Chapter 1 of 28

その一 魔窟の女

暗い踏切の手前で円タクをとめた。旦那、お楽しみですねと若い運転手がにやにやしながら、釣り銭を出した。なに、言ってやがると砂馬慷一はその小ぜにをひったくるようにした。道路の向うを汽車の線路が横断している。旧式の機関車がその道路の真中に立ちはだかって、老いぼれの喘息病みみたいに、ゼーゼーと白い息を吐いている。市外の、ここは場末のどん尻だ。

歩道のはじに屋台が並んでいる。縫い目に一列にとっついたシラミみたいだ。屋台はつぎはぎだらけの布でかこってある。この通りはからっ風が強いのか、ぼろ隠しのような布の下には重石がつけてある。石は囚人を縛るような麻縄でからげてある。豚の腹綿を焼いている煙が、もくもくと布の間から立ちのぼっている。

砂馬と俺は右手の路地にはいった。この辺が一等地だと砂馬は言う。上玉の女が揃っているというわけだ。道の左手は、安いけど女が落ちる。俺たちは、その日、金を持っていた。リャクでせしめた金である。

一等地の女は路地に出て、客の引っ張りをしたりはしない。この魔窟は女からひったくられやすいソフトをかぶって来るなとか、ポケットの万年筆を女に取られて泣く泣くあがったとかいうのは、同じシマでも場所がちがうのだ。「品よく」(とは砂馬の言葉だが)家におさまっていて、

「ちょいと、ちょいと」

女の顔だけが見える小窓から、通りすがりの男たちに呼びかける。

「ちょいと、兄さん」

「ちょっと、ちょっと、眼鏡の旦那」

両側から誘いの声がかかる。ちょんの間なら、一円五十銭でも自分を売ろうという呼びかけである。

「ちょいと、洋さん」

洋服さんという意味である。ちょっと、その洋服を着た旦那――という呼びかけである。きょう日とちがって、和服の着流しがまだまだ多かったころである。

「ちょっと寄っといでよ」

「ほらほら、ちょっと、ここをのぞいてごらんよ」

日の暮れるのが早い季節で、暮れてから大分になるが、時間としてまだ宵の口だ。だのに、細い路地には早くも人がひしめいていた。

路地を行く男は、こうした両側の小窓から、女たちの眼と声の一斉射撃を浴びるので、これでなかなか度胸がいる。路地の真中を、ほかの用で歩いているかのような足どりで行くのは、こういう場所にまだなれない男である。ときどき、ちらっと横目で小窓のなかをのぞく。声をかけられると、大ゲサに飛びのいたりする。なれた男は、雨降りの軒伝いみたいにして、いちいち小窓をのぞいて行く。買いたい女を物色する。お、いい女だねえと言ったりする。これは逆に、寄る気のないちゃらんぽらんである。心得た女は、いけすかないねえとか、場所ふさげをするんじゃないよとやり返す。

俺は、まあ、横目使いと軒伝いの中間みたいなものだった。

気のせいか、この路地には、トロ(精液)の臭いとそれから消毒液の臭いが、むーんと立ちこめているみたいだった。女に飢えた男たちの息、熱っぽい人いきれもくさい臭いを放っているにちがいない。

路地は迷路のようにつづいていて、家と家の間の、ひと一人やっと通れる狭い道には「抜けられます」と書いてあった。道の奥にも、買い手を待っている女がひそんでいることを、そうして示しているのだ。

軒さきに鬼婆みたいなのが立っていた。そのうしろにセーラー服の少女がしょんぼりと顔を伏せている。初見世なのである。あるいは、初見世ふうにして売ろうとしているのだ。少女は黒っぽい素足に赤い鼻緒の下駄をはいていた。

「どうだい」

と俺は言った。

「駄目だよ」

と砂馬は言った。年増じゃなきゃ、駄目だと言った。

セーラー服の少女は、近づいてその顔を見ると、少女とは言えない齢の顔だった。白粉がうまくのらない、むらむらの顔は、ついこの間まで野良で働いていた娘らしいとも思われる。砂馬はしかし、三十すぎた女でなきゃ話にならんと言う。砂馬の言う年増とはその齢ごろのことである。そしてその年増とはあばずれという意味でもあった。

あらゆるタイプの女がここにはいた。お好みの女を買えるのだ。根よく探せば、自分の好きな映画女優に似た女が、きっと見出せる、そういう場所だった。思えば、淫売窟華やかなりしころだったのである。

