돌아가기
灰色の眼の女
Table of Contents
灰色の眼の女
神西清
Reading Settings
글꼴 크기
18px
테마
라이트
다크
세피아
눈 보호
줄 간격
읽기 모드
번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 5 of 5

5

公孫樹の葉がすつかり落ちつくした。門衛の爺さんが暇々に掃き集めた黄金いろの葉の山が二つ、砂利道の両側に築かれた。門内の樹林や馬車廻しの樹立ちも大抵は葉を振り落して、朝の登館のときなど、裸か木の枝ごしにずつと遠くの方から、折からの遅い朝日を受けて例の破風の紋章のきらめいてゐるのが目にはいる。

土曜日の正午すぎ、その砂利道を小幡氏と二人で帰つてゆくと、夫婦づれらしい背の高い男女が、門をはいつてゆつくり近づいて来るのが見えた。五六歩のところで男は立ちどまつて、帽子をとつて小幡氏と挨拶をかはし、連れの女を紹介した。

それはふくよかな薔薇色の顔をした若い女で、背が高いので目だたないが肉づきもゆたか、その堂々たるからだにクリーム色の毛皮外套を長めに着てゐる。その下から更に、襞の多い白いスカートの裾が一二寸出て、肉色の靴下の先は白鞣のきつちりした靴になつてゐる。深目にかぶつた帽子もやはり純白で、そのかげからブロンドの房々した髪がのぞいてゐる。すべてかうした白好みが、その長身やゆたかな腰つきや、殊にはその薔薇いろの顔の色艶と釣合つて、いかにもゆつたりと清楚な感じを与へてゐるが、よく見るとその顔つきはまだ女学生女学生して、物ごしにも、稍々太いアルトで受けこたへをするさばさばした言葉の調子にも、その感じが強く匂つてゐる。

男はそれにました長身で、これは白絹のマフラーを首に巻きつけてゐるほかは、帽子から外套から全部黒づくめだ。その面長の顔までが、浅ぐろさを通りこして黒々とした血色で、その上に真面目さうにきつと結んだ唇と、おだやかな眼つきとがまづ目につく。おとがひの肉が二重にくびれて、よく見るとなかなか豊かな立派な顔だちである。もしもその顔色がこれほど黒くなかつたら、十吉はもつと容易にこの青年の顔に、ミケランヂェロの刻んだダヴィデ像の面影を見出したにちがひない。

落着きのある重々しい声だが、頗る鄭重な言葉つきで、こんど妻が到着したのを機会に公使館を引払つて、ここに寝泊りすることになつたことなどを小幡氏に話すと、また腕を組んで離れて行つた。

門を出て停留所の方角へ歩きながら、小幡氏はふつと思ひだしたやうに、

「あ、さうさう、あのサフローン君の行きがたが知れたよ。……どこへ行つたと思ふ?」

「さあ。……」

「上海なのさ。柄にもなく、えらく高飛びをしたものさ。尤もああ見えて、奴さんなかなか利殖の道に長けてゐたさうだけれどね。」

「ぢや、あの原因は……何か費消とか拐帯とかいつたことでも?」

「いや、それはなかつた。初めはあの暢気なステファーノヴィチ先生も、さすがにその辺を心配したらしいがね。調べてみて、全然その気さへないことが分つた。……だが何しろ変つてゐるよ、夜釣りの大家で、冬でも日曜は暗いうちから釣竿をかついで出かけるといつた男のくせに、その反面すこぶる投機の才があつたさうだよ。そんなことから睨まれて、居づらくなつたんだらうがねえ。……」

十吉はあの二階の場面のことはわざと黙つて、

「とにかく、一葉落ちて……といつた感じですね。」

「さあね、あの男が葉つぱのうちにはいるかどうかねえ。……それは兎に角、この分ぢや案外はやく一葉また一葉と来るかも知れんな、われわれの身近かでも。……そして、天下の『春』を知るといふことになるわけだ。」

