芭蕉の生涯
芭蕉は寛永二一年(一六四四)伊賀上野赤坂町に、松尾與左衞門の二男として生まれた。松尾家は與左衞門の代に柘植から上野に移り、手習師匠を家職としていたという。芭蕉の幼名は金作、長じて甚七郎、別に忠右衞門とも稱した。十歳の頃、藤堂家の侍大將藤堂良精に召されて、その嗣子良忠に近侍した。良忠は芭蕉と同年輩で、俳諧を北村季吟に學び俳號を蝉吟と稱したが、芭蕉も主君とともに俳諧をたしなむようになった。彼が季吟の門人として出發し俳諧を生涯の計とするに至った機縁はこの少年時代の出仕にあったわけである。
今日知られている芭蕉の最古の發句は、松江重頼撰『佐夜中山集』(寛文四刊)に、主君蝉吟とともに、松尾宗房の名で入集しているつぎの二句である。
姥櫻咲くや老後の思ひ出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
芭蕉二一歳の作である。以後、風虎撰『夜の錦』(寛文六刊)、季吟撰『續山井』(寛文七刊)、正盛撰『耳無草』(寛文七刊)、安靜撰『如意寶珠』(寛文九成・延寶二刊)、正辰撰『大和順禮』(寛文一〇刊)、春流撰『藪香物』(寛文一一刊)、維舟撰『時世粧』(寛文一二成)、梅盛撰『山下水』(寛文一二刊)等の諸集に伊賀上野宗房、または松尾宗房として入集しているが、いずれも古風で類想的な域を脱しないいわゆる貞門の作風である。
寛文一二年一月二五日、彼は伊賀上野の天滿宮に三〇番の發句合、すなわち『貝おほひ』を自撰して判詞を加え、奉納した。これが彼の處女撰集であるが、當時の小歌の詞章や奴言葉などを豐富に採り入れた判詞や序跋は後年の才氣をうかがわしめるものがある。これよりさき、寛文六年四月二五日主君蝉吟は死去し(享年二五歳)、六月中旬彼は使してその位牌を高野山報恩院に納めたという。その後の經歴には不明な點が多いが『貝おほひ』奉納の頃まで引きつづいて伊賀に在住したものと思われる。一般に芭蕉が主君の沒後致仕し(あるいは致仕を乞うたが許されず出奔し)上洛して學問修業につとめたという説が行われているが確證はない。
『貝おほひ』奉納の後、彼は江戸に下り同じ季吟門の小澤卜尺(仙風とも)宅に身を寄せ、その後本郷・濱町・本所高橋等を轉々とし、卜尺や杉山杉風の援助を得ていたと傳えられる。また醫に携わって素宣と號したり、小石川關口水道工事の小吏となったりしたともいう。「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむ」(幻住庵記)として摸索をつづけたのもこの時期であるが、やがて彼は、江戸の俳壇に頭角を顯わし、當時流行した談林の新風の先端を行くようになった。延寶三年五月、當時東下中の西山宗因指導の百韻に、幽山・似春・信章(後に素堂)等とともに桃青の號で一座したのをはじめとして、翌延寶四年春、信章との兩吟集『江戸兩吟集』、延寶五―六年にかけて成った信章・信徳との三吟集『江戸三吟』等によってその俳人としての地位は確立していった。
當時、『江戸通り町』『江戸新道』『江戸廣小路』『江戸蛇之鮓』等、江戸という文字を冠した俳書が多く上梓された。これらは新興都市江戸の俳壇が上方俳壇に對抗しようという意欲を示したもので、かつ新風を大膽に開拓して行く活氣に滿ちていたが、芭蕉もその間にあって、つねにそれらの俳書に名を連ね、颯爽の作風を示していた。
延寶八年四月、杉風・嵐亭(後に嵐雪)・螺舍(後に其角)など門人二〇名の獨吟歌仙集『桃青門弟獨吟二十歌仙』を刊行したが、當年の彼の聲望と俳人としての確乎たる地位をうかがうに足るものがある。同じ年の九月其角・杉風それぞれの二五番の自句合「田舍句合」「常盤屋句合」に判詞を加え、『俳諧合』として上梓もした。その冬、杉風の下屋敷のあった深川六間堀に居を移した。幕府御用の魚問屋杉風の生簀にある番小屋を改造したものといわれる。その庭に植えられた芭蕉は草庵の名となり、やがて彼の俳號とされた。
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