砂馬の言う年増が、

「ちょっと寄ってらっしゃいよ」

と小窓から言った。ざらざらした声だった。若い子は洋服が多いのだが、この私娼は着物を着ていた。へらへらした生地の、安物の着物の衣紋を思い切り抜いて、その頸筋から肩にかけて白粉を真白に塗りたくっていたが、その顔は齢をごまかす厚化粧ではなかった。

「オブ(茶)でも飲むか」

齢を隠そうとしてないことが、砂馬の気に入ったようだった。

「お前んちは何人だい?」

「団体さん?」

と女は笑って、眼尻に小皺のさざなみを立てながら、

「うちは四人よ」

小窓の横に、アパートの部屋の扉のような出入口がある。砂馬は、おいはいろうと俺に言って、扉を蹴った。俺は砂馬のあとからはいった。

女はいそいそと立ち上ったりはしないで、煙草をはさんだ手をものうげに、立て膝の上に置いて、

「お二人さん?」

いかにも、あばずれの感じだった。その眼には、客種の吟味というより警戒の色があった。女の人数を聞いたりする客を胡散臭いと見るのは当り前だ。駈け出しの刑事みたいだが、気のきいた風紀係はそんな科白は吐かない。

「お泊り?」

なが年の苦界づとめを、はっきりとひとの眼に告げる痩せ細った身体を斜にかまえて、

「時間遊び?」

店ざらしのネギみたいに生白いその手には静脈が青く出ていた。その女がひとりいるだけで、いっぱいのその、舞台装置めいた小部屋の天井には、舞台そっくりの照明電気がつけられてあった。

「こんなに早くから、泊りの客が来るかねえ」

砂馬はあざけるように言った。

「そりゃ、来るわよ」

「そうかい。悪かったね」

俺たちはたたきに立っていた。たたきの奥に、狭い上り框があって、別に障子などははめてない。カナキンの蒲団の端切れなどを、そのころは細く切ってたばねて掃除用のはたきにしていたものだが、あれに似た色とりどりのきれを細長く、上り框の上に縄のれんふうに垂らしてあった。そのさきにつるしてある小鈴は、客の出入りを知らせるベル代りのものか。

「遊びは気分よく遊んだほうがいいからね。金はオールナイト並みにしてもいいさ」

口にくわえた「敷島」を、砂馬は口からじかに、ぺっと下に落して、靴先でたたきににじりつけた。

「あんた方、ブショウシ?」

「負勝師」のバクチ打ちかと、俺たちは見られた。

「もととちがってこのごろは、みなさん、三つ揃いを召してらっしゃるのね」

和服でなく背広を着ているという意味である。

「ありがたいね。そう見てくれたか」

と、砂馬は笑った。こういうあばずれなら、こいつをたきつけて、望み通りの面白い遊びができそうだと砂馬はほくそえんでいる。

俺はこのとき、まずいものを見てしまった。いや、なに、女の立て膝の奥を見たというのではない。

足もとの土間に、ラーメンの丼が二つ重ねて、じかに置いてある。それが俺の眼に映った。それだけならいいんだが、食べ残しのそのおつゆのなかに、煙草の吸殻が捨ててある。紙の腹が切れて、ふやけた臓物がきたならしくはみ出ている上に、抜け毛を丸めたのまでが、べたりとくっついている。風で飛びこんだのか。それとも、これもわざと捨てたのか。きたねえことをしやがると俺は顔をしかめたが、すぐ、

「いや、これでいいんだ。このほうがいいんだ」

と自分に言いきかせた。汚濁にまみれた俺が、それをきたないなんて言えた義理ではない。俺自身のほうが、よっぽど、きたない。

しかしこの場合は、そんな理窟の問題じゃなかった。きたない俺が、俺自身ちょっとためらっているくらいのきたないことをこれからしようとしている(――それは単に淫売を買うというだけのことではなかった)。そのため、この俺としては、いわば前もって、きたないものを眼の前につきつけられるようにして見るのは、いやだった。