「なるほど、秋ぢやないわけですか。……で差当つては、今しがた逢つたあの青年あたりが、その春の前触れといふ……」

「ああ、あのネステレンコか。……あの男にはつい最近、公使館で二三べん会つたきりだが……いや、大いにさうかも知れん。大いにさうかもしれん。僕なんぞも、そろそろ舵がとりにくくなることだらう。現にもうそんな雲行きが、折にふれて感じられないでもないなあ。……往生ぎはよく、この辺で一つカサッと行くとするか。」

「それは困りますよ。そんな約束ぢやあなかつた筈です」と、十吉はあわてて抗議した。

小幡氏は白いセーム皮の手袋を振つて、通りかかつた小ぎれいな空車をとめると、ちよつと謎のやうな微笑を浮べて十吉を顧みて、

「どう、これから銀座へ出てみない? 一緒に食事をして、久しぶりで映画でも覗かうぢやないか?……」

年が明けて、一月も半ばすぎた頃、十吉にはやうやく、そのネステレンコと呼ばれる青年を近々と見る機会が来た。彼の私室へ、ブラウエンベルグ氏の使ひにやられたのである。

彼は例の天守閣のやうな三階に住んでゐた。そこへ往くには、二階の裏廊下から、ぐらぐらな狭い階段を昇つてゆくのである。傾斜の急な粗末な梯子で、十吉はなんだか屋根裏の物置へでも上つて行くやうな気持がした。

昇りつめると、そこが小さな板廊下になつてゐる。光は東側の小窓から射してゐるだけで、妙に薄暗い。とつつきに古びた襖が二枚はまつてゐ、廊下の突当りは片開きの襖になつてゐるらしい。森閑としてゐる。

十吉は暫時ためらつてから、とつつきの襖の方をノックしてみた。力の籠つた声で応答があつた。

建てつけの悪い襖をあけて中をのぞく。北向きに大きな硝子窓があつて、中は寒々とした明るさである。その明るさの中央に、ネステレンコが長い上身を小さなデスクの向ふに聳えさせて、端然としてこちらを凝視してゐる。十吉の顔をみて、ちよつと意外らしい表情を見せたが、すぐ顔色を和らげて、

「どうぞおはいりなさい。うしろを閉めて……」

と招じ入れた。小さは石油ストーヴが燃えてゐるが、主人公は外套を着たままである。示された椅子にかけて、用件を切り出さうとしたとき、左手の引つ込んだところで人の身じろぎがした。そこは暗いので気がつかなかつたが、その一隅にあの若い妻が坐つてゐたのだ。黒つぽい外套を、羽織るやうに引つかけてゐたが、立ちあがると例の薔薇色の顔で十吉に目礼して、ゆらりとからだを揺つて出ていつた。

十吉は、ブラウエンベルグ老人から預つて来たメモを、デスクの上へ差しだした。その返事をきいて来てくれと言はれたのである。青年はそれを手に取ると、訝しさうにかすかに眉をひそめ、やがて頷いて読みはじめた。かなり長いメモである。

彼が読んでゐるあひだ、十吉はあらためてこの屋根部屋の様子を眺めまはした。デスクの上には、仮綴ぢの大型な本が四五冊、新聞の四つ折りにしたのが数枚、無造作に積み重ねてある。インクの壜が一つ、ペンが一本、赤鉛筆が一本、ころがつてゐる。ブロック・ノートがひろげてあつて、何やらごたごたと書いてある。書き物をしてゐたところと見える。左手に寄せた側机に、茶色の兎の毛皮が五六枚、乱雑に積んである。長細いレッテルが覗いてゐるところを見ると、これは商品見本か何かであるらしい。その奥に薄暗くなつて、外套や洋服がごたごたと掛けてあり、その蔭には、今まで細君の坐つてゐた素木の小さなベンチが見える。その上に黒革のハンド・バッグが置き忘れてある。その傍に、ぼろぼろになつた辞林が一冊、ちよつと場違ひな感じで投げ出してある。

