一
逗子に了雲寺という天台宗の寺がある。詳しく言えば、逗子とは言ってもここは田浦との中間地点、むしろ田浦の方に位していると言った方がいいのかも知れぬが、東京からの避暑客などは道の遠いのとあまりにも物淋しいのとで、ほとんど顧みる人もいなかった。
田越川に沿うて神武寺を左に眺めつつ三崎街道の埃っぽい道をどこまでもどこまでも伝わって行くと、やがて小一里近く道は二股に分れて、一つはその埃っぽい道を左の方へ単調に続けて行き、一つは石礫の多い山坂道を右の方へと分け入って行く。
了雲寺というのはこの右の方へ山ふところを分け入ったところにあったが、行くこと更に七、八町、道は再び豁然として開け、やがて左側の大きな欅の樹陰に色褪せた旗を立てて一軒の百姓家が往来も稀れな通行人のために草鞋三文菓子なぞを商っている前へと出る。そのすぐ向うからもう長々とした石段の入り口になって、そこには不許葷酒入山門と六朝風な字で彫った古い苔むした自然石が倒れ掛かっていた。そして胸を衝くような長い石段が――こんな名もない田舎寺には勿体ないような長いじめじめとした石段が見上げるような頭上の山の頂に列なっていて、深々と山を掩った昼なお暗い老杉がいつ来て見てもザワザワと揺れ立っていた。まるで石清水でもそこら中から湧き出そうな幽邃な肌寒い感じであった。
これが諸君にお話しようとするこの怪奇な物語の起った逗子の了雲寺の全貌であったが、これだけの構えをしている以上もちろん昔は相当に寺格の高い由緒ある寺であったろうが、今は見る陰もなく荒れ果てて一見廃寺としか思われぬ古寺であった。住持もいるのかいないのか、いつ来て見てもこのあたりは森閑として庫裡に人影一つ動いたこともない寂然さであった。ただ聞えてくるものとては遥かの相模灘から吹き上げてくる強い海風を受けて、物怪でも棲んでいそうなほど鬱蒼たる全山の高い梢が絶え間もなく飄々と哮え猛っているばかりであった。月の出た宵などにここを通ると、まるで山全体が真っ黒な怪物のように見えて、今にも頭の上から掩い被さってくるような気持がすると、私の宿をしていた百姓屋のお内儀さんなぞは、話をするだけでも恐ろしそうに首を竦めていた。
が、それはともかくとして、一体いつ頃から私がこういう世の中から棄て去られたような陰気な山寺の奥なぞに杖を曳き出したものであろうか。判然したことはもう覚えてもいなかったが、ちょうどその時分が結婚後間もなく胸の病を発してきた妻が、鎌倉の病院で亡ったばかりの頃で、私はたった一人で桜山の百姓家の離れ座敷を借りて味気ないその日その日を送り迎えていた頃であったから、幾分厭世的になっていた私の心には、こういう人気のない幽静な場所が一番気持にピッタリと合っていたのではないかと思われる。別にすることもなくもの憂い日々を送りながら、眼に触れ耳に聞くもの一つ一つに妻の思い出を懐かしんでいた私は、暇さえあればこの山寺の階段をポクポクと一人で足を運んでいたのであった。
もう考えても仕方のないことをそういつまでも愚痴っぽく歎いているわけでもなかったが、この静かな石段を上って古びた庫裏と本堂一帯の裏山を掩った真暗な森に沿いながら、青萱の茂っている淋しい墓場の一角を分け入って、一面に海の見晴らせる断崖の上に腰を降ろしていると、脚下には新緑に掩われた幾つ何十かの山々の背が波のうねりのような起伏を見せて、その向うには一望涯しもない青海原が渺々たる紺碧を拡げていた。そして空も海もただ眼に入る限りは青々とした一色の中に、泛んでいる船もなければ島影一つもなく、眼を遮るものとてはただ春蝉の啼きしきっているこの断崖の上に俯瞰したひょろ高い赤松の梢だけであった。
蝉の歔き声を耳にしながら凝乎と断崖の草の上に寝転んで、海を眺めたり空を眺めたり、また横手の墓場に眼をやりながら死んだ妻のことなぞをとりとめもなく考えていることが、その頃の私には一番に楽しい気持がしていたのであった。そしてその瞬間だけは、宗教心のない私にも死んだ妻が憔悴ながらに優しいあの顔を綻ばせてさも楽しげに身近く引き添うていてくれるような気がしてならなかった。
