一 山荘の夜
「此処から足許があぶなくなりますから、みなさんご用心よ。」
彼等が、小流の畔に出ると、一ばん先に進んでゐた光代がかう言ひ棄てていきなり右へ折れた。驟雨に洗はれて空気の澄みきつた七月の初夜である。見あげれば少なからぬ星影は青く燦めいてゐるのであるが、此あたり一帯にすぐ背後に山を背負つてゐるために、闇は一しほに濃い。然し幸ひなことに砂みちであるので、その仄白さと、踏めばサラサラと微かに音を立てるのとで、さう歩き難い方ではない。よそ目には不機嫌と見えようまで黙りこくつた妹娘の真弓が姉のあとから歩いてゆく。真弓のあとに宏がついて行くのである。
――そのまがり角で、
「お先にいらつしやらない。」
と、真弓は無造作に振かへつた。
「いや、僕は一ばんあとが寛りしてゐていいな。」
「そオ。」
そのまま彼女の姿は右手の小径に消える。宏はわざと二三間おくれた。
小径は右に沿ふてはかなりの別荘の垣根つづきであるけれど、左手には薄が一めんに蔓つて、それでなくても狭い此道を更に三分の一ほども蔽ひかくしてゐる。その薄の叢を越えて二三尺も低く、細い流が闇にまぎれて、時たま思ひ出した様な鈍ひ水音を立ててゐる。これは如何にも、あの一風かはつた光代の選びさうな道である。
三人はそのまま暫く黙つて歩いた。ともすると、突き出た薄が彼等の足を切りさうにするので、うつかり冗談も言へないのである。此小径に折れるまでは、真弓だけは滅多に口を出さなかつたにせよ、光代と宏とは殆どしきり無しに声高に話をしてゐた。そしてその合ひ間には、殊に光代が、甲高い笑声をひびかせるのであつた。さう言ふ風に笑ふことが此晩の光代には快よかつた。あまり健康さに恵まれてゐないため、もう二十三にもなりながら、みすみす婚期の過ぎてゆくのを見送らなければならない彼女であるのに、それに、仮令それがふとした気紛れであつたとはいへ、つい此間の或る男性との失敗した関係、それらの事情を、怜悧な眼でとつくに見抜いてゐて、決して表面にはあらはさないものの、内心には笑や憫れみやを抑へてゐるらしい妹の真弓の前で、ともかくも立派な青年である宏を相手に、こんなに愉快に笑声を立ててみせることが光代には快よかつたのである。そのうへ、彼女が愉快らしく振舞へば振舞ふだけますます沈黙に落ちてゆく真弓の今晩の様子が、光代には一種の征服感に似た気持を齎らすのであつた。折に触れて、座敷か茶の間かで、光代の話声や笑が高すぎたりすると、自分の指がコンサイス・オクスフォードの頁を繰つてゐる時でもポンピヤン・クリームの瓶をいぢつてゐる時でも同じ様に、
「うるさいのねえ、姉さんは。」
と、わざと誇張した顰め面をする我まま娘の真弓なのである。その真弓が、今晩はまだ親しみの淡い宏がゐるために、あの傑作な「うるさいのねえ」や顰め面を、一生懸命になつて我まんしてゐるにちがひないことを思ふと、光代は可笑しくてならなかつた。
「あれでも、すこしは気取るやうになつたのかしら。……子供のくせに。」
光代は、さつき鏡台のまへで初めてみた、妹の嬌羞をもう一ぺん思ひ出さずにはゐられなかつた。彼女は振かへつてまともに妹の顔を覗いてやりたいと願つた。十九歳の真弓は時折さも分別あり気な顰め面をしてみせたりするけれど、その実まだほんの我ままなお嬢さんとしか、姉の光代の眼にはうつらなかつたのである。――あの時までは。
暫らくすると、道らしい道に出た。そこまで左手に沿つて来た小流を粗末な木の橋で渡ると、道は爪先上りにたかくなる。その坂を登りつめれば、彼等が訪れようとしてゐる扇ヶ谷の川瀬の家はすぐである。川瀬禎子は光代や真弓にとつては叔母で、夫が横須賀の鎮守府に勤めてめつたに帰つて来ないため、扇ヶ谷のかなり広い家はふだんは叔母とそれからその娘、つまり光代たちには従姉妹である英子との二人ずまゐである。尤も英子が東京のF女学校の寄宿にはいつてゐた頃は叔母ひとりであつたが、気楽な彼女はいつそそれをいい事にして、好きな三味線の稽古にありあまる時をつぶしてゐた。夏休になると長男の五郎が京都から帰つて来るので、川瀬の家も兎に角にぎやかになるのであつた。
