Chapter 1 of 5

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雪の宿り

神西清

文明元年の二月なかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡丹雪に変つて、午をまはる頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入つてゐるやうである。人気はない。さういへば鐘の音さへも、今朝からずつととだえてゐるやうな気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。

申の刻になつても一向に衰へを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞ひ下りるが、中ぞらには西風が吹いてゐるらしい。塔といふ塔の綿帽子が、言ひ合はせたやうに西へかしいでゐるのでそれが分る。西向きの飛簷垂木は、まるで伎楽の面のやうなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れてゐる。

うつかり転害門を見過ごしさうになつて、連歌師貞阿ははたと足をとめた。別にほかのことを考へてゐたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩められてゐるので、ちよつとこの門の見わけがつかなかつたのである。入込んだ妻飾りのあたりが黒々と残つてゐるだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思はぬ深い雪に却つて手間どつた貞阿は、単調な長い佐保路をいそぎながら、この門をくぐらうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねてゐたのである。

ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内は、まるで京を縮めて移して来たやうな有様で、連歌師風情にはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいつて、連歌友達の玄浴主のところで一夜の宿を頼まうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。

玄浴主は深井坊といふ塔頭に住んでゐる。いはゆる堂衆の一人である。堂衆といへば南都では学匠のことだが、それを浴主などといふのは可笑しい。浴主は特に禅刹で入浴のことを掌る役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大華厳寺八宗兼学の学侶のあひだに親しまれてゐる。それほどにこの人は風呂好きである。したがつて寝酒も嫌ひな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあつたのである。

その夜、客あしらひのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にも漬り、固粥の振舞ひにまで預つたところで、実は貞阿として目算に入れてなかつた事が持上つた。雪はまだ止む様子もない。風さへ加はつて、庫裡の杉戸の隙間から時折り雪を舞ひ入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏をかこんで、問はず語りの雑談が暫く続いた。

貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条兼良で、去年の十一月に本領安堵がてら落してやつた孫房家の安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太閤もめつきり老けられましたな、などと玄浴主が言ふ。とつて六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸だが、事実この矍鑠たる老人は、近年めだつて年をとつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳徴が遷化して以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあつたこの二人の禅僧を喪つて、兼良生来の勝気な性分もめつきり折れて来た。あの勧修念仏記を著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、序でに一慶和尚の自若たる大往生ぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添へさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書したと云ふのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌を打つ。

客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献の振舞ひに預つて、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分つて来た。尤も最初からそれに気が附かなかつたのは、貞阿の方にも見落しがある。第一殆ど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにゐた。応仁の乱れが始まつて以来の東奔西走で、古い馴染を訪ねる暇もなかつたのである。自分としては戦乱にはもう厭々してゐる。しかし主人の身になつてみれば、紛々たる巷説の入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身を曝してゐたこの連歌師の口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差当つては明日にも、恐らく斎藤妙椿のところへであらう、主命で美濃へ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。

それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛礫であつたのは、去年の夏この土地の法華寺に尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹いてゐるらしいことであつた。世の取沙汰ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫く腰を落着けて、鶴姫の噂が色々とあらぬ尾鰭をつけて人の口の端に上つてゐるのに一驚を喫したが、工合の悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母に上つて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……

主人の口占から、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無下に情を強くしてゐる訳にも行かない。実際このやうな慌しい乱世に、しかも諸国を渉り歩かねばならぬ連歌師の身であつてみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝へて置きたい人の上のないこともない。……さう肚を据ゑると、銅提が新たに榾火から取下ろされて、赤膚焼の大湯呑にとろりとした液体が満たされたのを片手に扣へて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪の音を虚空に聴き澄ましながら、客はおもむろに次のやうな物語の口を切つた。

御承知のとほり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷に上りますまで、東福寺の喝食を致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままのお稚児で、奥向きのお給仕を勤めてをられた衆のなかに、松王丸といふ方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたらうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついお懐きくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思へば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火のなかで遽しいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向になり断えずお看とり申上げるやうな廻り合せになつたのでございます。あの方のお声やお姿が、今なほこの眼の底に焼きついてをります。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。