俺たちは、上にあがることになった。そうときまると、女は急にしゃきしゃきと立ち動いて、砂馬の手を取って引っ張りあげるようにした。鈴が鳴った。

「ちゃぐちゃぐ馬こみてえだな」

と砂馬は言って、階段をひとりで昇って行った。

俺が靴をぬいでいると、

「あんた、ウブね」

と女が俺の肩をたたいた。

俺は心を傷つけられた。知っちゃいねえなと言いたいところだった。二十二歳という齢が俺をウブに見せたのだろうか。

「あんたは運がいいよ」

姉さんぶった語調でそう言って、女は細いしなびた手をのばして、俺たちの靴を取った。

「ウブな可愛いのが今日来たんだよ。それがあんたの相手……」

靴を両手でぶらさげて、家の中の下駄箱にしまいこんだ。

「初見世か」

「クララさん」

と女は呼んだ。

「あいよ」

奥からの返事は意外なしわがれた声だった。ひとをからかいやがってと、俺が女を睨んだとき、奥の部屋の障子が開いて、ワンピースの若い女が出てきた。ひと眼見て、俺は、

「こりゃ、いけねえ」

と首を縮めた。こめかみに頭痛膏を貼った婆さんの顔が、長火鉢の向うにのぞかれた。「あいよ」はこの婆あの声だったのかと見たとき、障子がぴしゃりとしめられた。

「これから、ひいきにしてやってね」

と女は言った。

「お願いします」

とクララは恥しそうに言った。その口もとは俺の好きな受け口だった。いよいよ、いけねえと俺はどぎまぎした。相手は淫売なんだと思っても、このクララには、俺のなかの純情を急に目ざめさせるものがあった。つまり、これがひと目惚れという奴か。

「マリちゃんのおなじみさんが、この子を見て、大変なご執心でね」

マリちゃんというのを俺が知ってるみたいに、そう言うと、女は声をひそめて、

「この子に乗りかえると言うんで、大騒動さ。やっと、ま、おさまったけど」

と二階を指さした。その二階から、

「おい、なにしてんだ」

と砂馬がどなった。

「いま、行く」

俺は砂馬をすでに裏切っているようなやましさを覚えた。砂馬は俺より六つ年上である。

二階の小さな部屋は、ベッドだけが大きかった。部屋が小さいのでベッドが大きく見えただけで、それはシングルベッドである。壁にぴたりとくっつけてあるが、その壁紙には雨漏りのしみが、ツララのさがっている形を描いていた。剣のようにも見える。

ベッドの枕もとには、施療病室を思わせる小さなテーブルがすえてある。なまじっか、花のない花瓶が置いてあるのが、かえって佗しい。赤や緑のあさましい色ガラスをはめこんだ窓から、下のぞめきが聞えてくる。バラック建てだから、音のほかに隙間風も吹きこんでくる。

俺がこう言うと、さも俺は上等の部屋に住んでいたかのように見えるが、そういうわけじゃない。俺の下宿も、似たり寄ったりだ。下宿は、しかし、俺ひとりがただ寝るだけのところだ。

女と寝る部屋は、もうちょっと、なんとか、色気のある、なまめかしい――とまで行かなくても、もうすこし、まともであって、いいんじゃないか。こうまで殺風景な、下司な部屋でなくてもいいんじゃないか。俺はそれを言いたかったのだ。

だが、ここへ来る男には、部屋なんかどうでもいいのだ。女だけいればいいのだ。女だけが目当てなのだ。クララもそういう男に買われる女なのだ。

「さ、総あげだ」

ベッドの上に砂馬は昂然と大あぐらをかいていた。

「スケナゴ(女)を、みんな早く呼んでこい」

わざとヤクザ言葉を使うと、

「大きな声出すんじゃないの」

女は姐御気どりでたしなめた。

「お客が来てるのよ。営業中よ」

「空くまで、待ちぼけか」

砂馬はネクタイをゆるめて、

「オサトでも食うか」

「オサツ?」

女は「お里」を知らなかった。「義経千本桜」の鮨屋の段から来た隠語である。

「ヤキイモじゃねえよ。スシだよ。スシでも食うか」

「おばさんに、そいじゃ、頼んでこよう。何人前?」

「適当に注文しな」

鷹揚に言って、

「ビールも飲むぞ」

「あいよ」

と女は出て行った。クララが俺に寄り添って来た。安香水のにおいがツンと鼻に来た。それは俺にこの女が安淫売なのだということを告げる。俺は一生懸命、この女が安淫売なのだということを自分に言いきかせようとしているのだ。

