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埴生十吉が北海道の勤め口を一年たらずでやめて、ふたたび東京へ舞戻つてきたのは、192*と永いあひだ見馴れもし使ひなれもした字ならびが変つて、計算器の帯が二本いちどきに回転するときのやうに、下から二た桁目に新たな3の字がかちりと納つた年の、初夏のことであつた。遊んで暮してゆける身分でもないので、ロシヤ語を少々かじつてゐたのをたよりに、小石川にある或る東洋学関係の図書館に、なかば自宅勤務の形でつとめることになつた。蒙古の民俗を扱つたロシヤ語の文献の日録を、整理したり翻訳したりする役目である。
この仕事を、大して興味をもつでもなしにぼつぼつやつてゐるうち、その夏も峠をこした或る日のこと、学校の先輩でもあり、一部は恩師でもある小幡氏から、至急に会ひたいと電話の呼出しがかかつた。指定された丸の内の何とかいふ倶楽部の一室で待つてゐると、廊下の方で、二三人の連れ――その中にはどうやら外国人もまじつてゐるらしい――と別れの言葉をかはしてゐる聞き覚えのあるきびきびした声がきこえて、やがて白い麻服姿の小幡氏が、相変らずの颯爽たる足どりではいつて来た。
一口にいへば小幡氏は、日本人にはちよつと珍しいきちりとした紳士である。それもイギリス型の紳士といふと、長身瀟洒のうちにもどことなく燻しのかかつた、悪くいへば些か爺むさい、良くいへば鷹揚な――さうしたところのあるのが定石らしいが、小幡氏のはそれとは裏はらに、小型でぴりりとした生地に、一種のスノビスムの加はつた別様の紳士ぶりである。この種の伊達は、どうしても一味南欧的な頽廃と相通ずる気味のあるのを免れない。小幡氏にもそれはあるが、持ち前の短気と負けじ魂とで、あやふい一線に手綱をひきしめてゐる。
それまで十吉が接してゐたのは、教師としての小幡氏であつた。とはいへ某銀行のローマ支店づとめを振出しに、やがて河岸をかへてバルカン方面で、永年のあひだ総領事などを勤めて来た半生の経歴は、私立の植民学院の語学と貿易事情の講師でもやりながら一時をしのぐといつた失意の境遇にあつたその頃の氏は、不調和も度をすぎて寧ろ滑稽感をかもし出すほどの水際だつた風貌をあたへてゐた。当時、なにか青春のやり場にこまつて、仲間のうちの流行になつてゐた語学放浪の渦にまき込まれてゐた十吉は、気まぐれに籍を置いてみたその学院の夜間部で、二年ほど小幡氏からセルボ・クロアート語の手ほどきを受けたことがある。
それなりで切れたと思つてゐた縁が、小幡氏一流のするどい記憶のはたらきで、手ばやく結び直された。それが倶楽部の会見になつたのだ。まだまだ盛んな頃、神戸行特急の食堂車に外交官仲間三人で坐り込んだなり、ビールから始めてウィスキーの最後の一滴に至るまで、文字どほりの棚ざらひをやつてのけて、乗務生活十年といふボーイ頭から最高レコードの折紙を奉られたほどの酒豪でありながら、小幡氏は煙草をいつさい口にしない。にんげん飲む、喫ふ、買ふの三拍子が揃つたらもう駄目だと、妙な持論を振りかざしてゐる。きりりと締つて或る矩を踰えない実際家的な肌合が、そこに現はれてゐる。青年にとつてかうした人物は苦手なものだが、とにかくその面前で、しかもその倶楽部のサロンの重厚な空気に圧倒されながら、てれかくしに安煙草をしきりにぷかぷかやりながら十吉が受けた相談といふのは、手つとり早くいへばJ国の商務館に勤める気はないかといふ話であつた。
てきぱきと歯ぎれのいい口調で、小幡氏は説明を進めてゆく。――君が将来何にならうとしてゐるかは僕は知らない。恐らく僕などの立入るべき筋でもあるまい。君はフランス語が専門ださうだし、ロシヤ語も相当いけるらしいが、少くも僕が及ばずながら手ほどきをして上げたあの語学に関するかぎり、君の程度まで行つた青年を僕はほかに知らない。(さあ、あんな一風変つた言葉をかじる気になつた男が、この国に果して何人あつたらうと、十吉は苦笑とともに考へる。)その道でなら、君は日本の第一人者になれること請合ひだが、まさかそんなおだてに乗つてくる君でもなかろう。悲しいことに僕にはもう、あんたがた年頃の青年の気持がわからなくなつて来てゐるが、お見受けするところ君はかなり神経質なくせに、どこかふてぶてしい野心家の風貌がある。と云つてもそれは、いづこを指すともさだめのない、曠野の風みたいな粗々しいものには違ひなからうがね。僕はさうした青年の野心を、尊敬はしないが、……尊重はするつもりだ。
