいわばアントン・チェーホフの本格的な文学生活であって、この期の特質は絶望と哀感のしらべである……云々。
だが、このように明らかな一線を引くことは果して正しいだろうか。僕はこれに少からぬ疑問をもつ。さきに僕は彼の非情の発生を考えて、それが必ずしも所謂八〇年代の空気から生まれたものでないこと、むしろ殆ど全く彼の持って生まれた稟質によるものであることを、ほぼ突きとめ得たように思う。笑いの問題になると、これはより以上の確率をもって、彼自身の稟質に帰することができるはずである。チェーホフの笑いはよくゴーゴリのそれに比較される。ゴーゴリは周知のようにウクライナ人であったが、チェーホフの出身もやはり南方である。とはいえ彼の血の中に果してウクライナ種の混入があったかどうかについては、もとより確証があるわけではない。祖父はチェーフという姓を名のる農奴で、居住地は中央ロシヤもずっと南に寄ったヴォローネシ県であった。チェーフというのはチェック人という意味の珍しい姓であり、ヴォローネシ県の人口の過半は当時ウクライナ人によって占められていた。この祖父がやがて自由を購ってウクライナに移住し、ついで父の代になるとロストフに近い港町タガンローグに居を定めて、食料品店を開いた。父はこの町の反物商モローゾフの娘をめとった。アントンはその夫婦の間に生まれた五男一女の第三子である。両親はともに正教徒であった。タガンローグはギリシャの商人なども多数居住する雑居的な商業町であった。……チェーホフの系譜から恐らくこれ以上のデータを拾い出すことはむずかしいだろう。ウクライナ或いはその他の血の混入の可能性はかなり濃いと言えるが、それを断定する根拠も別にないわけである。第四節に引いた手紙のなかで、チェーホフが自分を小ロシヤ人と呼んでいるのをわれわれは見た。もちろん例の冗談であるが、少なくも彼が「南方の出身」ということに或る程度の関心を抱いていた証拠にはなるだろう。同時に以上の諸事実からして、彼が南方系の一種衝動的な天真の笑いに必ずしも無縁でなかったことは、おぼろげながら推察することができようと思う。
チェーホフは十九歳でモスクワ大学に入り、はじめて北の空気を吸った。翌年の春、最初の短篇小説がユーモア新聞に掲げられたのを手はじめに、彼はアントーシャ・チェーホンテという戯れ名をはじめ、「患者のない医者」、「短気者」、「脾臓のない男」、「放浪者」、「ユリシーズ」等々の名にかくれて、七年間に四百篇を超えるユーモア短篇、小品、雑文、通信記事の類を、いろんな滑稽新聞や娯楽雑誌に書いた。学資かせぎと一家の扶養が本来の目的であったが、勿論この濫作には惰性やジャーナリズムの要求が有力に働らいていたことは疑えない。……これがアントーシャ・チェーホンテ時代のあらましである。通説によれば、この時期は彼の無自覚な嬉々とした小鳥の歌声のような時代だったというのだが、この推量の荒唐無稽はあえて当時の彼の手紙を引合いに出すまでもなく、一見して明らかだろう。それは笑いの強制労働であり、語弊さえ厭わないなら「売笑」と呼んで差支えないくらいだ。ゴーゴリの場合も、その天成の笑いは若年にして北の空気によって著しく変質せしめられたが、チェーホフの場合はおそらくその比ではなかったにちがいない。勿論その持って生まれた笑いの衝動そのものは消え失せるはずもないのだが、笑いの性格は殆ど旧態をとどめぬまでに歪まされたと見るのを至当とするだろう。