「クララとは、しゃれた名だな」

柄にもないと毒づきたそうな砂馬の顔だった。

「クララ・ボウから取ったのか。でも、クララ・ボウみたいなイット(性的魅力)はないな」

なめまわすみたいな眼をクララの身体にそそいで、

「どこの生れだ」

「東京です」

「うそつけ」

「ほんとよ」

「言葉に訛りはないな。東京はどこだ」

「よしなよ、砂馬さん」

と俺は言った。砂馬は大きな鼻をフンと鳴らして、

「東京の生れがどうしてこんなところへ来たんだ」

クララは黙っていた。辱しめに怒っているふうでもない。そのクララは東京生れというのがうそじゃないらしい、ほっそりとした華奢な身体つきだった。

「男にだまされたのか」

「知らない……」

「いくつだ」

「十九」

「いい肌をしてるようだな」

下から女が戻ってきた。俺は椅子を立った。

「どこへ行くんだ」

「ちょっと」

「ちょっと、なんだ」

「フントウバだ」

監獄の便所のことで、ムシニン(囚人)の言葉だが、ムシ(監獄)に縁の深い俺たちはズバチョオ(手水場)なんて言葉よりもっぱらこれを使っていた。

「ジュウロク……?」

と女が言った。シシ(四四)十六で小便のことである。

「加柴の奴、もう気分を出してるのか。若いから、しようがないな」

と砂馬は笑った。

「うるせえ」

と俺は言った。ギーギーと軋む階段を俺は降りて行った。その音は俺の心の軋みのようにも思われた。

下の奥の便所に近づくと、

「待ってエ」

と、なかから女の声がした。俺は洗面所の細長い鏡に顔を近づけた。

「俺はあのクララと寝たい」

鏡の中の俺に俺は言った。

「クララとだけ寝たい」

便所の扉が乱暴に開かれて、ネルの寝巻を着た女が出てきた。素っ裸の上に寝巻をひっかけていると、ひと目で分る。

どいてよと女は言った。黙って、俺は鏡の前から身体をずらせた。

あいたわよと女は言った。早く便所にはいれと言うのだ。どこの訛りか分らないが、訛りがあった。

「マリちゃんか」

と俺は言った。胴長で顔まで細長いその女は、ひぇっといった声を出して、俺を見た。

俺は便所に飛びこんだ。そして便器にまたがって、ゆっくり、ズボンをずるずるとおろして、

「オッパイの、もろにでっかい女だな」

と呟きながら、しゃがみこむと、その俺のつい鼻のさきに、黒いゴムの管がぶらさがっていて、ゆらゆらとゆれていて、俺の顔にぶつかりそうだった。俺は俺の視線をその黒いゴム管に沿って上方へ辿らせてゆくと、紫色をした液体をたたえたガラスの容器をそこに見出した。俺は、ふんとうなずいた。それから眼を黒い管につたわらせて下方におろして行くと、ゴム管のさきが洗濯バサミではさんである。洗濯物を乾すときに使う、あのバネのついた木製の洗濯バサミである。

小便はすこししか出なかった。ゴム管の振動はもうとまっている。俺はそのゴムにさわってみた。親指と人指し指のさきで、ゴムを洗濯バサミのように、はさんでみた。ぶよぶよしていて、たよりないようで、しかし指さきに一種の手ごたえがある。

俺は立ち上った。そして俺は何も小便がしたくてここへ来たんじゃないということを確認した。ゴム管の洗滌器をもちろん使いに来たわけではない。何しに来たのだ。ゴムを手でさわって見たかったのか。

俺は俺のうちに目ざめかけた純情という奴を殺すために来たようだ。俺は便所を出た。手を洗いながら、また鏡に顔を映してみた。遠くから顔を映すと、鏡の中の顔はひどく歪んでいた。ひでえ安物の鏡だ。安い淫売屋にふさわしい鏡だともいえる。

「安淫売に惚れることはない」

俺は惚れそうなのだ。俺は鏡の中の醜く歪んだ自分の顔を睨んだ。ひどく破廉恥なことがしてみたいという砂馬に俺は賛成して、破廉恥なことをするためにここへ来たのだ。

「あんな淫売に惚れてなるものか」

このとき、鏡の中の歪んだ顔が、ふと俺に、いやな思い出をよみがえらせた。ボル派のあの大学生崩れに俺が罵られたときも、きっとこんなぶざまな顔をしていたのだろう。理窟をこねることの好きなあいつらにかかっちゃ、かなわない。言いこめられて、俺はグウの音も出なかった。そのくやしさがよみがえってきた。