まあ君は多分、あの語学はほんの気まぐれにやつてみただけだと言ふだらうと思ふ。僕としてはその気まぐれついでに、その窓から一思ひに、内部の世界へ跳び込んでみることを勧めたいのだ。青年の弱点は、さうした窓があんまり多すぎて、踏切りがつかない点にありはしないかね。もしさうなら、僕が一つその偶然の代理役をつとめようぢやないか。J国の商務館は、実をいふと僕が引つ張つて来て開かせたやうなものだ。現につい先頃までゐた初代の代表などは、僕がツァラにゐた時代の友人ともいつていい男だつた。僕のゐるかぎり、居心地はさう悪くないと思ふ。もちろん新興国の常として、政情はまだまだ落着きがない。いや、将来ますます然りかも知れない。そのうへ君も知つての通りの、スラヴ国家とはいひ条、色んな民族の寄合ひ世帯だ。この先のことは僕にも保証はできない。また保証しようとも思はない。そんな事は寧ろ、君たち青年の自負心を傷つけるだらうからだ。いや却つて、その将来と不安定といふところに誘惑されるやうな人間であることを、僕は現在の君のために望みたいな。繰返して言ふが、僕はさうした青年の野心を、尊敬はしないが(とそこで小幡氏は、何やら遠いむかしの悔恨とでもいつたものの影に、ふと眉根を曇らせて)……しかし尊重はする。
仕事は忙しい。一昨年の政変以来、国のといふか党のといふか、方針はとにかく急激に国内の工業化といふ方向に向ひつつある。日本の物価安が、そこで大きな因子として働きだしてゐるのだ。この貿易はなかなか有望だ。この点は僕のくろい眼をある程度まで信用して貰つていい。まあ差当つては君に書類の整理をして貰ふ、翻訳をして貰ふ、たまには通訳もやつて貰ふ。もちろん国際場裡のことだから、時間はあくまで正確に、十分の責任をもつて行動して貰ふ。どうだね、一つやつてみる気はないかね。……
二三日して埴生十吉は、白金今里町にあるJ国商務館をたづねて行つた。
明治末ごろの外交官に巨きな足跡をのこしたN男爵の旧邸だといふ話は、せんだつても小幡氏から聞いてゐたが、なるほどあのあたり一帯の閑静な屋敷町のなかでも、殊さら樹木の多い一郭の、横町をはいつた奥まつたところに斜めに鉄の門をひらいてゐる外構へは、いかにもそれらしく、まともな勤め先といへば丸の内から日本橋辺のビル街のことを頭に浮べて一も二もなく怖気をふるつてゐた十吉のやうな男には、日々の勤め場所としてまづ気に入つた。これは一種の貴族趣味があるせゐでもあるらしい。
約束の時間にはまだ少し早いので、その横町の砂利のうへを、暫くぶらぶらしてゐた。登館の時刻はすぎてゐるはずだが、それでも時たま一人二人と、悠然たる足どりで門の中へ消えてゆく外国人がある。やがてそれも絶えた。十吉は退屈まぎれに、木蔦のいつぱいに絡みついてゐる古びた石の門柱へ歩み寄つて、それに掛けてある横ながの真鍮の標札を眺めはじめた。
真鍮の色のまだ真新しい表面に、DLGATION COMMERCIALE D'TAT DES......と型どほりのフランス語の文字が、四五段ほど浅彫りになつてゐる。DES のあとには構成民族の名が三つも続いて、おそらく長い国号である。そのおのおのの頭字であるSとCとSの三字だけが、わざわざ赤で入れてあるところなど、いかにも新興の多民族国家らしい華やかさがある。いやひよつとするとこの色どりは、おととしの政変――それに伴ふ左党の圧倒的進出の、反映であるのかもしれない。……