のみならずチェーホンテ時代の初期すでに「チェーホフの哀愁」が始まっていたことを証拠だてることも、決してむずかしい仕事ではない。例えば『おくれた花』という小説を見るがいい。これはかなり大型な作品で、二十二歳春の作である。ある令嬢がかかりつけの田舎医者に恋する。さんざん躊躇したあげくにやっと意中を打明けるが、その頃は肺病がよほど進んでいる。医者は自分の精神的堕落を顧みて、この令嬢の告白を頗る持てあますが、とどのつまり彼女をつれて南仏へ転地旅行に出かける。ところが彼女は転地先に着いて三日もたたぬうちに死ぬ。「秋もふけては花も咲かない」のである。この物語からわれわれは容易に『イオーヌィチ』(一八九八)という晩年に近い作品を思い出すだろう。これも令嬢と田舎医者の物語である。令嬢がピアノを弾くのも両者を通じて同じだ。医者の精神的堕落も同じである。ただ片恋の方向が、まず医者から令嬢へ、やがて令嬢から医者へと、イスカの嘴になっているだけで、最後に病身になった令嬢が母と二人で静養に出かけるところも同工異曲といえる。『イオーヌィチ』には勿論前者に見られない凝縮と重厚さがあるが、作を支配する暗い気分は殆ど同じであって、要するに後者は前者の改作と言ってもいいほどである。して見れば二十二歳のチェーホンテは、三十八歳のチェーホフの作品をすでに書いていたということになる。これは考えなければならぬ事がらである。
次に、チェーホフは果して『イヴァーノフ』を転機として、チェーホンテの笑いを失ったか? この説をくつがえす反証を求めることは一層やさしいだろう。『手帖』は一八九二年から死の年に至る間の彼の覚書の類を集めたものだが、その中にはヴォードヴィルの腹案や、その登場人物のための滑稽な作り名の考案が、殆ど一項目おきに出てくるといっても過言ではない。この『手帖』も彼の日常の言動と同じく、快活と憂鬱の間断ない交替と言って差支えないのだ。また作品を眺めても事情は殆ど変らない。笑劇『熊』は一八八八年の作だし、おなじく『結婚申込』は翌年すなわち『イヴァーノフ』と同じ年の作、おなじく笑劇『心にもない悲劇役者』は更にその翌年の作だ。ずっと晩年に及んで、すでに肺患のかなり進んでいたはずの一九〇一年(結婚の年)には、『結婚披露』『記念祭』の二つの一幕喜劇がある。その上なお、以上のうち『熊』と最後の二喜劇が、いずれも所謂初期の短篇小説の脚色であることを知れば、チェーホンテとチェーホフの間に境の線を入れることの無意味さは益はっきりするだろう。いや笑いの本質から見れば、壮年以後の彼の笑いは、青年期の強制から解き放たれて、却って笑い本来の嬉々たる面目をとり戻しているといってもいいくらいなのである。
僕は前のどこかの節で、非情人としてのチェーホフを描きながら、彼は一切の目標から切断されているゆえに、多少とも本質的な変動というものもあり得ないと述べておいたが、それがまんざら的外れな言葉でもなかったことが、以上二様の考察からほぼ明らかにされると思う。チェーホンテは初めからチェーホフであったし、アントンは終りまでアントーシャであったわけだ。
ところでチェーホフの笑いというものは、一体どういう性格のものであったか? それを端的に窺わせるに足る挿話がゴーリキイの回想の中にある。チェーホフはどうかするとひどく上機嫌な時があり、そういう時にはにこにこしながら何かユーモラスな題材を話すのを常とした。ある日こんな話をして聞かせた。主人公は女教師。無神論者でダーウィン(!)の崇拝家で、迷信は撲滅しなければならんと思いこんでいる。ところが彼女は夜の十二時になると、風呂場へ黒猫を持ち込んで煮る。それは鎖骨をとるためなのだ。「いいですか、鎖骨というのは、男に愛情を起させるという骨なのですよ」と、チェーホフはさも可笑しそうにつけ加える。これがつまりチェーホフにとっては陽気な芝居の筋書だったのだ。さすがのゴーリキイもこれには度胆を抜かれたらしい。「これで陽気な芝居を書いているのだと本気で思っているらしい」と、ゴーリキイはわざわざ繰り返している。
こうしたチェーホフの笑いに親しむにつれて、おそらく『三人姉妹』や『桜の園』が喜劇だという意味が、だんだん分ってくるはずである。チェーホフのつもりでは『三人姉妹』は喜劇であった。それどころか、スタニスラーフスキイの回想によると、『三人姉妹』がロシヤ生活の暗い悲劇だという解釈ほどチェーホフを驚かしたものはなく、死ぬまでついに同意することができなかった。彼はそれを陽気な喜劇、いやほとんど笑劇だと確信していた。これほど彼が熱心に自説を主張したのを、あとにも先にもスタニスラーフスキイは見たことがなかったという。しかもモスクワ芸術座の板にのった『三人姉妹』が完全な「悲劇」になってしまったことは、改めて言うまでもあるまい。