今日も昼すぎに、濡れた海水着をタヲルできゆつと結へて片手にぶら下げた英子が、雪の下の下山(光代たちの姓)の家に寄つて、毎晩三人きりで退屈してゐるから、夕御飯でもおすみになつたら涼みがてら扇ヶ谷までお出掛けになつては、それから帰りは遅くなつたら兄がお送りしますから、と伝へて行つたのであつたが、その四時ごろ、逗子に滞在してゐる宏が驟雨に逢つて蒼惶として門をくぐつたので、丁度いいといふ事になり、三人で扇ヶ谷遠征となつたのである。宏といふのは、下山の家の長男で今は紐育の正金に勤めてゐる愛彦が新たに迎へた妻の従弟で、此夏になつて初めて雪の下の家に姿をみせた青年であつた。
しかし、夕食後にちよつとした喜劇がおこつた。一ばん先にお湯を済ましてしまつた宏は、回縁の角のところに籐椅子を持ち出して、先刻から大ぶ長いあひだぢつと動かずに、松の雫が一滴ごとに庭の砂地の表面に吸ひこまれてゆく跡をみつめてゐた。真弓は大柄な麻の葉の浴衣をだらしなく着た湯上り姿で、これは茶の間の敷居ぎはに据え直した鏡台のまへにべつたり坐つて、上気した顔に淡く白粉を刷いてゐた。庭さきの松の梢にはもう夕風が立つ頃であつた。光代は風呂場へ行かうとして浴衣をかかへて立ち上つた次手に、茶の間の電気をパチリとひねつたが、ふと此若い二人の取あはせを見ると、片頬にいたづららしい微笑をうかべた。
「ねえ真アちやん、宏さんさつきから大ぶご退屈の様だから、あなたお化粧が済んだら一足さきに扇ヶ谷にお連れしたらどう。私これからお湯をつかふのだから、待つてゐると遅くなつてよ。」
と言ひさしてぢつと真弓に眼をつけたとき、彼女は思ひもかけず鏡の中に、あかくなつた妹の顔を見出したのだつた。そのうへ、光代がはじめて妹のうへに見る女らしいしなを肩でかすかに作ると、真弓は、
「いいの、待つてゐるわよ。」
と、半ば宏の方に気を兼ねるやうに、不機嫌らしく言つたのであつた。
自分の境遇から、知らず知らず若い女性に或る病的な冷たい観察の眼をそそぐ年頃になつてゐた光代は、妹の此瞬間を見逃しはしなかつた。此時なのである。彼女が今まではほとんど女性として見たことのない妹の真弓に、その種の眼を向けはじめたのは。――こんな真弓の意地つ張りのために、彼等がそろつて雪の下の家を出たのは、驟雨のあとの夕ばえがながい夏の透きとほつた薄明にかはり、更にそれが次第に宵やみに融けこみはじめた頃であつた。むつつりと黙りこんだ真弓を中にはさんで。……
「今夜は月がないのかしら。」
めづらしく、川沿ひの小径からしばらく保たれてゐた彼等の沈黙を破つて、真弓の声がしたのは、坂道をほとんど登りつめて川瀬の家にほど近くなつたときであつた。光代は妹が自分のすぐうしろに、おとなしく従いて来るのに少し案外な気がして、おもはず眼眸をかへした。そして宏の姿が見えないので、闇の中をすかして見ると、十五六間も離れてそれらしい影がゆるゆると動いてゐる。
「あら、宏さんどうなすつたのかしら。」
姉の言葉に、真弓はうしろの方をすかして見たが、そのままぢつと佇んだ。光代は妹の前をすり抜けて二三歩あゆみを返して、
「宏さん、どうなすつたの。お草臥れになつたのぢやない。もう直きですよ。早くいらつしやい。」
「さうぢやないんだけど、あんまり静かだものだから。……」
と、宏はすこし急ぎ足に近づいて来たが、
「此辺は実にいい所ですね。鎌倉にしては珍らしい。」
「そんなにお気に召して。」
光代はあらためて松の樹の群をすかして見ながら、
「生憎月がなくてねえ。月の晩はそりやいいのですのよ。」
こんな事を言ふうちに二人が並んで歩きだすと、真弓はもう一人でさつさと山門をはいつてしまつたあとらしく、その四辺に姿は見えなかつた。川瀬の家はR寺の山門をはいつて、奥まつた右手の小さな丘の上にある。
「まあ、勝手なひとだこと。一人でずんずん行つてしまつたりして。」