もちろん妻は東京に葬ってあったし、別段こんな淋しい山寺に何の関係もあったわけではなかったから、なぜここへ来ればこんな気持がしていたのか私にもその理由はわからなかった。が、わからぬままに座敷で寝転びながら書物を読んでいる時なぞでも、ふとした拍子にこの断崖を想い出してくるとまるで妻がここから手招きでもしているかのように胸一杯に楽しさが唆り立てられる気持がしてつい道が遠いことも打ち忘れてまたフラフラと出掛けて来るのが常であった。
さてそうした頃のある日であった。その日も私はふとこの断崖の外れへ来て、何を考えるともなく、とりとめもない思いに沈みながら、やがて小半日くらいも過してしまった頃であろうか。ふと気がついて見れば陽はもう海の彼方に沈もうとして残光は金色の波を眩しく海上に漂わせていた。そしてこの断崖の上にうっすらと影ろって物侘しい静かな夕暮れを色づけ初めていた。また今日も暮れてしまうのかと私が起ち上り掛けた時、思わずギクリとして聞き耳を立てた。
どこかで若い女の忍び泣きの声が妙に籠った低い調い調子でこの人気のない山の奥からポソポソと聞えてきたのであった。ハッとして私はあたりを見廻したが、別段その辺に何の姿とても見えはしなかった。一際明るい夕方の光線の中に浮き出て、幾つかの墓の表が青白く輝いているに過ぎないのであった。気の迷いかとまた何気なく袴の塵を払っている時であった。今度は低いながらも前よりは一層明瞭に紛う方なく女の啜り上げているばかりではなく、咽びながら何か途切れ途切れに掻き口説いているような若い女の含み声が洩れてきたのであった。それに続いて靨え付けるようにブツブツ呟いているらしい老人の声が判然と私の耳を打ってきた。
一瞬、私は竦んだようにそこに突っ立っていた。今も言った通り、そこはこれまでに幾度何遍となく来ていても、ただの一度も人っ子一人に行き逢ったこともない寂寥極まるところであった。しかもその静寂な場所もあろうに、今この晩春の黄昏時ほどなく陽もとっぷり暮れ果てようという頃おいに、こんな不思議な咽び泣きや人の言い争う声などが聞えてこようとは夢にも予期できぬことであった。私ば何とも言えぬ異様な気持を感じながら、全身を耳にしつつなるべく音のせぬよう、ゆっくりゆっくりと塵を払っていた。その私の耳に今度は低い子供の声で「爺や! 厭だよう! 藤やを叱っては厭だよう!」と幾分掠れを帯びて聞えてきた。掠れてはいても子供の声たることには疑いがなかった。子供も一緒にいるんだなと思った瞬間、今の私の竦んだ気持は消えて、今度は言い知れぬ好奇心がむらむらと湧き起ってきた。
咽んでいるにせよ、叱られているにせよ、人の話を立ち聴きすることがいいことは決して思えなかったが、場所が場所、時が時だけに私は抑え難い好奇心を昂らせながら、声のする方へと、そーっと跫音をしのばせて行った。そして声はどうやらここから七、八間ばかりも離れた森のすぐ側の、夕陽の中にも一際目立つ大きな墓の陰から洩れているような気持であった。
そして青萱の蓬々と足に絡まる墓場の中を、跫音を忍ばせて近づいて行った私は、つい二、三間先のその辺でも殊に大きな墓の前に三人の男女が佇んでいるのを見たのであった。
一人はゴツゴツの木綿縞らしいものを裾短に着た老爺であった。そして今までこの老人に叱られていたのであろう。涙ぐんでいる女というのは、年の頃二十五、六、一見しかるべき大家の女中かとも思われる髪を島田に結った上品そうな婦人であった。その婦人に縋りついて涙を一杯留めた眼で凝乎と老爺の方を凝視ているのはまだやっと十二、三の青白い頬をした世にも美しい少年の姿であった。