それに懲りたものか、『桜の園』はわざわざ「喜劇」と銘うってある。これもチェーホフに言わせると「殆どファース」だったのだが、上演の結果はやはり『三人姉妹』と同じ運命をたどったのである。要するにスタニスラーフスキイやダンチェンコほどの人物にも、チェーホフの意図する喜劇というものが、どうしてもつかめなかったものと見える。ここには又もや、大きな「切断」があったと言っていいだろう。
なかでも興味のあるのはロパーヒンという人物の取扱いだ。ロパーヒンは「桜の園」の農奴の小伜からのし上って一かどの商人になり、ついにこの荘園の新しい主人に納まるのであるが、チェーホフのつもりでは、これが『桜の園』という「喜劇」の中心人物なのだった。あんまり彼がこの役を大事にするので、フリーチェのような批評家は、ロパーヒンは実はチェーホフが自分の勝利の歌を托したものに他ならないとまで極言するに至った。事実チェーホフの手紙の中には、自分が父祖代々骨身にしみこんでいる奴隷根性をしぼり捨て、ついに精神的自立と教養をかち得たことを、妙に興奮した調子で、誇らしく述べ立てている一節がある。それを思い合せれば、フリーチェ流の推量の成り立つ根拠は一応ないでもなかろうが、今は差当ってそれが問題なのではない。問題はチェーホフが、このロパーヒン役をスタニスラーフスキイに振り当てようとしたことにある。それほど註文のやかましい役だったのである。
周知のように、スタニスラーフスキイは『三人姉妹』のヴェルシーニンとか、『村の一月』(ツルゲーネフ)のラキーチンとか、『ヘッダ・ガブレル』のレウボルグとか、或いは『ヴァーニャ叔父さん』その人とかいうふうの、どっちかといえば繊細味の勝った中年の「余計者」型にしっくりする役者で、決して成上り者に合うはずがない。ところが当の商人ロパーヒン自身も、奇怪なことには「画家のようなしなやかな手をした、こまやかな優しい心の持主」として描かれているのだ。のみならずチェーホフがダンチェンコやスタニスラーフスキイに宛てた手紙でくどくどと駄目を押しているところによれば、ロパーヒンは白チョッキに黄色い短靴をはいている、両手をふって大股に歩く、歩きながら考える、髪は短くない、したがってちょいちょい首を振りあげる、考えごとをする時は髯を後から前へ指でしごく――とか、彼は商人とはいえあらゆる意味で立派な人物だ、だから完全に礼儀正しく思慮のある人間として振舞うべきで、こせついたり小手先を弄したりしてはいけない――とか、チェーホフとしては珍しく微に入り細をうがった註文をつけている。つまり彼は、そうしたロパーヒンこそこの「喜劇」の成功の鍵であると信じ、このデリケート極まる人物をスタニスラーフスキイにこなして貰おうと望んだのだ。これにはどうも何か深い考えがあったに相違ない。
だが今度もやはりスタニスラーフスキイにはどうしてもこの註文が呑み込めなかった。彼は結局ガーエフ役に廻り、ロパーヒン役はレオニードフという若い役者が持った。レオニードフは『ジュリアス・シーザー』のカッシアスとか、『カラマーゾフ』のドミートリイとか、農民一揆のプガチョーフなどを適り役とするいわば荒事師である。どんなロパーヒンが出来あがったかは想像に難くない。こうしてチェーホフの意図は完全に裏切られたのだが、芝居は「悲劇」として大成功を収めたのである。
