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冷吉は自分には考へる女がなかつたものだから、讀んだ物の中の、赤い鳥を遁がして出て行く女を、自分の女にして考へてゐた。そのために自分に女のないのが餘計に暗愁を増すやうな事もあつたけれど、それでも外に何もないのだから、やつぱりその女を考へずにはゐられなかつた。
それは表紙が好きだから買つて來た、譯したものを集めた、或本に出てゐた小説であつた。冷吉はいつも、その女が家から遁げて出かけて、窓の鳥籠を下しに引き返すパセイジを考へ浮べるのが癖になつてゐた。
その本は母に見附けられて、間もなく取り上げられて了つたから、その小説の作者の名前も、耳馴れぬ長い外國名前だつたといふ事しか記憶してゐなかつた。けれども、冷吉にはもとよりそんな事はどうでもよかつた。何の本でもたゞ戀の事さへ書いてあれば、解らないところがあつてもいゝから、ずん/″\貪つて讀んでゐた。
戀の女はグレツチエンといふ女である。そこはオランダの、何とかいふ、昔からの物の蹟の多い、古い町であつた。相手の青年畫家は、フランスからこの町へ來て、こゝの女のしめりつぽい碧い目と、琥珀色の絹のやうなふさ/\しい髮と、純白な裾長い着物を着た、典雅な姿を寫し取るために止まつてゐた。さうしてそんなモデルに相應しい女を見出す前に、或古い寺院の壁畫に畫かれた、十字架に倒れたキリストを取り下して、窃かに土に葬り入れつゝあるマグダーレンが、わが求めて來た女の型をしてゐるのを戀ひて、その女を活きた女のやうに毎日見に行つてゐたが、或夕方、同じこの畫の前に禮拜して、最早薄暗くなつた圓柱の蔭に下りて行く一人の女の、目差と膚と、白い着物の痩せた形とが、壁畫のマグダーレン自身が拔け出たよりも、もつとそれに似て居るのに愕いて、その儘どこへどう去つたとも別らぬその女に戀ひ移る。
青年はそれからは毎日その姿を求めて町をさまよふのであつた。さうして話の記載の何頁かを置いて、再び夕方の或物古い町角で、その、わが悲しい妻となるべきグレツチエンが、圖らずも、小さい雨の中を、この男の戀ひ求める目の前を過ぎるのに會ふ事が出來た。
男は急いで跡を附けて行つた。けれども、それは全く自分の目の迷ひであつたかのやうに、いつしかその女の姿を見失つて、雨の足のみ蜘蛛の絲のやうに絶え/″\に落ち續く、靜かな町筋の路上に空しく立ち止まらなければならなかつた。青年はかうしてまた久しい間のはかない求めの續きに返りつゝ、暮れかゝる町筋をしほ/\と行くと、或しめやかな家の窓に、小さい雨に濡れつゝ懸つてゐる、薄赤い色の鳥のゐる鳥籠を、入れ忘れたらしい飼主の女の手が、丁度男が下へ來かゝる時にカーテンを開けて取り入れるよと見ると、それが見失つたマグダーレンの女であつた。
男はそれからは幾度も、この窓の下を往き返るために出て來るけれど、生憎戀ひる女の一部分をも見る事を得ずして、毎日同じその窓に置かれた鳥籠の中へ、紙切れに、
「わが戀ふるマグダーレンに似た女よ。」と書いては入れて行き/\した。女は夕日の沈む時刻にその鳥を取り入れる度に、いく度も得る同じ手の同じ文字の紙切れをいくつも溜めて、やつと自分を戀ひる男だと知ると共に、日夜小さき胸を轟かせて、その誰だとも別らぬ男を戀ひる。男はその前に畫のマググーレンに戀ひた。女には生れてはじめての戀であつた。
かくして、遂に女は男から熱した心を私語かれる或日が來た。やがて男は、女をつれて、晝と夜との麗しい、人に見られぬ國へ落ちようといふ。女は小鳥のやうな驚きに惑ひつゝも、たゞ男のいふ何事にも從ひたいために、何を考へ返す餘裕もなくそれを肯うて、一人小さい胸を戰かせる。
翌る日の夕方、男は馬車を町角に待たせて窓の下に立つた。窃かに待つてゐた女は、身も空にそつと拔け出して、たそがれの蔭りの石段を下りて男の肘に投ずる。