十吉が妙に感服しながら門標を眺めてゐるうちに、ふとうしろの方で、思ひなしか何か忍びやかに砂利を踏む新たな靴音がした。なにげなしに振返つてみると、二十歩ほど向ふの隣屋敷の冠木門の軒さきに白服の男が現はれて、こちらへ寄つてくるところであつた。その男全体の気配から、十吉は本能的に或るものを直覚すると、そのまま身を翻すやうに門内へはいつてしまつた。男は追つて来なかつた。
「なんだ、こんなところまで紐がつくのかい!」
舌うちしたいやうな、それでゐて変に晴れがましい気持だつた。見知らぬ冒険へ乗りださうとする瞬間の、あのスリルに似た感じでもある。わざと砂利をザクザクいはせながら、大股に歩いた。門のなかは、遥か正面にこんもり繁つてゐる馬車廻しまで、両側は鬱蒼たる樹林だつた。えのき、けやき、しひ、くぬぎ、さくら……そんな樹の名を、わざと念入りに数へたてて行くうちに樹林が尽きて、最後に公孫樹が一本づつ、両側に番兵のやうに立つてゐる。そこで立ちどまつて、腕時計をのぞいた。
馬車廻しを越えて、建物の正面二階の破風のところにJ国の紋章の打ちつけてあるのに気がつく。ちやうど朝日をうけて、それが金いろに輝いてゐる。記憶を手さぐりして、たしかあれは三頭の獅子を麦の穂でかこつた図柄だつたと思ひだす。さういへば、その麦穂を更にそとから取巻いてゐる国号の文字も、勿論こんな遠くでは見分けられはしないが、思ひなしかやはりあの三つの頭字だけは、赤く彩つてあるやうな気がする。十吉はふとそんなことを考へ、なぜともなく身の引締まる思ひがした。
黒塗りのキャデラックが勢ひよく砂利を噛んではいつて来た。みるとその窓には、小幡氏の顔が笑つてゐる。その車が馬車廻しをぐるり一まはりして、また風のやうに出て行つてしまつたのを見送つて(その尻尾の標識にはJ国公使館と、白地の文字が鮮かだつた――)、十吉は車寄せの小幡氏と落合つた。
「いやあ、今朝は起き抜けからの大活躍でね、二三軒まはつて来たところさ。……君が待つてやしないかと心配だつたがね。」
持前のよく徹る声が、玄関の広間にがんがん響く。まるでわが家に帰つて来でもしたような、傍若無人な大声である。
「実は朝飯にもまだありついていない始末なのさ。……」
と言ひ言ひ、そこへ顔を出した何処か東洋種らしい若いボーイに茶の支度を命ずると、ちよつと待つてゐたまへと言ひ棄てて、横手のドアへ姿を消した。
「このかたが輸入部長のミトローニクさん。採用ときまれば、君はこの部で、このかたの下で働くことになる。……一応ぢかに君の人物を見たいと言はれるのだ。君のことはよく話してあるし、別にこはい人でもないから、暫く話をしてみたまへ。固くならないでね。僕はゐない方がいいだらう。……」
朝の日ざしをカーテンで受けた、明るい小さなヴェランダである。その一隅に大型の事務卓が据ゑてあつて、何やら統計表のやうなものが一面に蔽ひかぶさつてゐる。小幡氏が隣の部屋へ消えると、ミトローニク氏が入れちがひに中央の藤椅子セットのところまで出てきて、腰をおろす。そしてじろりと上眼づかひに、十吉にも坐れと合図をした。
実は鬼が出るか蛇が出るかと思つてゐた。見知らぬ国へ飛びこむのだ。何に出てこられても仕方がないと観念してゐた。ところが案外にも、まづ現はれたこの人物は、ちよつとアングロ・サクソン系の事務家を思はせる、垢抜けのした紳士であつた。まだ若い。やや不機嫌に寄せた眉根のあたりに、ただよつてゐる一抹の陰鬱さはあるが、こけた頬から張りだした腮へかけて、いかにも敏腕家らしいするどさが現はれてゐる。
坐つたかと思ふとまた腰を浮かせて、事務卓の方へ長い腕をのばすと、例の統計表の下をごそごそ云はせて、スリー・キャッスルの緑いろの缶を取りだした。器用に蓋を使つて中蓋を切る。あの煙草特有のぢかに心にしみ入るやうな地味な香りが、朝の日ざしのなかにかぐはしく立つ。ミトローニク氏の長い鼻が、その香を受けて敏感にうごめく。一本抜いて火はつけずに、指さきで弄びながら、
「ム、ム……」と、何か言ひだしさうにして十吉の方をみた。ふたたび噤んだ口の下辺から頤にかけて、その朝のいかにも正銘のレーザーらしい剃りの冴えが、見る目もあざやかだつた。本格的な切れ味だ、ふと十吉はさう思ふ。