老爺と婦人とこの二人の挙措が、どことなくこの少年に対して慇懃を極めているところから推して、この幼い少年が恐らく二人にとっては主人筋にでも当っていたのであろうか。無帽の黒い艶々とした髪が女の児のように房々と波打っている様子と言い、睫毛の長いパッチリとした涼し気な眼が悧し気に今涙を含みながら瞠っている様子と言い、青白い頬、華奢な手足……それはまったく女の子にも見紛うべき美少年であった。ただ強いて難を言えば、もうやがて梅雨が来るというこの蒸し暑い時候に、子供らしくもなく足袋を穿いて、絣の着物を裾長に着て、帯を胸高に締めている様子が、どこか私に役者の子か病身の子を思わせるような柔弱な感じを与えていた。
老爺はお墓に向っていかにも懐かし気な様子で何かしきりに呟きながら、せっせと閼伽桶の水を掛けてはその台石のあたりを浄めていたが、今度はハッキリと私の耳にも聞えたのは、その浄める手を止めて婦人の方に押し出すように呟いた低い嗄れ声であった。
「お痛わしいお痛わしいと言いながら、手前の方が先に泣き出すなんて……阿呆めが! 呆れ返ってものが言えねえ……」
あとは老人特有の口の中で語尾が消え失せて、私には聞き取れなかった。
「もういいよ! 爺や! そんなに藤やを叱らないで! 僕もう泣かないから……」と少年が、袂で瞼を抑えている婦人を心配そうに見上げながら、取り做し顔にそう言ったのが聞える。なるほど喉でも痛めているのか、弱々しいしかも子供に似げない掠れ切った声であった。
「なあに! 坊さま、爺はちっとも叱ってなんかいましねえ。あんまりお藤がわからねえことを吐すだで、言って聞かしてやっただけだで……そねいに気を揉まっしゃることはねえだ」
と老爺はせっせと台石に水を注ぎながら、坊さまと呼ばれた少年の方を振り向いて笑顔を拵えて見せたのかも知れぬ。顔は墓の陰に隠れている私の方からは見えなかったが、少年の機嫌を取るように高々としかも妙に低く笑ったその声のみが、空虚のように歯の抜けた感じを暮れかかる夕陽の妙に明るい空気の中へ響かせてきた。そして火を点けたのであろう、香煙がゆらゆらと墓の陰から立ち上りはじめた。
「さあできましたぞ! 坊さま! 拝まっしゃれ!」とまた老爺の嗄れた声がした。「今日は時間が遅くなりましたで、この次にはもっと早目に来ますだよな。ようく若奥様にそう仰しゃるがええだ! さあ早う拝まっしゃれ拝まっしゃれ! なんぼか若奥様はなあ! 坊さまを待ち兼ねていらっしゃっただかのう!」
と独言のように呟きながら腰を延し延し立ち上って、長い眉毛の老いたる眼をしばたたきながら、凝乎と幼い主人の後姿を見守っている様子であった。
しばらく闃として声はなく、ただ萱の風に靡く音のみがサヤサヤと私の耳についていたが、途端に嗚咽の音が洩れて、泣きながら眼頭を袂で抑えながら婦人がまた何か口籠りつつ掻き口説いているのがポソポソと洩れてきた。
そしてそれにつれて少年の悲しそうにしゃくり上げる声とそれを宥めるらしい老爺の声とが低く低く夢のように私の耳に聞えてくる。
「お泣きなさるなよ! 坊さまはいい子だ! お泣きなさるじゃねえ! 仏に涙をお見せなすったら死んでもお泛びなさることができねえだ! さあもう一度よーく拝んで! おうそうそう! 坊さまはいい子だ! お泣きなさるじゃねえ!」
そして二人とも拝んでいる幼い子の背後に額ずいて、凝乎と一緒に合掌しているのであろう。一句一句幼い子を背で揺り上げているようなその老爺の涙を唆る悲しげな声だけは、地の底からでも這い上って来るように私の心に滲み、魂に滲み身に滲みわたってきた。立ち上る香煙は鼻を衝いてきて、私も思わず泣いているこの三人と一緒になって泣き出したいほど眼頭が熱くなってきた。どんな事情があるのかは知らないが、もし一緒に泣いてやってこの三人の悲しみが消えるものならばいくらでも私も代って泣いてやりたいほどに胸が迫ってきた。このいたいけな少年の手を合され質朴な老爺や婦人たちの生一本な涙の回向を手向けられて、これに感動せぬ墓があったであろうか。事情を知らぬ私でさえただこうやって眺めているだけで涙がポロポロと流れてくる。我を忘れた感慨に打たれながら、私はほとんど身じろぎもせずに茫然と突っ立っていた。そしてその間に何分ばかりの静かな時が経ち、何十分ばかりの無我の境を、私は夢のように突っ立っていたのであろうか。