「俺たちは行動だ」

と、やけっぱちの叫びを俺はあげたものだ。

「無理論の行動は無意味だ」

と、奴はぬかしやがった。このいわゆるボル派(ボルシェヴィキの略。コムミュニストのことだ)に対して俺たちはアナーキストとして対抗していた。奴はさらに、

「無意味というだけじゃなくて階級運動への大きなマイナスだ」

とまできめつけやがった。大体、ボル派があんな生っちろい学生なんかを仲間にひき入れていることが、腹にすえかねる。親の脛かじりが、口さきだけのうまいことを言ったって、なんになる。

俺は鏡にぺっと唾をかけた。唾は鏡の中の俺のおでこのところにひっかかって、ぬるぬると顔のまんなかを流れて行った。

俺は二階に戻った。便所で会ったマリちゃんも部屋に呼びこまれていた。

「もう一人、早く呼んでこいよ」

砂馬は女に言った。

「四人集まんなきゃ、話にならない」

「四人のうちから選ぼうというの? 選び直すの?」

「そうじゃないんだ」

「おトコつけるのは、あたしとクララさんときまってるんでしょう? だったら、あんた……」

「そうでもないんだ」

と砂馬が遮った。

「そうでもない?」

「ゼニを出しゃ、いいだろう。ゼニを」

「ゼニ、ゼニ言いなさんな。いくらくれるつもりなの?」

「そっちのサービス次第だ」

「どういうサービス?」

「四人ともここへ寝るんだ」

「ここへ?」

「狭いけどな」

「四人とも?」

「ハダカで寝るんだ」

「ハダカを並べといて、どうしようっての?」

「分んねえのかねえ」

砂馬はじれったそうに、

「そういう客だっているだろう」

マリちゃんは白痴みたいにポカンと口をあけていた。そしてクララは下唇を噛んでいた。

「ジャンケンをして順々に……」

「冗談言っちゃ、いけないわよ」

女は砂馬を見据えた。

「冗談を言ってんじゃない。ほんきだ」

「ほんきらしいから、こっちも言ってんのよ。いやらしい」

「そうムキになるなよ。面白いじゃねえか」

「お客さんには面白いかもしれないけど、こっちは、ちっとも面白かないわよ」

歯をツーと鳴らして息を吸いこんで、

「馬鹿におしでないよ」

「馬鹿になんか、しやしない。愉快に遊ぼうてんだ」

「あたしたちだって、人間ですよ。犬畜生じゃないんですよ」

青筋を立ててという形容が事実なのを俺は見た。

「お前さんたちも、黙ってないで、なんとか言ったらどうだい」

と女はいきりたった。

「おーい、マリ公」

向うの部屋から男がどなった。

「帰るぞオ」

「はーい」

とマリちゃんは飛び出して行った。追い縋るようにしてクララも部屋から出て行った。

「どうせ、あたしたちは金で買われる身体だけど……どんなにお金を積まれたって、そんな、なさけない慰みものにされたかないわよ。とっとと帰っておくれ」

女はきっぱり言い放った。凛として抗しがたいものがあった。

「おスシはもう頼んだんだから、お金は払って貰わなくちゃ……。そっくり包んで、持ってって貰いましょう」

「いらないよ」

砂馬は苦り切っていたが、ものやわらかく、

「とんだ時間潰しをさせて悪かった。オブ代も置いてこう」

「下さるものはいただきますよ」

と女は蒼い顔で言った。

馬鹿にしてやがる。ど淫売のくせに、きいたような口をききやあがってと、砂馬は外へ出てから怒った。女の前ではやはり虫を殺していたのだ。ナカ(吉原)へ行こうと砂馬は言った。

「女郎なら文句は言わねえ」

――この俺たちは死にぞこないのテロリストなのだった。俺たちといっては、砂馬が何を生意気なと、俺に眼をむくだろう。砂馬は俺のことを子分だと思っている。リャク屋としては、そうにちがいないが、テロリスト時代は俺たちは同志だった。俺がテロリストの仲間にはいったのは、砂馬を知ったためだが、砂馬の子分になったわけではない。年こそ若いが、俺だって、いっぱしのテロリストだった。