深川庵住以後の作風には、右の二句のように(言水撰『東日記』延寶九刊所收)當時の俳壇の新傾向を反映して形式内容ともに漢詩調を中心とし、滑稽機智を中心とした古俳諧を止揚してやがて蕉風俳諧を開拓して行く芽生えを認めることができる。四〇歳に近づいた彼はこの時期にはすでに俳諧に生涯をささげるべく意を決していた。延寶九年(天和元年)七月、其角・才磨・楊水と四人で行った『俳諧次韻』をはじめとして初期蕉風が成立したのもこの時期である。又、佛頂禪師に參禪したのもこの頃のことであった。
天和二年冬、駒込大圓寺から出火した大火のため芭蕉庵が類燒し、芭蕉は笘をかぶり潮にひたって難をのがれたという。後年、其角は『枯尾花』に芭蕉がこのとき猶如火宅の變をさとり無所住の心を發したと記している。難後芭蕉は高山麋塒に伴われて甲斐の國谷村に赴き、その次男六祖五平(五兵衞)の許に身を寄せ、翌天和三年夏まで滯在した。甲斐より江戸に歸着して間もなく、門人其角の撰になる『虚栗』が成った。「芭蕉洞桃青鼓舞書」と署名した彼の跋文は俳風刷新の意氣ごみと自信を示している。『虚栗』の調子は、
鬢風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ
夜着は重し呉天に雪を見るあらん
のように、漢詩の書き下しのような堅い表現と古風からまったく離脱して幾分衒學的な伊達好みのものであるが、當時の俳壇の先端を行く清新さを示している。この年の九月には親友山口素堂等の協力によって芭蕉庵は再興され、彼は再び草庵の生活に入った。
庵住して約半年、貞享元年(天和四年)の八月、芭蕉は門人千里を同伴して『野ざらし紀行』の旅へ上った。「野ざらしを心に風のしむ身かな」の吟を殘して東海道から伊勢路を經て九月はじめ故郷へ歸り、さらに大和吉野に秋をさぐり、山城・近江・美濃を巡遊して初冬の頃に熱田に入った。七部集の第一の集『冬の日』はこのとき荷兮・野水・重五・杜國など名古屋の門人達と行った五歌仙である。『冬の日』により蕉風は確立されたともいわれるが、この旅行の間に作られた句文はまったく舊來のものと面目を一新したものであった。年の暮には再び伊賀へ歸り翌年二月中旬まで滯在、奈良・京・近江・尾張を經て木曾・甲斐を通り九ヵ月ぶりに江戸に歸着した。
山路きて何やらゆかし菫草
辛崎の松は花より朧にて
など、名吟として今日まで人々に口ずさまれる句の幾つかはこの旅行の間にできたものである。彼の文學に重要な役割を果した旅行はこの後何度か行われたが、この『野ざらし紀行』の成果はその中でももっとも意義深いものがある。
貞享三年春、芭蕉庵で催された『蛙合』には「古池や蛙飛びこむ水のおと」の句が生まれた。また、八月には尾張の門人達の撰になる『春の日』が出版された。後年、七部集の第二集とされたものである。翌四年八月には宗波・曾良を伴って鹿島へ赴いた。名月を觀るためであったが、鹿島では佛頂禪師を訪れ、神宮參詣の上八月末江戸へ歸った。この折の紀行文を『鹿島紀行』或は『鹿島詣』という。落ちつく暇もなく芭蕉は旅行の準備にかかり、やがて十月の末には江戸を發って歸郷の途についた。いわゆる『笈の小文』の旅であるが、「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の繪に於ける、利休の茶に於ける、其の貫道する物は一なり」という言葉はこの『笈の小文』に書かれている。俳諧に生涯を託する彼は俳諧も古人の風雅に連なる藝術性をもつものであるとの強い自覺と信念を持つようになっていた。「旅人と我が名よばれん初しぐれ」にはじまって、この旅中の吟の多くは藝術的彫琢を經たすぐれたものである。故郷に新年を迎えて、貞享五年(元祿元年)春杜國とともに吉野に遊び、須磨・明石まで足を延ばし四月末に京に入ったが江戸出立からこの入京までの紀行が『笈の小文』である。發句のみならず紀行文としても舊套を脱するために心をくだいたものであったが、『おくのほそ道』に比べるとまだ見劣りのする點が少なくない。