ハッとして夢中で私は墓の陰を離れると二足三足森の奥深く音せぬように歩を踏み入れた。もはや礼拝も終って、三人は今墓を離れるところであろう。こんな荒れ果てた山の墓所には珍しく立派な扉の締る音がギーと胸を刳って淋しく響いてきて、重い鍵を掛けているらしくガチャガチャと金属と金属との触れ合う音が耳を打ってくるのであった。そして三人は落葉を踏んで道を埋めた青萱を分けながら、今私の佇んでいる前五、六歩の細径をまた本堂の方へと戻って行くらしい気色であった。
夕陽はいよいよ海の向うへその姿を没せんとしていたのであろう。夕映えは赤々とその辺一帯を染めなして、向うの三人からは仄暗い森の木立の陰になって私の姿は見えなかったであろうが、私の方からは眩しい黄金色の光芒の中に狭霧のように朦朧とこの三人の姿は映っているのであった。しかもこの三人の顔色というものは? 私が隠れているのを知ってか知らずにか凝乎と私の佇んでいる方角へ瞳を投げながら、この三人が通り過ぎて行った。思わずギョッとして私は全身が氷りついたかと思った。これが生きている人の顔色であったろうか。まるで土であった。途端透き徹るような蝋の色そのものであった。そして三人は今私の前五、六歩のところを通り過ぎてしだいしだいに向うの方へ立ち去って行く。少年はうな垂れがちな婦人に手を曳かれながら、静かに歩を運んで行った。その後から老爺は前屈みになって閼伽桶を下げつつついて行く。
サクサクサクと落葉を踏んでサヤサヤと萱の葉を分け、そして後にはまた一陣の強風がザワザワと全山の梢をひとしきり騒がせて立ち去った後には、三人の跫音はまったく私の聴覚の外へ消え去ってしまったのであった。私は風が歇んでもまだ凝乎と耳を澄ませて木立の陰に佇んでいた。あとからあとからただ胸の迫ってくるような気持がして、身動きをすることすらが今のこの寂然とした美しい幻影を冒涜するような気持がして、何故ともなく、憚られたのであった。しかも跫音の消え去った後のこの墓場の寂寥さは、針の落ちた物音さえも聞えてくるかと思われるばかり魂の奥にまでも浸透してくるような侘しさであった。私の身体の重みで踏みしめている湿っぽい落葉がギシギシと滅り込む音すらが、あたりの静けさを破って、今にもこの闇い森の奥から何者かが、私の首筋でも引っ掴みそうな、そして森の奥には不思議な木や草や梢の繁みに眼を光らせた多くの小鳥たちが、この闖入者の一挙一動を見守っているかと思われるほどの鬼気迫るばかりの寂莫さを感じてきたのであった。
堪らなくなって私が小径へ躍り出した時には陽はもうすっかり落ち切っていたのであろう。すでにあたりは靉靆模糊として樹々の繁み、本堂の彼方には夜の闇がひたひたと這い寄っているように思われた。そして林立した墓標の上にも闇と森の陰は掩い被さって、いずれも夢のように仄かに浮び上っていたが、その中でもさっきまであの三人の拝んでいた墓は一際群を抜いて大きく立派に峙っていた。
何という人の墓なのか私は込み上げてくる好奇心で二度三度その方へ眼をやって見たが、この静寂境の宵暗の中へしだいに影を溶け込まそうとしているその墓のところまで覗きに行くことすらが何となく憚られるような恐ろしい気持がして、そのまま逃げるようにして墓場を後にしてしまった。
やがてとっぷりと暮れ果てた夜空に、星ばかりの瞬いている暗い田舎道をてくてくと、私は物思いに沈みながらまた逗子の灯を眼ざして辿っていたが、いつもは長い単調な道だと思っていたこの街道も、夜のことではあり殊にさっきの由あり気な三人連れのことで好奇の心を胸一杯に躍らせながら歩いていたせいか、割合に遠いとも思わずに帰って来た。