右手の壁は一めんにアジヤ全図でもつて蔽はれ、そのシベリヤのあたりには、アメリカの映画女優のブロマイドが五六枚、ピンで留めてあるが、これはいづれも相当の古物で、殊に地図のところどころに雨漏りの黄ばんだしみが出てゐるところを見ると、誰か前に住んでゐた人の遺産であるらしい。正面の窓には、鼠色になつた白カーテンが附いてゐるのだが、それは左右にすつかり引かれて、白々と曇つた冬空をいつぱいに見せてゐる。……

「ああ、分りました。……ちよつと返事を書きませう。」

さうネステレンコは言ふと、ブロック・ノートを引きちぎつて何やら無骨な手つきで走り書きし、それを二つに折つて十吉に渡した。そのまま十吉が立たうとするのを、抑へるやうに逞ましい片手をデスクの上に伸ばして引きとめ、茶色がかつた眼で人なつこくまじまじと見つめながら、

「あなたは何の勉強をしてゐますか?」

ときいた。十吉が些かまごついて、まあ経済か何や……と言葉を濁してゐると、

「ああさう。あなたは大変にセルブ語が上手ですね。……わたしは日本語を勉強してゐます。家内がわたしよりは上手なので、いま新聞を教はつてゐるところです」と、卓上の朝日新聞をひろげて、ぎつしりと朱線のはいつた経済欄のところを見せ、「しかし日本語は大変にむづかしい。」

その日はそれなりで別れた。

一週間ほどして、十吉はまたブラウエンベルグ氏に頼まれて、この屋根部屋へ使ひに行つた。先日の調査書類は明日いつぱいに仕上げてくるやうにといふ頼みである。

梯子の半分ほど昇つたところで、ふと上から、大声でまくし立ててゐる男の声がして来た。これは工合が悪いと思つたが、そのまま昇りきつて、暫く様子を見ることにした。

初めは分らなかつたが、やがてそれがネステレンコの声ではないことが分つてきた。上ずつた、妙に甲だかい声である。相当興奮してゐるらしい。その調子からして十吉は、一人の若い男が顔色を蒼くして、唇を反らせて弁じたててゐる顔つきを、まざまざと心に描き出すことができた。議論ずきの若者の表情は、大抵は似通つたものである。

そのうちに、相変らず落着き払つたネステレンコの声も、ちよいちよいまじりだした。なだめるやうな調子で、何か短い言葉をはさむ。時にはその声が皮肉な笑ひを仄かに帯びることもある。相手の声もすこし緩やかになつて、話の内容が十吉の耳にも聴きとれはじめた。

「ねえ、同志N(この名は十吉には聴きとれなかつた)、僕はなにも、農村の機械化そのものに反対なんかしちやゐないよ。ただそれを、自分の国の実状に照らして……。」これはネステレンコの声である。

「だから僕も、その現状のことを言つてるぢやないか。働くためには、君のいふ国民教育とか何とかいふ問題より先に、まづ食はなくてはならん。いいかね。そこで食ふためには耕さなければならん、これもいいね。そこで耕す為には――まづ機械といふことになる。君が、今年の食糧不足はヴォイヴォヂナ地方の大旱魃の生んだ一時的現象にすぎんと言ふのは、或ひは確かにさうだらう。この急場は輸入でしのいで行けるといふのも、いかにも君の言ふ通りだ。だがね、飢饉はなるほど、天災だが、しかも繰返される可能性のあるフォルス・マジョールなんだよ。そこで科学といふものが物を言ひだす。なぜあの東部や南部沿岸の広大な荒地を、あのままに放つて置かなけりやならんのか、なぜ君があの地方の開墾に反対するのか、それが僕には分らんのだ。用心ぶかい君のことだから、平年作に際しての食糧過剰でも惧れてゐるのかね? ぢやなぜ飢饉を怖れないんだ? 僕は繰返して言ふが、科学が万事を解決するんだ。……今や(と一語一語はつきりと切つて発音しながら)、農産物は、人間が、大地に、金属と石油とを、適用する結果、として生ずる――これは第十六回党大会で、同志ヤーコヴレフがいみじくも喝破した言葉だ。金属と石油、殊に石油、この石油をどうするかと僕は先刻から口を酸つぱくして言つてゐるのだ!」