テロリストとして俺たちが死にぞこなったのは、三年前のことだ。テロリストの一派が(この辺のことはいずれあとで語らねばならない)ピストルで福井大将を狙撃した。その一派はつかまって死刑になった。俺たちが死にぞこなったというのは、これである。

俺たちは爆弾でやっつける計画を立てていたのだ。その威力をためすためにペンキ(共同便所)を爆破したりした。その爆破事件も狙撃一派の仕業ということになって――というより彼らがそうした余罪全部をひっかぶって、そして俺たちに沈黙を命じて死んで行った。俺たちがハッパ(ダイナマイト)を作っていたことは幸いばれなかった。ばれていたら、俺たちもそのとき死刑になっていたのだ。

福井大将の暗殺計画に俺たちも死刑を覚悟で参画していたのだが、実は中途から、みんなここで全滅はまずいということになって、

「お前たちは生き残れ」

そして同志の志をつぐようにと言われて、一派から無理やり除外されたのだ。そのため生命がたすかったと言えばたすかったのだが、やはり死にぞこないの感が強かった。

俺たちはおいてきぼりを食わされた形だった。死にぞこなった砂馬は、それで気抜けがしたみたいで、事実、しばらくは虚脱状態だった。砂馬がリャク屋になったのは、それからだった。俺はアナーキストの労働組合で働いた。それじゃ食えないので砂馬のリャクの手下になって、その金で俺は食っていた。――

おはぐろどぶを埋め立てた遊郭裏の通りで車を降りた。震災で丸焼けのこの遊郭も立派に復興していた。ここなら大丈夫だし、文句は言わせねえと砂馬は力んだ。それなら、初めからここへ来ればいいのに、砂馬はしかし、私娼のほうが素人っぽい感じで、それに破廉恥な行為を強いたほうが面白いと思ったのだと言う。女郎は商売人すぎて面白味がうすれるというのは、俺にも分らないではない。

「旦那、旦那、いい子がいますよ」

牛太郎が呼びこみをやっている。

「兄さん、モダンな子、いかが」

と俺に呼びかけた。

陰惨な私娼窟からここへ来ると、ここはまるで大厦高楼が立ち並んでいる印象だった。大名屋敷の式台みたいな、ぴかぴか光った板の間に、盛装をしたおいらんが商品見本のように立っている。もとはみんな、こうして店先に出ていて、ちょんちょん格子から客にのぞかせてじかに、よりどり見どりをさせる張り見世だったそうだが、それが禁止になって、本人代りの写真を並べるようになった。そして、一番別嬪のおいらんを、通りすがりの客の眼をひくように立たせていたが、これを目当てにして登楼しても、ほかのオタフクを当てがわれてしまうのである。

「どこでもいいや。早いとこ、飛びこもう」

と砂馬は言って、二流の下ぐらいの、ヨオドバ(洋風建築)の店にはいった。一流の家はさすがに砂馬も避けたのである。

朱塗りの手摺に擬宝珠をつけた、橋みたいな階段をあがると、かたぎの女が外ではくフェルト草履をぱたぱた言わせてマワシの客の部屋へ急ぐお女郎の姿が見えた。俺は興ざめのおもいだった。クララの顔が俺の顔に焼きついたまま離れないせいか。

やり手婆あが俺たちを「引き付け」に導いた。名ざしであがったのではないこのフリの客に、やり手婆あは、あいかたさんはどういう子がいいかと聞いた。注文をおっしゃって下さいと言う。

