7
庸介は、ずーっと前から、そこに深く心を寄せていた。
入口の戸がいつも半開きのままに打ち捨てられてあった。彼は時々ここへそーっと一人で忍び込んで行った。昼間でもその中は薄暮のような光しか無かった。頭の上へおっかぶさるように藁束が堆く積み重ねられてあった。すかすかするような、それでいて馬鹿に甘ったるい乾藁の蒸れる匂いがいつもむんむん籠っていた。屋外の苗木林で、木の葉がそよ風のためにひらひらと裏返えしにされるのや、やがて枯れてからからと散ってゆくさまやが、戸のすき間から覗かれた。
彼は、小半時間もそこから出て来ないような事もあった。そして注意深くあたりのようすをうかがっていた。また、どうかすると、藁束に身を靠せかけたままいつか心持が重くなってついうとうと転寝の夢に入るような事さえもあった。それにもかかわらず、これまでについぞ一度、物に驚かされたという事も無ければ、近づいて来る人の足音さえも聞かなかった。
彼は、そこから再び外へ出て来ると、いつも「まったく安全だ。」こう思わない事はなかった。
彼女の心は、すでに十分に鞣され、撓められてあった。この上はただ、彼女に最後の暗示を与えさえすればよいのであった。……
十二
農家では夕飯がすむと多くは早くから寝床へもぐり込んだ。若い者どもだけは、煙草入れや尺八などを腰へさしこんでそーっと外へ出て行った。卑猥な雑談にふけったり、流行唄を唄ったりして夜更けまで闇の中をあちこちとうろつき廻った。年頃の娘のいる家の裏口のあたりへ忍び寄って、泥棒ではないかと家の人達に怪しませたりする事も尠くはなかった。庸介の家の女中部屋の裏でも時々そうした怪しい人影が出没した。夜廻りに行った人に驚いて、慌ててばたばた走け出したりする事もたびたびであった。家の人達は老医師はじめそれを快い事には思わぬながらも、長年馴れっこになっている事とてさして気にも掛けなかった。ところが、都会の学校生活を終って来たばかりの房子には、それが酷く気に入らなかった。何かにつけてそれを云い出した。
「厭だわ! ほんとに。……妾にはとても我慢ができない!」
そしてそれを云う時にはいつも眉を顰めて、ほとんど泣き出しそうにした。
「ほんとにうるさいんでございますよ。昨夜なんかも終夜雨戸のそとでごとごとやっているんですもの。」こんな事を女中達が云う事があった。しかし、その口振りには何となくそれほど気にしているらしくもないので、それが房子には酷く不審に思われた。
「どうかできないんですの?」
こう彼女はよく父や母に訴えた。
ある家では、乱暴にも女中部屋の窓を打ち破って闖入した者があった。そこの家では、困り果てたので大きな犬を他家から貰って来て飼った。すると、一週間も経たぬうちにその犬は村の若い者どものために人知れず殺されてしまったとの事であった。こんな噂さが房子の耳にも入った、房子は歯を喰いしばって身を慄わした。顔色が蒼くなった。「……とても我慢ができるものか。こうなっては、もう一刻もそのままにさせて置くわけにゆかない。どんな方法をしても、……ピストルでも放すほかはない。……よろしいとも!」こんなふうに考えるほど激昂した。
「今日、これからすぐに駐在所へ誰かをやって下さい。そしてお巡査さんに今晩からよく見廻りして貰うようにして下さい。」こう云って父親に迫った。
「そんな事を云ったって、こんな大きな村に巡査が一人しかいないのだから、とてもそんな事まで手が届くものではないよ。」と、父は笑いながら云った。
「いゝえ、そんな事ってありません。それじゃ、警察署へ云ってやって大勢応援して貰えばいいでしょう。」
「ところが、こんな事はこの村ばかりというのではないからね。どこもここも一帯にそうなんだから。」
「それだからと云って、そんな……そんな、」
「房子、そんなにお前のように心配したものでもないよ。家の者にはどんな事があっても手出しなんかしやしないのだから、召使いの者共にほんのちょいと調戯ってみるだけなのだよ。」