光代はいま更に妹を非難する様に言つたが、宏をうながし立てると、すぐあとから山門をくぐつた。R寺の境内がよほど高いことは、いま石畳を右にはづれて地続きの丘に出ようとする二人の足もとに、扇ヶ谷一帯の松籟が黒くひろがつてゐることでも解るのである。その崖の上に、背面から迫つてゐる巌山が埋め残した百五六十坪ほどのひろさを我が物として、川瀬の家はその庭とともに手際よく配置されてゐる。宏が一目みて此家を山荘といふ二字に如何にもふさはしいと感じたのも無理ではなかつた。
光代が柴折戸めいた小さな門をはいらうとすると、そこには英子が顔いつぱい微笑みながら立つてゐた。
「今晩は。」
「あら、いらつしやい。――随分ごゆつくりなのね。あんまりお遅いものだからあたし、そこ迄お迎ひに出ようと思つてゐたのよ。」
英子は快活に話しかけたが、光代のうしろに見なれないひとの姿を認めると、急に口をつぐんでしまつた。それと知つて光代が、
「このかた、宏さん。あの、東京の……」
「まあ。――お噂は兼々うかがつてをります。よく……」
言ひかけたものの、自分乍らませた口調が可笑しくなつて、こみ上げて来る笑をやつとのことで忍びかくすと、袂を前に重ねて丁寧に会釈をした英子の肩に、房々したお下げの髪がみだれかかつた。そのまま軽やかに小柄な身をひるがへして、英子は飛石づたひに二人を奥にみちびいた。
鍵形に母家から突き出てゐる離房めいた八畳の縁側に真弓は腰かけて両足をぶらぶらさせながら、先刻とは打つて変つた賑やかな様子で、五郎を相手に笑ひ興じてゐた。英子は茶の間の踏石に駈け寄ると、
「お母さま、光代さんいらしつてよ。それから宏さんも。」
と、別荘地の生活に特有な人懐こい口調で母親に報告した。お得意の三味線の音締めに掛らうとしてゐたらしい禎子は、楽器を傍に置くとその肥つた体躯を起して、人の好い笑みを湛えながら、縁さきにあらはれて、
「光代さん、今晩は。――宏さんも、よくいらして下すつてね。」
宏は禎子の人の好い笑顔には東京で二度ばかり接したことがあつた。
「家のなかは暑くるしいから、お庭でいいでせう。ね、光代さん。」
叔母の提議に光代は肯いて、さつぱりとした調子で、
「さうですわ。――私たち勝手に騒ぎますから、叔母さまどうぞお構ひなく。」
「ええ、ええ。お婆さんは引つ込んでゐた方がねえ。お若い同志で思ふ存分お騒ぎなさいよ。――宏さん、此処にいらしたら遠慮しちや損ですよ。みんな不良がそろつてゐますからね。」
愛想よく言ひながら、禎子は室内に戻つて行つたが、やがて低い音締めがピーンと響いた。
「負けどほしさ。」
五郎はその時庭さきの籐椅子に歩み寄つた光代の方に顔をしかめて見せたが、
「宏さん、いらつしやい。」
と、世なれた調子で挨拶した。宏と五郎とは此夏になつて初めて雪の下の家で知り合つた間である。
「また、ペエシエンスなの。」
光代はポンと吐き出す様に言ふとその儘、くるりと身を転じて籐椅子に沈んだ。五郎と真弓との間には、トラムプの札が乱雑に散らばつてゐる。先刻から二た勝負ぐらゐ済んだ所らしい。真面目になると頭のはたらきが非常に正確になる真弓は、ペエシエンスでは決して五郎などに負けなかつた。
「僕はもう退却するぜ。宏さん、かたきを取つて下さいな。」
五郎がそろそろ立ちかけると、いつの間にか眼を庭さきの闇にそらしてゐた真弓が、
「卑怯よ、卑怯よ。」
と向き直る瞬間に、すばやい、そしてどことなく羊の眼のやうな臆病さを含んだ視線を宏の顔にはしらせた。そのとき彼女の瞳を、たとへば水面の星かげのやうに幽かで捉へにくくはあつたが、不思議に奥ぶかい光が、ちらと流れた。――
「宏さんみたいな秀才はいやよ。こわくつてとても敵やしないわ。」
「おや、おや。そいぢや僕は一たいどうなるんだい。悲惨だね。」
今度は本当に立ち上つて、五郎は違ひ棚の方へギターを取りに行き乍ら、
「英子、こつちへ来ないか。真弓さんがお前とペエシエンスをしたいんだとさ。」
「いま、お茶を入れてるのよ。」
と、奥の方から英子の声がした。