その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、お歳こそ七十ぢかいとは申せまだまだお壮んな頃で、かねがね五山の学衆の、或ひは風流韻事にながれ或ひは俗事政柄にはしつて、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規を衆徒に御講釈になつてをられました。その厳しいお躾けを学衆の中には迷惑がる者もをりまして、今義堂などと嘲弄まじりに端たない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますことも洵にお厳しく、十七年のあひだ嘗てお脇を席におつけ遊ばした事がなかつたと申します。この御警策の賜物でございませう、わたくし風情の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝つて見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚に列なるものが多々ございました。その中には相国寺のあの桃源瑞仙さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱の学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であつたと伺つてをります。

このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児を、お二方ともよくよくの御鍾愛のやうにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参つたものでございます。さういふお席で、お伴について来られた松王様が、傍らにきちんと膝を正されて、易だの朱子だのと申すむづかしいお話に耳を澄ましてをられるお姿を、わたくしどももよく垣間見にお見かけしたものでございました。

この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございませう。右兵衛佐殿(斯波義敏)の御曹子で、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役伊勢殿(貞親)の、奥方の縁故に惹かされての邪曲なお計らひが因で父君が廃黜の憂き目にお遇ひなされた折り、一時は武衛家の家督を嗣がれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金でむざんにも家督を追はれ、つむりを円められて、人もあらうにあの蔭凉軒の真蘂西堂のもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛はしいお弟子入りについては、色々とこみ入つた事情もございますが、掻撮んで申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略の牲になられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差図で、いま西の陣一方の旗がしら、左兵衛佐殿(斯波義廉)が渋川家より入つて嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸ひお妾の妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵愛無双のお妾であられたのを頼つて、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事の序で、これまた黒衣の宰相などと囃されて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入つて、そのお口添へを以て公方様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名利争ひではございますまいか。これが畠山殿の御相続争ひと一つになつて、この応仁の乱れの口火となりましたのを思へば、その陰にしひたげられて、うしろ暗い企らみ事の只のお道具に使はれておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛はしいの何のと申す段のことではございません。

このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞祥と申しますか妖兆と申しますか、色々と厭らしい不思議がございました。まづ寛正の六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜亥の刻ごろ、その大いさ七八尺もあらうかと見える赤い光り物が、坤方より艮方へ、風雷のやうに飛び渡つて、虚空は鳴動、地軸も揺るがんばかりの凄まじさでございました。忽ちにして消え去つた後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿(在貞)などの奉られた勘文では、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるひは人民流散、流血積骨の凶兆であつた趣でございます。当時、何ぴとの構へた戯れ事でございませうか、天狗の落文などいふ札を持歩く者もありまして、その中には「徹書記、宗砌、音阿弥、禅竺、近日此方ヘ来ル可シ」など記してあつたと申します。前のお二人はわたくしの思ひ違へでなくば、これより先に亡くなつてをられますが、観世殿が一昨年、金春殿が昨年と続いて身罷られましたのも不思議でございます。それにしましても世の乱れにとつて、歌よみ、連歌師、猿楽師など申すものに何の罪科がございませう。思へばひよんな風狂人もあつたものでございます。

わたくし風情が今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得てをりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、わたくし共の目に余ることのみでございました。天狗星の流れます年の春には花頂若王子のお花御覧、この時の御前相伴衆の箸は黄金をもつて展べ、御供衆のは沈香を削つて同じく黄金の鍔口をかけたものと申します。その前の年は観世の河原猿楽御覧、更には、これは貴方さまよく御存じの公方さま春日社御参詣、また文正の初めには花の御幸。……いやいやそんな段ではございません、その公方さま花の御所の御造営には甍に珠玉を飾り金銀をちりばめ、その費え六十万緡と申し伝へてをりますし、また義政公御母君御台所の住まひなされる高倉の御所の腰障子は、一間の値ひ二万銭とやら申します。上このやうななされ方ゆゑ、したがつては公家武家の末々までひたすらに驕侈にふけり、天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ、人はともあれ我身さへ富貴ならば、他より一段栄耀に振舞はんと、このやうな気風になりましたのも物の勢ひと申しませうか。

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