約四〇日間京・湖南の地に滯在した芭蕉は、六月上旬東下の途につき、八月中旬まで尾張にとどまり、信州更科の名月を觀るため越人を從えて旅立った。『更科紀行』の旅である。そして八月の末には江戸へ到着したが、「去年の秋江上の破屋に云々」の『おくのほそ道』冒頭の語句はこれにあたる。
久しぶりの芭蕉庵の生活と江戸の門人達との交歡の間に日を過した芭蕉は、さらに陸奧の旅へと心を奪われるようになった。明けて元祿二年、この旅行は三月の末に實行に移された。本書に詳しく見られるように約半年にわたる行程六百里の大旅行は彼の生涯で最大の旅である。以後沒する年まで推敲が加えられて成ったのが『おくのほそ道』の一卷である。
『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、伊勢參宮をすませて九月末に郷里へ歸り二ヵ月ほど滯在し、年末には上京して湖南の膳所で越年した。それより元祿四年秋東下するまで足かけ三年、芭蕉は上方の諸地方を巡遊し、門人の指導育成にあたったが、蕉風はこの間に完成流布した。元祿三年春には『曠野』、八月には『ひさご』が出版された。七部集の第三・第四の集にあたる重要なものであるが、その年彼は四月から八月まで近江石山の奧國分山にある幻住庵に入庵していた。『幻住庵記』に見える彼の生活と思想は俳人として圓熟老成した境地をよく示している。元祿四年には四月一八日から五月四日まで洛西嵯峨にある去來の別墅落柿舍で過した。この時の日記が『嵯峨日記』である。また、この間に去來・凡兆を助けて七部集第五の『猿蓑』を撰ばせた。『猿蓑』は蕉風俳諧の最高の境地を示すものであり、古來俳諧の古今集といわれている。かくして京畿に蕉門の確乎たる地盤ができ上ったことは忘れてはならない事實である。
元祿四年一一月一日、芭蕉は支考・桃隣をつれて江戸へ久しぶりにもどった。橘町の彦右衞門の店をしばらくの宿として越年、翌五年の五月に杉風等の世話で三度芭蕉庵が建てられ、俳人としての多忙な日日がつづくようになった。八月には許六が入門、九月には膳所の珍碩が芭蕉庵の食客となったが、これらの俳人達とたびたび俳筵が設けられた。
元祿六年晩春、芭蕉庵に病氣を養っていた甥の桃印が逝去した。芭蕉の深い落膽のほどは當時の書簡ににじみ出ている。初秋の頃「閉關の記」を草して對客を辭したのもこの前後の彼の人間的な苦惱を物語るものである。だが、これも一月足らずで破れて、門人の出入も俳諧も從前通りに盛んに行なわれるようになった。翌七年にかけて『炭俵』の歌仙が卷かれた。『炭俵』は七部集第六の集で、芭蕉晩年の俳風「輕み」を代表するものである。
元祿七年五月一一日、芭蕉は最後の旅に出立した。次郎兵衞を同行、同二八日に伊賀上野着。「麥の穗を便につかむ別かな」という留別吟は何となく心細く、彼の心身の疲れはかなり甚だしいものがあった。六月はじめに江戸より壽貞の死が傳えられた。壽貞は芭蕉の若い頃交渉があった女性と思われ、最後の旅への出立にあたって芭蕉庵に移ったようである。旅に伴なった次郎兵衞は、他のまさ・おふうの二人とともに壽貞の子であるが、芭蕉との間に生まれたとは考えられない。
九月はじめ支考を相手に『續猿蓑』の編集が終った。七部集第七の書で元祿一一年刊行された。その八日、支考・惟然・次郎兵衞等とともに奈良を經て大坂へ向ったが、大坂到着の日から病氣がちであった。二七日園女亭の俳席が最後であったが、この頃作られた、
此の道や行く人なしに秋の暮
此の秋は何で年よる雲に鳥
の句は、寂しさと身の弱りを歎ずる彼のため息が感じられるようであるが、二九日夜に激しい泄痢を催し、日増しに容態は惡化して行った。一〇月五日、病床を花屋仁左衞門の裏座敷に移し、急を聞いて諸方から馳せ參じた門弟達の手あつい看護をうけつつ、その努力と祈りも甲斐なく一〇月一二日永眠した。享年五一歳、辭世の句は「旅に病んで夢は枯野をかける」。
遺骸は一三日膳所の義仲寺に運ばれ、遺言により一四日その境内に葬られた。