「あいつ、なかなか此頃は話せるやうになつたな。」
五郎は楽器をぶら下げて帰つて来ると、真弓に、
「弾いたげようか。」
「さうね。あんまり有難くないけど。――だけど五郎さんのギターも久し振りね。少しはうまくなつた。」
「どうして、どうして、素晴しく御上達さ。」
五郎は上機嫌で楽器の調子を合せはじめた。そこへ英子がお茶を持つて出て来て、
「サイダアがまだ冷えないものですから。」
と言ひ乍ら三人にすすめて、
「光代さん、こつちへいらつしやる。」
「私、動きたくなくなつてしまつたの。何だか。……」
光代は例の自分の気まぐれな癖が出たとは気附いてゐたけれど、何となく此処へ来た頃からこぢれて来た自分の気持を強ひて振りうごかすことの危険をおぼろげに感じてゐたので、そのまま動かうとはしなかつた。
「いいわ、いま其処へ持つて行きますわ。そして二人で仲よくお話しませうね。だつて、ここに居ると、ねむくなり相なんですもの。」
従順な英子は、お茶盆をささげて庭に下りて、光代の傍に席を占めた。
「セヴァストポール。」
五郎は勿体ぶつて題を宣告して置いて、扨すつかり澄まし込んで、彼の取つて置きの此秘曲を弾きはじめた。曲は露土戦争の悲壮な結末を表はしてゐるらしく、その沈痛に徹した弾音がときに稍たかまつて、暗い七月の夜の空気を静かにふるはせるのであつた。それに、五郎はそうした効果を生かす術を心得てゐたのである。つまり彼は自ら澄まし込むことによつて、一座の気持を巧みに捉へてしまふ、社交的な一種の芝居気の所有者であつたのである。で、音楽は、平生から五郎の芸術をけして尊敬してゐない真弓のうちにもそのなごやかな哀音を忍びこませた。向ふむきに籐椅子にうづまつてゐる光代の波立つた胸にまで、或る殉情的な調をつたへるのであつた。一座はしんとした。……
「ざつと、こんなものさ。」
五郎はニヤリと笑つて、悠容とギターを傍に置いた。一座は再びたくみに転換されようとした。
「すごいわね。五郎さん。」
真弓がお世辞つ気のない褒め方をした。五郎は瞬間の仮面を手際よく脱ぐために、敷島に火を点じたが、すかさず庭さきの光代に話を向けた。
「ね、光代さん。うまくなつたでせう。」
所が案外にもすなをに、
「よかつたわ。」
と答へられたので、いささか虚を衝かれた形だつたが、英子がそばから、
「兄さんはあれつきりなのよ。朝から晩までセヴァストポールなの。」
とまぜつ返したのを機会に、一座は華やかに笑ひ崩れた。糸は見事元の通りにほぐされてしまつた。
光代と英子とは同窓なので、学校の噂でも始めたらしく、小声で話しあつてゐるので、やがて離房の三人でツウ・テン・ジャックがはじまつた。逗子の親類の家に毎年の夏を送ることにしてゐるものの、殆ど孤独の圏外に出たことのなかつた宏は、かうした一群にはそぐはない自分を感じはしてゐたけれど、次第にさうした空気にも慣れて来たので、勧められるままにおとなしく競戯に加はつた。しかし余りトラムプを弄んだことのない宏は勿論、寧ろおつき合ひにいい加減にお茶を濁してゐる五郎も、熱心になつて相手の札を記憶してゐる真弓の敵ではなかつた。真弓はずつと勝ちつづけた。勝負が第四ラウンドのハートに来たとき、五郎はあんまり札を切らされたので指が痛くなつたと不平らしく顔をしかめた。さうかと思ふと、響のたかい声で、庭の英子に呼びかけた。
「おい。サイダアはどうしたんだい。」
「ああ、さうさう。すつかり忘れてゐたわ。」
「江戸のかたきを長崎ね。」
真弓は斜めに五郎をにらめて、庭に下りると、低声に何か英語の歌を口ずさみ乍ら、崖に近い植込の萩の叢に下半身をかくした。
サイダアが運ばれると、禎子も下りて来て宏にいろいろと話しかけた。此庭の四季の眺のとりどりに佳いことや、裏山に登ると由井の曲浦が一望のうちに収められることやを、唐詩選あたりの文句を引合に出して長々と話すのであつた。そして今度の秋には、向ひの峰の紅葉を眺めに是非いらつしやいと附け加へた。しかし腕時計を見るともう九時半であつた。宏は帰らなければならなかつた。