「年増をひとり。それにこの友だちに、若い子をひとり。それからあと二人呼んでくれ」

「四人ですか?」

「五人だっていいよ」

「今はみんな、忙しいんで、二人にして下さいな。気に入らなかったら、そう言って貰えば、ほかの子をまた回します」

「四人買うんだ。誰かのホンベヤで、みんな一緒に寝るんだ」

砂馬は高圧的に言った。面白い遊びがしたいのだと言うと、

「それは旦那、いけませんね」

「いけないことはないだろう。それだけのことはするぜ」

と砂馬は内ポケットを叩いてみせた。そこには破廉恥なリャクでせしめた意外な大金がはいっている。それを砂馬は破廉恥な遊びで費消したかったのだろうか。

「困りましたねえ」

やり手も胸に手をやって、えり元をかき合わせるようにして、世なれた口調で、

「それは、旦那、困りますねえ」

「困るって、誰が困る? お前さんが困るのか」

「わたしが困るんでしたら、わたしひとりが困る分なら、かまいませんがね」

いずれは玄人あがりと思われる白粉焼けした顔をしかめて言った。

「そんなこと言って、お前さんがかけあえないと言うんなら、じかに言う。お前さんがかけあわないんなら、俺の口から言う」

「おっしゃってごらんなさい。塩をまかれるだけですよ」

まかれたいねとうそぶく砂馬に、やり手は寝不足のしょぼしょぼ眼を、きっと据えて、

「ここには、ここのしきたりがあります」

「そういう遊びは法律で禁止されてるのか」

「そうじゃありませんがね。ここではお茶漬はご法度なんですよ」

「おいらんが、なじみ客の友だちと寝ちゃ、そりゃまずいだろう」

「ですからお客さんにもお願いして、同じ家で、あいかたを変えることはおことわりしているのです。そういうのさえ、うるさいんですから、まして……」

「誰がうるさい」

砂馬はちゃんと知っていて、からんでいる。粘り強く押して行って、落そうとしている。

「おいらんが承知しやしません。クルワにはクルワの仁義がありますからね。ましてや、そんな……」

荒々しい語調ではなく、やんわりと、しかし、はっきり拒絶する。

「いくら、卑しい稼業をしているわたしたちでも、そんなあさましいことは、ねえ……」

「いやかねえ。そうかねえ」

ひやかすように砂馬は言った。

「この土地では、そんな遊びは無理ですねえ」

私娼窟ならできるかもしれないがと、やり手は言った。

「格式があると言うのか」

かっと怒った証拠に、砂馬は大きな鼻翼をふくらませて、

「淫売と女郎と、どうちがうんだ。女郎は淫売をしてないのか。いや淫売なんかさせてないと言うのかい」

「そんなこと、言やしません」

「女郎屋のほうが高級だと思ってやがる。とんでもない思い上りだ。淫売のほうが、どのくらい親しみがあるか分らない。淫売を馬鹿にしやがると承知しねえぞ」

「でしたら、あんたさんのお好きなそっちへ行って、遊んでらっしゃいな」

俺たちはここも追い出された。砂馬はしかし、諦めなかった。こうなったら、今度はシャダレ(芸者)だと張り切っている。俺はもうなんだかくたびれていた。

ビルマル(娼婦)として最低の私娼窟の女に啖呵を切られ、そして女郎屋でもズドン(拒絶)を食わされた。ましてやそれより格が上の芸者は、いくらミズテンだって駄目にちがいない。行くだけ無駄だ。そう思って俺はいやけもさしていたが、あのクララのことを忘れられなかったせいもある。ひと目で俺の惚れた女がど淫売であることは俺を悲しませていた。悲しみは人間を疲れさせる。

「丸万だったら、俺のかわりに、うまいこと交渉してるだろうが、加柴は役に立たねえな」

と砂馬は言った。丸万というのは、商店の屋号みたいだが、変名でもなんでもないちゃんとした姓なのである。砂馬と親しいアナーキストで、砂馬より年上だけど、リャク屋としてはシャテイ(弟分)格だった。一時は忠僕みたいだった丸万を、砂馬は今でも舎弟扱いしている。

「車を拾って、大急ぎで行こう」

「もう、よそうや」

「なに言ってるんだ。おい。加柴、ついてこい」

――これは俺には、ついこの間のことのような気がするのだが、ながい年月が流れている。これは昭和の初めごろのことだ。だのに、ほんのこの間みたいに思えるのだ。

そう言えば、昔聞いたことを、今ふと思い出した。

人から聞いた話では――こんな数学があるんだそうだが、俺が中学で習った数学とはまるでちがう。なんでもこれは今ではちっとも珍しくない数学だそうだから、珍しそうに言ってはおかしいが、中学は出た俺だからその説明ぐらいは俺にだってできる。

たとえばここにABとA'B'の二つの直線がある。ABは短く、A'B'は長い。ABは小さく、A'B'は大きい。ABはA'B'の一部とも見られる。ABはA'B'の部分とも言える。だが、はたしてそのABはA'B'よりも小さいかということなのだ。見た眼には、たしかに小さいが。

AA'とBB'との交点をOとする。このOからOM'という直線をひくとABとはMでまじわる。ここでM'をもしA'B'上の左右に動かすと、かならずそれに対応してMも動く。M'がA'よりB'のほうへ動くと、Mも同様にAよりBへ動く。