「いゝか?」と男はわく/\して私語く。女は打ち顫へつゝ、現ともなく手を引かれて小走りに駈け出したが、走せつゝも何だか心にかゝる。何かもう一度一寸戸口まで引き返さなければ濟まぬやうな心持が後に引かれる。
「待つて下さい。一寸待つて。」と、遂に女は男に請うて一人走せ歸つた。
あの鳥。出し忘れたあの鳥。――女は背延をして窃つと窓の鳥籠を下すと、せか/\とその金網の口を開けて、鳥を取り出して放して了ふ。鳥はぱた/\と夕方の目を掠めて立ち上つた。女はわが久しく飼ひつゝ馴れたその赤い色が、どちらへどう飛んだかを見極めるいとまもなく、そのまゝ走せて馬車に乘る。
女はかうして男のものになつて家を出て行つて了つたけれど、男はしばらく伴らつてゐる内に、いつしか女に對して段々に石膏のやうな冷い男になつて來る。男は自分の女の價を忘れて、再び畫のマグダーレンを戀ひ求めるのであつた。女にはこれまで自分がこの男に戀されてゐた譯がやう/\解つて來た。男はやつぱり自分を戀したのではなかつた。男が自分を求めたといふことは、自分を通して暗に畫のマグダーレンを得ようとしたのである。畫の女から、活きた私語と口づけとを得るために、マグダーレンに似た自分を戀したのみである。男には遂にあの畫かれた女の外には何物もあり得ないのであつた。
果して男は、しまひに、女に畫のマグダーレンの儘の扮裝をさせて、それをカンバスの前に立たせて、自分の戀ひるマグダーレンを、この女を通して自分の手で再現しようとする。女は畫にかゝれながら男にいふ。私はあなたの前にはたゞあの畫の女の人形であつた。けれどもその單なる人形もこのやうにあなたを戀ひてゐる。どうぞ畫が出來ても、私をもいつまでもお側にだけはつれてゐて欲しいと言ひつゝさめ/″\と泣いて、涙ながらに男に畫かれて行くのであつた。
冷吉はこのしまひのところで、自分がこの女のやうにほろ/\と涙が出た。それほど女の心が哀れであるだけに、さきに女が籠から遁がして出た鳥の赤い色が、それだけ悲しい色を増して、どうしても女が自分の女のやうにしか考へられなくなるのであつた。
毎日頭の痛い冷吉は、何をするのも厭で、いつも灰色のやうなさびしい心に、この鳥の女の事なぞばかり考へて怠惰けてゐたが、家にゐると祖父から終日何だかだと解らない事を言つて、がみ/″\言はれるのが五月蠅くてたまらないので、どこか一人かけ離れたところへ遁げて、じつと自分の好きなやうにしてゐたくてならなかつた。母だつて、心配して自分の氣嫌ばかり取る癖に、自分の頭がどんなに惡いかといふ事が分らないのだから何の足しにもならない。冷吉は少しの間――の宿屋へでも行つてゐたいと母にねだつた。それが丁度祖父と言ひ爭つた當分だつたので、そのために出て行つて了つたやうに誤解されては私が困るからと、母はいろ/\に言つてなだめたけれど、しまひには持て餘して、それではどうなりとするがいゝと言つたのをいゝ機にして、たうと出て行つた。
冷吉は汽車に乘り遲れて、じと/″\と雨になつた午後を、薄汚いベンチにかゝつて、いら/\した頭を抱へて次の列車を待ち飽ぐんだ。何だか自分がさうして出た事を悔いるやうなその時の陰鬱な心持は、あとで考へると、飛んでもない拙らない災害を受ける事の或物を暗示したやうな氣特がした。
行つた先は、父のゐた時分から家の行きつけの心安い海水浴の宿屋であつた。かういふ、冬が往つたばかりの時分に一人でひよつくり來たものだから、主婦さんは待ち設けない事で、どこか體でもお惡いのですかと聞いた。冷吉はありの儘に、頭が痛くてくさ/\するから母にさう言つて出て來たのだと話した。
時が時だから他にはだれ一人泊つてゐる客もなかつた。上り口の次の間には、座蒲團や煙草盆やちやぶ臺なぞがすつかり積み寄せられてゐた。主婦さんは、ひつそりした帳場で、物馴れないやうな年の入つた下女とたつた二人で解し物なぞをした。大きな二た棟の建物は、冷吉の這入つた階下の一室の外は、上下とも悉く灰色の雨戸が鎖されて、部屋へ出這入りする廊下なぞは、いつも夕方のやうに暗かつた。それに丁度、來てから薄曇つた日ばかり續いて、三月と言つてもまだほろゝ寒い潮風に、閉切つた障子は終日どんよりと蔭つてばかりゐた。外へ出て試たつて探す日向もなかつた。