「さうですわね。鎌倉にいらつしやるのなら幾ら遅くなつてもいいけれど、逗子ではね。」
と、禎子が立ち上り乍ら宏に同意した時、団扇を片手にくるくる廻して退屈さうに庭を歩いてゐた真弓が小さな声でつぶやいた。
「それぢや、私も帰らうかしら。」
「真弓さんはいいぢやないの。姉さんもまだいらつしやるのだし、遅くなつたら五郎に送らせますよ。」
母の言葉のあとから、光代の傍でギターをいぢつてゐた五郎も、
「本当に僕が送つたげるぜ。一日ぢうこんなところに籠城ぢややりきれない。浜へでも行つて見ようと思つてるのだから。」
と引きとめたが、真弓は聴かずに、
「やつぱり、帰るわ。」
と言つた。
「相変らず我ままやさんねえ、真弓さんは。」
禎子は微笑んだ。真弓は宏よりも先に、柴折戸の方へずんずん歩いて行つたが、そこで思ひ出したやうに振返つた。
「五郎さん。いつか讓さんとこへレコードを聴きに行かない。新しいのが大ぶ輸入つたのですつて。」
「ああ、行つてもいいな。でも何時にする。」
「さうね。――明後日にしない。」
そのまま、五郎の返事も待たずに、真弓は柴折戸からすうつと出てしまつた。……
籐椅子に身をうづめた光代はこれ等の会話を聴きながら黙つて深い瞳をぢつと山峡の闇に凝らしてゐた。彼女は身動きもしなかつた。いや、さう言ふのは適当ではない。彼女は自分の意志にもかかはらず、身動きすることが出来なかつたのである。彼女は自分の意地があべこべに自身を締めつけて離さないことを感じた。彼女は出来るだけ心を落着けて、今晩のともするとこぢれ勝ちの自分の気持を凝視してみようと試みた。しかし、結局それがはつきりとしない、狭霧のように取りとめのない、いつもの気まぐれに過ぎないらしいことが解ると、彼女は悲しかつた。彼女には自分が何となく哀れな者に思へるのであつた。自分の気持が、確りした対象に向つてこぢれてゆくことが、せめて彼女自身の心だけにでも信じられたならば、恐らく光代は満足だつたにちがひないのである。
はじめは、帰つてゆく若い二人へのぼんやりした嫉妬に似たものかとも考へてみた。しかしそれは直ぐに否定してしまへた。何故ならば、彼女は宏に男性としての関心を有つてゐなかつたからだ。それならば、――と考へた瞬間に彼女はハッとした。それは、妹の美はしい生長に対する自分の不安な心づかひではあるまいか、と考へたのである。
これとても決してきつぱりと断定してしまへるほど確かな姿を有つたものではなかつたけれど、それにしてもこれは光代に取つては想像するだけでも致命的な思想であつた。光代のこれからの生活に大きな不幸の予兆を投げかける思想であつた。真弓のなかに日毎に康らかに眼覚めてゆく女性、その反対に自分のなかに日毎に容赦もなく涸渇してゆく女性、此対立を今程はつきりと認識したことはないと彼女は思つた。智識、愛、そして幸福な果てしなく拡がつてゆくであらう生活の波、――妹の前途に微笑んでゐるありとある美しい幻像が、彼女には怖しかつた。光代は思ひもかけない苦しさを自分のすぐ行くさきに見出して、かすかに身を顫はせた。彼女はぎゆつと両手を握りしめたまま、いつ迄もいつ迄も闇の中をみつめてゐた。……
真弓と宏はならんで山門を出た。二人の間には殆ど完全な沈黙が保たれてゐた。はにかみと言ふよりはもつと別の或るものが、二人を沈黙に置いたのである。次第に女性の芽ぐむ年頃になつてゐ乍ら、それでゐて人一倍つよい少女らしい衿持を有つて、周囲のほとんど総ての男性を冷視してゐた真弓は、いま眼の前にあらはれた青年に対する自然な新しい興味に誘はれる前に、その澄み切つた理智の眼で宏を凝視しようとしてゐたし、宏の方では、此沈黙ずきな不思議な少女、その裡に何か特異なエスプリをかくしてゐるらしい真弓を、彼らしい浪曼的な考へかたで少からず偶像化しながら、彼女の魂の窓へと静かな聴耳を立ててゐたのであつた。
二人は黙つたまま、ゆるゆると扇ヶ谷の坂道を鎌倉の町へと下りて行つた。