AB上のすべての点とA'B'上のすべての点をここで考えてみる。A'B'のすべての点をOと結びつけると、かならずその点に対応する点がAB上にも存在する。そうなると、A'B'上の点と、AB上の点とは同等であり、ABとA'B'とは同等なのだ。ABはA'B'より小さいとは言えないのだ。

実はこれは無限という概念と結びついたもので、これでもって今まで漠然としていた無限という概念がはっきりしたと言う。それをここへ持ち出すと、ややこしくなるから、やめるが、こんなことを今、俺が思い出したのは、他でもない。

こういう俺の人生だったら、どんなに面白かったろうとそう思う、そう思われる人生を、砂馬はちゃんと自分のものにしていた。俺の生きられなかった人生を、砂馬は生きた。そしてそれ以上のことを砂馬はしている。

あの破廉恥の遊びだって、砂馬に誘われたからというだけでなく、初めは俺自身、自分もしたいと思ったからだが……。

芸者を四人呼んでくれと砂馬はカイナ(仲居)に言った。

「四人ですか?」

眼尻に褐色のイボをつけた仲居のその言葉に、

(それ来た……)

拒絶の第一声だと俺は思った。

「二人はかえすんでしょう? こんな時間に可哀そうですね」

「四人ともお泊りをつけてやる」

「それにしたって……」

「いや、四人ともひきうけてやる」

「あら、まあ、精力絶倫……」

招き猫みたいな手つきをして、

「お一人で二人ずつ――妙な遊びがお好きなんですね」

小肥りの仲居は笑った。俺たちの破廉恥を咎める笑いではなかった。むしろ唆すような笑いだったから、砂馬は気をよくして、

「早くも見破られたな」

「それでしたら四人でもかまいませんわね」

「かまわないだろう」

「うちは、かまいませんけど」

「芸者がどう出るか」

と俺は言った。仲居はその俺に、

(こちらは学生さんみたいな齢だけど、職工さんかしら?)

そんな眼をちらとそそいで、

「それは、旦那。……」

砂馬を景気のいい工場主とでも見た眼で、

「旦那から芸者衆にかけあってごらんなさい」

「ことわられても、もともとだな」

だが、こんな時間にお茶をひいているミズテンなら、話の持ってきようで乗ってくるだろうと砂馬が言うと、

「芸者衆だって、旦那の持ちかけようでは、きっと面白がって……」

「面白がるか」

「旦那の腕次第ですよ」

「そう言わないで、手助けしてくれ。それが仲居のつとめじゃないか」

はいはいと仲居は花王石鹸のマークみたいな顎をひいて、

「腕とお金次第……」

「よーし、はりこもう」

これでもう話はきまったようなものだ。あんまり簡単すぎてあっけないくらいだった。

俺は改めてイキな座敷を見回した。粋筋という言葉が自然と頭に浮ぶイキな作りである。ここに出入りする女が、女郎や淫売とはちがう、イキな芸者であることを語っているかのようだ。

「こうなると、面白い子じゃないとね」

仲居は口のなかで芸者の名を言って、数をかぞえるような手つきをして、

「あの子はチャメでいいんだけど、うまくあいてるかしらねえ」

砂馬は俺に会心の笑みを送って、仲居に言った。

「みんな、ひとつ部屋に寝るんだ。みんな一緒に寝るんだ」

へーえと仲居は眼を丸めて、

「物好きな方がいらっしゃるもんですね。お客さまのほうでもお二人一緒――は珍しいですね」

「客が一人で芸者が複数は珍しかない?」

「それだって、珍しいですけど」

と仲居は言ったが、それはそういう遊びがここで行われていることを告げる。

「もっと珍しいから、もっと芸者も面白がるだろう」

「案外、そうかもしれませんね」

と仲居が相槌を打つのを俺は見た。安淫売も許さなかったことを、そして女郎屋でもことわられたことを、芸者のほうがかえって「面白がる」とは……。いずれはマクラ専門のユキダルマに相違ないが、それにしても、

「面白いもんだな」

と俺は呟いて、

「だが、俺はおりる。俺は帰ろう」

待て、待てと手をのばす砂馬に俺は言った。

「興味がなくなっちゃった」

「そこが加柴のいけないところだ」

「いけなくても勘弁してくれ」

俺はクララのところへ飛んで行ったのである。

Chapter 1 of 28