「ム、ム。」
またしても何か口籠ると、今度はマッチをすつて火を移した。ためらひがちだつた視線も、今ではじつと十吉を見てゐる。意外に優しい、なにかしら懐疑的な眼である。……この人には影がある、と十吉は思ふ。妙に口ごもるところ、それは唖に似てゐるといふより寧ろ、十吉には幸四郎の絶句ぶりが思ひだされて可笑しかつたが、この癖もやはり、この人のもつ陰影感を深める有力な因子にちがひなかつた。
「君はセルブ語を話しますか。」
「ええ、少しばかり。」
やつと話のいとぐちがついたと、十吉がほつとしたのも束の間で、次の瞬間にはたちまち暗礁に乗り上げてしまつた。「少し」話せるはずだつた十吉の語学が、耳も口もともに、さつぱり役に立たぬことが分つたのである。ミトローニク氏は困惑と同情を半々にまじへた微笑を浮べると、硝子ごしに小幡氏の方をちらつと見やつたが、その時ちやうど朝食がはりのサンドウィッチか何かを頬ばりながら卓上電話にかかつてゐた氏を、わざわざ煩はすにも当らぬと思ひ返したらしく、自身ロシヤ語で助け舟を出してくれた。それにせよ、実地を踏んだことのない十吉にとつては中々の難航にちがひなかつたが、どうやら意志だけは通じだした。
「君は文科をやつたさうだが、商業や一般に経済のことに、興味がもてますか。」
「ええ、持てると思ひます。」
「この事務所の仕事は、随分いそがしいが、……時間厳守に、忠実になつて貰はなければならないが……」
「忙しいのは平気です。」
「健康は? すこし顔色が蒼いやうだが。……」
「病気をしたことはありません。この顔色は生れつきで……」
ミトローニク氏はニッと笑つた。が真顔になると、いきなりぽつりと、
「君の政治的態度は?」と訊いた。
十吉ははつとした。みごとに虚をつかれた形で、はじめのうちは質問の意味がつかめないほどであつた。がやがて、ロシヤでは革命の直後、『お前はどつち側か』といふ問が一般民衆のあひだの一種のモードであつたといふ話を思ひだし、J国でもあの革命同然の急激な政変を経た今日では、同じことが問題になるのかしらと思ひ当つたが、今度はそこで返事につまつてしまつた。青年らしい虚栄心が、ちよつと頭をもたげたのである。
返事に窮した十吉をみて、それが自分の説明不足のせゐと思つたらしいミトローニク氏は、例の「ム、ム……」を繰返しながら、しきりに言葉をさがすやうな恰好で、円テーブルの上に配達してあつたその朝のジャパン・アドヴァタイザーを眼に近づけてみたり、緑いろの缶を掌のなかで廻転させたりしてゐるが、生憎と相手の分りさうな適当な文句が浮んで来ないらしい。
そこへ、潮どきを見はからつた小幡氏が、わざと戛然たる靴音を二つ三つ響かせながら、ヴェランダに降りてきた。それを見たミトローニク氏は、おそろしく早口になつて、何やら熱心に説明しはじめる。十吉が一ことも分らずにぽかんとしてゐると、やがて小幡氏が例の歯ぎれのいい口調で、
「訊いてをられるのは、何も君の信念なんかぢやないのさ。政治的信念は、右にせよ左にせよ各人の自由だ。ただそれをこの事務所の門の中へまで持ち込まぬやうに気をつけて……いはば自重して欲しいと言つてをられるのだ。あの政変以来、この事務所も何か政治的機関のやうに、えて色眼鏡で見られがちになってゐる。それが貿易関係の健全な発展を、さまたげようとする気配すらも見えないことはない。なかにはつまらない事で、この事務所に迷惑をかけた日本人もある。……公使館はいざ知らず、商務館はあくまで商務館だ。そこのけじめをはつきりと附けてゆくといふのが、ここの建前だ。まあその辺のことを、くれぐれも注意して置いてもらひたいと言つてをられるのだ。」
十吉が一々うなづいてゐる様子を、ミトローニク氏は満足さうに見まもつてゐたが、やがて、
「分りましたね」と念を押した。
「ええ、十分気をつけます。……しかし正直にいふと、今のところ別に僕には政治的傾向はないのですが……」
ふたりの大人は顔を見合はせて笑つた。十吉は顔を赤くした。