それでも家にゐて祖父にぐづ/″\言れてばかりゐる事を考へると、厭な籠から出てゐるやうなものであつた。冷吉は物蔭に馴れた淋しい鳥のやうに、たつた一人でのそ/\してゐた。さうして、頭のぢき/″\痛い、暗くなる心を充たすために、例の赤い鳥の女の事なぞばかり考へた。かういふ剥げたやうな淋しいところにゐて、いろ/\の事を考へるのが、自分の、求めても得られない、孤獨な心持に似合はしいやうに感じられた。何だか止み間なく物に考へ入つてゐるやうな氣がして、その癖何にも取りとめた事を考へてゐるのでもなく茫つとしてゐるやうな事もあつた。
冷吉は頭が疲れて來ると、門の外に茫んやり立ち盡して、薄寒くしぶく、果てもない大洋を見た。人と口を聞いたりするのも厭であつた。それには、この家の主婦さんは、世話は何でもよくしてくれるけれど、黒人上りの妾にも似ず、しつとりした、餘計な事を言はない女だから面倒臭くなくてよかつた。
かうして冷吉は時々當てもなく、自分を知るものゝ一人もゐない、この古けた町の裏筋なぞを、例の見失つたマグダーレンに似た女を求めて彷徨ふやうな心持を包んで、剥げ黒ずんだ、物さびしい家ばかり並んだ、日影もない、どんよりした小路に沿うてぶら/″\歩いた。
たゞ町の表筋へは厭だから出なかつた。その町筋の或部分には、やつぱりぼろ/″\の草屋根の下に、思ひ/\の、惡どい色をしたのれんの下つた家が澤山あつて、その後から頭ばかりてか/\光らせて白粉をべた/″\になすつた、狐の面のやうな女が、洗ひざらした、薄汚い着物の膝をだらしなく崩して、通るものを見さかひもなく調弄つた。
「ちよいと/\。容子がいゝよお前さん。」
「へん、つん/\して行くわよう。憎つたらしい。」
「あら、何だと思つたらまだ十六七の子供ぢやないの?」
こんな、しわがれた惡體をついて、大勢でげら/″\笑つた。冷吉はかういふ墮落した女の慘ましいさまを見るのに堪へないやうな氣がして、こゝを通るのが不愉快であつた。
冷吉がこの町筋で思ひも設けぬ災害に會つたのは、來てから六日目の暗い夜であつた。
冷吉は母へ出す手紙を郵便局へ出しに行くために、仕方なくこの町筋を通りかゝると、さうした或あいまい屋で、破れたやうな、下手な三味線を彈いてゐる店先に、ぼろけた重くろしさうなどてらを着た、船乘りらしい汚い男が二三人、板の間に乘さばつて、コツプ酒の息で互にふざけ合つてゐた。
冷吉がその前を通り過ぎて、物の小半町も行きかけると、後から、一人の男が、何か惡戲をして遁げて來たらしい容子で、息を切らしてあたふた走り過ぎたが、だれか追つかけて來るものを待ち設けるやうに後を振り返りながら、ついと横の小さい路地へ外れて暗がりに隱れた。するともう一人の男が、やつ張り前の男に調弄はれでもしたと見えて、怒つたやうにその男の名を呼びかけながら、火の消えた提灯を持つて息卷きながら追つかけて來た。大分醉つてゐるらしく、足許も危つかしくよろ/\してゐた。
「畜生。どこへ行きやがつた。何とか。」と呼び立てながら、よろけ/\冷吉の側を通り拔けて向うへ行つた。すると、隱れてゐた一方の男は、甘く相手を遣り過して、こつそりと元來た方へ引き返して行つた。すつぽかされた男はそれとは氣附かずに、譯の解らない事をぶつ/″\言ひ罵りながら、ふいと往來の眞ん中へ立ち止つて、何か考へ出さうとしてゐるものゝやうに見えた。後で考へると、それは兵兒帶の解けたのを結び直してゐたのであつた。
冷吉はさつきから、この男たちは、今通つた店でわい/\言つてゐた連中らしいといふ事を考へたゞけで、もとより何の氣もなく、その立ち止つた男の側を通り拔ける拍子に、その男が引き摺つてゐた帶を、薄暗がりだからつひ見えないで踏み附けた。
「何だおい。」と、その男は下駄に壓へられた帶を引つ手繰つた。
「どうも濟みません。」