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サイモン・ロールズ師は倫理學でも名の聞こえた人だつたが、神學の研究でも竝々ならぬ練達の士であつた。彼の「社會的の義務に關する基督教義に就て」と題する論文は、それが出版された當時、牛津大學で相當な評判となつたものであつた。また僧侶や學者の仲間では、若いロールズ氏が教父の權能に關する大著述――それは二折本になるといふ事だつた――を考へてゐるといふ事も一般に知られてゐた。だが之等の學識も、功名心に滿ちた計畫も、まだ彼を高僧の地位に陞らせる助けにはならなかつた。そこで彼は先づ何よりも牧師補の地位に有りつかうとしたのであつたが、その頃ふとした事から倫敦のある方面をぶらついてゐると、靜かで庭の眺めの面白い家に行き當つた。獨りで暮してしつかり勉強したいとも思ひ、また下宿料も安かつたので、かうして彼はスタックダヴ町の植木屋のレイバーンの家に住むことになつたのであつた。
一日に七八時間づゝ聖アンブローズだの、聖クリサスタムなどの事を研究した後で、毎日午後になると、彼はきまつて薔薇の花の咲き匂つてゐる間を、冥想しながら散歩する事にしてゐた。そしてかういふ折が一日の中でも最も良い考への浮ぶ時であつた。だが思想を求めてやまぬ眞面目な究理心も、解決を待つてゐる重大問題に關する心の昂奮も、世間の小さな動搖や、または世間との接觸から、いつもこの哲學者の心を引き留めて置くとは限らなかつた。そこでロールズ氏は、ヴァンデラー將軍の秘書役が着物をぼろ/\にして、からだからは血を流して、宿の亭主と連れだつてゐるのを見た時、また二人が顏色をかへて、何か聞かれるのを避けようとしたのを見た時、そして殊に秘書役が如何にもそしらぬ顏をして、自分の名を打ち消した時には、彼は忽ち聖者も教父も忘れ果てゝ、ありふれた強い好奇心を起したのであつた。
「私が間違つてゐる筈はない。」と、彼は考へた。「確かにあれはハートリー君だ。どうしてあんな慘めな樣子になつたのだらう? なぜ自分の名を打ち消したのだらう? そしてこゝの亭主のあの腹黒らしい男に何の用があるのだらう?」
彼がかうして思案をめぐらしてゐると、今一つ奇體な出來事が彼の注意を惹いた。レイバーンの顏が戸口の次の低い窓に現はれた。そして偶然にもその眼がロールズ氏の眼と行きあつた。すると植木屋はどぎまぎして、びつくりしたやうな樣子さへあらはした。そして直ぐその後で部屋の日よけが忙しく引きおろされたのであつた。
「これでも別に何事も無いのかも知れない。」と、ロールズ氏は思案した。「これでも至極當り前の事かも知れない。だが私は確かにさうでないと思ふ。疑はしさうな容子をしたり、後ぐらい態度をとつたり、嘘を吐いたり、人から見られるのを恐れたり――どうも確かに、」と、彼は考へた。「二人は何か不都合な事を企てゝゐるのだ。」
誰の心の中にでもある探偵心が眼をさまして、それがロールズ氏の胸の中で騷ぎ出した。そこで彼のいつもの歩きぶりには全く似つかぬ、活溌な、熱心な足どりで、庭をぐるりと一巡りしようとした。かうしてハリーが塀を越えた場所までくると、彼の眼はすぐさま、壞れた薔薇の藪と、土を踏みつけた足痕とに捉はれた。眼をあげて見ると、煉瓦の表面には引つ掻いた痕が付いて居て、壞れた瓶のかけらからはズボンの裂布がひらめいてゐた。さうすると、レイバーンの親しい友達といふのは、かうした遣り方で庭へ這入つて來たのだ。ヴァンデラー將軍の秘書役は、かうして花園の見物にやつて來たのだ! 若い僧侶はこゞんで地面を調べながら、獨りで輕く口笛を吹いた。彼はハリーが危ない跳び方で飛び降りた場所を見分ける事が出來た。彼は深く土の中へめり込んでゐるレイバーンの平な足痕を見つけたが、それは庭師が襟頸をつかんで秘書役を引き起した時につけたものであつた。いや、もつとよく調べて見ると、何かそこに撒きちらされて、熱心にそれが掻き集められたやうに、その邊を掻きした指の痕も見分けられるやうに思はれた。