「同志ヤーコヴレフは僕も尊敬してゐる人物だよ。ただ僕は、彼のあの名言の背景には、やはりあの豊かなロシヤの資源が立つてゐることを、一応冷静に認識したいのさ。……そしてわが国が、石炭といつても主に褐炭をしか産出しない現実、まづそこから考へを出発させたいのだ。」

「だからその石炭、瓦斯化する……更に一歩を進めて、液化する……」

「よし分つた分つた。ねえ同志N、君は科学の可能性をすぐさま現実の可能と信じ込む男だよ。……同じ論法で行けば、プロエスチの油田から一思ひに送油管をひくことも可能だし、またこの方が石炭液化なんかよりずつと手つとり早い。ただあの油田が、ルーマニヤの持物でないのだつたらね。……僕は農民の子だから……或ひは考へが大いに悠長にできてゐるかも知れん。まあその辺はそのうちゆつくり君の忠言を聞くとして。……ところで同志N、僕はこれから出かけなけりやならん。君も公使館へ帰る時間ぢやなかつたかね?」

「あつ、さうだつたつけ!」

その青年があわてて立ちあがる気配に、十吉はわざと廊下を踏み鳴らしながら近づいて、襖を大きくノックした。

はいつてみると、果してその相手の男は蒼白な顔をした青年で、漆黒に近い髪と、まるで紅をさしたやうに赤い唇とが、あざやかに目を打つた。うるんだ大きな眼でちらりと十吉を見ると、そのまま転げるやうに階段を下りて行つた。

「小児病め! 何を言ひ出すやら訳が分らん!」

立ちあがつてゐたネステレンコは、友人のあとを見送りながら、小声ではき出すやうに言つたが、そこで稍々紅潮した顔を十吉の方へ向けると、おだやかな微笑を湛へた茶褐色の瞳でまじまじと彼の顔を見て、

「ああ今日は、ハニさん、何か御用ですか?」と、デスク越しに手をさし伸べた。

十吉は、さつきふと耳にした「農民の子」といふ言葉をあらためて反芻しながら、じつとその眼を見返した。……

それからもちよいちよい、ネステレンコとは顔を合はせる機会があつた。尤も彼は、ただその日本館に起居してゐるといふだけで、事務室の方へは殆ど姿を見せなかつたから、会ふのはまづその三階の小部屋に限られてゐた。その部屋の十吉は、いつも端然とデスクの向ふに坐つて、或ひは読書したり、或ひは何か考へごとに耽つてゐる彼を見出すのだつた。ときには傍で、例の薔薇色の奥さんが編物か何かをしてゐることもあつた。

あの宏大な芝生の庭につづいて、その西の端れに雑木林があつた。十吉はついぞ行つてみたことがなかつたが、二月もそろそろ終りに近い或る日、珍しくぽかぽかと春めいた暖かさに誘はれて、昼休みの散歩のついでに、その林のなかへはいつて行つた。

はいつてみると、林は案外に深かつた。はんの木、椎、欅などが多く、大抵は裸か木になつてゐるが、それでもさすがに林間といふ感じで、日だまりがひつそりと明るく匂つてゐる。十吉は小径づたひにぶらぶら歩いてゐるうちに、古い井戸のほとりに出た。ちやんと井桁を組んだ、昔風の撥ね釣瓶である。おそらくこの庭園の一部は、むかし何か茶室などのあつた名残りなのではあるまいか。さういへば小径のつけやうにも、なかなか凝つた趣向のやうなもののあるやうな気がするし、その辺のさながら誘ふやうな小径をわけて、もう少し奥へ行けば、あのしめやかな露路といふものに行き当りさうな気持もする。尤も今では、小枝ごしにぐるりを見渡してみても、それらしい屋根の形も見当らないやうだが。……