「いゝえ、いゝえ、放って置くという法はありません。決して。……まったく許す事のできない悪い事です。それは泥棒よりも悪いんです。人殺しよりも悪うございます。そうですとも確かに。……人殺しよりも悪うございますとも。……世界中で一番悪るい事です。一人残らず縛り上げてしまうがいいのですわ。」
「そう一図にお前のように云い初めたって……。」
両親は娘をなだめようとしたが、
「人殺しの方がどれほどましだか知れないわ、……こんな事を何ともできないくらいなら巡査なんか無い方がいいんだわ。ほんとに、……何といういまいましい、何という憎々しい……」
房子はどうしても黙ってはいなかった。
昼間はついうっかり忘れているが、夜になると、彼女はいつも深く部屋の中にとじ籠って、そして烈しい憤りに心をいらいらさせていた。恐ろしい大蛇のような者から附け覘われてでもいるかのように気味悪るがって、矢も盾もなく不安でたまらなかった。
「そんな者の手にほんのちょっとでも触られる位なら、その前に死んだ方がましだ!」こんなに思った。
……一人の大きな荒くれた男と悪戦苦闘を続けているような夢をよく見た。……短刀をもってとうとう敵者を突き殺してその上になおも、黒い毛のもじゃもじゃ生えたその胸のあたりを飽くまでも切りつけていたような夢から覚めて、びっしょり身体中に流れている汗を拭うために起き出た事さえ一二度あった。
房子は、とうとう庸介に迫って響察署へ匿名の手紙を書かせた。しかし、何日まで待っても、むろん何の甲斐もなかった。
そのうちに何時か房子も馴れて来たのでか、次第に初めのような気のもみようもしなくなった。
幾カ月か経った。
ある夕の事、それは日が暮れて間もなくであった。家の裏手の方で、急に房子のけたたましい悲鳴が聞かれた。「それ、何事が起った!」というので時を移さず家の者は一人残らず履物を穿かずに飛び出して行った。
人々はどんなにか吃驚した事であったろう。房子は、物干のところで、まるで死体のようになって地べたへ打っ倒れていた。慌てて水を吹きかけるやら、気つけを飲ませるやらしてようやくにして蘇生させた。家の中へ連れ込んで来てからも、房子は瞳をぶるぶるふるわして物を云う事さえできないようすであった。家の人達には、房子が何でそんな事になったのだか、ずーっと後まで解からなかった。何でも何か干物の入れ忘れていたのを急に思い出したので、もう日が暮れていたがすぐ二十足も歩けばよい所なので提灯を持たずにそれを取り入れに行くと、どこかの物蔭に隠れていた一人の若い者が急に忍び寄って来て、いきなり房子を抱き上げた。それでびっくりしたままに思わず大声あげて叫び出したのであった。がそのあとはどうなったのか彼女自身にもわからなかった。
房子は、すぐに寝床の中に横にされたが、しばらくすると非常な大熱になった。氷嚢で、取換え取換え頭を冷してやった。いろいろ薬も飲ませたが、何もかも一向にその効目がなかった。現実の物の形や、響きや、それ等が彼女には何の交渉もなかった。そして、絶えず何か恐ろしい幻影に追い責められてでもいるらしく、それから逃れでもするようにしきりと身体をもがいた。両手でしっかり顔を蔽い隠したり、また、時々訳のわからない事を云って悲鳴をあげた。静かな眠りは一時間と続くことがなかった。……身体は燃えるように熱かった。こんな事がちょうど三昼夜もつづいた。
めずらしく彼女は静かにすやすやと眠っていた。そしてその後に目を開いた時に、初めて再び彼女は幻影の世界から帰って来た。
房子は、そこに附き添っていてくれた兄の顔を懐しげにじっと見入った。そしてあどけない羞らいを帯びた微笑を口元に浮べて、
「兄さん!」と呼んだ。
庸介は、ほっと安心した喜ばしい顔を妹の顔の上へつき出して、
「おや、房子、お目覚めなのかい?」と云った。そしてその額のところを軽く撫でてやった。
「何だか、……わたし大変だったわね。」と、晴やかに云って、それから「いったい、どうしたんでしたの?」と憂わしげに附け加えた。