あとはこまこました話になつて、給料も十吉にはちよつと寝耳に水の大まかな額にきまり、来週の月曜から出ることになつた。登館八時半、退館三時半。昼の一時間の休みを抜かせば、これで六時間労働である。十吉はなるほどと思つた。
ヴェランダの隣の部屋は輸入部の事務室になつてゐる。先代の男爵が客間に使つてゐたものであらう、二十坪は優にありさうな古めかしい洋室である。壁炉が切つてあり、それを背に巨大な人物が、ロココ風の彫りのある古めかしい大デスクに向つて端坐して、しきりに書類を繰つてゐる。長いことヴュランダの光になれてゐた眼には、印象派の世界からいきなりレンブラントの世界へとび込んだやうな感じである。
小幡氏はそのデスクへつかつかと歩み寄ると、何やら小声で話しかけた。それに耳を借してゐるのかゐないのか、とにかく暫くのあひだは何の反応も示さずにうつ向いたままでゐた顔が、やがて悠然ともちあがつた時、十吉ははつとした。いよいよ鬼が出たと思つたのだ。それほどにその人物は魁偉な面がまへであつた。堂々たる上体におとらず、ずんぐりと太い頸の根、そのうへに載つてゐる顔の下半分は一めん焦茶色の髯で蔽はれ、その尖端はちよいとJの字がたにしやくれた顎鬚をなしてゐる。発達のいい両の顎骨を赤ちやけた皮膚が覆ひ、ひたひは稍々白ばんで、その先はくりくり坊主に剃りあげた頭につらなつてゐる。いや、これはレンブラントどころぢやない、と十吉は思ふ。仮にこの人物が、尖つた冑をいただき、革の甲と楯とに身をかため、三叉の槍をついて、静々とニーベルンゲンの歌の頁に立現はれたとしても、まづ位負けの心配はないだらう。……その顔で、にこりともせず、まじろぎ一つしないで、小幡氏の顔を真正面から睨み据ゑてゐる。これが、ブラウエンベルグといふドイツ風の名前をもつ、輸入部の次長であつた。年は五十に近いだらう。
突然その顔が咳払ひをした。咳、また一咳、四つの壁も為に震撼するやうな、おそらく威厳のある咳払ひである。と思ふと、静かにうなづいて、やをら十吉の方へ眼ざしを向けると、破顔微笑した。……
目のなかへ入れても痛くない孫を、祖父たちの眺めやるあの微笑である。思ひもかけぬ天候の激変に、唖然とした十吉が却つて身を固くしてつつ立つてゐると、向ふは椅子から立ちあがりざま書類挾みを四つ五つ鷲づかみにし、デスクを大きく廻るついでにそれを書類棚へ抛り込んで、空手のまま、十吉の眼の前に仁王だちになつた。そして片手に例のJ字鬚をしごき、片手で胸を撫であげ撫でおろしながら、
「仕合はせだ……仕合はせだ……」
と、十吉と小幡氏の方へしきりに半々にうなづきかけては、ものの十ぺんほども繰返した。かうしてブラウエンベルグ氏は、雷雲たたなはる英雄の座から悠然と降り立つて、今やカラマンケンあたりの山村の瓢々たる一好々爺になりすましたのである。おそらく廻りくどい道ゆきを経てやうやく掘り当てられた、すこぶる古風な、すこぶる雄大な、真情ゆれこぼれんばかりの悦びの表現がそこにあつた。この人の魂にはまだ古代が眠つてゐる。――笑み崩れたその魁偉な顔をつくづくと眺め、十吉はふとさう思つた。そして差し出された巨きな手の平を、心から握り返した。
軽やかな靴音が、入口の方から小刻みにして来て、はつとしたやうに停つた。ブラウエンベルグ氏は気軽にその方を振返ると、
「ああ、リーリャ!」
と言つて、素早く小幡氏の方へ促すやうな目くばせをした。小幡氏が十吉を紹介しはじめると、リーリャと呼ばれたその女性は、瞬間かくれるやうに楯にとつてゐたブラウエンベルグ氏の巨体のかげから、その小柄な全身を現はした。亜麻色の房々した髪を無造作に断髪にした、頬の豊かな娘である。皮膚の色にも表情にも、どこか東洋的な柔らかな曇りがある。
「イリリヤさん、これがわたしたちの新しい仲間……」と言ひかけた小幡氏の口上が終らぬうちに、
「どうぞ宜しく」と流暢な日本語でいひ、はにかむやうにニッと笑ふと、ちよつとためらつてから手を差し出した。
「どうぞ宜しく。」
十吉も鸚鵡がへしに言つて、その小さなひやりとする手を握つた。人なつこい笑み皺にかこまれた灰色の眼が、近々とまたたいてゐた。……