その井桁に腰をかけて、暫くあたりを眺めてゐると、やがて向ふの榧か何かの繁みのかげから、黒い人影が一つあらはれて、ゆつくりと小径を歩いてゆく。片手を半ば上げて、首をすこし落してゐる姿は、本を読みながら歩いてゐるのに違ひない。その背恰好や、外套の襟もとに白いマフラーをしてゐるところから、十吉はすぐにそれがネステレンコの散歩姿だと見分けがついた。

その姿は、右手の繁みの中へ消えたかと思ふと、暫くしてからまた同じ小径を戻つてくる。同じ姿勢、同じゆつたりした歩度である。その往復運動を三四回ながめてから、十吉はそろそろ一時なのに気がつくと、立ちあがつてその小径の方へ近づいて行つた。

斜かひに合はさつてゐる径のかどで、十吉はネステレンコに行き会つた。向ふは五六歩のところまで来ても気がつかない。いかにも落着き澄ました、清閑をたのしんでゐるといつた様子である。十吉はその裾長の外套姿に、ふとカトリックの宣教師に似たものを感じた。あの黒い帽子を、上から平たく押しひしやげたら、そつくりそのままの姿になつてしまふ。……

「今日は、ネステレンコさん! 散歩ですか?」

「ああハニさん、今日は!」

びつくりしたやうに十吉の顔を見たが、瞳はもう人なつこい微笑を宿してゐる。本を開けたままで脇へおろして、

「ここは静かで気に入りました。誰も来ないやうですね。」

「ええ、実は僕も今日はじめてなんです。あなたは?」

「わたしは一週間まへから。」

そこで本をまた胸もとまで上げると、ちよつと目礼して、林の奥へ歩みを返して行つた。十吉は、この謹厳でゐながら物やさしい、慇懃でゐながら孤独ずきらしい、そして絶えず静かな眸をはるかなものの深みに注いでゐるやうな青年に、次第に引き寄せられてゆく自分を感じた。……

イリリヤと一緒に、今ではすつかり馴染みになつた丸の内の或る人絹会社の調査部へ往つた帰りに、十吉は思ひきつてこのネステレンコのことを彼女にたづねてみた。

自動車の窓にあとからあとから条をひく氷雨の脚に、うつとり眺め入つてゐたらしい彼女は、ちらと訝るやうな眼ざしを彼に投げると、すぐまた眼を伏せて、

「さあ、よく知りませんけれど、あの人たしか留学生の資格で来てゐるのでせう。……ちやうどわたしと同じに。」

イリリヤが留学生だといふことは、十吉には初耳だつた。

「留学生といふと……何か文学か美術の研究にでも?……」

「いいえ、やつぱり経済の方でせう。留学生といふと何だか変に聞えますけど、まあほんの、実地の研究といふくらゐの意味ですわ。……ただ或る期限がついてゐますの。……」

そこでちよつと口籠つたが、ふと独りごとのやうに、

「さういへば、わたしもそろそろその期限が来ますわ。」

「おや、それは困つた。まだこの仕事が片づかないぢやありませんか?」

イリリヤは、さつき貰つたまま手に握つてゐた人絹製造用のノズルが、三つほどまるで指貫のやうに静かな金いろの光つてゐる掌を、思ひ出したやうにあけてみて、じつとそれに見入りながら、

「まあ、この仕事の片づくまでは居るかも知れません。」

「で、帰つたら何をなさるんです。何か仕事がきまつてゐるんですか?」

「いいえ、別に、留学させてくれた機関が決めてくれるでせう。……わたしには別にこれといふ……」

口を噤んだ彼女は、折から十字路のストップで停車してゐる車の窓から外を眺めてゐたが、やがて車を動きだすと、急に晴れやかな声になつて、珍しくセルブ語の早口で、

「ああ、さうさう、忘れてゐました。今日は拳闘のある日でしたつけ。あの電柱に貼つてあるビラで思ひだしました。……堀田とゴンザゴの十二回勝負。……あなたは拳闘はお嫌ひ?」