「いやどうも、」と、彼は考へた。「大分、事が面白くなつて來たぞ。」
ところが丁度その時、彼は何か土の中に殆ど全く埋まつてゐる物のある事に氣が付いた。そこで直ぐさま掘り出してみると、それは金の飾りや留金のついてゐる上品なモロッコ革の箱であつた。それはひどく踏みこまれてゐたので、レイバーンがあわてゝ探した時にはその眼に這入らなかつたのである。ロールズ氏は箱をあけて見た。そして殆ど恐ろしくなつたほど驚いて、長い溜息を吐いた。といふのは、そこに、緑の天鵞絨の搖籃に埋まつて、竝はづれて大きな、この上もない美しい光澤のダイヤモンドがあつたからである。それは家鴨の卵ぐらゐの大きさで、美しい形に切つてあり、少しの疵も無かつた。そして日光がそれに當ると、電光のやうな光澤を放ち、その中にある無數のが彼の手の中で燃えるかのやうに思はれた。
彼は寶石の事は殆ど知らなかつた。併し王のダイヤモンドは説明のいらないほど驚くべきものであつた。もし田舍の子供がこんな寶石を見付けたとしたら、きつと大聲をあげて手近の家へ驅けつけて行くだらう。そして野蠻人なら、かういふ驚くべき物神の前には、崇拜の極平伏するだらう。全くこの寶石の美しさは、若い僧侶の眼をうつとりさせた。その測り知れないねうちを思ふと、彼の智力も打ち負かされてしまつた。今自分の手に持つてゐる物は、大僧正の地位からする數十年の收入よりももつと價値のあるものである事が分つた。これがあれば、イリーやコローニユの伽藍よりももつと堂々たるお寺を建てる事が出來る。またこれを持つてゐる者は永久に生活難から解放されて、心配も焦慮もなく、また故障も妨害も受けず、自分自身の望み通りに暮して行ける事も明かだつた。そこで彼は突然それをころがして見ると、またも新らしい光輝が躍り出して、自分の胸まで射透すかと思はれた。
人の決定的な行動は、屡瞬間的に行はれて、必ずしも理性から意識的にばかり生み出されるものでは無い。ロールズ氏の今の場合がさうであつた。彼は大急ぎであたりを見した。だが、レイバーンの時と同じやうに、日の當つてゐる花園と、高い樹の梢と、窓に日除のおりてゐる家の外には何も見えなかつた。そこで彼は急いで箱を閉ぢて、ポケットに突つ込んで、罪を犯した覺えのある人の足どりで、あわてゝ自分の書齋へ歸つて行つた。
かうしてサイモン・ロールズ師は王のダイヤモンドを盜んだのであつた。
その日の午後まだ早い頃、警官がハリー・ハートリーと共にやつて來た。植木屋は恐ろしさに顛倒してしまつて、忽ちその贓品を吐き出してしまつた。そこで寶石は秘書役の目の前で一々確かめられ、目録に載せられた。ところでロールズ氏はどうかといふに、彼はひどく親切さうな樣子を見せて、自分の知つてるだけの事をあけすけに述べ立てた。そしてこれ以上警官の手傳ひが出來ないのが殘念だなどゝ附け加へた。
「でも、あなたの仕事ももう大抵お終ひでせう。」と、彼は附け足した。
「いやどうして。」と、警視廳から來た役人は答へた。そしてハリーが直接に犧牲となつた二度目の盜難の事や、まだ見つからぬもつと大切な寶石のことや、殊に王のダイヤモンドの事などを、精しくこの若い僧侶に話してきかせた。
「それでは一身代位のねうちはありませうね。」と、ロールズ氏は言つた。
「どうして、十身代も――二十身代もありますよ。」と、警官は言つた。
「ねうちがあればあるだけ、」と、サイモンは拔目なく言つた。「賣る事も餘計むづかしくなるでせうね。さういふ物は隱しきれない形をしてゐるものです。もしそれが賣れるなら、聖ポールのお寺だつて容易に話がまとまりませうよ。」
「いや、全くです!」と警官は言つた。「併しその泥棒が悧巧な奴だつたら、それを三つか四つに截つてしまふでせう。それでもまだ十分金持になれますからね。」
「どうも有難うございました。」と、僧侶は言つた。「實に面白いお話を承りました。」
そこで警官は、自分達は職業上いろ/\な事を知つてゐるのだと打明け、やがてそこそこに歸つて行つた。