それにもかかわらず、兄は、
「それよりも、お母さんをすぐに呼んで来てあげよう。ね、すぐに来るから。」こう云ってそこを走り出た。
父も、母も、一同が房子の枕元へ集って来た。房子が、やがて、
「もう、すっかり良いようよ。妾、大変にのどが乾いたから何か飲むものを少し頂戴な。」
こんな事を云い出したので、みんなすっかり、楽っくりして悦こんだ。病人がしきりに事のおこりを聞きたがるままに、母がそのあらましを話してやった。房子は熱心にそれに聞き入っていたが、急に、酷くふさぎ出した。それからやや長い間何か深く考えこんでいるようすであったが、急に、いかにも絶望的な声をあげて泣き出したのであった。誰一人としてその意味がわからなかった。いたずらにまごまごして彼女の背中を擦ってやったりするほかになす術も知らなかった。
幾日も房子の容態ははかばかしくなかった。彼女は、誰が何と云っても黙りこんで重く欝いでばかりいた。時々いかにも堪え兼ねたと云ったように、わあと急に泣き出したりするのであった。
房子は、自分の身体の所々に痛みがあるように覚えた。それは、みんな「あの時」のが残っているのだと思った。そう思うと一切がそんなふうに意做されて行った。どの追想もどの追想もすべて「それ」を証明するに十分であるように思われた。庸介は彼女をかくまで酷く心痛させている根をすぐに了解できたので、妹の部屋へ行くたびに、
「そんな馬鹿な! 断じてそんな事はなかったのだよ。……僕が確に証明してやる。……お前が叫び声をあげた時と、僕が走けつけて行った時との間には、三十秒とは経っていなかったのだから。」こう云って聞かせた。しかし、房子は、それを信じるよりも自分の思っている方を信ずるのが何層倍も真実らしく、かつ楽のような気がした。彼女の意識内には、次第に惑いが無くなってゆき、悲痛のみが間断なく、反対なく独占してゆくようになった。そして不思議にも今は、それの方がかえって彼女自身には安易で、どこか快いように思われてゆくのであった。仕舞には父の与える薬さえ嫌い出した。
「身体の方はもう何ともないんだわ。それだのに何でこんな薬をいつまでも飲んでいなければならないというのだろう。」なんて云うようになった。「なんでも、妾を呆然にさせてしまって、それで『あの事』をすっかり妾から忘れさせてしまおうというんだわ。」と思った。
「そうとしても、これを飲むと馬鹿に睡くばかりなってしようがないんだもの。何か考えようとしてもどうしてもそれを長く続けていられないんだもの。何か思おうとしてもちっとも甘く思う事ができやしない。こんな風だと、かえってだんだんわたしの頭が悪くなってゆくばかりだわ。……わたし、この上にまた、気でも狂うような事でもあったらどうしよう。それでなくてさえ、『あんな事』があった身だのに。……何という情ない事になったのだろう。」と云って、気をもんでは泣き出した。
屋外には峻酷な冬が、日ごと夜ごと暴れ狂っていた。世界はすべて、いやが上にも降り積もる深雪の下に圧しつぶされて死んだようになっていた。
ある夜、その夜も屋外はひどい吹雪であった。ちょうど真夜中とも思われる頃、房子が彼女の部屋の中で急にけたたましい声で、
「……早く、早く、誰か起きて下さい。……それ! そこへ逃げて行く。」こんな事を呼び出した。
隣りの部屋に寝ていた両親は驚いて、寝巻のままで走って行った。房子は土のような顔色をして、闇の中に怪しげにぼんやり立っていた。どうしたのかと聞いてみると、今、自分がふと目を覚ましてみると、自分の床の中に一人の男が入っていたのに気がついた、そしてそれはいつから入っていたのだか自分にもわからなかった。……自分が驚いて飛び起きるとその男は慌ててどこかへ逃げて行ってしまった。というのであった。そして彼女は、
「事によると、先達の男かも知れません。きっとそうです。……そこから逃げ出たのに相違ありません。」と云って、小窓の方を指差した。が、むろん、そのあたりに何の異常のあろうはずはなかった。