さう言はれてみると、なるほど今日は土曜日だつたが、イリリヤと拳闘といふ取合はせに十吉は些か度胆を抜かれた形で、

「いや、実は観たことがないのです。……」

「面白いものですわ。初めて観たとき、あの堀田の……ダブル・パンチつて言ひましたかしら、あの片つぽの手で続けざまに撃つ遣り方……あれがきれいにはいつて、相手の人が鼻血を出してしまひましたの。その血が……」と、うつとり思ひ出すやうに天井を振り仰いで、「相手の人の真白な胸に、びつくりするぐらゐ沢山かかつたんです。それを見たとき、わたしは急に胸がむかついて来て、そのまま席を立つて出てしまひましたの。もう二度と見るものぢやないと思ひました。……ところが、暫くすると、またふらりと出掛けてみましたの。そしてたうとう、今ぢやもうあんな面白いものはないと思ふやうになりましたの。堀田さんの出るのは大抵観てゐますわ。……人間、いちど嫌ひにならないと、しんから好きにはなれないものと見えますのね。……」

この数ヶ月、彼女と同じ車で走り廻つたことは随分と度かさなつたが、彼女が自分から進んで何か話しかけるやうなことは一度もなかつた。ましてこの饒舌、この話題! 十吉は殆ど呆気にとられて、その横顔をぼんやりと眼の端に窮つてゐた。長い睫毛はいつもに変らぬ静かな微笑を宿してゐるらしい。伏眼になつてゐるところも同じである。ただ思ひなしか、その頬にはうつすらと紅味をさしてゐるやうな気がする。……

暫くして車が白金の公使館の前へ通りかかつたとき、彼女はふつと思ひ出したやうに、

「あのネステレンコといふ人、イアキントといふ名前なんですのよ。イアキント……花の名前、きれいな名でせう? ちよつとあの人には似合はないくらゐ……」

「さうでもないな。」

「イアキントつていふ花、日本語で何といひますの?」

「やつぱりヒヤシンス。支那語では風信子(と字を書いてみせて)といふのでせう。風のたよりの花。……」

「いい名ですこと。……わたしの家の辺りはあの花が一ぱい咲きますわ。ダルマチヤのずつと南寄りの、カヴタットといふ小さな岬ですの。……もう半月もすると、あの花が咲きだす季節になりますわ。……」

*

ミトローニク氏がとつぜんニューヨークへ転勤になつて去つた。出発の朝、ヴェランダの降り口で十吉の手を握つた氏は、珍しく元気な声で、

「成功を祈る!」

といひ、ぎゆつと力を籠めて打ち振つた。成功を祈る! 成功といふ字の意味は、進捗である。そこには一段々々踏みしめて行く手固い感じがある。日本語だと、どうも功といふ字が目について、何か結果ばかりを当てにするやうな気味があつてよくない……十吉はそんなことを胸の中で繰り返しながら、忙しげに次から次へと部員と握手をしてゐるミトローニク氏の後姿を、じつと見守つてゐた。

『やがてそのうち、やはりこの閾のあたりで、あのイリリヤと別れの握手をかはすことになるのだらうか?』

十吉はやがてふとそんなことを思ひ、いつぞやこのヴェランダにみち溢れてゐる朝の光線を背景に、ブラウエンベルグ老人と手をとり合つてゐた彼女の影絵を、あらためて心に呼び返すのであつた。彼はイリリヤの姿を目でさがした。彼女は壁ぎはの一団の人々の一ばん端につつましく立つて、順番を待ちながら、相変らず静かな微笑を含んだ眼ざしで、次第に移動してゆくミトローニク氏の姿を追つてゐた。その顔はさながら、

『まだわたしはここにゐる。』

と、われとわが心に言ひ聴かせてゐるやうであつた。

●図書カード

Chapter 5 of 5
|
광고
서평 한 편이 포인트가 됩니다
신청은 3초, 1,000포인트부터 현금으로 출금합니다. 출판사 102곳이 함께하고 있습니다.
펍스테이션 둘러보기