ロールズ氏は再び自分の部屋に戻つた。ところがそれはいつもより小さくて、何となく物寂しいやうに思はれた。自分の大著述のために集めた材料も、こんなにつまらなく思はれた事はなかつた。彼は自分の書齋を輕蔑の眼で眺めやつた。幾人かの教父の本を一册一册手に取つて、それに眼を通して見ても、自分の目的に適ふやうな事は何一つ書いてなかつた。
「これ等の昔の人達は勿論非常に立派な著述家に違ひない。」と、彼は考へた。「だが實際の人生に就いては恐ろしく無智だつたらしく思はれる。こゝにゐるこの私は僧正になれる位の學問を持つてゐる。それでゐてこの手に這入つたダイヤモンドをどう處置してよいか全く分らないでゐる。私はたゞの巡査から暗示を受けた。そしてこんなに書物はありながら、私はその暗示を實行に移すことさへ出來ないでゐる。して見ると大學教育などゝいふものは何の役にも立たないものだといふ事が分る。」
そこで彼は本棚を蹴倒した。そして帽子を被つて、大急ぎで家を出て、自分の加はつてゐる倶樂部へ出かけて行つた。かういふ世間的な集會所へ行つたら、好い相談相手にも會へようし、世間の事に鋭い經驗のある人にもぶつつかるだらうと思つた。そこで讀書室に行つて見ると、そこには澤山の田舍僧侶と、一人の副僧正がゐた。それから三人の新聞記者と、一人の哲學者とが玉突をやつてゐた。そして食事になると、ありふれた倶樂部の御定連が、いつもの平凡な役にも立たぬ顏をあらはした。これ等の人達のうち一人でも、自分が知つてゐる以上に、かういふ危險な問題を知つてゐる者はないだらう、自分の今の窮厄に解決を輿へてくれる者はないだらう、とロールズ氏は思つた。それからあき/\する程階段を上つて、喫煙室へ這入つてみると、そこで何となく體格の立派な、服裝のひどく淡白な一人の紳士に行き當つた。その人は葉卷を嚥みながら「隔週評論」を讀んでゐた。その顏は不思議にも何かに心を奪はれてゐるやうなところや、疲れてゐるやうなところは全くなかつた。またその樣子には何となく人の信頼を受け、服從を期待するやうなところがあつた。若い僧侶はこの人の容貌をよく見れば見るほど、自分に適當な助言を與へてくれる人に出會つたと信じないではゐられなかつた。
「突然でまことに失禮ですが、」と、彼は言つた。「お見かけ致しますところ、あなたは世間の事をよく御存知のお方だと思ひますが。」
「成程その事なら多少は分つてゐると思ひますが。」と、その人は雜誌を傍へ置いて、半ば面白いとも思ひ、半ば驚いたやうな顏色をして答へた。
「私は、」と、ロールズ氏は續けて言つた。「世捨人で、學究で、インキ壺や、教父に關する書物などを相手にして暮す人間でございます。ところが近頃ある事件に出あつて、自分の愚な事がはつきり分つて參りました。そこで世の中といふものをもつとのみ込みたいと思ふやうになりました。尤も世の中と言つても、」と、彼は附け加へた。「私はサッカレーの小説などの事を言ふのではございません。吾々が造つてゐるこの社會の罪惡や、隱れた萬一の見込や、それから例外な出來事などの間で、賢明に振舞ひ得る原則などを言ふのでございます。私は讀書家としては辛棒強い方ですが、今のやうな事は書物から學べる事でせうか。」
「どうもむづかしいお話ですな。」と、その人は言つた。「ざつくばらんに言ふと、私は本といふものは、汽車で旅行する時に慰みに讀む外には、たいして役に立つ物だとは思ひません。尤も天文學とか、地球儀の用法とか、農學とか、または造花法とかに就いては、相應に正確な著述があると思ひますが。世の中の事に關する漠然とした方面では、本當に役に立つやうな物はあるまいと思ひますよ。だが、お待ち下さい。」と、彼は附け加へた。「あなたはガボリオーの物をお讀みになつた事がありますか?」
ロールズ氏は、そんな名は聞いた事も無いと答へた。
「ガボリオーの物を讀んで見れば何か面白い考へに打つかるかも知れませんね。」と、その人はまた言つた。「あの人の物は少くとも暗示的です。そしてビスマルク公が非常に研究したほどの作者だから、最も惡い場合を考へても、立派な人達の仲間入をして暇潰しをする位のものですな。」