もちろん僕は、チェーホフのいう喜劇の意味が、完全に分ったなどと自惚れるつもりはない。ロパーヒン役についての彼のおそろしく慎重な態度にしても、底の底まで究めてみる域にはまだ頗る遠いのだ。まあ一生かかっても出来ないだろうと思っている。だがこの人物がチェーホフの註文どおりに演ぜられた姿を、あの第三幕の想像的舞台面にのせて暫く見つめていると、おぼろげながら或る暗示のようなものだけは受けとれるようである。それを一口に言えば、ロパーヒンが「桜の園」の主人に成り変ったのは、いかなる意味でも暴力的ないしは突発的な行動の結果ではなかった、ということだ。それは主としてラネーフスカヤ夫人あるいはガーエフによって代表される地主階級の自然的衰弱によるものであって、地球がこれまで何千年にわたって厭というほど見て来たところの世代の移り変りの一こまに過ぎない。それは生物進化の理法から見れば当然中の当然であり、いわばほんの家常茶飯事にすぎない。このアンチームな事実、これまで無数回にわたって繰り返され、この先も地球が存続するかぎりは無限に繰り返されるであろうところの常套事に直面して、ある者は泣き沈み、ある者は茫然自失し、ある者は鍵束を床へ投げつけ、あるものは夢かと驚喜し、楽隊はためらい、万年大学生は「新生活の首途」を祝う。これがどうして「喜劇」として通らないのであるか。チェーホフとしては何としても腑に落ちなかったに違いない。なるほどロパーヒンは成上り者だ。彼の身なりは一応ととのっていはするが、その全体としての調和にはおそろしくちぐはぐなものがある。しかし彼には勤勉があり、努力があり、誠実があり、実力がある。どうしてこの愛すべき滑稽な登場者を、拍手をもって喜び迎えてやる気になれないのか。ラネーフスカヤ族も亦、曾てはそのようなちぐはぐな身なりをして、歴史の舞台に登場したのではなかったか。どうしてこれが喜劇ではないのか。チェーホフとしては解けぬ謎だったに違いない。だがやがてそのロパーヒン族にも、「桜の園」から出てゆく日が来るにちがいない。未来の夢にばかり耽っている万年大学生族が、この園の次の主人になれるかどうかは些か疑わしいが、とにかく又してもちぐはぐな恰好をした真面目で滑稽な勤労者が登場して、何代か後のマダム・ロパーヒナはその美しい髪をふりみだして泣き崩れるだろう。だから今こそロパーヒンを祝ってやるがいい。どうしてこれが喜ばしい祝祭劇でないのか。舞台が空っぽになって、そこここのドアに錠をおろす音が聞え、やがて馬車の出る音がし、あとは静かになる。やがてその静寂のなかに、桜の木を伐り倒す斧のにぶい響きが伝わってくる。なぜ人はそれを弔鐘と聞くのだろうか。それは一つの進化を告げる祝祷の調べではないか。なんでそれをわざわざ悲劇に仕立てる必要があるのか。そこがチェーホフには何としても合点が行かなかったに違いない。……
チェーホフは最後に少なくももう一つ、「喜劇」を書く意図があった。それはオリガ・クニッペルの回想によると、次のような頗る幻想的なものであった。主人公は学者。ある女を愛している。女は彼を愛さず、または彼を裏ぎる。学者は北極へ旅だつ。三幕目は氷にとざされた汽船。オーロラ。学者がひとりデッキに立っている。静寂、安らぎ。その時ふと見ると、オーロラを背景に、愛する女の影が通りすぎる。……僕が第三節に書いたことを記憶しておられる人は、何か思い当ることがあるだろう。
この戯曲はついに書かれなかった。その代り彼は臨終の床で、最後の「陽気な」セリフを吐いた。彼は一九〇四年ロシヤ暦七月二日、ブーニンの言葉によれば「夏の夜明けの静寂と美しさのうちに」南ドイツの鉱泉地バーデンヴァイラーの旅舎で安らかに死んだ。その臨終のことばは、「イヒ・シュテルベ」だったと未亡人は伝えている。人は又してもここに悲劇を見るだろうか。悲劇の完結を見るだろうか。それとも科学者の冷静さに感服するだろうか。どうやら二つとも違う。彼は医者のくせにドイツ語が頗る不得手だった。その不得手なドイツ語を、わざわざ死の床で、生前の伴侶の前で使ってみせたのである。その時の彼の表情を思い浮べてみるがいい。チェーホンテは最後まで健在だったのである。
30. . 1948(一九四八年十一月、『批評』第六十二号)
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